枠にはまるのを嫌い、上京。時代の波に身を投じながら熱い青春時代を過ごす
長きにわたって「被害者の被害回復」に全力を捧げてきた山口広は、消費者問題における第一人者だ。その方向性を決定づけたのは、1986年に取り組んだ霊感商法の被害者救済で、以来、宗教トラブル、カルト被害問題、消費者被害救済は山口のライフワークとなった。大型詐欺事件被害救済も数多く担当し、山一抵当証券、ジー・オーグループ、近年ではMRIなど、いずれも被害弁護団団長として、被害者救済とともに制度の改善・同種被害の抑止のために力を尽くしている。87年に中心となって結成した「全国霊感商法対策弁護士連絡会」や、日弁連の消費者問題対策委員会を通じて、被害救済を担う若手弁護士の裾野を広げることにも貢献。根っこにあるのは、「社会的弱者やトラブルを抱える人を救済したい」という強く純粋な思いだ。そこに変節はなく、山口は今日も真摯に、被害者に寄り添っている。
生まれ育ったのは福岡県の久留米。家は田んぼのすぐ隣にあって、カエルやヘビを身近に感じながら駆け回っていました。小さな庭ではニワトリを飼ったり、野菜を植えたりという、そんな田舎暮らし。通った小・中学校は家から歩いて5分の距離で、今の福岡教育大学附属です。近所ゆえ、僕はたまたま入ったんですけど、地元のデキのいい連中が集まっていた学校でね、のちに官僚や医師になって活躍している人がけっこういます。やんちゃだった僕は先生からよく叱られたものですが、勉強もクラブ活動もやりたくて、両立に悩みながら頑張っていました。ちなみに中学校時代、バスケットと走り高跳びは市内大会で優勝しています。
ただ思春期ともなると、枠にはめられるのがイヤで……田舎ですから進路にしても先が見えてしまう。親父は県立名門の明善高校で教師をしていましたが、そこに入って九州大学に進んで、福岡市内の会社に就職するというのが定番コース。つまらなく思えた僕は、両親に頼み込んで鹿児島ラ・サール高校に進学したんです。最初は反対されたし、お金もないと言われましたが、拝み倒して(笑)。
寮生活は楽しく、本当にいい刺激を受けました。2段ベッドがズラーッと100台くらい並ぶ部屋で寝起きしていたのですが、朝7時に全員起こされ、桜島に向かってラジオ体操をするのが日課。で、学校が終われば皆で食事をして、夜11時くらいまで大部屋で勉強する。軍隊みたいな生活だったけれど、窮屈だとは全然思わなかった。皆優秀で、まじめにやっているから負けないように頑張ろうという感覚でしたね。
受験については東大を目指すのが当たり前の環境でしたから、僕も入学した時から意識していたし、ほかの大学は考えていませんでした。この頃、漠然と抱いていた将来像は商社マンで、世界を股にかけるような仕事に就くのかなと。というのは、母方に出世頭の叔父がいて、よく「兄さんみたいになりなさい」と言われていたから。それが母親への一番の孝行になると思っていたのです。いずれにしても、法律や弁護士などとはまったく縁がなかったですね。
68年、東大受験のために寝台列車で上京し、山口は初めて東京の地を踏んだ。文字どおり“星雲の志”を胸に「負けるもんか」と奮起したことは、今でも思い起こすそうだ。現役合格を果たし、東大の三鷹寮で新しい生活を始めたこの時代は、まさに学園紛争真っ盛り。ほかの学生がそうであったように、「突然嵐の中に身を置いた」山口もまた、時代の波に巻き込まれていく。
当時の三鷹寮は学生自治、学生運動の拠点になっていて、先輩に「行くぞ」と言われれば、皆でデモなどについて行く。初めて都心部のデモに参加したのは入学して間もない6月15日。中心街の大通りを埋めるデモ隊のすごさに驚きました。安田講堂に機動隊が入ったと報道されたのもこの日です。理念に燃えてというわけではなかったけれど、時代だったんでしょうね。僕自身にも「世の中、このままでいいのか」という気持ちはあったし、東大生である自分を否定するような感覚も持っていた。クラス討論会を重ねたり、「君は社会の歯車になるだけでよいのか」などといった青臭いビラを何枚も書いたり、活動に熱を上げるようになりました。
とはいえ、夏休みには郷里の久留米まで自転車旅行をするなどの冒険もしていたんですよ。3週間かけての西日本縦断。カミュ全集1冊と洗面用具だけを手に、時には野宿もしながら……世界がどんどん広がっていく感覚の下で一人旅を満喫しました。この頃は自分で何でもできそうな自負もあったんですけど、結局僕は、学生運動で挫折を知ることとなった。授業再開阻止闘争では警察のやっかいになったりと、今思えば、とことん親不孝しました。
挫折感、敗北感が大きく、これからどう生きていくのか。そのまま活動を続ける気にはなれなかったし、かといって企業に就職する気にもなれない。そんな時に意識したのが司法試験でした。周りに目指している友人たちがいたから、影響を受けてのことです。正直、「弁護士に『でも』なろうか」「弁護士に『しか』なれない」という、いわゆる“でもしか”。
受験勉強を始めたのは卒業前後からで、彼女と貧乏な同棲生活をしながらですよ。ある時、親に見咎められまして。「将来結婚するのはいいが、今は一人で勉強しなさい」と説教されたのですが、「イヤだ」と抗ったら、仕送りを止められて親子断絶状態になった。生活を支えたのは、後に入籍し、3人の娘を産み育ててくれた女房です。彼女の専門は美術だったから、帯に絵を描くアルバイトをしながら。司法試験に合格したのは26歳の時。すでに長女が生まれていましたし、さすがにほっとしました。女房は今から10年前に病死してしまったのですが、知り合って以来、僕はずっと気丈な彼女に支え続けられてきたように思います。
霊感商法の被害者救済に取り組んだのをきっかけに、決定づけられた弁護士人生
挫折や敗北を知った体験は、社会的弱者の応援に生きるはず
司法修習生時代は、研修所の風通しをよくしようと仲間と議論を重ねたりもした。また、「資格もないのに検察官の立場で取り調べをするのはおかしい」と考え、取調修習を拒否するなど、山口はここでも気骨をのぞかせている。そして、現在も籍を置く東京共同法律事務所に入所したのは78年。労働事件を中心に扱い、社会的弱者の救済に力を注ぐメンバーがそろう同事務所に惹かれ、山口自身が選んだ先である。
司法修習生になる時の個人面談でのこと。「法秩序を乱した君のような人物が法曹になるのを、国民が承諾すると思うかね」。当時の研修所所長だった矢口洪一さん(第11代最高裁判所長官)から、そう言われたことはよく覚えています。何も言い返しませんでしたが、権力者の立場からすると、「そんなふうに映るのか」と思ったものです。でも、自分なりに挫折や敗北を知り、警察のお世話にもなった体験は、社会的弱者の心情にきっと共鳴できるはず。あるいは、間違ったことをしてトラブルを抱えた人たちの復活の応援団になれるはずだと。思えば、この時から僕の弁護士活動のスタンスは決まっていて、今日まで変わっていません。
東京共同法律事務所の諸先輩は、何の咎め立てもなく受け入れてくれた。一応、入所する時に「偏った政治活動をしちゃダメだよ。協調性を持ってできる?」とは確認されましたけどね。もちろんいい返事をしたのですが、折しも入所早々、成田空港管制塔占拠事件があったものだから、僕は知っている連中を励ましにしょっちゅう成田に通っていました。「ちゃんと事務所にいろよ」と叱られた新人弁護士だったわけ(笑)。
「早く実務を学びたい」という思いが強く、もう無我夢中で仕事をしました。労働事件だけでなく離婚、相続、交通事故、相隣関係など様々に手がけ、先輩の指導の下で猛烈に働いた。体はしんどかったけれど、走り出しの10年間で貴重な経験をたくさん積むことができました。面白くてこんなにいい仕事はないと、それは、今でもつくづく実感しています。被害者や相談者から「ありがとうございました」と言ってもらって、報酬までいただけるのだから。“一般の商売”とは逆ですよね。人は誰しも悩みを抱えているし、失敗だってする。それを一緒になって解決するためのお手伝いをし、今後を生きていくためのきっかけづくりをする。そういう意味でも、本当にやりがいのあるいい仕事だと思うんですよ。
「街頭で声をかけられた男性と話しているうちに、大理石の壺を200万円で買ってしまった。納得できない」――20代の女性銀行員から相談を受けたのは86年の夏、山口が仕事を始めて10年になる頃だ。これが霊感商法にかかわった最初の事案であり、その後の山口の弁護士人生を決定づけた。くだんの事案の背景にはカルト問題が横たわっており、山口らと統一教会(現世界平和統一家庭連合)との長い闘いもここから始まったのである。
聞けば、ほかの弁護士からは「その場で納得して契約したのだから仕方がない」と相談を断られたという。でも、僕には素朴な疑問が湧いた。若い女性が男性に食事をご馳走になったとか、プレゼントされたというのならわかりますが、価値不明の壺に200万円も払うなんて考えられない。いったい何が起きたんだ? こんなに巧く人に金を出させるのは何なんだ?と。
彼女が「知人も同じような被害に遭っている」というので、被害者たちから時間をかけて聞き取りをし、被害回復交渉に臨んだわけです。これについてはうまくいって、通知書を送りつけた販売会社が全額を返済してきました。様々な調査の過程でわかったのは、これらの販売活動が統一教会の信者によって行われていたこと。最初は宗教団体を相手にすることにためらいもあったけれど、その組織性や巧妙なスキームが法律問題として扱われていないことに「放っておけない」と思った。闘うべきだと友人弁護士を誘ったところから、はまり込んだのです。
この事案が解決すると、次々と同種の相談が来るようになったので、事務所の同僚や友人弁護士に声をかけ、被害者救済のための弁護士連絡会を立ち上げることにしました。87年2月のことです。記者会見で発表し、弁護士会館で相談会を開いたところ、2回で300人以上、被害額合計10億円以上の相談が集まった。この時は在京の弁護士で対応しましたが、その後すぐに、全国300人ほどの弁護士から賛同協力を得ることができたんです。それで設立したのが全国弁連(全国霊感商法対策弁護士連絡会)。統一教会による霊感商法被害の根絶と、被害者救済を目的とした全国ネットワーク組織です。
それまで豊田商事事件のような宗教に絡まない事件はあったけれど、被害甚大で悪質な宗教トラブルが露呈したのはこの80年代後半からです。全国弁連は一つの受け皿として早い時期につくれたと思っていますが、それは様々なかたちで協力してくれたうちの事務所、そして、志を同じくする多くの弁護士がいたから。一緒に取り組んでくれたことに感謝しかないですね。
そして、マスコミとの連携もありがたかった。なかでも、当時の『朝日ジャーナル』や朝日新聞社会部の記者には多くを教わり、情報交換をしながら動きました。駆け出しのフリージャーナリストだった有田芳生さんとは、この頃からの付き合いです。やはりマスコミは力になる。世間に知ってもらってナンボですからね。実際、新聞や週刊誌に記事が出れば、新たな被害相談電話が必ずあったし、とりわけテレビで報道されると相談が殺到した。マスコミ報道がいかに重要であるかは、事あるごとに痛感しました。その後にオウム真理教事件が起き、「破壊的カルト宗教の行き過ぎは、法的に何とかしないといけない」という機運が高まっていったのです。
不屈の精神の下、消費者問題の第一人者として数々の事案を手がける
宗教を金集めの手段にするのは許されないという強い確信がある
並行して日弁連でも動きが出ている。当時、消費者問題対策委員会の委員長だった中坊公平氏の指揮の下、同委員会内に霊感商法問題のプロジェクトチームが組織されたのは、やはり80年代後半のこと。山口もそのメンバーとして、「霊感商法被害実態とその将来について」と題した意見書をまとめている。これは日弁連で正式に採択された意見書であり、大きく報道されると同時に、全国の弁護士にとって有効な基本資料となった。しかし、その過程において、山口をはじめとする中心的な弁護士に向けられた攻撃はすさまじかったという。
自宅への脅迫的な電話など、日に100本、200本ですよ。僕だけでなく、女房や娘が大変だった。音を上げた僕が「電話番号を変えよう」と言っても、「ここで変えたら負けたことになる」と頑張ってくれましたが……。大量の誹謗のビラを全国に撒かれたこともあるし、統一教会の信者による相談会の妨害も度々でした。仲間の弁護士にも迷惑をかけてしまったけれど、当初から「一人でやっちゃダメだよ」と忠告してくれていたのは中坊さん。指導、激励を続けながら一緒に取り組んでくださった中坊さんは、命の恩人だと思っています。何かが一つ違えば、危険な目に遭う可能性は十分にありますからね。
ただ、攻撃を受けると、僕は逆にやめられなくなる。「何をこのやろう!」という気持ちになるし、「そこまでやるんだったら、こっちもとことん」となってしまう。それと、僕自身は宗教がむしろ好きなのです。かかわるようになってから様々な宗教書を読み、優れた宗教家や研究者と語り合ううちに、「本物の宗教とはどういうものなのか」を考えるようになり、深い関心を抱くようになった。だからこそ、宗教を人集め、金集めの手段にするのは許されないという強い確信があるし、この分野の取り組みは自分に向いているとも思っているのです。
こんなこともありました。96年、幸福の科学の元信者の被害回復訴訟を提起して記者会見をしたら、翌年、僕は幸福の科学と幹部2名から8億円の損害賠償を起こされたのです。名誉棄損だという話でしたが、つまりは今でいう“スラップ訴訟”。でも、「こんな不当な訴訟は許せない、山口一人の問題ではない」と、大勢の弁護士が僕の代理人になってくれたので、逆に幸福の科学を訴えた。もちろん、結果は勝訴でしたが、訴えられてからまる6年を要しました。まさに“法難”。けっこうつらかったですね。
学びもあって、痛感したのは、複数の宗教団体を同時に担当するのは難しいということ。当然ですが、統一教会と幸福の科学の教義は違うわけで一緒にしちゃいけない。そこを区別して機能的に臨むには裾野を広げ、取り組む弁護士を増やしていくことのほうが重要だと思うようになったのです。それは今も同じ気持ち。特定の弁護士だけがやっていては、社会問題として浮き彫りにならないし、運動は続かないんですよ。
宗教トラブル、カルト被害問題を柱にしながら、山口は大規模な詐欺事件にも多く関与している。主なものとして山一抵当証券事件、ジー・オーグループ事件などが挙げられるが、とりわけ「しんどかった」のはMRIインターナショナル事件だという。米国の資産運用会社である同社が、日本人顧客8300人から約1300億円をだまし取った国境越えの巨額詐欺事件だ。
日本の消費者が莫大な被害を被っていると、ある人から情報が入ったんですよ。口幅ったい言い方ですが、「これは自分がやるしかない」と。僕は内閣府消費者委員会の委員として4年近く活動し、アメリカの消費者被害救済制度なども勉強していた。経験を生かしながら取り組む意味があるだろうと考え、後輩弁護士に「やるぞ」と声をかけて弁護団を立ち上げたのです。
アメリカの弁護士とどう連携しながらやっていくか――見えない道を模索する感覚で、とにかく難しい事件でした。現地の弁護士と連携した活動はできたけれど、やはり同じセンスではないんですよ。悩ましいのは報酬の問題。僕ら70人あまりの日本の弁護士は手弁当でやっているのに対し、アメリカはタイムチャージで1時間5万円とかですからね。弁護団で何とか資金を捻出しながら、アメリカの弁護士と付き合っていくのは本当に大変。オバマさんみたいな弁護士はいないのかと言いたくなる(笑)。弁護士の本分の一つは被害者の被害回復にあるわけですが、その根っこ部分の共有は難しかったというのが実感です。
事件については、昨年、アメリカの弁護士が起こしたクラスアクションで和解決着がつき、今年5月には詐欺罪に問われたMRIの元社長に懲役50年の判決が出たので、一定の方向は出た。今は、少し落ち着いたところですが、一つひとつは決着をみても、この類の事件は後を絶ちません。顕著なカルト問題や開運商法にしても本当にモグラたたきだと思う。
僕はメディアの責任も併せて追及したいと考え、何社かを訴えてきたのですが、なかなかうまくいかない。ジー・オーグループの健康食品しかり、「買えばお金がたまる」という幸運のブレスレットしかり。美辞麗句を連ねて紹介するメディアにも責任はあるわけです。ところが、争えば「信じるほうがおかしい」という話になってしまう。でも、実際に信じる人はいるのです。素直で向上心がある、家族を思う気持ちがある、それが強い人ほど信じやすいし、あるいは、大切な人が病に臥せていれば何かにすがりたくもなる。そういう純粋な気持ちを金儲けの道具にし、それを知りながら悪質な広告を出すのはどうなんだ?という話です。繰り返し、繰り返し「行き過ぎはダメだ」と言っていくしかないでしょうね。
それでも、長い道のりにおいて、同志が増えてきたのはうれしいことです。全国に弁護士仲間がいるし、同じ気持ちで取り組んでくれている消費生活センターの相談員や警察官、マスコミ関係者とか。こういう同志の力が社会を変えるエネルギーになっていくのだと信じています。
これからの時代を捉え、常に学び、動く。すべては被害者救済のために
最後に被害者の明るい表情を見られること。これが、最高にうれしい
現在の山口は、スルガ銀行不正融資問題において、被害弁護団共同代表としてその被害救済に力を尽くしている。同じく共同代表を務める河合弘之弁護士に請われた時、銀行の融資責任を社会的に明らかにする難しさを承知しつつも、「びっくりするぐらい悪質な問題が次々と出てきたから、これは放っておけないと思った」。山口を動かす起点は常にここにある。
以前に埼玉銀行の不祥事問題を10年ほどやって、何とか判決文では勝ったのですが、もう一歩達成感がなく、銀行に勝つ難しさは身に沁みていました。でも、スルガ銀行に関しては、行員が預金通帳の偽造まで指示していたなど、「そこまでひどいことをするのか」と驚くほどの問題噴出で、血がたぎってきたわけです。
弁護団が抱えている被害は約400件。そして、600億円以上にのぼる詐欺被害による債務をどうするか。スルガ銀行と交渉を重ねながら、金融庁に解決を求め、政治家に協力を要請しと、様々な活動をしています。債務については、損害賠償と対等で処理という一番望ましいかたちになるよう、ツメの交渉に入っているところ。遅くても来春には解決できればいいなと思って臨んでいます。
社会、政治面からきちっと攻めていくという点で、この仕事からは学ぶことが多い。デモを仕掛けるとか、株主総会に出て策を練るとか、僕のような消費者問題弁護士には思いもつかない発想があって、刺激になっています。加えて、ものすごく感じているのは時代の変化で、その最たるものがインターネット。スルガの場合は被害者の多くが30代から50代なので、ネットで密な連絡を取り合うことで情報が非常に機動的に集まるんですね。先述のMRI事件では6000人の被害者を抱えていますが、世代の違いもあって、こちらは郵便や電話が主な情報収集手段となっています。大がかりになるほど機動性は問われてくるし、被害者間での連携も重要になってきます。これからは弁護団のやり方も、消費者被害の救済のあり方も変わってくるでしょう。
いずれにしても、もう「任せてください」は通用しませんよ。昔は、よくわからなくても「私が責任持って処理します」と弁護士が言えば、依頼者はついてきてくれたものですが、今そんな甘い話はない。被害者や相談者自身もネットで様々なことを勉強して、知識を持っていますから。弁護士も止まっているのではなく、時代を睨み、学び続けていくことが肝要だと思います。
さらに、山口は“次代への送りごと”として「連携の重要性」を示す。社会も事件も複雑化するなか、「一人でできるものじゃない」というのは、山口自身が実感していることでもある。一時は100件にも及ぶ事案を担当し、あらゆる経験を積んできた山口の言葉は示唆に富む。
現在、PL訴訟にもかかわっているのですが、つくづく思うのは専門家の協力を得ることの難しさ。医療過誤でいえば医療従事者、欠陥住宅の問題でいえば建築関係者というように、専門家の協力を得られなければ、訴訟を起こしても勝つのは容易じゃないわけです。ひと頃は本当に苦労したけれど、今挙げたこの2つの分野については、やっと道筋ができてきた感じはあります。しかし、メーカーの高度な製品の欠陥を説明して立証するPL訴訟は本当に難しい。細分化された分野ごとの専門家の協力がないと、裁判官を納得させる説明ができないんですよ。
例えば、自動運転の車で事故が起きた時、その技術に問題があったことをどう証明するのか。メカが高度化すればするほど難しくなってくる。だから、専門家との協力体制をいかに取っていくか、横の連携が非常に重要になってきます。裁判官だって、自動車のブレーキに欠陥があった、エアコンの室外機から火が出た、原発をどうするんだ?など、あれもこれも容易にわかるはずがないのですから。もちろん、弁護士にはその都度理解し、克服する技量が求められますが、裁判官にきちんと説明して、今後同種の事件が起こらないような判断をしてもらうためには、連携が欠かせないのです。それは、マスコミや警察も含めて。先ほどの「私が責任を持って」の話と同筋で、問題の解決は決して一人でできるものじゃありません。そういう視点は大切にしてほしいと思いますね。
これまで長らくハードに仕事をしてきました。本当は60歳になったらスケジュールに追われ続ける弁護士生活をやめて、宗教活動をやりたいとずっと思ってきたんですよ。お寺を開くとか、いやしの里を創設するとか。法律では本当の意味で人を救えないという思いから、周囲にもそう話していました。でも、結局は変わらない日々で、同級生や仲間からは「お前、やめるっていう話だったよな」と言われています(笑)。
もとより人を救えるなどおごった考えはないけれど、自分としては弁護士をやっていたほうが確実に人の悩みや困り事に寄り添えるのかなと。それを実感できる喜びがあるから、この仕事を続けているのだと思います。霊感商法で身ぐるみ剥がされた被害者は「自分がバカだった」と、時に死にたいというほど落ち込むんですよ。でも、被害回復に努め、心から寄り添えば、事件を教訓にして新たに楽しく生きていく気持ちを持つお手伝いができる。紆余曲折を経て、最後に被害者の明るい表情を見られた時は最高にうれしいものです。弁護士はやっぱりいい仕事。そして楽しい仕事だから、若い人には「頑張ってくれ」としか言いようがないかな(笑)。
※本文中敬称略