子供の頃からゲームに没頭。一つの巡り合わせから司法試験を目指すように
分部悠介のキャリアは異色だ。大学在学中に司法試験に合格しながらも、ストレートには弁護士の道に進まず、卒業後は電通に入社。コンテンツビジネスに携わった後、総合法律事務所や経済産業省への出向を経て2011年に中国で起業、今日に至っている。何かを選択する時、動く時、常にあるのは「人とは違うことをやる」という信条だ。だからこそ、分部の活動は弁護士の枠を超え、唯一無二ともいえる存在感を示している。現在率いる「IP FORWARD」は、コンサルティング会社と弁護士事務所を中核とするグループ企業で、中国や東南アジアにおける知財関連のサポートを主業務とする。躍動する中国のコンテンツビジネス市場に立つ分部は、自らの役割を、中国のシンボリックカラーに準えて「“赤船”の船長として日本を逞しくすること」だと語る。足場を変えながら様々に重ねた経験を糧に、分部は今、「自分にしかできない」ことに力の限りを尽くしている。
商社マンだった父親の転勤に伴って、一家でアメリカのニュージャージー州に移ったのは小学5年生の時。まだ治安の悪い地域もある時代だったので、スクールバスで日本人学校に通い、中3までの5年間を過ごしました。なので、驚くほど環境が変わったわけじゃないんですけど、外国人とも接点を持とうと地元の野球チームに入ったり、スキーに出かけたり、それなりに海外生活を楽しんでいました。今思えば、私に新しい環境に対する抵抗感がないのは、この経験が基になっているのかもしれません。
日本の高校受験に備えて、ニューヨークにある“それ専用”の塾で勉強し、入学したのが東京学芸大学附属高校。この時、日本に戻ったのは私一人で、神奈川県の日吉にある学生寮で一人暮らしを始めたんです。ここからですよ、糸の切れたタコ状態でゲーム三昧の日々になったのは(笑)。
もともと大のゲーム好きでしたが、側にはうるさく言う親はいないし、かつ、学生街・日吉はゲーセンの街でもある……もう好き放題です。当時、最も熱を上げたのは『ストリートファイターⅡ』。ちなみに高校ではテニス部の部長をやっていたんですけど、要は、1対1の対戦ゲームがすごく好きなんですね。ゲームの大会ではけっこう優勝しましたし、強いヤツがいると聞けば地方にまで戦いに行ったりもしました。
そこまでやり込むと、やはり揺り戻しはあるものです。将来的には何となくマズイかなぁという感覚はあったし、ずっと教育熱心だった母親の影響を受けたのか、私の中には「東大に入らなければいけない」という刷り込みがあったんです。親からは、ある種典型的なエリート像を聞かされてきたので。だから「常に勉強しておかなければ」は、習い性になっていました。すごく勉強したわけじゃないけれど、妙に自信めいたものはあったものだから、そのまま東大を受験したという流れです。この頃にはさしたる職業イメージもなく、何だか中途半端な話ですけど、結果的にはバランスを保てたんでしょうね、きっと。
東京大学・文Ⅱに合格した分部は、経済学部に進路を取っている。当初、法曹の道はまったく意識しておらず、考えていたのは「経営者になろうか」だった。ただ、それは漠然とした思いで、ゲームに没頭する日々は変わらず続いていた。話が変わったのは1年生の冬。資格試験予備校「伊藤塾」の塾長である伊藤真氏と出会ったことで、分部の視野に初めて司法試験が飛び込んできたのである。
ゲーム一色の生活でさらに腕は上げていたものの、当然のことながら、そのぶん学業は疎かになる。クラス内で成績がビリ近くなっちゃった時は、さすがにまずいなと。伊藤先生と出会ったのはそんなタイミングでした。1年生の終わり頃だったか、伊藤塾を立ち上げたばかりの先生が、大学で生徒募集のビラを配っていたんですよ。何とはなしに話をしてみると、出身高校も担任も同じだったことがわかり、すっかり盛り上がったわけです。タイミングも含めて、すごい引き合わせですよね。
それで伊藤塾の体験授業を受けたんですけど、法律を面白おかしく教えてくれる授業が魅力的で、この時初めて、司法試験というものを意識したのです。何か難しい資格試験でも目指さなければ、この先、自分は本気になって勉強しないだろうとも思っていました。経済学部には公認会計士を目指す人も多かったけれど、私は数字ばかりの世界に面白さを感じなかったので、ならば司法試験を目指してみようと。
ここから「ゲームと受験勉強だけ」という生活に入りました。伊藤塾に通いながら、時にはゲームセンターの爆音の中で六法全書を開くという感じ(笑)。まぁ結局、ゲームは途中でやめたんですけど。きっかけは、後にプロ格闘ゲーマーとなる梅原大吾さんと戦ったこと。見事、こてんぱんにやられましてね、「こんな天才が出てきたのならもういいや」と足を洗ったんです。結果的には受験勉強に集中する環境となり、司法試験には大学5年次、2回目のチャレンジで合格することができました。大学に入った頃は想像もしていなかったことで、わからないものです。ただ結局、大学生活は司法試験の勉強とゲームだけに占められていたので、私は限定的なコミュニティにしかいなかった。もっといろんな人に会うとか、広く社会を知る動きをしていれば、ほかにも得られるものはあったと思うから、それは一つ反省点ではあります。
弁護士として、好きな知財関連をやりたいという思いは一貫してあった
コンテンツビジネスに携わった経験をベースに、弁護士の道へ
「広く社会を知る」意味でも、ビジネスの現場を体験することが必要だと考えた分部は、一般企業への就職活動を始めた。周囲からは「何でお前が?」と言われたが、もとより、司法試験自体はチャレンジの意味合いが強く、法曹の道を急ぐつもりはなかった。ゲーム制作会社など、好きな領域でOB訪問をするなか、惹かれたのが電通である。折しもコンテンツビジネス部門が立ち上がった時期で、分部には好機となった。
就職先として、いわゆるトラディショナルな法律事務所も考えなくはなかったんです。でもやっぱり、皆と同じレールに乗るのもなぁ……と思ったし、弁護士の道を進むにしても、何か専門領域を持たなければダメだとも感じていました。ちょうどエンターテインメント・ローヤーという言葉が出てきた頃で、著作権や知財関連は専門として面白そうだと思ったのですが、当時はまだ、リーガルマーケットとしてはあまりに未成熟で、よくわからなかったんですよ。
時代としては、例えば『リング』『らせん』といった日本のホラーコンテンツが海外で映画化され始めた頃です。そんな背景の下、電通でも映画やテレビ、ゲームなどのコンテンツに製作出資するという動きを始めていたのです。ほかにもキャラクターライツの運用とか、音楽ビジネスのサポートとか、要はコンテンツと呼ばれるものをまるっと。OB訪問で会った人たちは皆個性的だったし、これは面白そうだと。
希望叶って、入社当初からコンテンツ部門に配属となりました。先輩の下で、映画への出資業務やハリウッドとの契約のやりとりを担当させてもらったり、スヌーピーグッズの製作を通じて版権管理を学んだり、本当に幅広い経験をさせてもらいました。新設部門だったので、いわゆる外人部隊というか、いろんな部署から強者が集まっていて20代はほぼ私一人という環境。いいか悪いかは別にして、同期や近い年の先輩がいないから、すべからく基本は「自分でやれ」です。大変なこともありましたが、目立ちたがり屋の私としては性に合っていたし、強烈な上司もいて本当に面白かった。
電通での経験はすべて今につながっているんですけど、3年目に入った頃、ふと「俺って成長しているのかな」と思ったんですよ。司法試験に合格したということで、法務の仕事も少し手伝っていたのですが、実務経験がないでしょう……いざ「契約書をチェックしろ」と言われても、的確な視点を持っていないわけです。弁護士をしている同期にチラっと聞いてみると即座に答えが返ってきて、やっぱりすごいなと。大手の法律事務所でバリバリ仕事している連中が妙にカッコよく見えてきた。「隣の芝生は青い」というやつですね。そろそろ司法修習に行かないと資格も失ってしまうかもしれない。そんな気持ちが出てきた頃に仕事の区切りもついたので、思い切って電通を辞めることにしました。
横浜での司法修習を経て、03年に弁護士登録。電通での仕事を通じて、著作権や知財、コンテンツビジネスに触れた経験を生かそうと、分部はこれら領域を専門とするローヤーになろうと決めていた。次の足場となったのは、長島・大野・常松法律事務所。広く知財に関しては「これから」という時代だったが、同事務所に知財業務を本格化させる意向があるのを知り、分部が自ら選んだ先である。
少し間は空いていたものの、横浜修習での成績はけっこう良かったんですよ。特に検察研修が。社会人経験が生きたのか、いろんなぶっ飛んだ人も見てきたので(笑)、被疑者にすれば話がしやすかったのでしょう。自白を引き出す率が高かった。なので、検事になるよう勧められたりもしたんです。でもそれでは、何のためにエンタメをやってきたのかという話になるし、電通時代に積んだキャリアを生かせませんからね。やはり弁護士として、知財関連をやりたいという思いは一貫してありました。
長島・大野・常松法律事務所にも、事前にその旨は伝えて入所しました。実際、すでに知財を専門に扱う先生方はいらしたので、私も期待はしていたのですが……入所当初に従事したのはまったく別の仕事。当時、全盛にあった不動産証券化です。最も忙しい業務の一つでしたから、そっちに携わることになったのです。
事務所内ではパートナーと若手が一室になるんですけど、私が付いたのは西村直洋先生です。先生との出会いは本当に大きくて、すごく感謝していることを先に言っておきますが……先生は超が付くほど型破りな弁護士で、いい意味でクレイジー。厳しい方でもあるので、過去に同室になった新人は付いていけなくて、けっこう辞めていったという話もあるぐらい。だから大変だったんですよ。先生自身も泊まり込みを辞さない働き方をされていたし、何ていうか、仕事に対する腹の括り方が尋常じゃない。先生がつくるドキュメンテーションの見事さには、しばしば圧倒されたものです。正直、不動産証券化にはあまり興味がなかったのですが、先生の下で約2年間、すっかり鍛えられました。途中「もう勘弁してくれ」と思ったこともあるけれど(笑)、仕事に対する構えは今の私の基礎になっているし、何より、西村先生の試練に耐えたことはすごく大きな自信になりましたね。
その後は、新しくできた知財専門のチームに入って仕事をしてきました。著作権関係の案件や特許訴訟、職務発明紛争、そして映画の証券化案件など様々に。ほかにも電通時代からのつながりで、ITベンチャー企業やプロ野球球団の顧問弁護士を務めたりと、こうしたいろんな仕事を経験するうちに、リーガルマーケットの輪郭がはっきりとしてきました。そして、ようやく専門分野に立てたという手応えと、仕事の意義深さも実感するようになったのです。
人生最大の転機となった経産省への出向。本拠を中国に移す
様々な経験から、日本という国を外から見られたのはものすごく大きい
中国を筆頭に、世界中に日本ブランドの模倣品が出回っている問題を背景に、経済産業省が「模倣品対策・通商室」を設けたのは04年。ミッションとしては、途上国の政府がどのように模倣品対策をしているかを調査・分析し、かつ、問題のある国の制度を改善させること。この組織に、分部は初代模倣対策専門官弁護士として出向。06年から09年までの3年間にわたって活躍した。事務所での仕事に脂が乗ってきた頃でもあり、出向に迷いがなかったわけではないが、やはりここでも「人とは違うことを」という思いが背中を押した。
知財グループのトップから「経産省に出向しないか」と打診された時、最初は否定的な返事をしていたんです。この頃は模倣品や海賊版に詳しくなかったし、新設の組織だから何をするのか全然見えない。それに、官庁ってお堅いイメージがあるでしょう、当時の私は茶髪ロン毛でしたからね、「こんなのが行ってどうするんですか」って(笑)。でも、事務所には「これからの弁護士はどんどん外に出るべきだ」という考えもあり、私に期待をかけてくれている。よくわからないけれど面白いかも……最終的には自分の直感を信じることにしました。わからないもので、ここから私の人生がぐわーっと変わっていくことになります。
模倣品対策室での仕事は、日本企業から中国、その他新興国での被害状況を聞いて、それらの国の知財法制度を調査し、改善要請案を考え、さらに対象国政府との交渉にあたるというもの。当時の状況としては、中国7、8割、残りがインドやドバイ、中近東あたりでの侵害被害が多かったですね。とりわけ中国とは頻繁に情報交換をしていたので、政府や中国人の考え方、法律の構造や立法の過程などがよくわかり、本当に貴重な体験と勉強をすることができました。
振り返ると、実は時代的にも環境的にもラッキーな面があったのです。まず、就いたのは新設ポストで前例がないわけですから、何かと制約を受ける“前例主義”とは無縁だったこと。簡単にいえばやりたい放題で、これはやりやすかったです。次に、この仕事の背景には「知的財産立国」を謳う日本政府の重要戦略があったので、経産省の中にいながらも、他省庁との行き来が自由にできた。これも通常の縦割りからすると恵まれた環境で、やはりやりたい放題(笑)。そして、日中関係がまだよかったこと。尖閣諸島問題前の時代で、中国政府の人たちもフランクだったし、交渉についても、時には中国の強い酒を一緒に飲みながら話をし、信頼関係を築くこともできた。
曲がりなりにも日本政府の一翼を担う仕事です。日本の名だたるメーカーや政治家と議論をしてきて、とにかく視点が上がりましたよね。「国益とは何か」を考えるようになりました。それに、外交交渉では「我が国は」とか言って話すわけで、最初は緊張しながらも自分は大きな責任を負っているんだと。様々な経験から、日本という国を外から見られたのはものすごく大きい。3年間、あれだけ凝縮して仕事ができたことは、間違いなく私の財産になっています。
この出向が分部の人生最大の転機となり、行く道を決定づけた。出向後は長島・大野・常松法律事務所に戻り、中国知財法関係の仕事に就くつもりだったが、「もっと中国を理解したい」という思いを強くしていた分部は、時経たずして中国に渡る。09年から2年間、中国の弁護士事務所や模倣品対策専門調査会社で“研修”したのを背景に、「やるべきことが見えた」分部は、ここで事務所を辞して起業に踏み切ったのである。
出向任期中に中国の法律には詳しくなったものの、肝心の言葉、中国語がまだ不自由な状態だったんですね。それに、中国の知財法制度はだいぶ進展したとはいえ、現地には多くの課題が残っていると感じていたので、もっと中国を理解して状況改善に努めたかった。それで事務所に相談し、研修に出させてもらうことにしたんです。研修計画は自分で立てて、1年間は上海で語学学校と探偵会社で学び、次の1年間は北京の弁護士事務所で働くという内容です。周囲からは「大学には行かないの?」「探偵会社って何だ?」とか言われましたけど(笑)。探偵会社というのは、模倣対策の重要なキーを握る存在です。中国では対策をするうえで、権利者企業がニセモノを製造する工場や販売業者を探す必要があるんですよ。日本のように、告発を受けた警察が捜査をするケースはほとんどないので。
その探偵会社では潜入捜査などの仕事を経験し、弁護士事務所では現場の中国法律実務を学びました。で、研修を終えたところでどうするか。日本に戻るかどうか、ずいぶん考えました。すでに日本企業からは多くの案件を受けていて、頼りにされているという実感を得ていた一方、事務所には育てていただいた恩義があるし……と。模倣対策にとても苦しんでいる日本企業を前にして、最後に思い至ったのは「誰かがやらなきゃいけない」です。かつ“現場”でね。ならば自分がやるしかないと決心し、事務所を辞めて起業することにしたのです。
上海を拠点に「IP FORWARD」を立ち上げたのは11年、34歳の時。日本人は私一人、あとは現地の探偵や弁護士などを合わせて15名という陣容でのスタートです。中国には、模倣対策専門の探偵会社がざっと300社ほどあるのですが、悪質な会社も多いんですよ。でも私には、経産省時代や中国での研修時代に得た確かな人脈があったので、中国の環境を変えようという熱い志を持った人たちと始めることができた。初の日本人経営の会社ということもあって、信頼はしていただけたと思います。
当初の数年は100%模倣対策をやっていて、実質は探偵会社として機能していました。例えば、ホンダや日立などの日本のナショナル企業から依頼を受け、当該するニセモノを探し出し、摘発、訴訟するといったビジネスモデルです。慣れない異国の地の経営で戸惑うことも多かったけれど、やはりニーズが大きかったのでしょう、事業としては順調な滑り出しでした。
より大きな目標に向けて。すべての経験や知見を集結し、邁進する日々
「自分にしかできない」ことをやっている日々はたまらなく面白い
現在のIP FORWARDグループは、広州や北京、瀋陽などの中国拠点に東京も加えた8拠点を擁し、従業員も60名を超えている。伴って業務内容も変化し、今は模倣対策・知財保護だけでなく、中国法務、日本企業に対する中国ビジネス支援など、多彩なサービスを提供する。16年には、日本コンテンツの中国展開をサポートする専門会社「JC FORWARD」、日中共同でアニメを制作する会社「Animation Forward」を設立するなど、その勢いはさらなる加速を見せている。
業務が多様化したのは、ここ4、5年でしょうか。顕著なのはコンテンツビジネスです。その筆頭であるアニメの海賊版は以前から横行していましたが、ずっと“やられっぱなし”の状態だったんです。例えば自動車部品や電気製品などといった模倣品の場合は、最悪、製品事故につながって消費者を害する恐れがあるから危険ですし、かつ、ビジネスとしても成り立っていたから、多大な費用を払ってでも模倣対策をするインセンティブがあったわけです。対して、そういうインセンティブがないコンテンツビジネスは、半ばあきらめ状態。特に10年ほど前の中国では、海賊版アニメ『ワンピース』や『ドラゴンボール』などの動画が流れ放題で、とうてい権利者企業のビジネスが成り立つような状況ではなかったんです。だから、対策に積極的に費用を投じることができなくてもやむを得ないと。
日本アニメ作品のライセンスが成立するようになったのは、12年あたりから。中国の大手動画サイト「Tudou」が『NARUTO-ナルト-』を買って、正規版を流したというのが契機になりました。面白いですよ、ライセンスを受けたTudouは「今日から俺が本物だ」と気勢を上げ、競合動画サイトに警告を発したんです。すると、乱立していた動画サイト間で競争が起き、ちゃんと作品の権利を取って適正化を図らなければ負けるという流れが出てきた。それまで私たちは、動画サイトに対して常に削除要請をしてきたわけですが、今度は逆に、日本側から権利を取得する相談を受けるようになったのです。
中国企業の成長を後押しするのを目的に、中国政府が海賊版摘発を強化し、知財を合法的に活用する動きを活発化させた背景もあります。追って、ゲームや映画などにも波がおよび、私たちの業務も大きく変わってきました。日本コンテンツの著作権を中国企業にライセンスするのをサポートする仕事、日本企業が使わなくなった特許や技術の移転をサポートする仕事……けっこういろんなことをやっていますね。“守り”だけでなく“攻め”にもかかわるようになったというわけです。日本のコンテンツを中国につなげる「JC FORWARD」を設立したのも、そんな時代の流れを受けてのことです。
中国のコンテンツ業界は急激に発展していて、もうかつての「コピーが横行している」というステレオタイプ的な状況ではなくなっています。自国の作品に日本のアニメ技術を融合させて流通させたり、純中国産の作品も生まれている。今後は、日中間のコンテンツ連携によって、新しい市場が確立されていくでしょう。私は、初めての「日中間専門のエンターテインメント・ローヤー」として、ここに大きくアプローチしたいのです。
ものづくりというハードウエア産業が優位性を失いつつあるなか、日本のコンテンツ産業が有望株の一つであるのは間違いない。「業界が一体となって日本の強みを盛り上げ、中国を開拓していこう」と分部が声を上げるのは、それが国益につながると確信しているからだ。「かつての黒船来航が日本を変えたように、中国から赤船を出して日本を揺さぶりたい」と語る視線の先にあるのは、日本をもっと元気にすること。ずっとチャレンジを続けてきた分部だが、今は「一番大きな目標に向かっている」。
中国は不透明で、規制も多く、心配、怖い、わかりにくい、というイメージを持たれる方も少なくないようですが、実際は、特定の領域以外は日本よりも自由で開放的な点が多いと思います。皆で儲けましょう、発展しましょうという感覚が強く、一緒にそれができるのであれば、どんな事柄でもどこの国の人でも受け入れる寛容性がある。様々な分野で課題があるのも事実ですが、近年、非常に力強く成長し、世界の中での存在感が大きくなっています。
日本は隣国として、似た価値観を有しながらも、まったく違った長所、短所を持っていて、中国から見ても相互に補い合える、非常に希有かつ相性がいい国です。両国がしっかりとタッグを組んで、様々なことを推進していけば、世界に対しても良い影響が出ると考えています。
日本は良くも悪くも、発展、成熟してしまっているので、今後はうまく外圧を使っていかないと国の中から変えることは困難でしょう。幕末の黒船到来で日本が変わったように、私は「赤船」の船長となって、中国から日本を揺さぶり、逞しくしたい。ずいぶんと大きな目標ですが、今、自分にしかできないことをやっているつもりなので、日々がたまらなく面白いです。
振り返れば、自分が中国で起業するなど1ミリも考えていませんでした。それを言葉も文化も違う場で、経営者経験もない状態で始めたのですから、まったく無謀です(笑)。実際、当初は私の思うレベルでアウトプットが出てこない職員に対して頭に血が上り、苦い経験もしました。経営者と弁護士には大きな違いがあって、最たるものは、弁護士は常に「100」を求めるということ。そこに到達してこそのプロですからね。でも、100を求め続けると経営は難しいんです。状況に応じてどこかで割り切る決断ができないと、方向性を誤ったり、スピードが遅れたりする。一方で、身についている法的三段論法というか、論理的思考は大変な強みになります。このバックグラウンドがあると、経営理念にしても事業方針にしても、明確につくって動かすことができますから。
これは、弁護士に広くいえることですが、論理的思考はビジネスにおいて非常に役立つと思うのです。昨今は弁護士の人数が増えてきて、資格をトラディショナルなかたちだけで捉えていると、もう立ち行かなくなる時代でしょう。でも、それはネガティブな話じゃなく、資格や弁護士としての強みを新しい領域で生かせる時代の幕が開いたということです。私は“一本足打法”はけっこう危ない気がしていて、これからは弁護士ライセンスを通じて得た学びを生かして、世の中を広く見ていく必要があります。そのうえで、やりたいことはいろんな経験をしながら、ゆっくり探せばいいと思うのです。私自身、あちこち動いてきて、「突き詰めていない」という劣等感を持った時もあるけれど、たくさんの経験を得たからこそ自分が見え、社会も見えた。日本を元気にするためにも、新しいことにチャレンジする仲間が増えるとうれしいですね。
※本文中敬称略