Vol.4
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宇都宮 健児

HUMAN HISTORY

強者や裕福な人は自分を守れる。弁護士という仕事の本分は、社会的弱者の味方になること

東京市民法律事務所
弁護士

宇都宮 健児

自分の首を絞めることも、平気でやるのが弁護士

2006年12月、日本の多重債務対策は大きな一歩を踏み出した。貸金業規制法改正により、グレーゾーン金利の息の根が止められたのである。今や法律の網のみならず、政府の対策本部、全国都道府県の多重債務対策協議会、弁護士会も加わり、まさに官民挙げた取り組み体制が敷かれている。総量規制の導入が始まれば、長期にわたって社会問題とされた多重債務問題は今後、終結の方向に向かっていくことになるだろう。

宇都宮健児氏は、多重債務問題の第一人者と呼ばれる。だが、その業績は、そんなひと言では、とても語り尽くせない。彼の言動は、まさに社会を、国を、法律を動かしてきた。

「グレーゾーン金利と総量規制について、一部の貸金業者はまさかここまでやるとは思ってもみなかったんじゃないでしょうか。というのも、多重債務問題がなくなれば、弁護士の仕事も減ることになるわけです。自分たちの利益を考えたならば、いくら弁護士といえども、自らの首を絞めるようなことはしないだろうと。でもね、弁護士というのは、自分の首を絞めるようなことを平気でやるんですよ。当時の貸金業者トップの中には、何兆円もの資産を持つ人もいたでしょう。そんな社会の”勝ち組”の人たちの、考え方の底の浅さが私には見えてしまった気がします。彼らは、弁護士という存在を見極めきれなかったんですから」

今や社会派弁護士として、真っ先に名前が挙がる人物である。司法試験合格は1968年。だが、弁護士としてのスタートは、自身が予想もしえないものだった。

「落ちこぼれ弁護士だったんですよ。私のような要領の悪い弁護士でも、なんとかやってこられた。それを伝えてほしいと思います」

早く親に楽をさせてやりたかった

弁護士という職業を知ったのは、実は東京大学に入学してからだった。生家は貧しかった。愛媛県の小さな漁村から、一家で大分県の国東半島に開拓入植したのは小学校3年のとき。当初は電気もない。そんななか、家族で山を開墾する日々を送った。朝3時に起き、星が出る時間まで仕事をしていた父は、愚痴ひとつ言わず黙々と働いていたという。

「だから、早く親に楽をさせてやりたかったんです。それで最初に浮かんだ職業は野球選手でしてね(笑)」

成績優秀だった宇都宮少年は、将来を期待され中学から母方の叔父の家に預けられて熊本の中学に通った。だが、本人の意識は違った。

「当時の熊本は野球王国。これで一歩、野球選手に近づいた、と(笑)。ところが、中学に入ってすぐに野球部に入ると、身長が180センチもある連中がゴロゴロいるわけです。私は体が小さいし、ここでレギュラーを取るのは並大抵ではない。それでも1年間くらいは頑張ったんですが、無理だとあきらめました」

挫折した宇都宮少年が向かったのが、勉強だった。そして野球に替えて始めた卓球は、後に市内ベスト4の実力を得る。熊本高校、さらには東大でも卓球部に所属した。

現役での東大合格。将来は官僚か、企業に入るか。とにかく出世して金持ちになり、故郷の両親のために、と考えた。ところが、苦学生だからと当然のように選択した駒場寮入寮が、人生を変えることになる。

「当時の駒場寮は学生運動のメッカだったんです。それまで勉強と卓球しか知らない人間が、いきなり大きな社会に触れましてね。寮生の間でもいろんな議論をして。このとき、弁護士という仕事を知ったんです」

関心を持った学生運動。だが、どっぷり身を投じることはなかった。

「私にはだんだん、お坊ちゃんの闘争に見えていったからです。なんだか、理想も子どもっぽくてね。地に足がついてない。私の両親は開拓農家。現実は本当に厳しいわけです。やるなら徹底して、大学を捨てるくらいの気持ちでやらないと、と思っていました。ところが学生運動に参加していた連中は、さっさと官僚やら一流企業に就職していくわけでしょう。そういう身のかわし方は、私は好きではなかった」

こうして官僚になることや企業に入ることにも抵抗感が出始めたころ、“自分だけでいいのか”という考えが浮かび始める。確かに貧乏からは脱却したい。しかし、自分だけ、あるいは自分たちだけ脱出したところでどうなるのか。従兄弟たちは中学で集団就職していった。東京にも経済的に苦しい生活を送る人たちが大勢いる。こういう人たちに役立つ仕事はないのか。そして、たまたま知った弁護士という職業に、彼はなんのためらいもなく突き進んでいった。もともと秀才が効率のいい勉強を徹底して行い、実質わずか半年で司法試験に合格する。

入った法律事務所は、7年目で肩たたきに

宇都宮 健児
サラ金やヤミ金被害者の救済には一刻を争うことも。分刻みのスケジュールをこなす宇都宮氏の動きには一切の無駄がない

司法試験に合格し、弁護士になったら自動的に食えると思い、24歳で法律事務所に入った。

「ところが、この考えが大間違いのもとでしてね。私には顧客獲得能力というものが、完全に欠けていたんです。考えてみれば、田舎で育って、ストレートに生きてきましたから、人生経験が少ない。都会の社会もほとんど見ていない。企業のこともよくわからない。社会性がなかった」

今の宇都宮氏からは予想もできないような姿に思えるが、当時は本当にそうだったらしい。独立するのに必要な顧客基盤も作れなかった。同期は一人、また一人と独立していくのに、自分のスケジュール帳は真っ白。仕事がない。そしてとうとう7年目、31歳で引導を渡される。

「そろそろどうですか、と。要するに、肩たたきです(笑)。これはもうショックでね。落ち込みましたよ。ただ、すぐ放り出されても困る。『1年だけ待ってください』と、必死でお願いしました」

やがて給料まで減らされた。大原簿記学校で商法を教えるアルバイトをしていたのが、このころ。そして、とうとうあきらめて次の事務所を探しに向かった弁護士会で、転機のきっかけをつかむことになる。

「募集している事務所はないですか、と訪ねていくと、けっこう若づくりでしたから、司法修習生と勘違いされたんですよ。『いや、もう8年もお世話になっているんですけど』と(笑)」

運良く事務所が決まったと同時に、弁護士会とつながりができた。時は1979年。折しもサラ金問題が社会問題になり始めた時期だった。弁護士会にはサラ金債務者が押しかけていたが、当時は貸金業規制法もなく一般法律相談扱い。受任義務もないため、たらい回しされていた。これではトラブルも起きる。

「それで困った弁護士会の職員が、私のことを思い出したわけです。『暇そうな若い弁護士がいたなぁ、やってくれるんじゃないかなぁ』と」

ほかの弁護士にとっては面倒な事案も、宇都宮氏にはありがたかった。

「どんな事案でも、ゼロより1件でもあったほうがいいですから。それでいろんなところに電話をして、サラ金の問題はどう処理をしているのか聞いていったんですが、驚きました。ほとんどの弁護士がやっていないし、やり方すら、みんなわかっていなかった」

相談に来る多重債務者は疲れ果てていた。目は充血、顔色は青白い。弁護士報酬は5000円、1万円程度。それでもゼロよりはいい、と考えた。しかも、やりがいを感じた。困っている人を助け、喜ばれるのだ。

「多い人は50社くらいから借りていたんですが、一軒一軒一緒に乗り込んでいきました。『私が代理人だ、取り立てはしないでくれ、取引経過を見せてくれ。今後は一切を私に連絡してくれ』と。貸金業者も驚いていましたね。こんなことまでやる弁護士がいるのかと。なかには、業者から、顧問になってくれないか、という申し出が後で来たりしまして(笑)。もちろん断りましたけど」

だが、すべての業者を一人で回っていたのでは身が持たない。そこで弁護士会に呼びかけ、特別相談窓口を作ってもらうようお願いした。

「実はそれまで弁護士会には、私は近づかなかったんです。というのも、先に独立した連中がたくさんいるわけですよ。お前、まだイソ弁やってんのか、なんて言われるのが嫌で(笑)。でも、一人ではとてもできない。手伝ってもらうしかなかった」

1980年2月、相談窓口開設。最初の事務所を辞めた翌年だった。

報酬は分割でもらえばいい、という目からウロコの講演

弁護士には、多重債務者に冷めた目もあった。自招行為ではないか。自ら招いた問題ではないか、と。だが、宇都宮氏の見立ては違っていた。

「相談を受けてみると、所得の低い人が多いんです。言ってみれば、自分の父や従兄弟と同じような人が相談に来る。そんな人が大変な目に遭っている。自殺未遂者もいた。自殺者の遺族もいました。弁護士が入ることで、少なくとも彼らのストレスは減るんです。一般事件で、命が危険にさらされることはほぼない。でも、サラ金問題は、生死に関わる問題だった。これが大きかった」

弁護士が代理人になれば、被害者は「すべて弁護士に連絡を」と伝えることができる。

「私は自宅の電話番号も教えていました。よく早朝に電話がありましてね。『今、サラ金会社の社員が押しかけている。子どもが学校に行けない』と。そうすると、私が電話で話をするわけです。『相手は私だ』と。考えてみれば、押しかけているほうも仕事でね。店長から『取るまで帰ってくるな』と言われているんでしょう。それなら、と店長に電話をしたこともあります。後から取り立ての社員が電話をかけてきまして。『先生、店長に言ってくれてありがとう』と。全体がおかしいんですよ。そう思いました」

弁護士会の相談窓口は当初、土曜日の1日だけだった。まだ弁護士は少なかったが、81年、82年と相談者が急増。予約制になり、なんと2力月先まで予約が埋まった。やがて予約券を売買するダフ屋まで登場する。明らかに問題が顕在化し始めたのである。一方で予約をしているのに、半分程度しか相談者が来ない。その日まで、耐えられなかったのだ。事態は急を告げていた。急遽、70人から80人の弁護士に呼びかけ、大規模な相談会を実施。300人もの相談者が霞が関に長い列を作った。

「驚くべき光景でした。青白い顔をした被害者たち。泣き叫ぶ子ども。大変な事態に、ようやく多くの弁護士も気づき始めたはずでした」

だが、対応してくれる弁護士は増えない。宇都宮氏は、その理由に気づき、講演の場を設けた。弁護士会の講堂は立ち見も出て、床が抜けるのではと思うほどの入りとなる。

「彼らが一番心配していたのは、弁護士報酬だったんです。本当に取れるのか、と。でも、答えはシンプル。分割でもらえばいい。そうすれば、債務者も払える。トータルにすれば、国選弁護費用よりも報酬はいいんです。しかも月1万円でも、100人いれば100万円です。デフォルトも多少はありますが、それは仕方がない。そんな話をすると、対応してくれる弁護士が一気に増えました。弁護士からも、目からウロコだと、ずいぶん喜ばれる講演でしたね」

相談者は増え続け、弁護士による救済も始まった。だが、弁護士による救済には限界があることに、宇都宮氏は気づいていた。見えてきたのだ。実は相談者は氷山の一角であり、背後に膨大な被害者が、しかももっと深刻な事態を抱えた人がいることが。いくら相談窓口を増やしたところで、数百万人にも及ぶかもしれない人はとても救えない。

「被害者を生み出さないようにしなければ、と思いました。被害者を生み出さないような政策提言や立法提言が必要になるということです」

規制法の立法運動、金利引き下げ運動がこうして始まる。マスコミが飛びつき、社会も問題の大きさを知った。83年、貸金業規制法ができた。そしてこの流れが、度重なる法改正と、06年のグレーゾーン金利廃止までつながっていくのである。

貧困問題は常に言い続けなければ拡大する

宇都宮 健児

私がサラ金問題に取り組んだときは、誰もやりたがらなかった。それこそ、三流の弁護士がやる事案だと思われていたんです

宇都宮 健児

宇都宮氏はこの間、2カ所目に勤めた事務所を去っている。サラ金問題の扱いが増え、宇都宮氏のもとには、生活に疲れ切った被害者が訪ねてくるようになった。さらには脅迫まがいの電話も業者から次々にかかってくる。「サラ金問題の扱いをやめないなら、事務所をやめてくれ」と通告された。独立したのは、83年。法律ができた年だった。

「国会で法律の審議が始まると、マスコミが詳しい識者を探し始めましてね。ところが構造問題を語れるのは、僕くらいしかいなかったんです」

さらに折しも執筆を依頼されて出した著書『サラ金地獄からの脱出法』がベストセラーに。まったく宣伝をすることなしに、独立した新しい事務所には相談が殺到した。

「私自身は1、2年で問題は収束するだろうと思っていたんです。ところが、サラ金問題というのは、日本の経済構造に深くビルトインされていた。だから、その後も、クレジット問題、商工ローン問題、ヤミ金問題と、形を変えて長く続くことになった。次にやるべきことを見つけないと、と思う暇もなかったんです。ただ、さすがにもう収束するでしょう。そろそろ私たちも、新しいタネを見つけないとね(笑)」

すでに次のテーマは走り始めている。貧困やワーキングプアの問題だ。3人に1人の非正規社員の給料は、正規社員の半分。年収200万円未満が1000万人を超えた。

「貧困、格差は今後、大きな問題になっていくと思っています。そしてこの問題は、多重債務問題よりもはるかに根が深く、広い。逆にいえば、それだけ大きなネットワークで一緒に戦っていける醍醐味もあるんですけどね。非正規、ホームレス、障害者、シングルマザー、外国人の支援者のネットワークなど、それぞれは決して強くない勢力ですが、多様な人と交流をしながら、問題にあたっていけると考えています」

背景にあるのは、グローバリズムであり、構造改革、規制緩和だ。だが、そこから落ちこぼれる人のためのセーフティネットがまったく考えられていない。日本はフレキシビリティのみで、国際化に対応してきたと宇都宮氏は言う。フランス、ドイツなどEU諸国には、フレキシキュリティという概念がある。セキュリティ、安全も同時に重視するのだ。

「貧困の問題をやってきてわかったことは、常に言い続けないと広がっていくということです。それが怖い。今は特に当事者の人に声を上げてもらい、社会に現実を知らしめていく必要があります。反貧困ネットワークは世界中に広がっていますから、今度は世界と連動しながらやっていくことも考えられます」

多重債務問題という大きな山を動かした宇都宮氏。貧困問題にも大きな期待が寄せられている。

「そもそも社会的弱者の味方になるのが、弁護士の本分だと私は思っているんです。弁護士法の第一条に『弁護士の使命は基本的人権の擁護と社会正義の実現』と書いてある。強者や裕福な人は自分を守れる。守れない人のために、弁護士はあるんです」

なんのために弁護士をやっているのか。そこをはき違えてはいけない、と宇都宮氏は言う。間違っても、高収入を得ることが弁護士には当たり前、などと考えてはいけない、と。

「そもそも弁護士は本来、そんなに儲かる仕事じゃないんです。僕はそう思っていますね」

むしろ、自分を犠牲にする必要がある仕事ではないか、と。

「私がサラ金問題に取り組んだときは、誰もやりたがらなかった。それこそ、三流の弁護士がやる事案だと思われていました。今、若い弁護士がいろんな問題を取り上げ、挑戦しています。そしてそれは、やがて社会的に注目される時期を迎えるでしょう。そうなれば、今は知られていない人も、あっという間にスターになっていくはずです。弁護士はそういうことをやるべきなんです。そして、そういうことができるのが、弁護士だと私は思っているんです」