Vol.73-74
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弁護士 菊地裕太郎

HUMAN HISTORY

これからの弁護士、弁護士業務はどうあるべきか—。一人ひとりが真剣に考え、新しい価値観を創造する時代を迎えている

菊地綜合法律事務所
弁護士

菊地 裕太郎

伸び伸びと文武両道に励んだ少年時代。早くからリーダーシップを発揮する

2020年3月末をもって、日本弁護士連合会会長の任期が満了。文字どおり多岐多端であった2年間、菊地裕太郎は、新しい弁護士の世界を見据えた舵取りに全力を尽くしてきた。「重責を感じながらも、大いにやりがいのある日々だった」と振り返る。一区切りついたところで改めて思い至るのは、「弁護士や弁護士会が担う活動フィールドの広さ、深さ、多様さ」。これからも司法の力をあまねく展開するべく、弁護士人生を懸けて精励したいと語る。

菊地が抜群のリーダーシップを有していることは衆目の一致するところだが、聞けば、それは生来のもので、少年期から一貫している。どのようなチームであれ、組織であれ、「気がつけばいつも真ん中にいた」菊地は早くからリーダーシップを発揮し、人をまとめ上げてきた。その過程で学び得たのは人間力を磨くことの大切さであり、菊地の弁護士としての信条もここにある。

弁護士 菊地裕太郎
菊地氏の執務室。常に今と未来の両方を見据え、「弁護士としての自分にできる社会貢献は何か」――そう考えてきた

故郷といえば、辺り一面に広がる田園風景が思い浮かびます。生まれたのは北海道伊達町の長流村(おさるむら)で、現在の伊達市長和町。もともとは秋田から祖父が一旗揚げようと北海道に渡り、根を下ろした地です。道内で最も暖かく、かつ土地は肥沃で、自然環境にはとても恵まれていた。うちは農家ではなかったけれど、近所で田植えや稲刈りを手伝わせてもらったり、当時は農耕馬がいっぱいいて、裸馬に乗って友達と野山を駆け巡ったり……まさに自然児として育ちました。

祖父は綿生産業を皮切りに漁業、林業、不動産業など、いろんな事業を興してそれなりに成功させていました。強烈な個性の持ち主で、いわゆる“ドン”的な存在だったと記憶しています。実は、父は私が生まれた3カ月後に病で急逝したのですが、祖父のおかげで暮らしはまあまあ豊かでしたし、家族も大勢だったから寂しくはなかったですね。

基本は野球少年で、運動は何でもござれ。陸上や柔道などにも精を出したものです。勉強も人一倍やり、評判になるくらい成績がよかったらしい。田舎でのことだから大した話じゃないですが……。まぁ優等生タイプだし、体も大きかったので、いろんな集団の中で習い性のようにボスになっていました。当時は受験校といっても限られていて、全道から優秀な生徒が集まる函館ラ・サール高校に進学したのは、ごく自然な成り行きだったように思います。

高校時代は面白かったというより、思い出としてはちょっとほろ苦いかなぁ。大学紛争華やかなりし時代で、少し遅れて飛び火していた函館ラ・サールも学園紛争の渦中にありました。僕ら8期生はけっこう暴れた学年です。仲間を放っておけないから、私もデモに参加したり、新聞部に入って檄文を載せたりしてね。停学者が相次ぐようになり、ついには学校から「3年生は12月より学校に来るに及ばず」とのお達しが出た。冬休みに入る格好で、そのまま卒業になってしまったのです。結果的に、最後になった集会の議長にかつがれ、私が紛争の幕引きの役目をすることになりました。

多感な年頃ですし、この頃に深く感じたのは、人は多様だということ。いろんな考え方があり、主義・主張も様々。それは当然として、問題なのはそれをどう行動に表すか、動くかで、その時に重要になるのは、感情とか理性とかという人の性格だと考えたのです。頭以上に、やっぱり人間は人格というものを絶えず鍛えていかなければならないと。ある意味、私の原点となった時代かもしれません。ちなみに後日談ですが、そういうわけで僕らの代は卒業式がなかったので、皆が還暦を迎えたタイミングの同窓会大会で、高校卒業式を行ったんですよ。同期会自体は1年も欠かさず続けていますし、今も結束は固いです。

その後、菊地は1年浪人して東京大学法学部に進学。法曹への道を意識していたわけではなく、文系だった菊地が半ば消去法的に選んだ先だ。「いわゆる潰しがきくと思ってのことで、法律家になって世の中を……というような高邁な理想はなかったんですよ、残念ながら(笑)」。ただ、東京に出たいという気持ちは強かったという。

「井の中の蛙大海を知らず」ではね。やっぱり、田舎を出て乗り込んでみたかった。とはいえ、こっちは女性とまともに話したこともないような学生でしたから、田舎者のコンプレックスは、長く今でも心の片隅に巣くっているような気がします。

入学してから始めたのはワンダーフォーゲル。山なんて経験がないのに、「ハイキングだよ」と友達に誘われ、断れずに入部したんです。ところが、そんな軽い話ではなく、本気でやるとすごくハード。始めた以上はと、年間100日くらい山に入っているうちにはまってしまいました。大学を休む日が増え、当然、授業にもついていけず……。ただ、ここでも「お前だよな」と推されて主将を務めたことで、ものすごくいい勉強をさせてもらった。ワンゲルというのは、まさにマネジメントの世界。最多130人の部員たちの様々な個性と危険が隣り合わせにある中で、安全に部員をどう動かしまとめていくか、考え学ぶことが多かったですね。

主将の任を終えた4年生の秋のこと。今も忘れられない遭難事故が起きました。南アルプスで高山病を発症した部員が出たのですが、ひどい暴風雨により動かせない状態になってしまったのです。私は救出の総指揮にあたるために大学の一室に本部を置いて泊まり込み、OBの医師や物資を送り込んだり、大学・父兄の対応にあたったり、それはもう必死の救出活動に追われました。

最後は、自衛隊のヘリコプターで救出することができたんですけど、実は一方で、別の問題が起きた。折り悪く卒業試験とタイミングが重なっていたので、救出にかかわった卒業予定の部員が試験を受けられなかった。就職にも影響が出るから父兄としても一大事です。何とかしようと、教授たちに事情を説明し、追試やレポートなどで事なきを得たという話。いかに多くの方々に支えられていたかを実感し、今にすれば貴重な経験、まさに人生勉強となりました。

法がいう正義とは何かを考え、近づくこと。仕事をするうえでいつも心がけてきた

修習時代の師の言葉に感銘を受け、弁護士の道へ。礎を築いた5年の修業期間

就職については引く手あまたで、菊地にも“普通に勤める”考えはあったそうだが、「気がつけば卒業に必要な単位が足りていなかった(笑)」。勢い留年することとなり、勉学に戻ろうと思ったのは、くだんの遭難騒ぎの後のこと。この時、「どのみち法律を勉強するなら」と初めて司法試験を意識した。6年間の在学を経て、菊地が司法試験に合格したのは大学を卒業した翌年、1978年のことである。

学生課からは「運動部の主将がまともに卒業するなんて、ほとんどないから。まぁ、ゆっくりしていきなさいよ」なんて言われてね。授業料もかなり安い時代でしたし、ほかの連中なんかも、これ幸いと留年していました。ただ、田舎の親にしてみれば、留年ではなく“落第”という感覚だから、聞こえが悪いでしょう。あくまでも「司法試験のために留年します」という“意志を持った”話にして、学費を出させたというわけ(笑)。実際、司法試験を目指して留年する人も多かったんですよ。

勉強には一気呵成に臨んだけれど、性格的に、私は受験勉強一色の生活なんてもたないだろうと。それで、5年生の春に学生結婚しまして。妻は、先述の救出活動の際に、一緒に懸命に頑張ってくれた同窓の女性です。受験生の身ではありましたが、親も理解を示して喜んでくれました。彼女は卒業してバリバリ仕事をしていましたから、世話にはなりましたよね。司法試験に合格した時には、すでに子供も生まれていたので、さすがにほっとしました。

法曹三者の中、弁護士になると決めたのは司法修習に入ってから。教官から検察官や裁判官にと強く誘われたりもしたのですが、この選択には、弁護実務修習先での最高裁判所判事も務められた弁護士・本林譲先生の存在が大きいです。ずいぶん可愛がっていただいて、たくさんのお話を聞き、弁護士として道を歩もうと決めたのです。

「負けるべき事件にうまく負け、勝てる事件にうまく勝つ。ここに弁護士の醍醐味があるんだ」。本林先生のこの言葉がすごく印象的でした。なるほど、含蓄があるなぁと。「勝つべき事件ではないのに勝って、威張るのは褒められたものじゃない」ということも、よく話されていました。また、勝てる事件でも、ただ勝てばいいのではなく、相手のことやその後にどうなるかを見据えた“うまい勝ち方”があるとも。勝つも負けるも“うまく”が要で、難しいけれど、ここに弁護士の一番のやりがいがあるのだと教えてもらったのです。

先述したように、高校生の頃から人間力というのはどこからきて、どう鍛えていけるものなのか、そんなことを考え続けてきました。ゆえに私にとっては、先生の話に感じるところがあったというか……。いわゆる人情の機微に通じて、それを自分の強みにできる職業というのは弁護士だろうと思い至ったわけです。

修習時代より本林弁護士の事務所で世話になっていた菊地は、81年、そのまま「本林・青木・千葉法律事務所(当時)」に入所。勤務弁護士としてスタートを切り、実務を担う青木、千葉両弁護士について修業を積んだ。「おおらかな事務所で、自由に伸び伸びと任せてくれた」と当時を振り返る。

初めの頃は国選弁護の刑事事件をたくさん担当しました。印象に残っている事件は挙げるとキリがないのですが、その一つが無銭飲食の事件。刑務所を出てきたら、その日のうちに無銭飲食で逮捕されたという被疑者で、私が面会に行っても「確かにやりました」と言う。公判廷でも起訴状内容に対して「間違いありません」と本人は認めるんだけど、一貫して支離滅裂で何かおかしい。私としては確信が持てなかったので、認否を留保しました。10件以上の前科で簡易鑑定があるはずだから、その証拠開示を検察に求めたのですが拒否。ただ、幸いにとてもいい裁判官で、法廷での被告人の挙動不審な様子から、提出を検察官に求めてくれた。案の定、多くの記録が出てきましたが、いずれも責任能力あり。そこで、被疑者のお姉さんなどいろいろあたり、精神鑑定を求めた結果、採用されました。そして、1年ほどかかりましたが、松沢病院から「心神喪失である」という鑑定が出た。しかし、今度は検察官が東大の高名な教授に再鑑定を申し立ててと、話はどんどん大ごとになっていきました。

で、さらに再鑑定を実施すると、今度は「責任能力あり」です。納得のいかない私は、「鑑定人を呼んで尋問させてくれ」と食い下がりました。その準備のために、図書館に行って医学書を読みあさり、最後は鑑定人を尋問でかなり追及して、なんとなく認めさせたような……。被告人は心神喪失で無罪となり、即強制入院となりました。証拠開示というものも定着しておらず、過去の国選事件でも見逃されてきた日本の刑事裁判の遅れを痛感しました。

また、離婚した夫婦の子供の親権を巡る紛争にかかわったこともあります。家裁の調査官の判断をもとに、3人の子供たちのうち長男が父方、2人の姉妹が母方に分かれて引き取られるとの審判がなされました。私の依頼者は父親で、相手方の弁護士にもお願いされて引き渡しに立ち会ったのですが、もう修羅場。祖母が子供たちを引き渡さないと言い張る中、母親の声を聞いた姉妹が雪の中を裸足で脱出。私は姉妹を追いかけようとする祖母の体を押し止めました。これでよかったのだろうか……。家裁調査官もよくよく考えてのことでしょうが、子供にとっての正義って何だろうと、すごく考えさせられました。

勤務弁護士時代の5年間は、間違いなく私の礎となっています。どのような事件でも、依頼人の本当の希望を見極め、内なる思いを汲み取り、どう解決に導くかを考え抜く。そして、事件の方針に迷った時は「正義はどこにあるか」、つまり自分の考える正義を貫く。これは、ずっと仕事をするうえで心がけてきたことです。

その時々において画期的で、社会的にも意義のある活動をするのはやりがいがある

独立して次なるフィールドへ。チャレンジに情熱を燃やし、活動領域を拡大していく

弁護士 菊地裕太郎
まだ形づくられていないビジネスに、画期的な法的枠組みを考案・企画し、当てはめ、市場創出の後押しをする。そんな仕事に醍醐味を感じるという

「修業期間は5年」と決めており、菊地は事務所に入所する時に、その旨を伝えていたそうだ。そして実際に5年経過後、強い慰留に応えたい気持ちはあったものの、初志どおり独立を果たす。「菊地綜合法律事務所」の開設は86年。狭い事務所ながら東京・銀座でスタートを切り、順調に取り扱い業務を拡大してきた。その背景には、常に先を見据える目と、新しいことに対する旺盛なチャレンジ精神がある。

事業計画というほど大げさなものじゃないけれど、だいたい5年タームで自分を検証したり、目標を設定したりしてきました。時代も経済・社会も常に変化するでしょう。伴って法的需要も変わってくる。これからの新しい法分野としてどこに着眼するか、何に特化して専門とするかといった選択は非常に重要です。そして学び、研究し、スキルを磨くということをしていかなければならない。いわゆる従来型の事件というのは“固まり”としてあって、判例や処し方もやはり固まっています。それ以外のプラスアルファは何だろうということを、5年単位で考えてきたわけです。

例えば、知財や不動産証券化は、本格化する前から取り扱ってきました。あと民事再生も。民事再生法が施行されたのは2000年ですけど、ちなみに、うちが申し立てた案件は東京地裁第2号でした。当時いたイソ弁が「やったことがありません」と困り顔をしていましたが、「当たり前だ。やったことのある人なんていないんだから」という話です(笑)。

民事信託や不動産信託もそうですね。民事信託を絡めた再開発事業の不動産証券化であるとか。現在でもうちの事務所で取り扱いが大きいのは、不動産・建設関係です。都市再開発、区画整理事業をやって、どういう街づくりをしていくか。その中、新しいスキームで不動産を証券化していくのは、今でこそ珍しくもない話ですが、当時、走りの頃はすごく面白かった。関係者皆でアイデアを出し合って、議論して、契約書なども一からつくって。私は、そういう新しいチャレンジに興味があるというか、燃えるんですよ。

最近の話には、私自身はもうついていけませんが、ベンチャーのような新しい試みに対して、リーガルはどこまでついていけるか――法律は、なかなか現実には追いついていません。例えば、自動運転も研究が進んでいますが、法律についてはいまだはっきりしませんし、宇宙法というのもまだまだ模索中。そこで対応できる弁護士はいるのか? 存在していたとしても層はまだまだ浅いようですね。これからの様々な事象に対する法律、法律家のアクションが求められているように思います。

一説によると、法律業務の3分の1はAIがカバーできるとか。実際、昔は判例一つ調べるのにも大変でしたが、今はワンタッチ、隔世の感があります。関連法規なんかもバーンと出てくるし。手間がなくなったぶん、余った時間をどうするか……甘んじていれば、時代に遅れを取るでしょう。その時間を創造的な分野に集約し、能力を費やし、研究していく。そういうことをやっていかないと。それが、これから求められる弁護士の姿でしょうね。

他方、会務活動に目を向けると、菊地は早く新人の頃から積極的に携わっている。影響を受けた本林弁護士が日弁連の事務総長を務めていた経緯もあり、菊地にとっては極めて自然なことだった。東京弁護士会、日弁連において人権擁護、法曹養成、司法改革、行政連携、活動領域の拡大など、多岐にわたる活動を中心となって推進してきた。そのエネルギーの源泉にあるのは、「社会の広範かつ多様なニーズに的確に応えるために、司法の活動の輪を社会の隅々にまで広げたい」という思いだ。

初期の会務活動として印象に残っているのは、25年前、東弁の若手弁護士の集団である法友全期会の代表の時で、「学校へ行こう!」という企画を始めたこと。若手ならではの機動力を生かして、法曹界の外に活動の場を広げた実践活動の一つです。若手弁護士が中学・高校に出向いて出張授業をするもので、生徒と一緒に模擬裁判をしたり、司法の役割や弁護士の日常などを伝えたり。今でいう「法教育」の走りで、東弁の法教育委員会が立ち上がるきっかけになりました。その時々において画期的で、社会的にも影響力のある活動をするのは、やはりやりがいがあるものです。

よく言っていることですが、会務活動というのは人間力を鍛える格好の機会なんですよ。弁護士って唯我独尊的なところがあるから、基本、孤独でしょう。それを好むというか、端的に言えばわがまま(笑)。企業の勤め人ならば、上下左右に人間関係があり、多様な価値観にも囲まれ、否が応にも自分の人間力を鍛えていける環境がある。「時間がない」「儲からない」と会務を敬遠し、事務所にじっとしていて仕事を待つというのはどうなんでしょう。やっぱり自分を鍛えてなんぼ、自分で仕事を取ってなんぼ。その一番の近道が会務活動だと、私は思っています。仲間がいて、人間性にあふれている。そういう“道場”を自ら手放してどうするんだ!と、本当は声を大にして言いたいところですね。

以前、法務研究財団で「弁護士の質とは何か」という研究をしたことがあります。50人ほどの著名な弁護士、元検察官、元裁判官にヒアリングをし、共通したエッセンスを抽出したところ、出てきた項目は5つ。「法的知識」「創造力」「公益活動への意欲」「人格識見」「マネジメント力」です。これをレーダーチャートにして、今、自分がどこの位置にいるのかという検証を定期的にやってきました。私の場合、気がつくと公益活動への意欲がどんどん大きくなってきたという……本当は、これら項目の値をバランスよく大きくしていくのが理想なんでしょうけど。

社内の隅々まで司法の活動の輪を広げる。それが、私の変わらないコンセプト

社会の隅々まで司法の力を。日弁連会長として活動に全力を尽くす

弁護士 菊地裕太郎
現在、所長の菊地氏を含めパートナー弁護士7名、アソシエイト弁護士5名、客員弁護士1名および、パラリーガル・事務スタッフ7名で業務にあたっている

途切れることなく会務活動に力を注ぎ、13年には、東京弁護士会会長ならび日本弁護士連合会副会長に就任。そして周知のとおり、18年4月、日弁連の会長として頂に立つ。選挙では、過去最多の1万3000票を超える得票と、全単位会の支持を得ての当選となった。チームや組織を好む菊地は、徹底して現場の声を聞き、マネジメントし、人と意見をまとめ上げるというスタイルを貫いてきた。「それをパワーに変えていく作業が性に合っているし、どんなに大変でも、やりがいがあって楽しいのです」。

人権擁護と社会正義という、弁護士法第一条にある使命を血肉にし、社会の隅々まで司法の活動の輪を広げる。それが、私の変わらないコンセプトです。日本の司法はあまりにも小さいですよ。司法過疎の問題もそうですし、顕在化している格差社会の問題などにおいても。司法の世界でもっと力を蓄えて、少しでもいい世の中にできないだろうか――。司法が持つ力というのは、一般の方々が考えているよりよほど大きいと思っているので、それを示し、広い展開を図りたいというのが私の思いなのです。

日弁連会長に就任して以来、様々な問題に直面してきましたが、この2年間、それなりに結果を出し、乗り越えてきたという思いがあります。振り返ると、真っ先に思い浮かぶのは災害対応です。18年には西日本豪雨や北海道胆振東部地震が発生し、翌年には台風15号・19号による広域の豪雨災害が発生しと、厳しい状態が続きましたからね。直ちに災害対策本部を立ち上げ、日弁連としても財務面を含め、電話相談、情報の提供などの支援に努めましたが、被災地で災害復興支援に取り組む弁護士、弁護士会には本当に頭の下がる思いです。自然災害による被害は甚大さを増していますし、今も社会は新型コロナウイルス禍で大変な状況にある。言うまでもなく、災害対策は常に最重要かつ急務な課題。会員一丸となって、法的支援を通じて、市民とともに何としても乗り越えていかなければなりません。

次に、民事司法制度の改革です。ずっと動いてはきたのですが、これは政治マターにしないとどうにもならない。政府・与党に働きかけ、民事司法制度改革に関する関係府省庁連絡会議が開催されるに至ったのが19年4月。ついにというか、やっとです。この連絡会議で協議を重ね、課題として取り上げられたのは大きく4つ。「司法の国際化」「知的財産訴訟の活性化」「法テラスの拡充」「裁判のIT化」です。民事司法制度改革の第一歩を踏み出したわけで、これで一挙に進めるぞと心躍りました。

国にしても、これは危機感の表れなんですよ。例えば「司法の利便性」。18年の世界銀行ビジネスランキングによると、日本はOECD加盟国の中で23位、国際的な評価が非常に低いわけです。事実、民事裁判手続きのIT化の遅れを筆頭に、司法の国際化にしても、知財にしても、日本が出遅れているのは確かです。国を巻き込んでの改革がようやくスタートしたところ。今後は着実な政策実現を目指して、日弁連としても全力で取り組むことになります。

挙げきれないほどの施策において、菊地が任期中に実現させたものは少なくない。例えば、待望されていた国際仲裁・調停の審問施設がオープンに至ったこと。また、欧米では司法制度として確立されていながら、日本で認められていなかった依頼者と弁護士との「通信秘密保護制度」を、独禁法分野に限ってではあるが一部導入を実現。いずれも日弁連の粘り強い活動が実を結んだものだ。「実現できたこと、やってきたこと、力が及ばなかったこと」――菊地が今、改めて思うのは、日弁連の活動フィールドの広さである。そして、その一つひとつに社会的な意味があり、社会から期待されているという深甚なる思いだ。

次年度に引き継ぎたいことが多々ありながらの任期満了となりましたが、とにもかくにも無事に職務を全うすることができた。まずは、活動を理解し、支援してくださった方々に感謝の気持ちを伝えたいです。これからは、もう口出しできる立場ではないので(笑)、求められれば裏方として支えていきたいと思います。

そして、私のミッションとして考えているのは、次代を担う若手弁護士の支援。ずいぶん前の話ですが、ある若い先生から「生涯バランスシート」なるものを見せられましてね。何かというと、大企業のサラリーマンと弁護士の平均的な生涯年収を比較したもの。弁護士のほうが低く、投下資本や労働量からすると「ワリに合わない」と言うわけです。しかし、そのバランスシートには「のれん代」じゃないけど「やりがい」という項目がなかった。自治の下で、まさに人権擁護、社会正義の実現を目指して好きな分野で活動できるという、目に見えない付加価値があるんじゃないかと。数字を凌駕する魅力ある仕事だということをどう伝えていくか、法曹志望者が減る状況において極めて重要な課題です。

これからの弁護士がどうやって生きていくか。AI・IT化を境にしたこれからの弁護士業務のあり方を、若い先生たちとディスカッションしながら“新しい弁護士像”を求めていきたいです。弁護士法第一条こそ、我々の精神的支柱であり拠りどころですが、言い古されたお題目のままにしてはダメで、多様化した社会と変革する司法の中にあって、その新たな意味づけを探っていく必要があります。弁護士のミッションの中に新しい価値観を創造していく、若い先生方の考える力に私は期待していますし、応援していきたい。

ただ、それにつけても本質的に大切なのは、自分を磨くことです。頭と心を磨くこと。頭についてはプロフェッショナルですから当然のこととして、付加するべきはやはり心。つまり、再三言葉にしてきた人間力です。人の立場に立って心を読み解き、物事を考え、そこから公正・公平な解を見いだしていける高い人間力。磨くには仲間や本当の友情が必要ですから、そういうベーシックなことを大切にするべきです。それを頭と心の中心にドンと据えて、長い弁護士人生を歩んでほしいと思いますね。

※本文中敬称略
※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。