Vol.86
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弁護士 浅岡 美恵

HUMAN HISTORY

複数の大事件にかかわったことで成長でき、スキルも磨けた――。今、地球規模の問題意識を胸に、「気候変動訴訟」に取り組む

浅岡法律事務所 弁護士

浅岡 美恵

理科系科目が得意で、医師になる夢もあったが血を見るのが苦手で断念

弁護士1年目からスモン訴訟にかかわり、その後、水俣病訴訟などの公害問題、豊田商事事件など消費者問題に対峙してきた、浅岡美恵弁護士。現在は、認定NPO法人気候ネットワーク理事長として、市民セクターから地球温暖化防止に取り組む活動にも注力している。その間、京都弁護士会会長、日本弁護士連合会副会長など会務にも尽力するなど、半世紀におよぶ弁護士人生を走り続けてきた。また、京都のマチ弁として、一般民事事件ではほぼ負けなし。確かに勝負強い人である。当時は進学校とはいえない地方の高校から京都大学法学部に現役合格、司法試験も大学4年次に一発合格。そんな浅岡は、「私、負けない弁護士なのです」と明るく笑う。

生まれは徳島県、父は公務員で、3人姉妹の長女として産声を上げました。戦争が終わってまだ間もない頃ですから、七輪で煮炊きしていた時代です。なぜか子供時代のたまごの値段を記憶しています。長い間、ほぼ同じ値段で「物価の優等生」だったんだなぁと、あらためて思いますね。

父の転勤によって、小学校高学年からは香川県の高松市で過ごし、中学での部活はブラスバンド部でした。学力テスト導入をめぐる紛争で、先生たちが反対して座り込みをしている光景を覚えています。高校は県立高松高校に合格したのですが、入学前に、今度は高知市に転勤することに……。さすがに高校生の独り暮らしはできず、家族で引っ越しをして、「同じ公立だから」ということで、高知県立追手前高校に転校になりました。

今、追手前高校は、公立では進学校ですが、当時は荒れていましてね。男子はラッパズボン、女子はロングスカート、卒業までに50人くらいが退学していく……そんな学校でした。環境の変化にショックを受けましたが、今思うと、高松高校であれば受験勉強一色の3年間を過ごしていたでしょう。追手前高校でのんびりできてよかった。何人も仲よしの友達ができましたし、文芸部での活動も楽しい思い出です。

女性の就職口がほぼなかった時代、弁護士しか自分が望む道はなかった

両親から進路について特に言われたことはなかったが、女性の社会進出が今とは比較にならないほど厳しかった時代、医師くらいしか職業イメージがなかったという。しかし、血を見るのが苦手、最終的に自分には向いていないと断念した。教師から、「ここがいいのでは?」と勧められたのが京都大学法学部。結局、浅岡は、この1学部しか受験しなかった。

やっぱり西に住んでいると東京は遠いし、ちょっと怖い。京都には憧れもあったのでここでいいかな、と(笑)。当時の法学部の定員330人のうち女性は8人でした。学部選択は、法学部に入っておけば“つぶしが効く”という消極的な理由でした。

はかま姿に憧れて、入学後すぐに弓道部に入部し、2年間ほぼ毎日、道場で過ごしました。東京まで遠征しての東京大学との対抗戦や、夏休みの八ケ岳での合宿も楽しかったですね。ちなみに、工学部の夫ともこの部活で知り合っています。

教養時代は銀閣寺の門前に下宿して、観光客の声で目を覚ましていましたが、3回生になって学部に上がると、司法試験の勉強をするサークル「さつき会」に入れてもらい、下宿も法然院の近くへ。司法試験を受けようと思った理由は単純です。法学部の女性の就職が困難だとわかったから。一般企業からの女子学生の求人はほぼゼロ。そうなると、公務員試験か司法試験を受けるしかない。ただし、試験合格と採用はまた別問題です。公務員試験上級に合格しても、労働省(当時)の婦人少年局以外は採用されていませんでした。50年前の日本社会は、まだそんなものだったのです。

しかし、3回生の年末頃に、東京で始まった学生運動が京都にも飛び火し、激化し始めました。大学の時計台が封鎖され、火炎瓶が飛び交い、学部棟はバリケードが築かれてロックアウト状態に。授業ができなくなり、試験もすべてリポート提出です。4回生になっても休講が続き、残念ながら卒業式もありませんでした。

今のように司法試験のための予備校もなく、過去問があった程度の時代です。さつき会の先輩方には、いろいろ教えてもらい、助けていただきました。結果的に4回生の時に合格しましたが、全国的な紛争時代と先輩・同輩の皆さんのおかげ。自分だけでは合格できなかったと思います。

大学卒業後、2年間の司法修習は本当に楽しかった。京都御苑にある仙洞御所などなかなか入れない場所や南座の歌舞伎の顔見せに連れて行ってもらったり、裏千家で茶道に触れたり。あと、電車の運転席に乗せてもらったり(笑)。まさに教養修習。裁判官や検察官になる人も一緒の合同修習は、後々の交流の基礎にもなっています。

弓道部で一緒だった夫は、私の司法修習修了後、京都大学大学院で博士課程に進む予定でした。結婚を考えていたので、私もそのまま京都で職場を探していたのですが……女性を雇ってくれる法律事務所がほとんどないのです。子供が生まれたらという問題もあるので、やはり女性は採用しづらかったのでしょうね。

弁護士 浅岡 美恵
京都市中京区、柳馬場通沿いの静かな町中に事務所ビルを構える。裏手にある自宅の中庭が見える執務スペースが浅岡氏の仕事場である

弁護士になって1年目、スモン訴訟に参加。ビラを配り、座り込みも

当時の日本は経済成長のゆがみが生んだ、様々な問題が露呈してきた時期で、公害訴訟があちこちで提起されるようになる。修習期間中、イタイイタイ病訴訟や森永ヒ素ミルク中毒事件などの事件に触れているうちに、弁護士を志すようになったという。2年間の司法修習のうち1年4カ月を京都で過ごし、司法修習を終えた1972年、京都の川越法律事務所に入所する。

ちなみに、京都弁護士会に登録した女性弁護士は私が5人目でした。川越事務所に入所したのは正直、選択の余地がなかったからです。川越庸吉弁護士は、京都大学の先輩で、日弁連会長を務めた大阪の阿部甚吉弁護士の事務所に何年かいて、「知り合いが多いから京都で開業することにした」そうです。最高裁判事になられた滝井繁男先生と同窓で、よく来られていました。ともあれ、採用していただいたことだけで、本当にありがたいお話だったのです。

弁護士 浅岡 美恵
取材を行ったのは7月末の猛暑日。事務所から徒歩5分足らずの京都地方裁判所まで案内いただいた。急ぎの時は自転車で裁判所まで行くこともあるそう

刑事事件も国選で少しやりましたが、川越事務所はもっぱら民事事件が中心。川越先生は敏腕弁護士で、彼から一般的な民事事件の要諦を学ばせてもらい、仮処分の積極的な活用など、独立後も非常に役に立ちましたね。また、1年目から京都のスモン訴訟にかかわるようになりました。少し上の先輩たち、といってもせいぜい弁護士3、4年目の先輩ですが、「弁護団を結成するから、君も」という感じで声をかけていただいたのです。残念ながら川越先生は、私が独立した数年後に亡くなられました。

スモンとは、エンテロヴィオフォルムなどの名前で下痢止めに販売されていたキノホルム剤が、脳脊髄視神経などに神経障害を引き起こした疾患名です。販売が中止された70年8月までに患者は全国で2万人以上、死者は500人以上といわれ、イタイイタイ病訴訟を経験した弁護士たちが先導役になり、72年以降、全国30カ所以上の裁判所で提訴されました。京都でも200人を超える原告がいて、同期から4人の弁護士が参加。私もその一人に加えていただいて、主に「責任論」を担当し、患者さんたちとの窓口も担いました。

スモン訴訟とのかかわりが、浅岡に入所3年での独立を決意させる。川越事務所の方針はおおらかで、業務に差し支えなければOKと言われていたが、スモン訴訟に割く時間が一気に増えてきたのだ。「自分で時間調整できるほうがいい」との判断からの独立だったという。そして、現場で見た患者たちの姿はすさまじいものだった。

京都には私とほぼ同じ年齢の男女、2人の重症患者さんがいました。スモン病は視神経障害や四肢に運動・知覚障害をもたらします。中高生の頃に発症した男性は全盲で、立つこともできなくなっていて、女性のほうはまったく起き上がれず、手も動かせなくなって寝たきり状態……。そういう患者さんたちと家族が生活もままならない状態で放置されていたのです。何ができるのかよりも、自分ができることをしなくては、という思いがふくらんでいきました。

事件自体は起こるべくして起こった事件といえます。その神経毒性から、米国では61年の時点でキノホルム剤の使用をアメーバー赤痢に制限していました。日本ではその頃からキノホルム剤が一般の下痢止め剤として大量販売されるようになり、被害者が急増。当時の日本で役立つ法は民法709条のみという、ある意味で無法地帯でした。高度経済成長時代に入り、公害や消費者被害など、様々な問題が起きているのに立法がまったく追いついていなかった。古い業法の下で、「法に従っており適法」と、事業者たちのやりたい放題だったのです。スモン事件も、実態は安全性を欠いた欠陥商品の問題、製造物責任の問題ですが、民法709条の下では、事件を起こした被告側は楽です。過失・因果関係の主張立証責任はすべて原告側にあり、「では、証拠を」と言えばよいのですから。

責任の立証のために、先輩弁護士たちから事実調査の重要性を教わりました。しかし、裁判所に一歩踏み出した事実を踏まえ、既存法の解釈適用をさせるために、世論を盛り上げる必要がありました。100人、200人という被害者をどうやってまとめ、その姿をどう社会に見せていくのか。世論を動かすためにビラをつくったり、配ったり、様々な団体に協力要請にも行きました。さらには、厚生省(当時)の前で100日間の座り込みも。「それも弁護士の仕事なの?」というような話ですが、当時はこれぐらいやらないと、被害者たちは泣き寝入りするしかなかったのです。

被害を知り、何ができるかではなく、できることはしなければと思った

スモン訴訟の次に水俣病訴訟に加わり、チッソを追い込む

スモン訴訟は83年頃、投薬証明がない患者も含めて京都の約220人の原告が司法上の解決にたどり着き、85年頃には、全国6000人の原告の紛争もほぼ解決した。一方、スモン訴訟の弁護団の中で、いまだ困難な状況にある水俣病訴訟を支援しようという動きがあり、浅岡もここに参加することになる。国を被告とする第三次提訴が始まったところだった。京都の弁護団は、仕事を求めて水俣から関西に出てきた患者を掘り起こし、京都地裁に提訴する。最終的に、原告は100人に上った。

不条理が山ほどあった時代です。積極的にこうした事案にかかわったというよりも、一つの大きな山を越えた時、目の前にまた別の問題が見えてくるという状況でした。水俣病訴訟は69年から始まっています。56年、4大公害訴訟の最初に確知されたにもかかわらず、提訴が最後になったように、その歴史は苦難の連続。働く場を失い、県外に出た患者さんたちのほとんどが認定申請をしていませんでした。移住先で医師に水俣病を理解してもらえない、認定申請の方法を知らない人もいたし、知っていても差別や偏見にさらされ、職を失ったり、また子供たちの将来を案じて病気を隠す人もいたり……。救済とはほど遠いところで多くの患者さんが放置されていたのです。

第一次訴訟でチッソの責任は確定していましたが、私は、58年に水俣病の原因として有機水銀説が浮上した時、チッソが使っているのは無機水銀と反論し、結果として68年まで操業を続けてきたことが気になっていました。調べると、国やチッソがなしてきたことの一つひとつが犯罪的でした。

この訴訟で私に功績があるとすれば、ドイツの労働衛生学者ツァンガーの30年の論文を発掘したことでしょうか。チッソはドイツからプラントを輸入して32年に操業を始めたのですが、実はそのはるか前に、アセトアルデヒト製造工程で触媒の無機水銀が有機化し、工場労働者に有機水銀中毒をもたらし、労災認定と防止対策もとられていたことがわかりました。

ところがチッソは、有機水銀を海に垂れ流し続けたばかりか、“世界の化学業界では常識”であった有機水銀の副生に触れず、「うちは無機水銀しか使っていない」と言いたて、59年末に患者に見舞金契約を押し付けたのです。訴訟でも、日本には証拠のほとんどを保有する企業や国に開示させる制度がほぼありません。そこで、被告らは他原因の主張まで持ち出して因果関係を争い、話を複雑であいまいにしてしまい、対策がとられないまま被害が拡大していく。この構造は今もあまり変わりません。80年代には日本は先進国の一員とみられるようになってきましたが、つくづく成り上がりの国、人権途上国だと思います。

要は法の欠缺なのです。今でも、世界に目を開けば、いかに日本の法律が事業者に好都合にできていて、被害者に不都合にできているか……被害を生みやすく、被害に気づきにくく、救済も困難な状況に陥らせるものであるのかがわかります。問題の現れ方は多様ですが、先進国としての基本的な人権の考え方も、事業者のあり方も、国際水準レベルになっていないし、それを改めていく政治の風土も薄い……。目先の有機化学産業の維持のために原因究明を妨害し続けた国やチッソ、その代弁者となってきた研究者らの責任は重大です。結局は、日本の経済力も減退させていくでしょう。

ところで、ツァンガー論文に出合うまでの作業自体は非常にシンプル。電子的データベースがない時代でしたので、毎日のように京都大学の医学部図書館に通って目録を繰り、水銀関連の論文を探しました。加えて、めぼしい論文を国内各地の図書館から集めることができました。困難だったことといえば、論文のほとんどが欧米のものだったので、辞書を片手に読み解く必要があったことでしょうか。

スモン訴訟で全国のすぐれた弁護士たち、特に豊田誠弁護士、松波淳一弁護士から学んだことは、事実調査が弁護士の“基本の基”であること、井戸を掘るように調査を尽くすという仕事の進め方です。これは、水俣病訴訟でも生きました。私の前の世代は、調査がもっと困難な時代です。それを切り開いてきた当時の最先端をいく弁護士の先生方と仕事ができたことは、私の宝物であり、得がたい経験となりました。

スモン訴訟は約8年、水俣病訴訟も約10年かかわりました。大きな訴訟、難しい訴訟に対峙することは弁護士としてのやりがいですし、多様なスキルも習得できます。それもあってか、個々の民事事件でも私はほぼ負けない弁護士(笑)。普通はこの立証は難しいという事件でも、たいていは負けない解決をしてきましたから。

弁護士 浅岡 美恵
通常の弁護士業務に加え、NPO法人気候ネットワーク理事長としての活動など、今も忙しい毎日を送る浅岡氏。事務スタッフ3名が、彼女の仕事を支えている

「気候変動は人権問題」が世界の常識。司法とは何か、日本は問われている

国際会議参加で目覚める。気候変動問題は人権侵害、NGO活動と二足のわらじ

92年に開催された地球サミット(環境と開発に関する国際会議)への参加がきっかけとなり、次に浅岡は気候問題にかかわっていくことになる。サミットの開催地、ブラジルでの経験で環境破壊の現状に危機感を覚え、地球温暖化防止のために市民の立場から提案、発信、行動する認定NPO法人気候ネットワークも設立した。現在も弁護士活動との二足のわらじで理事長を務めているが、「実は、少し後悔していることがあるのです」と言う。それは何か?

水俣病患者たちが地球サミットに参加した主な理由は、水俣病の解決を日本政府に迫るためでした。水俣病患者たちが放置されてきたのは日本の端っこ、熊本の端っこで起きた事件だったから。これが東京や大阪で起こっていれば、違っていたかもしれません。72年、スウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開かれ、その場で胎児性水俣病患者さんが惨状を訴えました。それから20年経ったにもかかわらず訴訟が続いている。水俣病の問題を全国的な関心事にするために東京や関西などで訴訟を起こし、さらにこれを世界の視点から国に解決を迫ろうとしたものです。

またその頃、アマゾン川はゴールドラッシュにわいていて、水銀を使った砂金採りの影響が懸念されていました。金の精錬のために水銀を蒸発させて川に垂れ流していたんですね。水俣の経験が役立つのではないかと、医師の原田正純先生と現地へ。リオ会議が始まる前に1カ月ほどアマゾン地域やブラジル各地に滞在し、現地の研究者との交流もでき、環境と生態系の関係を真剣に考える機会となりました。そして、気候変動問題と向き合うことになるのです。

公害の問題は、ローカルといえばローカルです。例えば水銀で汚染された水俣の海も、対策を講じ、10年、20年と経過すると、それなりに改善していきます。でも、地球温暖化の問題は、一旦その影響が顕在化し、地球規模で深刻な事態になると、もう取り返しがつかない。世界の科学者たちは気候変動の問題の危機的なタイミングが迫っていることがわかっているため、警鐘を鳴らしているのです。水俣病問題はすでに大勢の人々がかかわっている。アマゾン水銀汚染への支援で私の役目は終わったと思えてきたため、気候変動の問題にシフトし、注力していくことを決めたのです。

現在では、世界の平均気温は産業革命前から約1.2℃上昇しています。世界の累積排出量の増加が大気中のCO2濃度や気温の上昇とほぼ比例しており、科学者たちは今後の温度上昇とその影響をかなりの精度で予測して私たちに示せるようになりました。グテーレス国連事務総長はこの夏、“地球沸騰”の時代に入ったと宣言しました。「猛暑や豪雨、干ばつなどが激化する。被害を最小化するために、世界でCO2排出を削減し、ゼロにしていく」ことが不可欠で、そのための交渉が続いています。

政治交渉が続けられる一方で、危険な気候変動は人の生命や健康、生活基盤にかかわる人権問題との認識が、世界で広まってきました。22年の国連総会では「清浄で健康的かつ持続可能な環境を普遍的な人権とする決議」が採択されています。

これまでは難しかった因果関係の証明も、アトリビューション・サイエンスの進展によって、今年の世界的猛暑は温暖化がなければ起こりえないことが証明されるようになりましたが、それだけ気候危機が迫っていることでもあります。そこで、排出削減に「努力します」といった政治合意でなく、「やらなくてはいけない」国の法的義務であることを、裁判所の判決で明らかにすることが世界の大きな流れになっています。

例えば、オランダのNGOと市民が2013年、政府に20年のCO2削減目標を1990年比で20%から25%に引き上げるように求めた民事訴訟で、オランダ政府は、自国の排出量は世界の0.5%に過ぎないとか、政治の問題などと主張しましたが、すべて排斥され、オランダ最高裁は19年に、25%削減を命じたハーグ地裁・高裁の判決を支持。この判決を受けて、アイルランドの最高裁やフランスの国務院(行政裁判所)でも削減計画の見直しや対策の強化を命じる判決が出されています。欧米諸国や南米、パキスタンなど途上国でも“気候訴訟”が提起され、国の責任を認め、事業者に削減を命じる判決も出ています。企業のグリーンウオッシングも近時の標的です。

気候変動は世界共通の新しい法的問題で、どの国の司法も不慣れですが、気候危機回避のために世界で司法の役割が問われているのです。原因も影響も基本的に同じですし、訴訟の焦点や証拠となる科学的根拠も共通する、世界同時進行のテーマです。

15年に約200カ国が参加したパリ協定が採択され、21年には地球の平均気温の上昇を1.5℃に抑えるためのグラスゴー合意の採択にも至りました。しかし、日本はパリ協定後に1000万kwもの石炭火力の発電所を新設して、世界中から批判を受けています。日本の司法も、地球温暖化は人権問題であるという認識にはほど遠いのです。日本だけが世界の流れの外にいる……。

そこで、気候ネットワークが気候訴訟を支え、私も訴訟弁護士としてかかわることとしました。しかし、神戸製鋼などの石炭火力発電所の行政訴訟では、住民の原告適格さえ認められませんでした。途上国も含め「世界で日本ほどひどい司法制度の国はないね」と同情されています。民事訴訟でも裁判所は削減の必要性を認めていません。

四半世紀、仕事としてのマチ弁業を続け、その後、NGO活動にかかわってきました。マチ弁業務は私には適職で楽しく、生活基盤でもありました。しかし、事の重大性に照らすと、気候変動問題に専念し、もっと早くから気候訴訟にも挑戦していれば、NGOの影響力をもう少し高められたかもしれないとの後悔があります。世界は気候危機の回避をビジネスチャンスともとらえ、数百年に一度の経済社会の大転換のまっただなか。欧米ではNGOが弁護士を雇用し、公益訴訟に専念できています。

若い弁護士に伝えることがあるとしたら、苦難の時代かもしれないけれど、一方で苦難の時代は創造的可能性に満ちあふれた時代でもあること。その価値に気づき、挑戦してほしいこと。そして私も、日本でも海外のように若手弁護士が仕事として気候変動問題にかかわれる時代に向けて、人生最後の挑戦をしたいと思っています。
※本文中敬称略