Vol.35
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福井 健策

HUMAN HISTORY

資源小国の日本にとって、知財、コンテンツ政策は将来を決定づける重要なもの。法律家が担うべき役割は、社会的にとても大きい

骨董通り法律事務所
弁護士

福井 健策

夢想に浸る〝本の虫〞。そして、学校行事に熱を上げた少年時代

福井健策は、著作権法やエンタテインメント・メディア法を100%専門とする希少な国際派弁護士だ。掲げる旗印は「For the Arts」。契約交渉、著作権に関する法律アドバイス、紛争処理など、芸術文化領域を支えるあらゆる場面で活動し、20年間、迷わずこの道を走り続けてきた。だからこそ、第一人者として周知される。自らも役者として演劇に熱中した青春時代を経て、今なお福井の胸にあるのは、芸術文化に対する深甚なる愛情だ。オフィスに美しく配されたカルチャー誌や舞台講演パンフレットを背に、「最大の喜びは、素晴らしい作品の誕生に立ち合えること」――そう言って、柔和な顔を見せる福井には、およそ弁護士らしからぬ雰囲気が漂っている。

今でいう多動性障害だったのかもしれませんが、とにかく落ち着きのない子供だったんですよ。昔の8ミリが残っていて、見ると自分でも絶句するほど(笑)。人の話を聞いちゃいないし、外に連れ出せば、どこに行ってしまうかわからない。実際、子供時分に3回自動車事故に遭っていて、はねられるたびに落ち着いていったらしい(笑)。でも親は、けっこう鷹揚でしたね。

好きなことといえば本を読むこと。夢想ばかりしている〝本の虫〞でした。当時は、世界文学全集の時代で、書棚いっぱいの姉の本を何度も繰り返し読むのが楽しくて。例えば『ロビンソン漂流記』なら、まさに自分が冒険している気分で、夢想の世界に浸るわけです。元ラガーマンで、スポーツに絶対の自信を持っていた体育会系の父親には似ず、なぜかきょうだい皆、本ばかり読んでいましたねぇ。転居が多かったことが、影響していたのかもしれません。父親が転勤族で、ほぼ2年周期で動いていましたから。

その父親が転職し、神奈川県藤沢市に留まるようになったのが、小学校高学年の時。この頃から、なぜか成績が上がり始めました。それまで宿題はやらないわ、忘れ物やミスばかりで成績悪かったのが、担任の先生が何を思ったか「お前はすごい」って言い出して、とにかく褒める。体当たりの熱血教師でね、ちょっとその気になってたら勉強が面白くなった。苦手だったスポーツも、中学・高校と水泳部で自分にしちゃ頑張った。だから、それまでよりはモテたんですよ。中3の時、バレンタインでもらったチョコレートの数がいまだに人生最高記録ですから(笑)。

その中学3年生の時。「今も思い出に強く残る」出来事があった。合唱コンクールの順位発表をめぐり、「クラス対職員室」のかたちで、のちの語り種になるような大対立をしたそうだ。クラスが一丸となって闘った事件だが、その中心的な存在として声を上げたのは福井。この頃からすでに、気骨は備わっていたのである。

結束が強くて、運動会や競技会など、いろんな行事で頑張るクラスでした。合唱コンクールも同様で、課題曲、自由曲ともに1位になった……はずが、職員室で「勝ちすぎだ」という話になったらしく、調整が入った。正式に発表された時、課題曲については入賞すらしていなかったんです。この時の担任がこれまた熱血体育教師で、「本当は両方とも1位だったんだよ」と僕らに言ってしまったから、さぁ大変。こっちは生意気盛りの年頃だし、「間違った平等主義だ。おかしいだろう!」と。

で、次に控えていた壁新聞コンクールに向けて、僕たちはそれを一面の告発記事にしたわけです。もちろん職員室と揉めましたよ。裏事情をバラしちゃった担任は窮地に立たされたんだけど、いい先生でね、大立ち回りして応援してくれた。〝検閲〞を受けて修正は入ったものの、最後には出せて、コンクール1位(笑)。今にすれば、クラスが一丸となった大切な思い出です。

その後は、神奈川県立湘南高校に進学したんですけど、地方公立のいいところを残した自由な学校で。もちろん年相応に鬱屈もありましたが、行事が本当に楽しくて。とりわけ、体育祭は異様に盛り上がる。学年をまたぐクラス対抗仮装ダンスが有名ですけど、半年以上かけて準備するんですから。校庭全部を使って1チーム百数十人が優勝を競い合う〝ミュージカル〞は圧巻で、多分、僕はこれがきっかけで演劇に目覚めたんだと思います。

演劇に明け暮れながら、司法試験に挑む。3度目の挑戦で合格

福井 健策

「俺は東大に行くよ」。福井が東大受験に臨んだのは、部活仲間とのそんなジョークが発端だった。「星雲の志などまったくなし。単に勢いで」と笑う。遅い受験勉強スタートで、さすがに現役の受験は失敗したが、そこから頑張りを見せた福井は、翌年、東大法学部に合格。この段階では、弁護士という職業は頭の片隅にもなく、決めていたのは「芝居をやる」ということだった。

1980年代半ばの当時、小劇場ブームで演劇シーンがすごく刺激的に思えたし、浪人時期の鬱屈を晴らすべく、何かめちゃくちゃやってやろうと。入学するなり、ガイダンスの自己紹介で「芝居をやりにきた」と宣言したら、先輩から声がかかってすぐに一緒に劇団を結成したんです。駒場キャンパス内にあった「駒場小劇場」に入学したのかというくらい、役者として芝居に入れ揚げる生活でした。授業なんて、出やしません(笑)。

作風はね、広く言えば、劇作家で俳優の野田秀樹さんのフォロワーです。野田風の時間も空間もどんどん飛んでいくような舞台で、新しいSFとか80年代サブカル文化の影響が色濃い。反体制というより、「この世界のひとつ外に行こう」みたいな志向が強かった時代です。観客1000人を動員できれば学生演劇としては大いばりでしたが、僕らはそのくらいで、1学年上だった香川照之さんのいた劇団がもう少し動員してたかな。

つくって演じる魅力。自分たちが面白いと思うものを企画して、人前に出して、観客がその時だけでも泣いたり笑ったりしてくれると、まさに生きがいを感じました。作品は時に、わずかな時間で人の価値観を変え得る力を持っていると思うんです。ディベートで人の考えを変えるのって、実際はとても難しい。例えば、面と向かって「脱原発は正しい」と言い続ける力は絶対的に必要だけど、別の角度で、何かフワッとした作品に触れることで、人は「あ、そんなに電気を使わなくても楽しく生きられそう」と考え方を変えるかもしれない。そんな文化の力を、最も身近に体現できるのがライブイベントじゃないか――むろん、それだけで社会を変えられるとは考えていませんが、文化には豊かで深い〝力〞がある。そんな確信のもと、今、仕事に臨んでいます。

役者として生きていくことを志してはいたが、「自信を持ちきれなかった」。芸術文化への助成がまだない時代で、舞台役者は食っていけないというのが〝常識〞だったから、先行きが見えない。「何か自由業に就き、稼ぎながら舞台を続けられないか」。そう考えた福井に浮上したのが、弁護士という職業だったのである。

不純でしょ。弁護士は自由業だと聞いていたので、午後2時ぐらいまで仕事して、そこから稽古場に行くというイメージ。いい人生だなぁと(笑)。団員たちは甲斐性がなかったし、僕が仕事でもすれば劇団を支えていけると思ったのです。大学4年で司法試験を受ける時、みんなに「1年で受かって戻るから」と宣言して。法律家をなめるのもいい加減にしろって話ですよね。

4年の年明けから受験勉強を始めて、短答式は受かっていいスタートでしたが、やはり甘い話はなく、合格したのは3度目。受験中も芝居は続けていたので、夏に論文式が終わると、劇団の公演と専門学校講師のバイトに勤しみ、年明けからまた集中して受験勉強というサイクル。で、6年生の時に運よく合格できたというわけです。

研修所に入ってからも、元の仲間と新しい劇団をつくって芝居を続けました。寮祭企画では修習生たちが演じる『十二人の怒れる男』をやったりと、相変わらず演劇にうつつを抜かしていた自分に、司法というものに対する認識の甘さを突きつけたのは、実務修習での様々な経験です。一番強烈だったのは、異常行動を繰り返す9歳の孫を殺した祖父の公判に立ち合った時。孫の父親はすでに亡くなっていて、先を案じた祖父が思い詰めて犯行に及んだ事件でしたが、これをどうやって人間が裁くのか……目の前が真っ暗になった。裁くとすれば、その刃で自分をも切り刻む覚悟がなければ判決など書けない。「片手間で副業だと?」。このままでは二流の弁護士と、二流の役者が生まれるだけだと、自分の甘さを思い知った。修習を終える段になり、遅まきながらやっと「弁護士として頑張る」と決意したのです。

徹底した選択と集中。エンタテインメント・ロイヤーとして立つ

福井 健策

素晴らしい作品が生まれる豊かな文化社会のために活動する。それが、僕の使命

同期生がヒントを与えてくれた。「お前は、エンタテインメント・ロイヤーになればいいんだ。アメリカには大勢いるよ」と。その時初めて耳にした言葉だったが、福井は強く惹かれた。役者から足を洗うにしても好きな世界である。これなら「いける」と確信も持てた。そして93年、大型訴訟において高名な升永英俊弁護士率いる東京永和法律事務所(当時)に入所。福井は、ここで基礎を叩き込まれた。

升永先生にお会いしたら、「うちはエンタメやるよ」って。この時は「やるよ」と「やってるよ」の区別がつかなかった(笑)。そもそもエンタメは、まだジャンルとして確立されていなくて仕事は多くなかったけれど、顧問先には大手広告代理店があり、その類の仕事があると、先生も先輩も僕にどんどん機会を与えてくれました。加えて、クライアントには一流企業が多く、知財を中心とした企業法務、渉外系のイロハから大型訴訟まで、教えていただいたすべては、僕の血肉。升永先生の要求水準は高く、完全なるOJTでしごかれましたが、あの数年がなかったら今の自分はいないと断言できます。

エンタテインメント・ロイヤーとして一本立ちしたかったので、「いずれは留学する」と決めていました。4年半、事務所でお世話になって、コロンビア大学ロースクールに入学したのが31歳の時。知財・エンタメ系の授業が一番多かったので、選んだ先です。願書を出すに当たって、大学時代のGPA(成績評価値)を送るんですけど、演劇三昧で講義には全然出てなかったでしょ。芸術文化法に関する論文を付けたり工夫したけど、恐らく、GPAは合格者中最低だったと思います(笑)。

期間は1年でしたが、著作権法、商標法、音楽産業契約、演劇法、映画産業と法律など、徹底的に知財・エンタメ系のクラスに絞って学びました。次いで、ニューヨーク州の弁護士資格も取得。人間、結婚して子供ができると〝芯〞が落ち着くのか、この時期は、自分でもまぁまぁ褒められるくらい、いい勉強ができたと思っています。

その後、シンガポール国立大学にて「アジア諸国の放送政策」の助成研究員を務め、99年には、ニューヨークのアート法系NPO「V o l u n t e e rLawyers For the Arts」でインターンとして勤務。著作権先進国であるアメリカで、福井は知識と経験を体得し、エンタテインメント・ロイヤーとしての素地を蓄えていった。そして帰国後は、内藤・清水法律事務所(現青山綜合法律事務所)にパートナーとして参加、志どおりエンタテインメント法務一本に絞って活動を始める。

内藤篤先生とは、留学前に一度お会いしたご縁で、「よかったら、一緒にやりましょう」と声をかけてもらっていました。当時は、業界的には知財を強化したいタイミングだったので、大手の事務所からもお誘いはいただいたのですが、100%エンタメでいくと決めた以上、この領域の草分け的存在である内藤先生のそばで仕事がしたかった。ここでも、4年半お世話になって仕事の幅を広げ、2003年に、機会あって独立したという流れです。

事務所を構えてからちょうど10年。幸いに最高の仲間に恵まれ、売り上げで困ったことはありません。業界は特化していますが、エンタテインメントやアートにかかわる法分野はとても広いんです。著作権を中心とする知財、契約や交渉全般、入管・労務、そして税務や投資もあれば、時には刑事事件を扱うことも。顧問先としては、クリエイターのほか出版社やテレビ局、劇場やプロダクションといったエンタメ企業が大半ですが、クライアントが持ち込む案件はすべてカバーしています。

純化してやってきたことが認められている現状は、ありがたい話です。というのも、僕は、この分野でちゃんと〝食える〞ということと「For the Arts」を両立させるモデルを示したかった。一般論からすれば、知財はほかのジャンルほど利幅は厚くないし、大手ローファームでも時に売り上げギャップがあると聞きます。いわんやアート・エンタメになると、プロボノ(公益活動)でやる人がほとんどです。それはむろん尊いことですが、本当にこの分野の役に立つなら食えるはずだし、それこそがインディペンデントってことだろうと考え続けてきました。

豊かな芸術文化が息づく社会のために。全身全霊を尽くす

  • 福井 健策
  • 福井 健策

福井が弁護士登録をしてから20年。「このジャンルの重要性は一貫して高まってきた」と実感している。国際化、デジタル化、そして社会全体の法化が進むなか、それらの波をすべてかぶるコンテンツ産業が受ける影響は大きい。まだまだ未熟で、対応を迫られる企業やアーティストたちを支える第一人者として、福井が担う役割もまた、確実に重きを増している。

最近は、ハリウッドメジャーとの交渉がけっこう多いんですよ。日本のアニメやゲームのファンは、広く世界にいるし、ハリウッドなんかはネタもとにしているわけです。例えば「1億円以上の権利金を払うから映画化したい」。そんな話がくると、日本の作家側は有頂天になって喜ぶ。で、追って膨大な量の英文契約書が届くんですが、これをきちんと理解するのは、一般の人にはまず無理です。よく読むと「著作権譲渡」と書いてあったり、あるいは、一見高そうに思える利益配分には複雑な計算式が付いていて、実際にはどう計算しても利益など出ないようになっていたり、「このままサインしちゃダメ!」という条件が数々盛り込まれている。そことの闘いです。

日本人は国際契約の対立的な交渉に慣れていないし、揉め事があった時でも、よく言えば「話し合い」、悪く言えば「長いものに巻かれる」。いわば村社会共同体モデルで、決裂を嫌うんですね。「もうサインしよう」という圧力が内部から出てくる場合もあるので、そういう土壌を変え、励まし、対等な交渉をしながら最適な落とし所を探っていく。タフな仕事が要求されます。

ただ、業界の変化というと、例えば契約書を交わし著作権を守ること、それ自体が目的であるかのように活動する法律家や関係者も多いのですが、それらはツールにすぎません。素晴らしい作品が生まれ、そこへの人々のアクセスが確保される豊かな社会。本当に大切なのはそれです。数多の傑作を創出してきた従前ビジネスモデルのいい点は生かし、他方、現実として対応できていないデジタル化、国際化においては、変革をいとわず上手に付き合っていく。そのお手伝いをせねばと思いながら、日々仕事をしています。

日常業務の傍ら、福井は社会発信や教育活動にも精力的に取り組む。著作権・メディア法にまつわる講演・出演を年間100回近くこなし、日本大学藝術学部では客員教授として教鞭を執る。そして現在、ライフワークになっているのが、福井自身が世話人として立ち上げた「著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム(thinkC)」だ。

06年、それまで「死後50年まで守る」としていた著作権保護期間を、欧米が70年に延ばし、それこそハリウッドなんかが諸外国に圧力をかけ始めたのです。米国は古いコンテンツの輸出大国で、特許と併せて年間10兆円以上の外貨を稼いでいますから、延ばさせようとする。日本も圧力を受け、倣うような流れになった時、ちょっと待てと。日本はコンテンツの輸出入については大赤字国だし、加えて、権利関係が曖昧な日本で古い作品の保護期間を延ばすと、権利が確定できないから使えない〝孤児著作物〞が激増する。作品は死蔵されて文化はかえって停滞し、それは誰のためにもならない。そんな危機感のもと、ジャーナリストの津田大介さんに呼びかけ、「thinkC」を立ち上げたのです。生まれて初めて政治的な対外発信をしたのですが、幸い広い支持を得て、政府既定路線を覆すことができた。

創作と著作権など、法制度の関係を考え、「何が正解か」を様々な人と議論することは刺激的だし、法律家としても幸福な体験です。最近では、メディアもTPP知財問題を多く取り上げるようになり、熱を帯びてきています。資源小国の日本にとって、知財政策、コンテンツ政策は将来を左右する決定的なものだし、我々の社会や文化の豊かさを補助するうえで、非常に重要になってくる。僕は、そこに向けて発信を続けていきたいと思っています。

時代の流れか、最近は「エンタテインメント・ロイヤーになりたい」と訪ねてくれる人が多くなりました。うれしいことですが、この世界は一見華やかに見えて、実際は地べたを這いずり回るような仕事ですよ。収益でいえば儲かる分野はほかにある。だから、そもそも作品が好きじゃない人はこの世界に来るべきじゃありません。〝下り坂〞になった時、続けられませんから。

好きならば、ジャンルを問わずたくさんの作品を観てほしい。ビジネスの知識やスキルはとても重要だけど、我々の一番のパスポートは実際に作品に触れること。僕自身も、仕事関係はもちろん、年間150回くらいは劇場や映画館に行きますね。僕の場合は未練含みかな(笑)。最近、劇作家の平田オリザさんに言われるんですよ。「そろそろ戻れ」って。まぁそれは、引退後の楽しみに取っておきます(笑)。

※本文中敬称略