一浪して東大へ。念願の司法試験にも合格。だが、選んだ進路は金融業界
2019年、西村あさひ法律事務所のパートナーだった森浩志は、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)にCLO(最高法務責任者)として迎えられた。同社がその席に法律の専門家を招いたのは、初めてのこと。日本の産業界を見わたしても、法務部門のトップに弁護士を据える企業は今なお稀だ。そんななか、森は経営陣の負託に応え、組織における法務のあり方を変え、グローバルに信頼を勝ち取り、マネジメントに新風を吹き込んでいく。その社会人人生は、のっけから波乱含みではあった。合格者数が約500人の〝超狭き門〟だった司法試験を突破したにもかかわらず、法律家への道ではなく、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に就職。その日から、弁護士のキャリアパスに新たなページを書き加える道のりは、始まったのである。
1965年、徳島の藍住町という絵に描いたような田舎で生まれました。庭先で鶏を5羽ぐらい飼っていて、毎朝、鶏舎に卵を取りに行くのが子供の役目。薪の風呂もトイレも外にあって、夜に行くのが怖かったことを覚えています。父は、小さな建設会社の社長、というより「大工の棟梁」でした。子供から見ても金儲けが下手で、内心、反発していたんですよ。親戚に同業者がいて、どんどん会社を大きくしているのに、うちの親父はなんなんだ、と。
でも、そんな父が、私が27歳の時に亡くなった際、家を注文してくれた人や近所の人が大勢葬式にやってきて、口々に「本当に素晴らしい人だった」と話すわけです。その姿を見て、こうやって人に思われて死んでいくというのも一つの生き方なんだな、としみじみ思ったのです。寡黙だった父の真価を知ったというか、お金だけではない人生観を揺さぶられた気がしました。
幼少期に時間を戻すと、小学校までは30〜40分かけて歩いて通いました。中学校はさらに遠く、高校になると、徳島市内まで片道10㎞の道のりを自転車通学です。途中、吉野川にかかる1㎞ぐらいの橋があって、雨の日なんかは特に辛かった。
私の通っていた県立城北高校は、すごい進学校というわけでもなく、東大に年に1人受かるかどうか。勉強は嫌いではなかったけれど、高校ではサッカーに熱中してほとんど勉強しなかったこともあって、成績は3年の時に400人いる学年の50~100番くらいでした。それで、自分で早々に浪人することを決め、担任の先生に「ダメもとで東大を受けてみたい」と言ったら、「ふざけるな」と(笑)。もちろん、その年は、私立も含めて全滅でした。
リベンジを期して予備校に入った森は、親元を離れ、千葉で寮生活を始める。法律家への憧れもあり、目指すのは東大文Ⅰである。入居した4人部屋には、二段ベッドと机のみ、風呂もトイレも共同。その環境で「勉強以外のことは何もしない1年」を過ごした甲斐あって、84年、受験した全大学に合格を果たす。その快挙に一番驚いたのは、高校時代の担任だったそうだ。ともあれ、苦難の浪人生活に1年でピリオドを打ち、時代はバブル景気の上り。〝浮かれる〟条件は、揃っていた。
入学して入ったのが、ディスコサークル。NHKが取材に来ましたからね、東大にそんなサークルがあるというので(笑)。活動といえば、みんなで集まってダンスの練習をしてから、ディスコに繰り出す。資金はバイトで捻出していました。塾の先生や、後楽園球場のビールの売り子、煙突掃除とか。駒場では、そんなふうに楽しい2年間を過ごしました。でも、本郷に移るタイミングで、遊びはやめました。授業も結構大変だったし、本来の目的である司法試験を目指し、本格的に準備を始めようと考えて。
勉強は、ほとんど大学の図書館で自習です。法律の勉強は、民事にしろ刑事にしろ、こんな事案をどう判断すべきか、といったことをやればやるほど面白かった。とはいえ、当時の司法試験は、東大生といえども3、4年を覚悟して挑戦するのが当たり前。4年生の時は、案の定不合格でした。
留年を決めると同時に、勉強に集中するため、大学近くに風呂なしトイレ共同のアパートを借りました。法律の条文や論点などをテープに吹き込んで、図書館への往来もそれを聞きながら、という生活でしたね。
ただし、それだけやっても、合格できる保証はない。親に「留年は1年だけ」と釘を刺されていたし、5年になってからは、本気で就活にも取り組んだんですよ。バブル華やかなりし頃、興味を引かれたのは金融業界。実はここ(当時の三菱銀行)にも面接に来て、内定をもらいました(笑)。
結局、選んだのは日本開発銀行です。田舎育ちの私には、小さな頃から、地域や国のために貢献する仕事がしたい、という漠然とした思いもありました。地域開発、過疎化対策をうたう開銀は、そういう意味で理想の職場に思えたのです。当時の就職解禁日の朝、早起きして列の一番前に並んで面接を受けたといえば、その意気込みが伝わるでしょうか。
しかし、人生はわからないものです。秋になって蓋を開けてみたら、司法試験に合格していた。となると、心苦しいものの、開銀はお断りするしかありません。そういうつもりで人事課長のところに出向くと、開口一番、「合格おめでとう」と。ところが、「でも、うちに来ればこんなことができるよ」という話を聞いているうちに、朝一で並んだ気持ちがよみがえってきて(笑)。
「ただし、数年ここで経験を積んで弁護士に、という発想ならマイナスにしかならないからすぐに法曹に進みなさい。うちを選ぶなら10年は頑張る覚悟で」という言葉も、心に響きました。ずいぶん迷ったのですが、その時の自分の思いに正直に、あらためて開銀にお世話になることを決めました。
「商売下手」な父に反発。でも葬式で感謝されるのを見て人生観が変わった
中央官庁や更生企業への出向も経験。順調にキャリアを積む
最初に配属された都市開発部でMM21(横浜市)、幕張新都心(千葉市)といった副都心計画の支援業務などに携わった森は、入行5年目の93年、自治省(現総務省)の財政局公営企業課に、2年間の予定で出向する。自治体が運営する公営事業を管轄する部署だったが、そこでは政策立案や大蔵省(現財務省)との折衝など、「国レベル」の仕事にかかわった。出向期間終了間際の95年1月に発生した阪神淡路大震災の体験は、とりわけ忘れ難いものだった。
出向期間が終わりに近づき、最後は地方に出張でもしてのんびりしようか、などと呑気なことも考えていた矢先、未曽有の災害が現地の公営事業を直撃しました。被災した上下水道や公営交通、病院などをどう再建するか、国としてどんな支援ができるのか。兵庫県や神戸市の担当者と、不眠不休の電話対応に追われました。
まさに地獄の3カ月だったのですが、電話先の人たちの多くは、自らも被災者だったはず。にもかかわらず、地域の復興のため、寝る間も惜しんで奮闘していたんですね。そう思うと、なおさらいいかげんな仕事をする気にはなれませんでした。
ラストにそんなこともあった出向を終えると、開銀本体の経営企画を担当する部署に配属されました。一転して、政府系金融機関としての年間予算や施策を策定し、役所と折衝するポジションです。考えてみると、入行以来、都市開発の現場から始まって、官庁に出向、経営企画と、やりがいのある重要なポストに、矢継ぎ早に就かせてもらったことになります。
99年には、デューク大学ロースクールに1年間留学させてもらいました。採用担当だった人事課長が人事部長になっていたので、「海外も経験しておきたい」と直談判して(笑)。この時は、家族4人でアメリカに渡ったのですが、一番驚いたのは、娘たちの逞しさです。現地の小学校にあっという間に馴染んで、英語も僕よりペラペラになってしまった。子供ってすごいな、と舌を巻くしかありませんでしたね。
留学から戻った2000年代初頭の日本では、バブル崩壊で生まれた不良債権を買い漁り、一攫千金を狙う外資系ファンドの動きが活発化していた。再生の果実を海外に攫われてしまえば、国力の復活もままならない。そうした危機感を背景に、開銀では、国の支援による和製ファンドの立ち上げが議論される。その先頭に立ったのが、着実にキャリアを積んでいた森だった。設立されたファンドに出向し、投資担当を務めるのだが、役目はそれで終わらない。
ファンドで、バブル期の過剰な設備投資が原因で行き詰まったテザックという企業の会社更生を支援したんですね。で、投資だけではなくて、再建そのものを見てほしい、と。なんと大阪のメーカーに、経営企画室長の肩書で出向することになったのです。
元東証一部の同社は、旧社名を帝國産業といって、戦前から関西では隆々たる会社でした。社員が集まる工場に、新社長と初めて挨拶をしに行った時のことは忘れられません。作業着姿の人たちが、みんな「お前ら何者だ」という顔でこちらを見ている。再建といっても、一筋縄ではいかない現実を叩きつけられた気がしたものです。
幸運だったのは、ともにその現場に乗り込んだ社長が素晴らしい人物だったこと。もともと東大法学部出身の官僚でしたが、40歳ぐらいで見切りをつけ、会社の再建、マネジメントのスペシャリストに転身した、という経歴の持ち主。ところが、そんな来歴とは裏腹に、行動はドブ板というか、とにかく会社のいろんな人と飲みに行き、時間があれば膝詰めで話をする。それを延々繰り返すうちに、だんだん周囲が惹きつけられていく人間性を備えていました。
もちろん、明確な再建戦略も温めていて、印象に残るのは、「企業のマネジメントの肝は人事だ」という言葉です。就任3カ月目くらいの時に、本当に若手の抜擢を実行したのは驚きでしたが、しばらくしてその人たちが活躍し始めると、言葉どおり、社内が「この会社は変わるかもしれない」という雰囲気になっていったんですよ。
銀行に就職して、事業会社に行くことになるとは思いませんでしたが、そこで社長をサポートしつつ、経営のダイナミズムを実感できたのは大きな収穫でした。最初はよそ者扱いだったのに、丸1年の出向を終えて東京に帰る際、社員の方々から「もう少しいてくれませんか」と涙ながらに言われた時、自分も涙が出そうになりました。
16年の〝回り道〟は生きた。再生案件を任され、5年でパートナーとなった
突然の病気を機にキャリアを再考。満を持して弁護士に
後ろ髪を引かれる思いで開銀に戻ったのだが、それまでの心身の酷使に、今度は本人が耐えられなくなっていた。帰京から1カ月後、突然の体調不良で救急搬送されると、胃潰瘍の悪化による大量出血が判明。手術は成功したものの、3週間、飲まず食わずで点滴のみ、という入院生活を余儀なくされる。その時、たまたま手に取ったのが、「キャリアデザイン」について語った一冊の本だった。今の仕事に不満はない。だが、これから先、組織内の〝出世〟を最優先事項とし、リスク回避を志向していく人生で本当にいいのだろうか――。40歳を目前にしていた森は、迷った末に「今が転機」という結論に至る。司法試験合格以来〝ペンディング〟になっていた法律家の道に、新たに踏み出す決意を固めたのである。
気がつけば、人事課長の言葉をきっかけに入行して、16年が経っていました。その方のところにも、「弁護士になることに決めました」と報告に行ったんですよ。すると、すごく喜んで、「あの時、10年はいてもらいたいと言ったが、君はそれ以上の活躍をしてくれた」と。かつての課長は、当時、開銀のトップになっていました。
弁護士としては、企業法務、なかでも企業再生案件をメインにやっていきたい、という思いが自分にはありました。それで、司法修習を終えると、その分野の大家である松嶋英機先生に相談に行ったのです。すると、「だったら、うちに来ればいい」と。西村あさひ法律事務所に入所することになったのは、そういう経緯なんですよ。
日本を代表する事務所に入れたのはラッキーでしたが、年を食っているとはいえ、弁護士としての経験はゼロですから、最初は当然新人の扱いです。2カ月くらい集合研修を受けてから、先輩たちの下働き。20代半ばの人たちと一緒に、同じ給料で、同じ業務をやりました。
金融機関に16年いたというのは、弁護士としては異色としか言いようがありません。でも、〝回り道〟は決して無駄ではなかった。その経験もアドバンテージになって、徐々に再生案件を中心に重要な仕事を任せられるようになっていきました。企業系の訴訟や、個人の相続など幅広い案件を担当しましたが、スペシャリストとしてリーガルサービスを提供する弁護士という仕事は、やはり自分に合っていた。幸い事務所からも評価をいただき、入所から約5年で、パートナーの一員に加わることができたのです。
その実力を買われ、USEN、カゴメといった企業から、社外取締役の声もかかった。目論見どおりキャリアデザインの再構築に成功し、本人いわく「弁護士として充実の50代」を過ごしていた森が、またしても思いもかけない人生の転機に直面するのは、18年秋のことだ。ある日、事務所のトップに呼び出されると、いきなり「法務の責任者として、三菱UFJに行ってもらえないか」と、切り出されたのである。
思わず、「それって、事務所を辞めるということですよね」と。「そういうつもりはありません」と、一度はお断りしたのですが――。2カ月くらいしたら、また連絡がありまして。
かいつまんで状況を説明すると、高度化する法務案件、なかでもグローバル事案に対応するため、MUFGが有能な弁護士を求めて、複数の有力事務所に候補者を出すよう依頼している。最重要クライアントのそのポストを他の事務所に奪われるわけにはいかないので、ぜひ君に勝ち取ってもらいたい(笑)。そういうお話だったのです。
事務所の言いたいことはよく理解できたし、意気に感じるところもありましたが、ようやく昔からの夢だった弁護士になり、いろんな意味で〝自由業〟を堪能できるポジションに僕はいました。事務所に誘っていただいた松嶋先生に、「どう思いますか?」と相談すると、「そりゃあ、弁護士のほうが楽に決まってるだろ」と(笑)。「ただし、日本経済を支える企業の経営の一翼を担う、なんていうチャンスをもらえる弁護士は、ほとんどいない。少しでも迷うのだったら、挑戦してみるのもいいんじゃないか」と言われて。
そんなアドバイスにも背中を押されて面接に行き、採用が決まりました。後で聞いたら、候補者は20人以上いたそう。僕のそれまでの異色の経歴が大きな決め手になったことは、いうまでもないでしょう。
契約書をチェックするだけの法務部ではダメ。リスクへの関与を説いた
メガバンクの経営に携わり、「弁護士だからできること」を知る
19年6月、森はMUFG執行役常務 グループCLOに就任する。求められたのは、ひとことで言えば、「グループのリーガル部門をグローバルにマネジメントする」こと。裏を返せば、その体制が不十分だったために、組織に様々な不都合が生じていたのである。ところで、改革の切り札として白羽の矢を立てられた当人は、内定早々、三毛兼承頭取が全世界のマネジメントに向けて発信したメールを目にして、凍りつく。そこには、「ようやくリーガルエキスパートをヘッドクォーターのトップとして採用することに成功した。この人物は素晴らしく優秀で、英語も流暢で……」とあった。
僕の話す英語を一度も聞いたことがないのに(笑)。これは本当にまずいと思い、速読教室や、授業料が3カ月で数十万円のスパルタ英語塾に通うなどして、発音を中心に再度ブラッシュアップを図りました。金融やマネジメントを含めて、司法試験以来、久しぶりに死に物狂いで猛勉強しましたよ。経営者としての第一歩は、そこから始まりました。
MUFG以外のメガバンクには、CLOという役職自体がありません。当社にしても、以前は、他職も兼任しつつローテーションで役割を担うポジション、という位置づけでした。特に〝法律の素人〟だったのは致命的で、海外子会社や支店の法務が認識したリーガルマターに日本の法務が十分に対応できない、といった問題が起こっていたんですね。ちなみに子会社などの法務のトップは、全員弁護士。海外では、それが当たり前なのです。そうはいっても、いきなり私のような人間がやってきて、海外からも警戒されるのでは、という心配もありました。ところが、話をしてみると、「本社に相談したいことがあっても、相手が法律の専門家じゃないから諦めていた」「そういう人物がグローバルに法務を見るというのは、歓迎だ」と、みんな喜んでくれて。
アメリカで結構大きな事案が持ち上がり、現地の大手法律事務所の弁護士とやり取りしていた時に、本気で怒ったこともありました。規制当局寄りのリスクばかり口にするので、「いったいどちら側のカウンセラーなんだ。MUFGとしてどこまでのリスクを取れるかというマインドで議論してくれ」と。僕にそんなことを言われるとは思わないから、相手は驚いていましたけど、そういう姿勢で課題を乗り越えていくうち、海外からは「MUFGのリーガルは変わった」と、一目置かれるようになったんですよ。
一方、日本のメンバーに対しては、着任以来、「みんなが相談したくなるような法務にしよう」「会社内でクライアントを獲得する意識で動いてほしい」と言い続けました。法務部といえば、契約書に問題がないのかをチェックする部署と捉えられがちだが、それではダメなんだ、と。
重要視したことの一つが、リスクテイクへの関与です。会社にとって重要なその判断を、常に外部の弁護士に委ねるわけにはいきません。僕が呼ばれた意味もそこにあるし、法務部全体で意識を高め、積極的に貢献していく必要がある、と考えました。
おかげさまで、この点でも大きな成果がありました。社内からレスポンスの速さなどについての評価をもらえるようになっただけでなく、相談の中身自体も変わってきたんですよ。今では、プロジェクトの早い段階から声がかかり、現場の人たちと、リスクをいかに取っていくのか、という視点で議論が交わせるようになりました。
経営に携わって得た手応えが、もう一つあった。歴史のある大企業ほど強固な、「上にもの申す」のが難しいヒエラルキーの壁。そこに風穴を開け、「多少なりともマネジメントに新風を吹き込んだ」という自負だ。期せずしてそれができたのは、外部から来た人間だっただけでなく、法に基づき、客観的に物事を見て、議論することを訓練された弁護士だったからこそ。「僕のような人間が組織に交じるのも、ダイバーシティじゃないですか」。そう森は笑う。
コロナ禍のさなか、経営会議で、「一定額は引当金を積む覚悟で、困っているところに貸すべきだ」と発言して、その場をフリーズさせたことがあります。銀行員的には、貸倒れを覚悟してでも融資をしようということは言えませんから。それこそ貸し倒れリスクもある状況ではありましたが、「では、三菱UFJという銀行は、誰のため、何のために存在しているのですか」と。実際、貸し倒れが発生するかもしれません。でも、それで助かる人も確実にいる。「一番苦しい時に手を差し伸べてくれた」という思いは、当行の大きな財産になるはずです。
結果的に積極的にお客様を支援していこうということになりました。その話が現場の支店長に伝わると、「言いたいことを言ってもらえて、嬉しかった」という反応が、いくつも寄せられたんですよ。
これも、ここに来る前に松嶋先生に言われたのですが、「弁護士は、しょせんアドバイザー。従業員の人生を背負って最後に決断を下すのは、会社の人間」なんですね。自分の手で組織を変革し、それが経済や社会に影響を与えていく。まさに先生の言葉を実感する日々を過ごせていることには、大きな幸せを感じます。同時に、司法試験に合格し、遅ればせながらも弁護士にならなかったら、今の僕がなかったことは、言うまでもないでしょう。振り返ると、回り道のようにも思えた自分の歩んできたキャリアが、すべてつながっていて、最高のかたちで昇華したように感じています。
若い人たちに言いたいのは、今、弁護士の仕事の可能性は、想像以上に広がっている、ということです。ビジネスに関して言えば、企業は新しいことに取り組み、グローバルに展開していかないと、やっていけない時代になっています。ところが、デジタルなどの先進分野ほど、ある意味ルールなき環境で競争が行われていますよね。そうした分野に挑戦しようとすればするほど、法律家としての資質をベースに、「何が正解か」を経営のなかで語れる人材が求められるはず。僕はそう確信しています。
※本文中敬称略