弁護士の肖像:2015年5月号 Vol.45

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

さくら共同法律事務所パートナー・
 ゴルフジャーナリスト
 弁護士
 西村國彦

勉学と卓球に打ち込み、子供時分より〝粘り強さ〞を発揮

弁護士、ゴルフジャーナリスト。西村國彦の名刺には、2つの肩書が記されている。40歳から始めたゴルフに魅了されてからというもの、西村の〝戦場〞は公私共にゴルフ場となった。バブル崩壊後、相次いだ日本の大型ゴルフ場倒産事件は、ハゲタカ金融業者たちの狩場と化したが、西村は、その法的再建問題に敢然と立ち向かってきた。またプレーヤーとしては、難コースとして名高いニュー・セントアンドリュースゴルフクラブ・ジャパンのクラブチャンピオンに輝いたほどの腕前で、ゴルフジャーナリストとしても健筆をふるう。どちらも〝戦いの場〞。拳を上げて語る熱血漢ではないが、生来負けず嫌いの西村は「難攻不落に思えることほど燃える」。どんな苦境でも決してあきらめず、粘り強く戦い抜く――西村の真骨頂はここにある。
今はゴルフ一筋ですが、子供の頃から球技が好きなんですよ。僕らの世代だとサッカーはまだメジャーじゃなかったし、やっぱり野球人気。でも僕は、丸刈りがイヤでね、熱中したのは卓球です。室内競技でしょ、夏なんかは日差しを防ぐためにカーテンを締め切るから、それはそれで過酷なスポーツではあったんだけど……。 僕は、父が教員をしていた中・高一貫校である桐朋学園に通いながら、けっこう真面目に勉強にも卓球にも打ち込んでいました。中学2年の時のこと。都内中学校の卓球大会があったのですが、僕は、優勝候補だった3年生を相手に2回戦で惜敗。それが悔しくてねぇ。よほど刺激されたのか、負けず嫌いなのか、その悔しさを翌年まで胸に刻んだ結果、翌年の私学都大会では個人も団体戦も総ナメですよ(笑)。リベンジを果たしたわけです。もう大昔の話だけれど、今でも試合のあった国立競技場の辺りを通ると、厳粛な気持ちになるんです。「志を持って必死にやっているか。途中で投げ出していないか」。そう問われているような気がして。僕の起点はここにあるのでしょう。 始めたら何でも一途にやるというか、粘り強さは子供の頃からありました。加えて団塊の世代です。受験も含め、競争、競争のなかで生きてきたから、「やる以上は勝ちたい」という負けず嫌いな部分が強い。もっとも、性分としては〝はにかみ屋〞で、できるだけ目立たないように振る舞っていたんですよ。しゃべるのも苦手、講演なんて絶対にできないようなタイプだったのに、今、弁護士としてあちこちで登壇しているんですから妙な感じです(笑)。
西村がパートナーを務める「さくら共同法律事務所」の代表弁護士・河合弘之氏とは、実に55年の付き合いだという。中学から大学まで同窓であり、卓球部では先輩後輩の間柄。西村が弁護士を意識するようになったのは、先輩・河合氏の影響が少なからずある。一貫して学業優秀だった西村は、東大法学部にストレートで進学した。
ものをコツコツ調べたり書くのは得意だけど、僕に営業的センスはないし、酒も飲めず付き合いも悪い。勤め人には向かないだろうと思っていたなか、それでも食えるとしたら弁護士かなぁと。法学部に絞った動機は、あまり褒められたものじゃないんですよ(笑)。 大学に入ってからも、勉強と卓球に打ち込んでいましたが、3年生になった頃から東大闘争が激しくなってきて、講義どころじゃなくなった。法学部から、安田講堂に立てこもった学生が20人もいた時代です。僕は基本ノンポリで、直接的な活動はしなかったけれど、シンパシーを感じていたから影響は受けています。公安に逮捕された連中に接見しに行くとか、面倒を見るとか、弁護士になる前から救援活動的なことをしていました。 司法試験に向けては、同期の仲間たちと勉強会を立ち上げてやったものの、そんな環境でなかなか集中できず、合格したのは4回目のチャレンジ。「大学8年生」の時でした。同年、さすがに生活プレッシャーを感じて受けた国家公務員試験にも合格したのですが、今となれば、この道に進んでつくづくよかった。結局、大学には常人の2倍、8年間在籍して卒業しました。

始めたゴルフを機縁に、「会員とゴルフ場を守る」弁護士として活動

京都での司法修習を終えたあと、西村は明舟法律事務所に入所。当初、神田から市ヶ谷に移転したばかりの先輩・河合弁護士の事務所を頼ったが、「外で少し修業してこい」と紹介された先である。労働事件や学生運動事件を扱う事務所において、西村は学生時代と同様、社会変革のために闘う若者たちの弁護に駆けずり回っていた。
六価クロム公害事件とか、社会的に大きな事件を取り扱う事務所だったのですが、僕が懸命にやっていたのは警察回り。事務所でも学生運動事件に関与はしていたけれど、僕はちょっと激しくやりすぎて……時を待たずして居心地が悪くなってしまったのです。結局、半年ほどで退所し、河合・竹内法律事務所(現さくら共同法律事務所)に入れてもらったという経緯です。 この頃、河合・竹内が扱う事件の規模は加速度的に大きくなっており、企業再生事件を中心に繁忙さを増していました。僕もリッカーやリッカー不動産などといった会社更生事件、いろんな倒産事件に関与しながら、両弁護士について仕事を学んでいったのです。 そして、最初に担当したのが、奇縁なことにゴルフ場の預託金返還の訴訟でした。その頃は、ゴルフ会員権を買うとか、預託金返還とかは、いわゆる〝上流社会の方々〞の話だと思っていて、よもや自分がゴルフをするようになるとは想像もしていなかった。一方で、河合弁護士と平和相互銀行事件の絡みでゴルフ場事件に関わるようになり、「仕事をする以上、ゴルフを知らないとだめだ」と、彼が先に始めたんですよ。それで勧められ、始めたわけですが、結局ゴルフの魔力に取りつかれたのは僕だったという話です(笑)。
西村がゴルフを始めた1980年代後半、それは、日本社会でのゴルフ場をめぐる矛盾が露呈する前夜でもあった。幕開けとなったのは、91年に発覚した茨城カントリークラブ事件。会員限定数をはるかに超える会員を集め、1000億円を調達しておきながらゴルフ場造成ならず、資金流用や乱脈経営で破産に至った事件だ。これを機に、ゴルフビジネスの仕組み自体に疑惑の目が向けられるようになり、以降も、収支悪化でゴルフ場経営会社が突然倒産するということが相次いだ。
バブル経済の時代に高値で売り出されたゴルフ会員権が、崩壊後、ものの見事に泡沫と化した。会員入会時に「預け入れた」預託金の償還時期に入ると、会員たちは「金を返せ」と殺到し、いざこざが噴出。返せない預託金と銀行債務に行き詰まったゴルフ場が次々と潰れていった時代です。当時は〝無政府状態〞でしたから、会員は法的な保護をされず、預託金を巻き上げられ、さらにはプレー権をも失うといった事態に見舞われていたのです。 僕が最初に突っ込んでいったのは東相模ゴルフクラブの事件。会員たちに突然、破産と競売の知らせが届いたのは92年でした。怒りのなか、競売停止の運動に立ち上がった人たちと共に、会員だった僕も闘いの最前線に。会員2000名以上を組織し、根抵当権を行使した金融機関に対して競売停止を訴え続けた。守りたかったのはプレー権です。その抗議活動を世に問うために、数百人で行った街頭デモは、NHKが1日に3回全国ネットで放送する一大ニュースとなり、大きな反響を呼んだのです。やっぱり影響力が強いですよね。この映像はその後、全国の大手金融機関に対して、ゴルフ場の競売をさせない原動力となりました。 7年間にわたる長い闘いでしたが、結果、破産にもかかわらず、プレー権を確保したまま最終的解決を迎えることができた。そして健全なゴルフ場に再生した、当時としては非常に珍しいケースです。会員の情熱と強い結束があってのこと。「最後の最後まであきらめない」「結束を最大の武器にする」という僕の闘い方の原点でもあります。(以下略)
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■プロフィール

  • さくら共同法律事務所パートナー・
  • ゴルフジャーナリスト
  • 弁護士
  • 西村國彦
  • 1947年6月17日 東京都国立市生まれ
  • 1972年6月   東京大学法学部第一類卒業
  • 1973年9月   司法試験、
  • 国家公務員上級試験合格
  • 1974年3月   東京大学法学部第二類卒業
  • 1976年4月   司法修習修了
  •        弁護士登録(東京弁護士会・28期)
  •        明舟法律事務所入所
  • 10月   河合・竹内法律事務所
  •        (現さくら共同法律事務所)入所
  • 1979年4月   パートナーに就任
  • 1980年7月   インターナショナル・アンド・コンパラティブ・
  • ロー・センターに留学(アメリカ・ダラス)
  • 1996年4月   日本ゴルフ関連団体協議会
  • 会員権問題研究会専門部会委員
  • 2004年4月   日本ゴルフ学会常務理事
  • (国際交流担当委員長)就任
  • 2005年9月   日本ゴルフ学会 学会賞受賞