弁護士の肖像:2015年11月号 Vol.48

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

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Human History

弁護士の肖像

熊本中央法律事務所 弁護士 板井 優

終戦間もない沖縄で誕生。祖国復帰運動に傾注する中で弁護士を志す

水俣病国家賠償訴訟、ハンセン病国家賠償訴訟などにかかわり、現在は「原発なくそう!九州玄海訴訟」の弁護団代表を務める板井優いたいまさるは、終戦間もない沖縄・那覇市で生を受ける。太平洋戦争で想像を絶する辛苦を味わった沖縄だったが、少年の目には戦い終わってなお〝悲劇〞が繰り返される、アメリカ統治下の姿が映っていた。


僕が生まれたのは、終戦から4年後の1949年8月です。那覇といっても、育った真和志は絵に描いたような田舎で、そのへんにハブがうようよしてた。ベビーブームの最後の年で、入学した小学校は1クラス60人の21クラスという大所帯ですよ。今でも目に焼き付いているのが、小学校2年生の時に見た光景です。うちの学校が超マンモスだから、分校をつくろうということになって、米軍が作業を始めた。見たことのないでっかい重機がやってきて、近くの山をどんどん崩し、1カ月もせずに校舎が完成。びっくりしたねえ。彼我の力の差を見せつけられたような気がしたものです。その米軍は、政治の世界でも力を振りかざしました。例えば、民間の法廷で米軍が裁判に負けると、ただちに軍事法廷を開いて、それを否定してしまう。まさに、やりたい放題です。そんな中で起きたのが、63年2月の「国場君事件」でした。当時中学1年生だった僕らと同学年の男子生徒が、米軍の軍用トラックにはねられて亡くなった。横断歩道の信号は青だったにもかかわらず、3カ月後の軍事法廷で下った判決は無罪でした。「夕日で信号が見えなかった」という米兵の主張を全面的に認めたのです。沖縄人は、轢き殺されても、文句も言えない存在なのか――。それはもう、みんな怒りましたよ。若き日の僕に、社会に目を開かせるには、十分な出来事でした。


自治権が極度に制限された当時の沖縄では、米国の統治に反発する祖国復帰運動が広がりをみせていた。首里高校に進んだ板井も、2年生の時に自ら手を挙げて生徒会長になるや、他の高校にこの運動での〝共闘〞を呼びかける。ところが……。


「祖国復帰生徒会連絡協議会」というのをつくりたいと思い、他校の生徒会長に集まってもらって、提案したんですよ。すると、全員「賛成だ」と。「よし、次回集まる時には正式に旗揚げだ」って別れたんだけど……どこの世の中にも、バカはおってさ(笑)。その中の一人が、学校の朝礼で勝手に壇上に登って、「こういうのをつくることになった」ってやっちゃったわけ。悪いことに、そこの校長先生は、校長会の会長だった。それで、「今度、会合に行ったら退学」というお達しが各校に回り、構想はあえなくパーです。あれが初めての挫折かなあ。ただ、復帰運動自体は大きな盛り上がりを見せていて、その先頭に立っていたのが、実は弁護士たちだったんですよ。とにかくかっこよかった。憧れた人の中に、知念朝功さんという弁護士がいました。後に琉球政府の副主席を務めた立派な方でしたが、ある時話を聞く機会があって、「弁護士なら、自分の考えを実現するために働ける」と話すわけです。信念を貫いて、しかも稼いで暮らしていける。素晴らしいじゃないか――。知念さんに会って、「弁護士になりたい」という思いが、大きく膨らんだんですよ。その夢を実現するため、高校卒業後は日本本土の大学で学ぶことを決意しました。本土に渡るのには、パスポートが必要な時代でしたから、〝留学〞です。選んだのは、学費免除で、生活費が支給される国費留学。試験に合格して、文部省の係官に希望を聞かれたので、第1志望は法学のゼミコースがあった一橋大学にしました。僕より前の2人の〝国費法学〞は東大と一橋に行きましたから、まあ順当かな、と。

夢を抱いて本土へ留学。 出会いに導かれ やがて水俣の地へ

〝配属先〞が通知されたのは、本土行きの留学船が出発する3日前のこと。あにはからんや、「あなたは熊本大学に決まりました」という知らせだった。戸惑う板井は、それが後の彼の人生を決定づけることになるとは、もちろん知る由もない。


熊本市にある沖縄学生寮に着いた日のことは、今でもはっきり覚えています。夜、近くの熊本城内を散歩していたら、道端に座ってご飯を食べている人たちがいる。びっくりして、寮母さんに「ここには、道で食事をする悲惨な人がいるんですか」と言うと、「あれは花見をしている裕福な人たちだ」と怒られてねえ。〝そば〞といえば沖縄ソバのことだと思っていたし、雪は本でしか知らなかったし……とにかく驚かされることばかりでしたよ。勉強するために入った大学も、当時は全国的に学園紛争の真っ盛りで、授業があったり、なかったり。それに、よくよく話を聞いてみると、昭和30年以降、熊大から司法試験に合格した人は一人もいないと(笑)。これでは弁護士にはなれないと思った僕は、地元の弁護士さんのアドバイスもあって、卒業したら東京に出ることを考えるようになっていました。具体的にその道筋をつけてくれたのは、当時つき合っていた医学部生の板井八重子、今の家内です。彼女は僕より2つ年上で、当時の女性には珍しく、はっきり自らの考えを口にする人でした。その八重子のところに、「研修医として東京に来ませんか」と誘いにやってきた医師に、彼女が「結婚しようと思っている人が、司法試験の勉強をしたいと言っている」と話すと、「そちらも探してみましょう」と。そうやって見つけてくれたのが、東大の学生がつくる勉強会でした。八重子とは、大学を卒業した73年の4月に結婚し、翌日上京。結婚しても婚姻届は出さず、姓も別々のまま。「夫婦別姓」など考えられなかった時代ですけど、彼女は一人娘だし、私も妻の姓にしたら親が黙ってはいないでしょうから、まあそうするしかなかった、というのが本当のところです。東大の勉強会には、いろんな大学から司法試験の受験生が集まっていました。1年で合格することを目標にしていただけあって中身も濃く、5人くらいのグループに分かれて、試験に出そうな問題を片端からすべて潰していくというものでした。ただ、僕は1年では無理だった。1年目は、持病の椎間板ヘルニアの痛さに、3時間の択一試験を2時間でリタイアするありさま。2年目は、最後の口述試験で落っこちた。そして3年目。この年は、まさに口述試験のさ中に、長男が誕生。落ちるわけにいかんでしょ。76年10月、念願叶って司法試験に合格することができました。ようやく少年時代の憧れを現実にしたのですが、一つはっきりさせなければならない問題があったんですよ。合格後、その報告のために沖縄に帰りました。本来なら、両親は「よくやった!」と迎えてくれるはず。ところが、合格証書を一瞥した親父は、「喜び半分、悲しみ半分だな」と言って、それを突き返すのです。実は、74年11月、八重子の仕事上の問題もあって、私たちは入籍していました。姓は「板井」。合格証書にも、そう記載されていたんですね。彼女はすでにバリバリの医師、こちらは受験生の身の上でしたから、「具志堅」という姓を変えることについて、僕の中ではまったく違和感はなかった。しかし、末端とはいえ琉球王朝の士族の血を引く誇り高き父親がどう感じるかは、また別の話です。司法試験合格との〝合わせ技〞にすれば、少しは怒りが抑えられるのではと考えたのだけど、甘かった。残念ながら、許してもらえないままになっています。


受験勉強中には、さらに重大な人生の選択も迫られた。妻が、熊本県水俣市の診療所から、「不足している内科医として、来てほしい」と強い要請を受けたのだ。「弁護士になったら沖縄で開業する」と心に決めていた板井にとって、まことに悩ましい状況だった。


チッソ水俣工場が排水として垂れ流した有機水銀が原因で、多くの人が神経系疾患に苦しんだ水俣病のことは学生時代から知っていて、第一次訴訟の裁判を傍聴に行ったりもしていました。水俣で苦しむ患者さんを助けたい、という八重子の思いは痛いほどわかる。悩みに悩んだ末、ここはその〝思い〞を邪魔すべきではない、と決断。沖縄に戻るのは10年延ばしても、今は水俣の力になることが求められているのだろうと考えたのです。水俣に行く以上、僕自身も真正面から水俣病訴訟に取り組もうと決意を固めました。モチベーションの高まるタイミングでもあったんですよ。水俣病第二次訴訟で原告側が勝利し、チッソの責任が再び認められたのが、79年3月。ところが当時の環境庁は、「司法判断と行政判断は別」、要するに「裁判に負けたからといって、国に法的責任はない」との姿勢を崩しませんでした。僕が司法修習を終えて正式に弁護士になったのは、その判決があった翌月のことです。役所がそういう態度に終始するのなら、今度は国を相手に裁判を起こそうか、という議論が起こり始めていました。(以下略)
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■プロフィール

  • 熊本中央法律事務所
  • 弁護士
  • 板井 優
  • 1949年8月17日沖縄県那覇市生まれ
    1973年3月熊本大学法文学部
    法学科卒業
    1976年10月司法試験合格
    1979年4月司法修習修了
    弁護士登録(熊本弁護士会・31期)
    熊本共同法律事務所入所
    1981年11月熊本中央法律事務所
    1986年3月水俣法律事務所
    1994年10月熊本中央法律事務所
  • 家族構成=妻、息子2人