弁護士の肖像:2016年5月号 Vol.51

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

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日比谷パーク法律事務所 弁護士・元最高裁判所判事 濱田 邦夫

英語に興味を持ち、早くから国際的な仕事を志向する

半世紀以上にわたり法曹界で活躍してきた濱田邦夫の来歴は、振り返れば“初物尽くし”。国際金融法務の草分けとして同分野を牽引してきた濱田は、国際的証券発行など、国内初とされる案件を数々手がけてきた。そして、1980年代後半にはロンドン事務所を開設。これは、我が国の法律事務所としては第1号の海外事務所となった。また、種々の公職にも就いてきたなか、創立に尽力したIPBA(環太平洋法曹協会)では初代会長に就任。さらに64歳の時には、ビジネスロイヤーとして始めて最高裁判時に任官……と、まさに先陣と切り続けてきた。「ほかの人にはできないことを」という旺盛な開拓魂こそが、濱田の真骨頂である。
国際的な仕事をしたいと考えるようになったのは、生い立ちが影響していると思いますね。私は神戸で生まれたものの、会社員だった父の転勤に伴い、各地を転々としてきました。小学校だけで東京、静岡、新潟と3度転校し、その後、再度東京に移り住んで、ようやく落ち着いたのは高校生になった頃。ローカルな土地や人々と深いかかわりを持つことがなかったものだから、私には故郷という概念がないんですよ。土着性や地縁にとらわれない性分は、ここからきているのでしょう。

加えて、父からの影響もあります。東大工学部出のエンジニアだったんですけど、あまり世渡りがうまくないというか日本的な付き合いを好まず、時として正論をはっきり口にする人だったんですね。だから私にも「世間的にはそんなことを言うものじゃない」などと諭したことはなく、私の思いや考えを尊重してくれた時代的には、珍しい感覚だったように思います。
敗戦を迎えたのは9歳の時で、私は静岡にいたんですけど、ほどなくして、軍服に身を包んだ占領軍の姿を目にするようになりました。そんなある日、音楽好きな父が、英語で書かれたアメリカ歌謡の本を買ってきたのです。フォスターの『草競馬』などが載ている本でね、これが英語に興味を持つきっかけになった。もちろん愛国精神をたたき込まれていたからアメリカに対する反発心はあったけれど、占領軍を介して英語の世界に接したことは、私に、広く外国への興味も抱かせたのです。高校生の頃には「英語を使って仕事してみたい」と思っていたので、英会話学校に通ったり、洋画の対訳や、当時のラジオ放送・FENを見聞きしながら積極的に英語に触れていました。
「あまり勉強した記憶がない」と言う濱田だが、進学校である日比谷高校を経て東京大学法学部に入学と、いわゆる秀才コースを歩んでいる。この頃に描いていた職業イメージは外交官。従来の濱田からすれば自然な流れである。
その進路が変わったのは、名門法律サークル「東大法律事務所」での活動を通じ、法律家にも魅力を感じたからだ。
父は、最終的には意に反するかたちで会社を辞め、同様に会社勤めをしていた兄2人を見ていてもなかなか大変そうで、「宮仕えは自分に向かない」という思いもありました。サークルの活動は面白かったし、法律家は自分の足で立てる専門職でしょう、そこに大きく惹かれたわけです。司法試験を受けたのは4年生の時ですが、これが一発で運よく受かってしまった(笑)。私は、教科書主体の“通常の勉強”というものをほとんどしてこなかったんですよ。むしろ独学的だったし、何かを徹底的に勉強するというより、全体の概念や方向性を理解してポイントをつかむことのほうが得意で。それが、たまたま奏功したのかもしれません。

国際弁護士を目指すというのは、司法修習生の時から決めていました。当時、東大サークル出身の先輩の多くは、裁判官になる道を選ぶのが常で、私も指導判事から熱心に誘っていただいたのです。でも、仕事が堅苦しそうで、どうにも気が向かなかった。他方、弁護士修習では、かつて日弁連の会長も務められた渡部喜十郎先生にお世話になったんですけど、世間知らずの私に現実を見せようと思われたのか……けっこう泥くさい場面に付き合わされまして(笑)。ドメスティックな仕事は、自分には無理だなぁと。
そもそも外交官になりたかったわけですから、弁護士になるとすれば、やはり好きな英語を使える仕事がしたかった。もちろん、渉外弁護士の存在は圧倒的に少数だったし「法廷に立たない渉外弁護士など真の弁護士にあらず」なんて揶揄されていた時代です。
それでも、何か新しいことを、ほかの人にはできないことを、という思いが強かった。このスタンスは、以降もずっと変わっていませんね。

数少ない日本の渉外弁護士として、培ったスキルと矜持

濱田が最初に籍を置いたのは妹尾晃法律事務所である。きっかけは、司法研修所内に掲示されていた新人弁護士募集の張り紙で、そこにあったリチャード・ラビノウィッツ氏(当時の準会員弁護士)の名に惹かれてのことだ。ただ、時代を反映して経緯は少々複雑。募集自体はアンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所(以下AMR)のものだったが、入所希望者に対する面接は、彼らからの信任が厚い妹尾弁護士が行っていたのである。
ほかの渉外事務所と比べると、初任給は格段に低かったんですよ。でも、その昔、法律雑誌で読んだラビノウィッツ先生の『日本の弁護士』という学位論文に関心があったので、冷やかし半分で訪問してみようかと。その時の条件が、「妹尾晃弁護士と面接すること」。私の前に、準会員の先生方と、彼らが直接雇用した新人弁護士との間に処遇上のトラブルがあったらしく、以降、妹尾先生は面接や新人育成を手助けしていたのです。先生は眼光鋭い方でね、面接で一瞬にして射すくめられた私は、その場で入所を決めていました。「まずは私のところでやれ」という言葉に、「はい」って即答ですよ。
渉外法律事務を志すなら、当初数年間は一般の民事・刑事事件も経験したほうがいいということ。そして、外国人である準会員とどう向き合えばいいかを、先生はご自身の経験に則って教えてくださった。妹尾晃法律事務所での在籍は2年と短かかったけれど私はここで、弁護士としての基礎と心構えをたたき込んでもらったのです。
何より、「日本の弁護士の独立を目指す」という私の基本姿勢が確立された。今の時代ではピンとこないでしうが、敗戦直後の混乱期は、日本の法曹もまた占領下に置かれていたわけです。
そのなかで、常に日本人弁護士として毅然とした態度を貫かれてきた妹尾先生との出会いは、とても大きなものでした。

通常の民事や刑事事件をある程度経験し、AMRに移籍してからは、本格的に渉外法律事務に携わるようになりました。当初の主な仕事は、外国企業からの日本への資本導入や技術提携サポートで時間に追われながらも、新しいことを知る日々は面白かったですねぇ。なかでもラビノウィツ先生には、仕事のことだけでなく、外国の依頼者たちとの社交の仕方も教わるなど、ずいぶんお世話になったものです。
渉外弁護士として基礎トレーニングを積み、66年には、ハーバード大学ロースクール修士課程を修了。培ったグローバルな視野のもと、濱田は、ことキャピタル・マーケットの分野において力を発揮するようになる。60年代に開拓された、日本企業によるユーロドール建て転換社債など、海外市場における証券発行の“はしり案件”にも多く関与してきた。
そして34歳でAMRの名目パートナーに就任。と、ここまでは順調だったが……2年後には「AMRを辞める羽目に陥った」のである。
袂を分かつ直接的なきっかけになったのは、71年に受任した、シンガポール開発銀行によるアジアドル債発行案件です。これは、大和証券が日本で初めて国際的な債券発行の引受主幹事を務めたもので、私はそのリーガル・アドバイザーとして入りました。この時、AMRの実質パートナーの準会員たちと、私の主張が対立したんですよ

彼らの主張としてはこうです。シンガポール会社法の祖はイギリスから来ているから、「自分たちの職務範囲にある」と。つまり「英米国法に関する法律事務に入る」というわけです。でも、独立国であるシンガポールには独自の会社法があるわけで、英米国法のそれとは異なる。私は準会員たちに「この案件には関与できないはずだ」と強く主張し、実際に排除したのです。案件自体は成功しましたが、彼らには面白くない話だったでしょう。

実は、その前にも伏線があったのです。朝日新聞に取材された際、私は「我が国の渉外法律事務は、いずれ日本の弁護士が、外国人弁護士準会員たちをリプレイスして行うようになるだろう」というコメントを出したんですね。特に他意はなかったのですが、この“リプレイス”という言葉は強く「俺たち正会員が取て代わる」みたいな出方になってしまった。準会員たちにすれば“やばい”。まぁ若気の至りもあったけれど、でも私には、日本の弁護士として譲れない矜持もあたのです。
これら私の言動が恐れを招いたのか、目前に控えていた実質パートナーへの道は閉ざされてしまた。「君をパートナーにするつもりはない。今の身分のままなら事務所に残ってもいいが」。そんな仰天かつ屈辱的な宣告を受けたら、居残るわけにいかないでしょう。それまでの10年間、ずいぶんお世話になりましたが、結局、私は事務所を辞める決断をしたのです。(以下略)
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■プロフィール

  • 日比谷パーク法律事務所
  • 弁護士・元最高裁判所判事
  • 濱田 邦夫
  • 1936年 5月 24日 兵庫県神戸市生まれ
    1959年 10月 司法試験合格
    1960年 3月 東京大学法学部卒業
    1962年 4月 司法修習修了(14期)弁護士登録
    (第二東京弁護士会)妹尾晃法律事務所入所
    1964年 4月 アンダーソン・毛利・ラビノウィッツ法律事務所に移籍
    1966年 6月 ハーバード大学ロースクール修士課程修了(LL.M.)
    1972年 4月 柳田濱田法律事務所設立
    1975年 4月 濱田松本法律事務所設立
    1981年 4月 第二東京弁護士会副会長
    1982年 4月 日本弁護士連合会常務理事
    1991年 4月 IPBA(環太平洋法曹協会)初代会長
    2001年 5月 最高裁判所判事任官(06年5月退官)
    2006年 6月 弁護士再登録、森・濱田松本法律事務所客員弁護士
    2007年 11月 旭日大綬章受章
    2011年 6月 日比谷パーク法律事務所
    客員弁護士
  • 家族構成=妻、息子2人、娘2人、孫4人
  • ■役職など

  • 京浜急行電鉄(株)社外監査役/日本コアパートナー(株)、くにうみアセットマネジメント(株)、イハラケミカル工業(株)各社外取締役/(株)ブロードバンドタワー社外取締役・監査等委員/一般社団法人太陽経済の会会長/World Justice Project Honorary Co-Chair/裁判者経験者ネットワーク共同世話人