Vol.94
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HUMAN HISTORY

技術革新の波や社会の価値観の変化を敏感に感じ取り、自分の頭で考えていく。そうした法律家が求められている

西村あさひ法律事務所・外国法共同事業
弁護士

髙部 眞規子

音楽に親しんだ少女時代。〝生涯の仕事〟を求め上京、司法試験に向かう

元裁判官としての髙部眞規子のキャリアは40年以上に及ぶ。任官した1981年当時の女性裁判官は全国でも数十名、裁判官全体の2、3%という状況で、髙部は文字どおり草分け的な存在として裁判実務の第一線に立ち続けてきた。キャリアの後半は、22年以上にわたり、知的財産権分野のスペシャリストとして活躍。過程においてはエポックメイキングな判決にも関与し、2018年には女性として初めて知的財産高等裁判所長に就任した。「充実した裁判官人生を送ることができたのは、知財という専門分野を持ったおかげ」と振り返る。定年後は弁護士に転身し、その知見を生かしながら知財政策や知財教育に尽力。変わらず多忙だが、新たな場での挑戦にさらなる意欲を見せている。

高校を卒業するまで島根県出雲市で育ちました。幼い頃から音楽が大好きで、私にとってはずっと身近な存在です。4歳からピアノを習い始め、もとは母の勧めでしたが、すっかり夢中になって。小学校では合奏団に入団し、こちらではエレクトーンを担当していたのですが、我ながらよく頑張ったと思うほど日々練習に明け暮れていました。合奏団を率いる先生が熱血指導者で、私たちを育ててくださったのです。県や中国地方の大会で優勝するようになり、5年生の時には、NHK主催の「全国学校音楽コンクール」で全国優勝。上京して、NHKホールでの記念演奏会に出演できたことは一番の思い出ですね。

「ピアニストになって音楽の都ウィーンへ」――小学校の卒業文集に書いた夢です。実際、ピアノは高校を卒業するまでレッスンを受け続け、ピアノの先生も私の夢を実現できるようにと応援してくれていました。ただ、高校生ともなると、世界のレベルには届かないだろうということがわかってくるし、加えて、聴き手によって評価が左右される音楽の道に進むことにも不安を感じて、結局断念しました。

通った県立出雲高校には、普通科のほかに「理数科」というのが1クラスあって、私はこのクラス。当時は比較的成績のよい生徒が理数科に入るという流れがあり、深く考えずに選択したのですが、実際のところ、理数系の科目は性に合っていました。答えがぱっと出て、正解がはっきりしているから。ただ、私は途中で法学部への進学を決めたので、大学受験に関係のない数学Ⅲや物理、化学を履修するのは少々退屈な時間にも感じました。でも、それが後の知財事件を担当するのに役立つことになるのだから、わからないものですよね。

法学部を目指すようになったのは父の影響です。父は大正生まれながら「どんな状況でも生き抜くことができるよう、女性も確かな仕事を持つべき」という教育方針を持っていて、そのためには何か資格を取る必要があると。父自身が法学部出身だったということもあり、身近に感じたのもあります。この段階では具体的な人生設計はなかったけれど、弁護士という職業が頭の隅にあったように思います。

目指したのは東京大学。生涯にわたって仕事をするならば、東京に出たいという思いもあった。ただ、受験に際しては「近くに予備校などなく、全国のレベルもわからなくて不安だった」。担任の勧めを受けてZ会に入会し、通信教育で受験勉強を補ったという。もとより学業優秀な髙部である、Z会でも成績優秀者の常連となり、結果、東大文一に現役合格を果たした。

田舎から出てきた人間にとっては、見るもの何にでも興味が湧くというか、ワクワクしましたね。友達といろんなところへ出かけたりして、教養学部の駒場時代は本当に伸び伸びと過ごしていました。アルバイトは家庭教師だけ。一人暮らしだと家庭の味が恋しくなるから、夕食付きを必須条件にしてやっていました(笑)。

周囲が完全に司法試験ムードになったのは3年生になってから。当時は合格率2%未満という狭き門でしたが、なかには3年生のうちに受かる人もいて、やっぱり東京は違うなぁと思ったものです。そして、印象に強く残っているのは刑法のゼミ。刑法の大家である平野龍一先生のゼミに入ったのですが、最初から、みんなものすごい議論を交わすんですよ。その内容がとてもついていけないと思うくらいに高度で、優秀な人が多いということも実感しました。

そのなか、司法試験に向けて準備をしていなかった私は、どうしよう……と。みんなが目の色を変えて試験勉強を始めている状況に焦りました。当時は予備校などもほとんどなかったから、仲のいい友達、女性5人で勉強会を設けて準備に臨んだのですが、思うように進まずで。

それで、司法試験に現役合格した先輩にインタビューしてみようと。「どうやって勉強したのですか」を聞きに行ったわけです。すると、「東大の試験で優の成績が取れるようちゃんと勉強していれば受かるよ」と言われ、本当かなぁと思ったのですが(笑)、そのアドバイスに従って方向性を定め、友達と一緒に勉強を進めるようにしました。ちなみに、勉強会で指導してくれたのが、後に結婚する夫です。

2021年9月、裁判官を定年退官し、翌10月、西村あさひ法律事務所にオブカウンセル弁護士として入所。長年の判事経験を生かし、弁護士からの相談に対して「裁判官はどう考えるか」という視点で、知財関連分野を中心としたアドバイスを提供している

修習時代に尊敬できる裁判官と出会ったことが、私の背中を押した

裁判官の道へ。仕事と家庭の両立に全力を尽くす

当時の司法試験は新年度の早い段階で実施されていたため、髙部はそのスケジュールに向けて、3年生の1年間を一気呵成の勉強に充てた。そして甲斐あって、78年、晴れて一発合格を果たしたのである。翌年に大学を卒業して司法修習に入った頃は、漠然と弁護士をイメージしていたが、最終的に選んだのは裁判官としての道だった。

仲間うちでは、まずは司法試験に合格しようというムードのほうが強く、どの法曹の道に進むかといった具体的な話はあまりしてきませんでした。ところが、修習に入ると、同じ学年で合格した人たちがこぞって裁判官になると言い出しまして。そういう周囲を見ていて、裁判官という道もあるのかとあらためて気づき、意識が向くようになったのです。

まず、修習時代に指導いただいた裁判官がとても尊敬できる方々だったというのが大きいです。民事の修習をしていた頃の裁判官は、とにかく紛争を上手に解決する方で、「難しい争いなのに、こんなにスパッと解決できるんだ」と驚くとともに、本当にすごいと思いました。また、刑事の裁判長は常に毅然とした審理をされていて、心から「かっこいいな」と。私もこうありたいと思わせてくれたのです。

もう一つ、働き方にも惹かれました。特に民事においては、自宅で判決起案する宅調日があったり、3週間にわたる夏季休廷期間があったり。今でこそ在宅ワークや大型連休は珍しくないですが、裁判所での働き方は当時はとても進んでいたと思います。そして何より、男女差なく仕事ができるということへの期待感ですね。実際、私自身は女性だからといって差別されたと感じたことはありません。むしろ逆です。私が任官した頃は、女性裁判官が少なかったこともあってとても大事にしていただきましたし、任地のうえでは家族の勤務地などの事情に配慮していただくなど、感謝しているぐらいです。

髙部が結婚したのは修習時代。自治省(現総務省)の官僚だった夫は富山県庁に出向中で、当時としてはまだ珍しい別居結婚からスタートしたという。追いかけるような格好で、髙部が富山地裁判事補として裁判官デビューしたのは81年。この任地は本人の希望によるものだったが、それが受け入れられたことを、地元紙は「最高裁 粋なはからい」と報じたという。

富山地裁は小規模庁ですから、あらゆる民事事件を担当しましたし、判決の書き方や論理展開などをしっかり学べた3年間となりました。なかでも基本として身についたのは、実際に現地を見て、自分で理解したうえで判断することの大切さです。

新人時代に印象深い一件がありました。けっこうな山奥にある小学校が統廃合されることになったのですが、その統合先が4キロほど離れていて、「子どもの足では通うのが大変だ」と住民が訴訟を起こしたのです。それにあたって、裁判関係者全員で現場に赴き、新しい小学校まで実際に歩いてみましたが、やはり、とても小学生が歩ける距離じゃないと実感しました。最終的にはスクールバスが出ることになり、住民の請求は棄却したのですが、実際をわかったうえで判断するという意味において、とても印象に残っている事件です。

以降、私は可能な限り現場に行くようにしていました。当事者が気づいていない何かがあるかもしれないから。それは知財も同じで、例えば、類似性を判断する際、写真や図面だけではわからないものです。昨今はWebで審理できることも多くなって、それはそれでいいけれど、実際にモノを見て比べる必要性や、相手の表情を見ながら直接話をしたほうがいい場面は、やはりあると思いますね。

富山地裁での勤務を終えたところで、夫とともに東京に戻り、東京地裁で3年間勤務しました。そこまではよかったのですが、その後、私が千葉地裁松戸支部に勤務していた頃が人生で一番大変な時期で……。

途中で夫が香川県庁に出向し、その間の2年間、ワンオペで育児をしなければならなかったから。長男と長女、二人の保育園児を抱えながら、時間のやり繰りをするのはものすごく大変でした。当時は延長保育などもなかったから、保育園の迎えに間に合うよう5時になったらすぐに退庁し、あとは自宅で判決文を書くという毎日。それでも、自治体の子育てサポートの力を借りたり、面倒見のいい保育士さんやママ友に助けられたりしながら、何とか乗り切ることができた。本当にありがたかったですね。

西村あさひの大手町オフィスにおいて執務するほか、大学院の客員教授として学生の指導、特許庁、文化庁、経済産業省などの公的委員活動、事業会社の社外監査役など、忙しく飛び回る日々が続いている

加えて、この松戸支部では事件の数が非常に多かったのです。私が単独事件を担当するようになったのはここからですが、引き継いだ時は250件ほどあり、どこから手を着けたらいいのか……という状態で。

早く、きちんと解決していこうと強い気持ちで臨むなか、力を発揮したのがチームワークでした。解決に向けては代理人と協力しなければいけないし、そして書記官とも。ことに書記官が提供してくれる情報には紛争解決のヒントにつながるものが多く、それらを統合すると和解が成立するケースがけっこうあるのです。代理人や当事者本人とアイデアを出し合って和解が成立すれば、書記官も喜んでくれました。うまく歯車が回って、たまっていた事件は3年間で半分にまで減らすことができました。もちろん数だけの問題ではなく、チームワークを生かしたり、仕事の仕方を工夫したりするのは楽しく、やりがいがあるものです。

判例が少なかったぶん、自分の頭で考える面白さを知った

学びと経験を重ね、知財分野のスペシャリストとして活躍

その後、高松地裁での勤務を経て、髙部は家族とともに東京に戻る。東京地裁の判事に就任したのは94年、知財分野に踏み出したのはこのタイミングである。「専門的な部署で働きたい」という本人の希望が叶ったもので、ここから髙部の裁判官人生は変遷していく。

高松地裁までの13年間は、行政、労働、医療、交通、建築などあらゆる事件を担当してきましたが、裏を返せば「何も専門的にやっていない」とも言えるわけで、何かしらの専門分野を持ちたいと考えてはいました。折よく異動前に東京地裁への出張があり、希望を聞いてもらえる機会があったものですから、「東京地裁ならではの専門訴訟をやりたい」と。その際に確認されたのが理系の知識の有無で、理数科出身という高校時代の経歴が生きたというわけです。このこともあって、実際に知財部への配置が決まりました。

ただ、希望が叶ったとはいえ、知財法を勉強していたわけでもなく、予備知識ゼロでしたから、最初は大変でした。そもそも事件記録に並んでいる技術用語や、裁判官室で飛び交う専門用語の意味がわからない。裁判長や調査官に教えてもらいながら、個別のケースの論点に特化したところから調べ、学んでいったという感じです。

全体をとおしての理解が進むまでに時間はかかりましたが、でも、私にとってはこれこそが知財の面白さ。当時は教科書的な文献や判例も少なかったから、自分の頭で考えて「こうじゃないか」と自由に発想できることがすごく面白かった。最初は点だったものがつながって、頭の中に知財の世界が広がるような手応えがありました。

裁判長に就任したのはちょうど40歳の時。当時の東京地裁の民事部においては最年少だったので、胸が弾むとともに身の引き締まる思いでした。知財立国が叫ばれるなか、新受事件が急増し、新たな法律問題も次々に舞い込んできた時代でしたから、とにかく鍛えられましたね。模倣品の輸入販売が不正競争行為に該当するとした「たまごっち事件」など、人々の耳目を集めるような事件に巡り合った時期でもあります。
 
98年には最高裁調査官に就任。最高裁判事のいわば黒子として、判例や学説の状況を調査するのが主な仕事だ。髙部は「この時代が一番勉強になった」と振り返る。数多くの大きな事件と相対し、判例の形成にも携わったことは糧となり、確かな自信にもつながった。

なかでも「キルビー事件」と呼ばれる半導体特許をめぐる訴訟を担当したことは忘れられません。00年、この訴訟を機に、日本の特許訴訟が劇的に変わったという点において、私自身にとっても非常に意味・意義が深い仕事です。

従前、侵害訴訟の裁判所は、特許の有効無効について判断することはできないという大審院の判例があり、それが実に100年間続いていたのです。そのドグマのなかで、日本の特許訴訟は様々な問題を抱えてきました。裁判所は特許庁の判断を待たなければならないから、勢い審理が遅い、特許権者に冷たい、権利を狭く解しているという批判につながっていたわけです。

実際、キルビー事件も特許庁で無効審決が出るのが遅かったこともあり、私が担当調査官になった時点で7年も継続していました。もとより、なぜアメリカなどのように裁判所が特許の有効無効を判断してはいけないのか、非効率だと感じていた私は、判例を整理し、現状に批判的な学説なども報告書にまとめて裁判官に提出しました。結果、最高裁は「裁判所が特許の無効理由の明白性の有無について判断できる」と判示し、このことが後の特許訴訟の迅速化につながっていったのです。まさに歴史的な変換点になったもので、調査官としてそのお手伝いができたのは、本当に〝冥利に尽きる〟です。調査官時代はほかにも様々な判例の形成に携わり、勉強や研究を重ねたことで、私は本当の意味で知的財産権がわかるようになったと思っています。

著作権でいうと、東京地裁で部総括裁判官を務めていた頃に扱った「ローマの休日事件」が印象深いですね。映画『ローマの休日』を収録した格安DVDを販売していた業者に対し、著作権を保持していた映画会社が販売の差し止めを求める仮処分を申し立てたもので、争点となったのは著作権の保護期間がすでに満了しているか否か。

というのも、この映画の保護期間が切れるのが03年末、改正された著作権法の施行日時が04年1月1日だったのです。管轄する文化庁の解釈は、12月31日午後12時と1月1日午前零時は同時なのだから「著作権は存続する」で、映画会社もそれに依拠して仮処分を申し立てたわけですが、私はどう考えてもおかしいと。その瞬間は同じでも、法律的には少なくとも日の単位ですから違うでしょう。だから、保護期間は満了したという理由で仮処分を却下しました。

文化庁の見解を覆したということで文化庁の担当者からは批判されましたが、その後、同様の「シェーン事件」で私の判断と同じ最高裁判決が言い渡され、自信につながりました。知財に限らずですが、権威ある組織や人が書いた文献とか、あるいは最高裁判例を「それが先例だから」ときちんと考えないで受け入れてしまうのは危険だと思います。私は自分で納得しないと気が済まないというのもありますが、先例にとらわれず自分の頭で考えることの大切さは、後進にも常に伝えてきたつもりです。

西村あさひIPチームのメンバーたちと。前列左から、岩瀬ひとみ弁護士(49期)、髙部氏、大向尚子弁護士(55期)。後列左から、中村聖弁理士、井深大弁護士(73期)、八木智砂子弁理士、湯村暁弁護士(67期)、樫村亮吾弁理士

大切にしているのは、法律の背景や歴史を伝えていくこと

知財高裁所長を経て新たな活動の場へ――。知財政策や知財教育に尽力

2年半務めた知財高裁所長時代に、髙部が積極的に取り組んだテーマは大きく3つ。「専門化に対する対応」「国際化に対する対応」「情報発信」である。根底には、減少傾向にある日本の知財訴訟を復興させたいという思いがある。

まず、事件を扱うにあたっては、専門的知見をいかに取り入れるかに腐心しました。法廷で技術説明会を積極的に開催し、当事者にプレゼンテーションしてもらったり、専門委員に技術的な知見を説明してもらったりする機会を設けたのです。裁判官は書面では理解できなかった事柄について疑問をぶつけることができるし、これは専門化への対応とともに、訴訟のわかりやすさを追求したものでもあります。

そして、「日本の特許裁判が迅速・適正である」ことをユーザーに訴えていくために重要になるのは、国際交流と情報発信だと考え、具体的なアクションを起こしていきました。大きかったのは国際知財司法シンポジウムですね。日本の裁判所が主催するシンポジウムはこれしかないのですが、最高裁や関係省庁、日本弁護士連合会などとの連携で、17年から毎年開催されているものです。特徴的なのは模擬裁判で、所長時代には欧米やアジアの国々の裁判官を招いて実施しました。準備などがけっこう大変なのですが、知財高裁でしか経験できないことなので、「楽しみながらやろう」と若い裁判官たちとともに張り切って(笑)。

情報発信もとても重要です。知財高裁のホームページには裁判のやり方や判決などについて情報を掲載していますが、英語版を充実させ、できるだけ多くの判例を英訳して載せるなど、情報発信については非常に気を使ってきました。

日本は人口が減っているし、産業も昔と比べると衰退気味でしょう。現状は特許の出願件数も訴訟件数も低調です。改善を重ねてきたことで紛争解決の時間は短くなったし、当事者の衡平は保たれているといっても、それでもユーザーが減っているのはなぜなのか。もっと考えていく必要があると思うのです。官民挙げて、知財復興をしていかないと。これは、私にとっては現在も重要なテーマだと捉えています。

定年前の1年間を高松高裁の長官として過ごし、21年、髙部は西村あさひ法律事務所(当時)にオブカウンセル弁護士として入所。きっかけは、同事務所に所属する先輩に声をかけられたもので、「嬉しく、光栄に思いました」。

仕事を始めた頃は65歳定年でおしまいと思っていたけれど、日本の平均寿命がこんなに延びるとは(笑)。多くの人がそうであるように、私も少なくともあと10年、15年ぐらいは社会のために貢献したいと考えていたので、ありがたいお誘いでした。

事務所では弁護士の相談に乗っていますが、外部の弁護士や弁理士からの相談もありまして、やはり知財に関するものが多いですね。立場が違うと、また別の面白さがあるものです。裁判所では基本的に、原告と被告が出してきた書面を見て判断するので、仮に「こう言えばいいのに」と思ったとしても、立場としては何もできません。でも弁護士ならば、自分の観点に基づいて「こう弁論したほうがいい」「こういう法律構成ができる」という仕事ができるのでクリエイティブですし、それが面白いと感じているところです。

ほかに、早稲田大学大学院では教壇に立ち、企業の社外監査役やいろんな省庁の委員も務めているものですから、ほとんど毎日どこかに出かけている状態ですね。どれも全力を尽くしていますが、とりわけ貢献したいと考えているのが知財教育です。大学院で教えていると、特に社会人の意欲がすごくて、自分が持っているものを伝えていきたいと強く思うのです。大切にしているのは、なぜこういう判決が出たのか、なぜ法改正されたのかといった法律の背景や歴史を伝えること。裾野がしっかりしていないといいものは生まれないと思っているので、そういう教育を大事にしたうえで、次の人たちにバトンタッチしていきたいのです。

法律家になる人たちは、まず法律を理解するところから始まるわけですが、背景や歴史を知ることは、時代の変化を感じることにもつながります。昨今のAIのような技術革新の波、家族観とか個人の価値観の変化、そういったものを敏感に感じ取って自分の頭で考えていく――求められているのはそういう法律家ではないでしょうか。私自身もそう肝に銘じ、次代につなげていきたいと思っている日々です。
※本文中敬称略