Vol.30
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飯田 秀郷

HUMAN HISTORY

強い興味や好奇心を沸き立たせ、一つひとつの事件に徹底的に取り組む。それが、法曹としての実力を上げていく道である

はる総合法律事務所
弁護士

飯田 秀郷

「面白いことだけ」に没頭し、自然な感覚で目指した司法試験

依頼者が問題を抱えて苦悩する日々、例えるなら、それは厳冬の時期。早く春を迎えるために、事件解決に全力を尽くす――「はる総合法律事務所」の名には、そんな気持ちが込められている。フラットな大部屋方式をとる事務所には、いたずらな威圧感がなく、来る者を温かく受け入れる空気がある。飯田秀郷が大切にしている感覚だ。

30年以上、知的財産権に携わってきた飯田は、どことなく学者的な印象を放つ。知財がまだマイナーだった時代から、一つひとつの事件を丹念に紐解き、確かな道筋をつけてきた。表舞台に顔を出さずとも、話題にのぼるような大型案件の多くには飯田の存在があり、同業の弁護士や、弁理士などの専門家から寄せられる信頼も厚い。その根幹を成すものは、飯田の最大の武器ともいえる〝飽くなき知的好奇心〞だ。

今にして思えば、弁理士として働いていた父の影響はあると思うのですが、子供の頃は、父が何をしているのか全然わからなかったし、言葉からすると〝便利屋さん〞みたいでイヤだったんですよ。忙しかったのか、父は仕事から帰っても夜はずっと書斎にこもっていたので、一緒に時間を過ごした記憶がほとんどなくて。子供心に反発心もあって、私自身、弁理士になりたいと思ったことはありません。もっとも毎日遊んでばかりで、将来の夢とか、何も考えていなかったんですけど(笑)。

職業として法律家を意識したのは、高校生になってからです。私が通っていた東京教育大学附属高等学校(現筑波大学附属高等学校)は、いわゆる受験校だと思われているようですが、けっこうユニークな授業があったんですよ。自由課題的なもので、例えば薬害、薬の効能についての問題点を探れとか。そうすると、私なんかは企業の研究所に出向いて、インタビューするわけです。高校生なのに、生意気にも電話でアポを取って(笑)。そんななか、友人からよく言われたのは、「お前は調査をしたり、文献を探し出すのがすごく上手い」。それからですね、進路として、漠然と法学部を考えるようになったのは。

本来、私が好きだったのは物理なんですよ。〝覚える〞ことがきらいなので、社会とか歴史の類は苦手。公式などを暗記しなくても、原理で答えを導き出せる物理が性に合っていたんです。だから研究者を目指すという選択肢もあったのですが、そんなに才能があるとは思えなかったし……。で、物事を論理的に考える法律学なら、自分に向いているかもしれないと。司法試験で問われる記憶力については、のちに苦労したんですけどね(笑)。

「面白いことだけが好き」だったから、飯田が熱心に取り組んだのは、勢い理系の勉強ばかり。よって、最初の東大受験は失敗に終わり、浪人して翌年に向けて備えるも、今度は東大紛争によって入試そのものが中止。その1969年に、飯田は一橋大学法学部に進学する。同校も余波を受け、講義などほとんど行われなかった時代である。

入学したものの、最初の2年ほどはロックアウト状態だったから授業もないし、部活動ばかりしていました。尺八部です。もともと、中学生の頃から独学でフルートを始め、高校ではオーケストラ部に所属してずっと続けていたんです。その延長で、今度は尺八。「邦楽部尺八学科です」と名乗るくらいに、ひたすら吹いていました(笑)。

一方で、入学当初から司法試験を受けることは考えていたので、法学部の仲間たちと「法学研究会」というのを立ち上げたんです。新設だから、部室も何もない状態でしょ。「自分たちで掘っ建て小屋でも建てるか」という話になって、実際、工事現場から不要になったプレハブを譲り受け、それを大学の空き地に建てて。そこが、部室代わり。学園紛争で学生もいないし、勉強するのならいいだろうと、大学も許可を出してくれた、いい時代ですよ。

司法試験を目指す法学部の学生が、60人ほど集まったでしょうか。先輩を指導者にして、私も1年の時から勉強を始めていました。でも、そこは学生だけのゼミですからね、基本書をじっくり読むとか、わけのわからない議論をするとか、あくまでも勉強していた〝つもり〞。その程度だったから、3年で初めて受けた司法試験では一蹴されてしまいました。短答式でアウトです。とにかく暗記型の勉強が苦手でしたから(笑)。2回目も同様の結果で、その時はさすがにショックでした。周りの同級生がバーッと合格していったし。私は論文で勝負したいと思っていたけれど、もう記憶力が弱いなどと言っていられなくなって、心機一転、留年を決めて猛烈に勉強しました。大学の授業も有効に活用して、毎日10時間。そして3回目のチャレンジで、合格できたというわけです。

鍛えられた3年間のイソ弁時代を経て、事務所開設へ

74年、大学を卒業した飯田は、修習生として福岡で新たなスタートを切る。優秀な成績と、真面目な人柄が見込まれたのだろう、裁判官や検察官からの〝誘い〞もずいぶんあったそうだ。「裁判官もいいかなぁ」と思っていた飯田だったが、最終的に弁護士の道を選んだのは、「自分で一から料理をつくりあげる感覚」が、性に合うと考えたからである。

本当はね、修習の地は東北か北海道を希望していたんですよ。司法試験に合格したら遊び心が出て、スキーがしたかったから。にもかかわらず、面接官から「どこでもいいんだろ? 九州はいいぞ」なんて言われて。強くも出られず、思惑は外れました(笑)。

まぁそんな調子なので、修習中は、周りから「お前、客からお金なんか取れるのか? 大丈夫か?」と、よく言われたものです。高裁の裁判官から「一緒に飲みに行こう」と誘われたり、検察教官がリクルーティングで福岡まで訪ねて来られたこともあったし。だから、最初から弁護士になると決めていたわけではないんです。そんななか、実務修習の弁護指導教官だった田邊俊明先生と出会ったのですが、先生は、穏やかな学究タイプの方で。お若い頃から弁護士として大活躍されているのを目の当たりにしていましたし、日弁連の副会長にもなられたんです。その田邊先生を見て、「私もいけるかもしれない」と思ったのです。裁判官も魅力的だったけれど、人に用意された料理を食べるような感じがして……私はやっぱり、一から料理をつくりたかった。自分で〝いい筋〞を立て、事件を解決していく醍醐味は、弁護士ならではのものですから。結局のところ、調査や文献探しが好きだった高校生の頃の感覚と変わってないですね(笑)。

修習を終え、東京に戻った飯田は、遠縁の紹介で「山本栄則法律事務所」に入所。5名が在籍しており、当時としては大きな規模の事務所で、取り扱い業務も幅広く、知財もその一つだった。しかし、飯田が〝その芽〞を出すのはまだ先のことで、ここでの3年間は「種々雑多、何でもこなした」。弁護士としての基礎体力を身につけたイソ弁時代である。

いきなり証人尋問もやりましたし、とにかく忙しくて、バーンと大海に投げ込まれたような感じでした。「3年間いれば、何でもできるようになる」という事務所で、実際、鍛えられましたね。逆の言い方をすれば、3年で独立できなかったら、それは能力がないということ。そんな雰囲気です。だから何のアテがなくても、時期が来れば自力で漕ぎ出さないといけない。私は30歳で事務所を開設しましたが、実際は、そういう流れだったのです。独立する時は、「一緒にやろう」と弁理士の父を引っ張り込んで。仕事で直接的な接点はなかったのですが、経費を出してもらうために(笑)。新橋の古いビルの一室で、事務員1人、電話1本。そこからのスタートでした。

私にとって第1号となる特許事件を受けたのは、独立する直前です。時を同じくして担当していたのが、読売ジャイアンツの江川事件。あの「空白の1日」と言われる事件です。山本栄則先生がジャイアンツの顧問をしていた関係で、私は江川側として対応に追われていたのですが、その渦中に受けたのが、特許権侵害で訴えられた自動車部品メーカーの仕事でした。江川事件でカンヅメ状態の時期だったから、時間をつくって一生懸命対応したものの、意に反して、侵害を認める仮処分決定が出てしまった。製品の製造・販売ができないわけですから、これはまずいと。私は独立してからも継続して戦いました。特許の無効審判請求を特許庁に提起し、最終、本案で逆転勝訴するまで、実に13年もかかったんですよ。今のように、特許侵害を審理する裁判所が特許の有効性を判断することはできなかったし、とても時間と労力を要した時代です。

争点になったのは自動車のピストンリング部分で、それを高炭素鋼として鋳込む時に重要になる炭素の含有量を調べる方法についての特許技術です。訴えに反撃するためには特許無効に持ち込む、つまり、特許申請時にはその技術が公知であったか、そこから簡単に発明できたことを証明しなければならない。金属組織学なんて難しいですから、初めのうちは何もわかりませんよ。専門の大学の先生を訪ねて教えを請うたり、図書館の虫になって文献を読みあさったり。そうやって少しずつ理解を進めていくうち、ある時フッと、突破口になる事実に気づいたのです。その〝宝〞で勝つことができた。わからないことを紐解いていく面白さ、新しいことを知る喜び。やはり性に合っていたし、長い年月をかけて勝利したこのデビュー戦が、現在の私の基盤となりました。

数々の実績を挙げ、「知財弁護士」として第一人者に

飯田 秀郷

わからないことを紐解いていく面白さ。新しいことを知る喜び。知財は私の性に合っていた

事務所を維持しなくてはならないから、倒産処理や一般民事など、様々な事件に取り組んできた飯田だが、〝13年の戦いぶり〞が名刺代わりとなり、次第に知財の仕事が舞い込むようになった。現パートナーである栗宇一樹弁護士と共同して、「飯田・栗宇特許法律事務所」を新たに開設した91年頃から、飯田は本格的に知財へと軸足を移していく。

当時、特許権侵害訴訟を取り扱う大手の専門法律事務所は数えるほどしかなく、原告側に立つのも、勢い大手の法律事務所になる。訴えられた中小企業のほうは、そういう力のあるところに頼めないわけです。それに加え、知財事件を受けられる先生も少なかったのです。私はそういうのを拾って、〝大〞に噛みついていくと(笑)。だから、私は初めのうちは被告側が多かったんです。特許権者側というのは、全方位で防御しないといけないのですが、被告サイドとしては、どこか相手の弱いところを探し出して、そこを叩けばいい。集中して正面突破する、それが私のやり方です。もちろん勝訴ばかりではありませんが、こういう戦いはやりがいがあります。

知財にまつわる法律相談も増えてきました。特許権侵害にならないよう開発を進めるにはどうすればいいか、あるいは、ライセンス供与する際の価値鑑定など、こちらは大手企業が多いですね。仕事に全力を尽くし、評価をいただけると、クライアントはつながっていくものですが、私自身も営業活動はしてきたんですよ。弁理士の先生方との連携も大切な仕事なので、私も弁理士登録をして、会合に顔を出したりネットワークをつくったり。子供の頃は、弁理士に興味がなかったのに(笑)。そこからの紹介や、知り合いの弁護士から相談を受けるかたちで、クライアントが増えていったという感じです。

最近になって、飯田は過去の判決数を数えてみたそうだ。知財だけで約250件。本人も意外だったようで、「100件ぐらいかなぁと思っていた。終わったら、すぐに忘れるから」と笑う。事件一つひとつ、対峙するのは〝発明〞であり、その技術・開発領域は多岐にわたる。それらを取り扱うのは大変な力仕事で、膨大な知的エネルギーを要する。無自覚ながら、飯田は次なる事件のために、常にリセットしているのかもしれない。

集中力の反動なのか、もともと記憶力が悪いからなのか、本当に忘れちゃうんですよ。依頼者から「あの時はこうでしたよね」と言われても、「そうでしたっけ」。そんな調子です(笑)。勝訴率としては、7、8割くらいでしょうか。一審では負けたとしても、最終的には勝つという長丁場での戦いが、私の得意とする基本スタイルですね。

飯田 秀郷

そういうわけで、過去の事件はあまり覚えていないのですが、一つ挙げるとすれば……パチスロ機の最大手、アルゼ(現ユニバーサル)が特許を侵害されたとして、同業のサミーに損害賠償を求めた事件。私は、訴えられたサミー側の代理人です。10年以上前の事件ですが、一審の東京地裁では、特許侵害を認め、サミーに約74億円という賠償を命じる判決が出た。今は抜かれましたけど、当時、特許権侵害訴訟としては史上最高の額で、マスコミにも大きく取り上げられた事件です。

問題になったのは、一定条件を満たすと、プレイヤーの技量でスロットの絵柄をそろえることができるシステムの特許です。この特許をアルゼが持っていた。私は、「本当にそれが発明か」と思うところもあったので、徹底的に調べ、一審判決が出る前から特許庁に無効審判を請求していたんです。しかし、先に74億円の敗訴判決でしょ。裁判所で言い渡しを受け、肩を落として事務所に戻ったら……なんと直後に、特許庁から特許権を無効とする無効理由通知書が届いたのです。大どんでん返し。嬉しかったですねぇ。その審決の取り消しを求めたアルゼとは、控訴審での戦いになりましたが、結局、特許無効が確定したことで請求棄却に。賠償はゼロになったのですから、大勝利でした。

近年、特許訴訟での損害賠償額は高額化していて、特許権の価値は急速に高まってきた感があります。高度な技術から生まれる発明というものを、適切に保護する役割を担っている特許庁の責務は非常に重いものですが、それは私も同じこと。特許権を取り扱う弁護士として、特許庁や裁判所で適切な判断が得られるよう、あらゆる技術分野に視野を広げることが必要だと、つくづく感じています。

さらなる深耕に向けて。エキスパートとして走り続ける日々

時代の流れとともに、知財の世界もまた、変遷を遂げてきた。一つ顕著なのは、知的財産訴訟の迅速化である。裁判所が精力的に審理の改善や工夫をこらし、関係する弁護士もこれに対応する努力を積み上げ、現在では、平均して1年以内に解決するようになった。かつて、デビュー戦で13年を要した飯田にとっては、隔世の感がある。

知財高裁が設立され、習熟した人材も投入されたことで、ものすごくスピードアップしたし、非常に精度の高い判決が出るようになった。グローバルな特許戦略において、日本が圧倒的に早く、いい判決を出すタイミングが得られたのです。だから、例えばアメリカと中国、日本で特許権侵害があって、どこで裁判をやるかという時に、日本が選択肢の一つに〝なりかけた〞。

ところが残念なことに、権利を無効にする傾向が強く、「日本で裁判をすると知財権がなくなっちゃうよ」という見方になってしまった。せっかく強くなりかけた日本の司法の国際競争力が、今はありません。なかには無効になるべき特許権もありますが、あと知恵で「こんなの簡単じゃないか」というのは、どうかと思うんですよ。企業の発明精神を萎縮させてしまっては元も子もないし、それは、ひいては日本の国力に影響してくる話ですから。

私は職務発明訴訟に関わっていますが、これも今、問題に感じていることですね。日本では毎年約35万件の特許出願がありますが、大半は職務発明です。その状況下で、企業の知財部はといえば、発明の評価をし、相当だと思える対価を支払う規定づくりに頭を悩ませている。果たしてその発明が特許権になるのか、商品化できるのか、不明確なことが多いので、まずは出願時に低額の補償金を支払い、あとは実績に応じて対価を支払うというのが一般的で、実際には多くても数十万円の話です。それが、訴訟となって裁判所に出てくると、対価請求として認められる金額の平均は、1億円弱。大変なギャップがある。こういった訴訟リスクも、企業の発明精神を萎縮させてしまいます。知財が経済社会に与える影響は、とても大きい。事件に全力投球するのはもちろんですが、文筆活動なども通じて、課題解決に向けた自分なりの貢献をしたい、そう強く思っています。

飯田 秀郷

現在、はる総合法律事務所に在籍する弁護士は8名。事務所全体としては会社法務や不動産、相続などの業務も取り扱っているが、飯田自身は、特許権侵害訴訟を中心に知財100%。文字どおりエキスパートとして、今なお研鑽を積む日々だ。

一時、知財にも花形の時期があって、「知財弁護士になりたいです」と、うちに100人近くの修習生が応募してきたこともあったんですよ。でも、知財が何たるかを語れる人は、ほとんどいませんでした。知財というのは本当に力仕事だし、軽い気持ちで入ってくると、大変なことになります(笑)。

能率だって悪い。毎回ゼロから、わけのわからないところから始めるんですからね。普通の民事事件のように、〝勝ち筋〞なのかどうかも見えない水物です。それを何とか、強い興味や好奇心を沸き立たせて、理解を進めていく。自分がわからないことは、絶対に相手を説得できないし、その発明技術については裁判官はもっと素人でしょ。その裁判官を自分の有利なほうへ引っ張ってくるには、どういう工夫をするか。それを考えるのが醍醐味なんですよ。依頼者からお金をいただいて、自分で方針を決め、失敗したら信頼を失うというプレッシャーのなかで工夫をしてこそ、初めて弁護士だといえるのです。「ピストンリングの金属組織学なんて関係ないや」と思えば、それまで。知的エネルギーをずっと持ち続けなければ、できない仕事です。私自身が「面白くないなぁ」となった時が、引き時なんでしょうね。

知財に限らずですが、自分から興味を持つようにしながら、一つ一つの事件に徹底的に取り組む――それが、法曹としての実力を上げていくための真理だと思うのです。若い先生方には、その姿勢を大切にしてもらいたい。勝ち負けだったり、経済的なことだったり、目先のことに因われずに。「お金は、仕事のあとからついてくる」。これは、揺らぐことのない真実です。

※本文中敬称略