Vol.82
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弁護士 荒 中

HUMAN HISTORY

定められている弁護士使命の下、“道なき道”を切り開いていく――。
そこには、何にも代えがたいやりがいと面白さがある

荒総合法律事務所
弁護士

荒 中

硬派で真面目な野球少年。
大学時代に自分と向き合い、自然体で生きるように

仙台市を足場に40年間走り続けてきた荒中(あら・ただし)の活動を端的に表すと、それは“救済”だ。1980年代にはいち早く消費者問題に取り組み、以降、高齢者・障害者支援にも心血を注ぐなど、常に被害者や社会的弱者救済の道を模索し、切り開いてきた。信条は「現場に立ち、現場の声を聞く」。肌で感じた法制度の課題や運用の問題点を看過せず、声を挙げて改革に結び付けた実績も少なくない。

日本弁護士連合会会長に就任したのは2020年。平成の時代以降、東京や大阪の弁護士会以外から選任された初の会長となった。任期中のほぼすべてが新型コロナ禍という極めて異例な環境ではあったが、荒はむしろそれをパワーに変え、多事多端な2年間を全うした。先例のない“道なき道を行く”のは荒自身が好み、得意とするところだ。任期を終えた今もなお、チャレンジは日々続いている。

生まれ育ったのは、宮城県に隣接する福島の相馬市。海、山、川と自然が豊かで、野性児のように遊び回ったものです。今も原子力の問題さえなければ、子どもたちが存分に水遊びできるようないい場所で育ちました。いつも動いていて、「目を離すと何をするかわからない」と手を焼かれるほど、やんちゃな子でしたね。足も速かったし、そのぶんスポーツが得意で、小学校高学年から始めたのが野球と剣道。中学では野球部のキャプテンを務め、朝から晩まで仲間と練習に明け暮れるという日々でした。ちなみに、中学校始まって以来の県大会出場も果たしたんですよ。走るほうも磨きがかかり、北相馬の陸上大会では短距離走で優勝したこともありますし、思えば、この頃が私の絶頂期だったかもしれません(笑)。

地元の県立相馬高校に進学したのは、その前年に理数科が新設されたから。理系の科目が好きで、漠然とながらも理系に進みたいと考えていたんです。週のうち、半分くらいは理科と数学を勉強するという環境で、実際、高校3年の秋までは東北大学の工学部に進むつもりでした。でも、次第に必須科目である物理が嫌いになったというか、理解できなくなった。これはもう致命的、工学部には行けないでしょう。それで、3年の秋に文転。周囲からは「お前、何考えているんだ」と言われたけれど、如何ともしがたい話ですからねぇ。

ただ、東北で生まれ育った人間にとって仙台はやはり憧れの地なので、東北大受験はしようと。この頃は具体的な職業イメージもなく、正直、法学部を選んだのは消去法でした。教師だった母の大変さを見ていたから、教育学部は絶対になし。文学的な才能はない。経済もよくわからなくてピンと来ない……と、消去法にしていったら法学部が浮上したわけ。法律を学んでいれば、将来の選択肢が幅広いようにも思えましたし。いずれにしても、司法試験の存在などまったくアタマになかったという話です。

受験直前の文転ながら、東北大の法学部に現役合格した荒は、憧れの地・仙台で一人暮らしを始める。「とにかく遊ぶのに忙しく、友だちと学生生活を満喫した」と振り返るが、何より“本当の自分”と向き合った大学時代は、荒に、何にも代えがたい財産をもたらした。「ありのままでいいんだ。自然体で生きていく」――自分自身を開放した先に到達したこの考え方は、今日まで貫かれている。

パチンコ、麻雀、お酒。親からは「大学に入ったら不良になった」と言われるほどに遊びまくっていました。中・高時代の私のイメージとしては、概ね“真面目”といったところでしょうか。野球部のキャプテンとして厳しいことも口にしていたから、下級生からは硬派な先輩として恐れられていたと思う。それが大学に入って生活が一変し、反動もあったのか、どこかで“いい子”を意識していた私が本当の自分というものをすごく考えるようになったのです。持たれているイメージは、実は違うんじゃないかと。そして、友人らとの付き合いを通じて、「やりたいことをやる」「言いたいことを言う」と自分をさらけ出すうちに、ありのまま、自然体でいいのだと思えるようになった。殻を破ったというか、つまりは“自分壊し”をしたわけです。こういう時間と、生涯にわたる友人を得られた大学生活は、私にとって宝物ですね。

他方、学業でいうと、当時の法学部はとりわけて教授陣が素晴らしかった。なかでも民法総則の幾代通先生、物権法の鈴木禄彌先生、債権法の廣中俊雄先生、この民法三羽烏と称される先生方がそろっていて、他大学からも羨ましがられるほどの環境でした。3人から直接教えを受けるのは、優秀な学生にとっては天国、でも、私みたいな遊びに忙しい人間にとっては地獄ですよ(笑)。残念ながら、その時はありがたみがわかっていなかった。単位は「取ればいい」程度の感覚でしたから。当然のこととして、専門教育が始まった以降は勉強もしたけれど、まだ、司法試験はとても身近に感じられるものではありませんでした。多くの学生がそうであったように、4年生の時に記念受験をした程度です。

何をやりたいか、はっきりしないまま就職活動をするのもどうかと思い、結局、留年することにしました。当時は1留ぐらいであれば就職に影響なかったし、勉強しながら先を考えていこうと。4年の秋に卒業を見送ったあたりからですかね、「せっかく法学部に入ったのだから、司法試験を目指そう」と本気になったのは。私は、エンジンをかけるのが本当に遅かったんですよ。

弁護士として一カ所に根を下ろし、しっかり深く仕事をしたいと考えた

仙台の弁護士としてキャリアをスタート。
業務と会務を両輪に活動する

いったん環境を変えようと、荒は東北大に籍を置きつつ千葉の親戚宅に移り住み、受験勉強に備えることにした。ここから、思いがけない展開となる。予備校で出会った司法試験合格者のアドバイスによって、荒は慶應義塾大学の司法研究室(当時)のゼミに参加することになり、ここで一気呵成に勉強した。動いたことが好機を呼び込み、結果、翌々年には合格している

司法試験の合格者が授業を行う予備校に入ったんですけど、その時に、相談を持ちかけた講師が私を導いてくれたのです。何を相談したかというと、「司法試験は社会人になってからでも目指せるでしょうか」。留年といっても時間に限りはあるでしょう。どこかで、就職という保険的な考えを持っていた私は、司法試験の勉強は先々にわたって続ければいいと思っていたんです。そうしたら、「やめなさい。本気で人生を懸けてやらなければ、この試験は受かりませんよ」とバッサリ。さらに、件の講師は「合格に責任を持つから」と、母校で主催するゼミに誘ってくれたのです。で、私は慶應の学生たちと一緒に勉強することになった。わざわざ東北大からと驚かれましたが、垣根なく受け入れてもらえました。「人生を懸ける」と意を決して、それからは短期決戦。運よく、東北大を卒業した79年に合格することができました。わからないものですよね。でもきっと、自分の感覚に素直に動いたことが、この運命的ともいえる出合いにつながったのだと思います。

修習は希望どおりの仙台です。当時の合格者は約500人、北から南まで全国の仲間と付き合うのが本当に刺激的で、異常なほど楽しかった(笑)。私たち34期というのは、「うるさくて楽しい」です。もちろん起案も大事だけれど、互いに刺激し合い、皆が自分を磨くことに価値を置いた時期だったと思います。法曹界に飛び立つ前に、自分たちの可能性をもっともっと高めようという、共通する思いがありましたね。

法曹三者のなかで弁護士を選んだのは、一つには民事も刑事も扱うという点。そして、一カ所に根を下ろしてしっかり深く仕事をしたいと考えたからです。仙台での実務修習を通じて、そういう働き方をしている弁護士たちの姿に影響を受けました。教官からは「裁判官として、各地、各地で事件解決をしていくのもいいんじゃないか」と言われたんですけど、数年ごとの転勤は落ちつかない。30年後、50年後も同じ地で仕事をしていたいと考えたのです。それが仙台、今日に至っています。

弁護士 荒 中
荒総合法律事務所(宮城県仙台市)の所属弁護士は、荒氏を含めて5名。前列左・松尾大弁護士(49期)、後列左から、荒圭一朗弁護士(69期)、北林愛弁護士(73期)、金子享平弁護士(66期)

徹底的に叩き込まれたのは、人権擁護と社会正義の実現という弁護士の使命

「荒総合法律事務所」を開いたのは85年、30歳の時である。それまでの3年間は、やはり地元で活動する織田信夫弁護士に師事し、勤務弁護士として鍛練を積んだ。元裁判官である同弁護士の下には、誰もが手余すような事案も持ち込まれ、荒にとっては学びの多いイソ弁時代となった。そして、弁護士登録と同時に仙台弁護士会に入会したことで、荒の活動は大きく広がっていく。

織田先生ははっきりモノを言う理論派弁護士で、何か一つ聞くと、その場で文献が3つも4つも出てくるような感じ。裁判官をしていた経験から、複雑な事案の控訴審を任されたりもしていました。ただ大学生の頃と同じですよ、素晴らしい先生なのに、いかんせん私に力がないので3年間では吸収しきれなかった。今も先生に学び続けていますが、こと、新人時代にきっちり仕込まれたのは、「一つひとつの事象は自分が感じたこと、考えたことで判断する」です。特定の主義主張に影響されず、自分の考えに基づいて行動しなさいという意味合いで、この教えは以降、ずっと私の活動の支柱となっています。

仕事は一般民事から入り、それら業務と並行して勤しんだのが仙台弁護士会の会務です。在野性や反骨精神が旺盛なところでね、私はここで「弁護士の何たるか」を叩き込まれました。我々の使命は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること――それを徹底的に。そして、その使命を強く体感することになったのが消費者問題です。会に入会した80年代前半は、いわゆるサラ金の嵐が吹き荒れていて、全国的な社会問題となっていました。実に上限金利年109.5%の時代、まだ消費者問題という概念が世間に定着していなかった頃です。多重債務が発生し、借金苦による自殺者や倒産が相次ぐ地獄のような事態への対応に走ったのは、我々若手弁護士でした。

今も消費者問題の権威である仙台の吉岡和弘、新里宏二両弁護士が二枚看板となって先頭を走り、ほぼ期を同じくする私たち若手が一丸となって多重債務問題の対応に取り組みました。悪徳な貸金業者と大ゲンカするような仕事ですからね、慣れていないこともあり、先輩先生方はやりたがらない。ある意味、新市場だったわけで、若手にとっては仕事になったし、何より、大きなやりがい、生きがいを感じていました。

いわゆる「クレサラ問題」や、豊田商事事件、ネズミ講などによる消費者被害の多発を受けて、日弁連に消費者問題対策委員会が設置されたのは85年。私は、現場での救済活動と並行して全国的な委員会活動も行い、一層のめり込んでいきました。一時に十数件の依頼を受けて走る現場と、例えば、多重債務者をどう支援していくかなどといった法制度への取り組み。ハードだったけれど、党派関係なく皆で悪徳商法に戦いを挑んだのは、若いうちに力をつける意味でも本当にいい経験になりました。

数々の委員会活動を通じて、権利擁護の促進に尽力する。エキルギーの源は“怒り”

弁護士 荒 中
仙台駅西口と仙台城跡との間を貫くメインストリート、青葉通りにて。「大学時代を含めると約50年間、仙台市に育ててもらいました。異業種連携を推進しながら、このまちに恩返しをしていきたいと思っています」(荒氏)

93年には日弁連の消費者問題対策委員会の副委員長に就き、荒は法制度の整備にも取り組むようになる。以降、高齢者・障害者問題の対応へと、その活動はつながっていくが、根っこにはやはり人権擁護と社会正義の実現に向けた強い使命感がある。多くは法制度が整備されていない領域での支援活動であり、荒はまさに道なき道を進んできたのである。

高齢者・障害者問題に突き進むようになったのは、障害を持つ私の娘のこともありますが、大学の同級生の縁で、保険会社の仕事に関与し始めたのがきっかけです。交通事故に関する諸問題を扱うなか、数々の現場で人々が苦しむ姿を目の当たりにしました。特に、重度の後遺障害を抱えてしまった場合、家庭生活そのものが崩壊する可能性もある。障害者から24時間目が離せず、家族が張り詰めた状態で日々生きるのがいかに大変なことか。つまり、賠償金だけでは贖えない被害を受けているわけです。賠償金が取れればおしまい、という話じゃないよねと。これって考えられていない領域じゃないか、権利擁護の領域じゃないかと、問題意識を持つようになったのです。

だから98年、日弁連に「高齢者・障害者の権利に関する委員会」が設置された時、真っ先に手を挙げて入れてもらったんです。そして、3年後の人権擁護大会で、日弁連としては初めて高齢者・障害者主権の確立というものを提唱しました。私としては、消費者主権の確立をキーワードに活動してきた経験が生きています。高齢者や、図らずも障害者になってしまった人たちの権利が確立された社会をつくらなければならない、そのために必要なルールを考えなければならない。根っこにある思いは同じです。消費者問題、高齢者・障害者問題、いずれも日弁連や仙台弁護士会で勉強しながら道なき道を切り開いていくというやりがいがありました。そしてもちろん、面白さも。

いつも、その時、その時に直面する課題に懸命に取り組んできましたが、エネルギーの源はと問われれば、それは怒りですね。こんなことが許されていいのか、放置されたままでいいのか……という怒りに後押しされて仕事をしてきたように思います。そして、自殺しかねないほどの状態で訪れた相談者が、最後に「先生に救われました」と言って帰っていく時、それはもう弁護士冥利に尽きる。こういう言葉もエネルギーになりますよね。

さらに延長線上にあるのが、法テラスを変えていく活動だ。日弁連の担当副会長を経て、荒が日本司法支援センター推進本部の事務局長に就任したのは10年。「法テラス問題は東京、大阪の弁護士がかかわるもの」とされていたなか、これもやはり、荒が自ら手を挙げている。翌年に発生した東日本大震災においては荒自身も被災者となったが、地元弁護士らによる現場重視の支援活動は、法テラスを変えていく原動力にもなった。

高齢者・障害者もそうですし、消費者被害に遭った人たちの多くにとって、法テラスは救いになる存在です。お金がなくて弁護士に相談できず、大変な思いをしている被害者をたくさん見てきたから、私の関心が法テラスに向いたのは極めて自然なことでした。日弁連の副会長に就任した際、「法テラスの問題をやらせてください」と申し出まして。基本的には法テラス基準の改正、法律扶助制度の大幅な拡充を主張してきました。一定の要件はあるにせよ、立替費用は償還制ではなく給付制、つまりお金の取り立てはしないという制度づくりにのめり込んだわけです。

東日本大震災が発生した時、3県に7カ所の臨時出張所が設置され、私たちはそこを拠点に被災者の救済活動をスタート。現場からは無料法律相談を通じて、制度の課題や運用の問題点が挙がってきました。私自身が被災者の一人ですから、それらは肌で感じることができました。

例えば、被災地での無料相談で、被災者の資産や収入を聞くなどあり得ないとの声が高まり、その要件が撤廃されたのが一つ。また、法テラスでは行政手続きは守備範囲じゃないとされてきたけれど、支援金一つとっても行政手続きは必要でしょう。だから我々は、災害時は法テラスの守備範囲に入れるべきだとし、これを実現しました。被災ローン減免制度についても、現場から二重ローン問題の声が挙がって策定されたもので、このガイドラインは現在のコロナ禍対策にも使われています。こういった運用の改善は、これからもつなげていってほしいですね。

そして震災の翌年、今度は当時の日弁連会長・山岸憲司さんからお声がけいただいて、事務総長に就任しました。2年間、この日弁連の中枢で活動したことは、私にとってものすごく大きかった。言葉を選ばず言えば、事務総長ってすべてを仕切る権力者なんですよ。情報を一手に集め、国会議員や各省庁官僚の人たちと協議をし、一方では予算、決算、人事・労務などといった重要な意思決定にも深くかかわる。要は、日弁連の活動すべてを見ることができる。この経験を通じて思い知ったのは、日弁連の役割の重要さです。政党や国会議員に対する影響力を一定程度持っているのは確かですし、官僚も、司法行政にかかわる裁判官も我々の意見書を見ています。完全な自治権を有する日弁連がいかに重要な役割を担っているか。骨身に染みたというのが、私の実感です。

弁護士 荒 中
4人の子どもたちをともに育て、荒氏が理想とする弁護士人生の後方支援を長く続けてきた妻のひろみさんと。現在も同事務所のスタッフとして、荒氏ならびに所属弁護士の活動をサポートしている

日弁連会長として、数多くの実績を残す。そして今なお、チャレンジは続く

20年4月、荒は日弁連の頂に立つ。会長が会員による直接選挙で選任されるようになった75年以降で見ると、東京・大阪以外の弁護士会からの就任は史上2人目であった。事務総長時代に“やり切った感”を持っていた荒に、当初、出馬する意向はなかったが、「そろそろ地方の会員が選任されてもいいんじゃないか」という気運の高まりが背中を押した。加えて、それまでの活動を通じて、多種多様な人脈を築いてきた荒は、「今こそ人脈が生きる時」と判断、出馬に至ったという。

私は長い道のりにおいて素晴らしい人たちと出会い、そして、互いの立場や相違を尊重しつつ築いた信頼関係の下で、様々な意見交換や共同作業を行うことを実践してきました。その多くの人が責任あるポストに就いているタイミングで、私も応えなければいけないと。達成感があったとはいえ、事務総長経験者としてやり残した課題もあったし、危機感を持っていたのもあります。

緊急事態宣言が出されたのは会長就任直後。いきなり先例の通用しない場面が多々発生し、また道なき道ですよ。まぁ私らしい話ではあるけれど、さすがに胃が痛くなりますよね。正副会長会、理事会、総会は開催できるのか。仮にハイブリッド型で開催したとしても、その意思決定は有効と認められるのか。そして、新型コロナ禍で苦境に立たされている市民や事業者をどう支援していくのか。4月の段階でワーッと出てきたのに加え、日弁連が重要案件として取り組んできた少年法改正問題が最終局面を迎えていて、一方では元検事長の定年延長問題も急浮上。同時多発的、重畳的、そして複合的な世界で、その都度短時間内に的確な判断を下すことが求められるという、緊張感が途切れることのない日々でした。でも、震災での経験があるぶんだけ、私にはアドバンテージがあったように思うし、何より、皆が一丸となって合わせた力は大きかった。

民事司法改革、とりわけ民事訴訟のIT化の課題への対応と法曹人口の検証結果の取りまとめという公約については、任期中のほぼ2年をかけて取り組み、一定の方向性を出すことができました。あと、全国各地や海外に出かけられなかったから、増えた時間を使って皆で取り組んだ仕事もあるんですよ。例えば、弁護士会館の管理・運営を変えてかかる費用を大きく削減したり、長年、一部会員から是正を求められていた弁護士バッジをネジ留め式からタイタック式に改めたり。コロナ禍を逆手に取れば、こういうことにも着手できたわけです。話をすればキリがないのですが、やりたいと思ったことは、しっかりやったつもりです。周囲の人々からは「もういいんじゃないですか」と言われましたので(笑)。

未開拓、未整備の領域に光を当てる仕事にチャレンジしていきたい

もう一つ、若手会員支援策の一環として、荒が「ぜひ実現したい」と臨んだものに「若手チャレンジ基金制度」の創設がある。それを望んでいた新65期から70期までのいわゆる“谷間世代”を対象に募集をかけたところ、500件を超える応募があった。若手育成もライフワークとする荒にとっては十分な手応えがあり、刺激をも受けたという。

「今、どういった公益的な活動をしていますか。何をしたいですか」。この制度は会長退任間際につくったのですが、この募集に対して多数の応募がありました。正確には526件。専門分野での最先端の取り組みや貧困問題への活動など、皆素晴らしい活動をしていて、今後の日弁連の宝物となる活動の具体的な実践例がたくさん含まれていました。こういった若手が存在するのだから、日本も捨てたもんじゃないですよ。私たちも刺激を受けるし、この基金の創設が活動領域のさらなる拡充につながるのを期待しているところです。

私は、司法修習生や若い弁護士に会うたびに「弁護士記章は魔法のバッジだ」と話しているんですよ。バッジを着ければ、やりたいことが何でもできると。このバッジが象徴するものは、先人たちが築き上げてきた信頼です。そして、先輩たちすべての思いが託されている。昨今、弁護士自治の意義や果たしている役割を意識する機会が少ないように思いますが、これを意識すれば、声を挙げるべきこと、やるべきことがもっと出てくるのではないでしょうか。そういったチャレンジを支援したくて、この制度の創設に力を込めました。

私自身もまだまだチャレンジを続けたいと思っています。仙台に戻って早々に取り組んでいるのは、罪に問われた障害者の支援。すでに10年ほど前から関与しているのですが、長崎県に南高愛隣会という最先端の活動をしている社会福祉法人があって、私は弁護士としてこれを見習い、司法と福祉の連携による支援体制の整備をお手伝いしたいのです。これについては、日弁連で枠組みづくりの準備が始まっています。再犯をどう防止するか。罪に問われた障害者や薬物依存症などの人たちを、地域はどう受け入れていくか。多様な人を受け入れるという意味で、これは地域をつくり変えていく突破口にもなる。受け皿づくりとしては、現状、日本はかなり遅れているんですよ。当面は、この遅れている部分に光を当てていく仕事を仙台でやっていきます。どんなに挫折感を味わったとしても、私はやっぱり道なき道を突き進むのが好きなんですよね(笑)。

※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。