格闘技や音楽などに没頭しながら、多感な日々を過ごす
「事業再生は人を再生すること」。二十数年前、初めて関与した和議事件をきっかけに、そう悟った三村藤明は、「事業再生を弁護士としての一生の仕事にする」と心に決めた。以降、積極的に数多くの会社更生・民事再生・私的整理案件に取り組み、その技量を磨き、今では事業再生・倒産のあらゆる分野に精通する第一人者として、確固たるポジションに立つ。代表的案件としては日本国土開発、千代田生命保険、マイカル、日本ランディックなどが挙げられる。“一人事務所”時代から幾度の合併を経て、2015年にはアンダーソン・毛利・友常法律事務所に参画。その都度、大きなステージアップを図ってきた三村だが、それらは戦略的なものではなく、決めた一本道を走り抜けてきた日々が引き寄せた結果である。時代や環境がどう変わろうとも、三村のスタンスに変節はない。「人が生き返る瞬間」を求めて、常に全力を尽くすということだ。
とにかく利かん坊で、ケンカばかりするものだから、幼稚園は3カ月で中退というのが僕の最初の経歴(笑)。両親の実家が山口県上関町の長島にありましてね、子供の頃は毎夏、そこで力いっぱい遊びながら過ごしたものです。海で魚や蛸を獲ったり、島で行われる4日4晩の盛大な盆踊りに夢中になったり。年上のいとこや、遊び相手をしてくれる島のお兄ちゃんたちから、おませな遊びも早くから教わって、本当に楽しかった。
島での経験は、僕の人格形成に大きな影響を及ぼしています。好きなことを奔放にできた一方で、身内のつながりや地域の人々との助け合いといった、共同体における相互扶助の精神を肌で感じ取ってきたことは、大きいと思う。今、弁護士として「俺は先生だ」ではなく、困っている人たちと共同・信頼関係を築きながら「一緒に問題を解決していく」ことに喜びを覚えるのは、こんなところに根っこがあるような気がしています。
打ち込んだスポーツは柔道。1964年の東京オリンピックの決勝戦で、神永選手がヘーシンクに負けたのを見て、「よし、俺が仇を!」と息巻き(笑)、中学から柔道部に入って本格的に始めました。メキメキ強くなりまして、山口県内では団体、個人共に優勝。地元では進学校である県立岩国高校に進学してからも、そのまま学業より柔道優先です。高3の時、団体戦でインターハイ出場までいったんですよ。
ただ、実はその前に、僕は「自分が格闘技に向いていない」ことに気づいていた。柔道はまさに格闘技で、極端にいえば「相手を殺してやる」くらいの気迫で臨まないと負けてしまう。でも、年中そんなことを考えている自分の頭がおかしい、「なぜ知らない人を倒さなくちゃいけないのか」という疑問が湧いて、そうなると、もうダメですよ。実際、練習しても思うように技が伸びなくなった。懸命にやりつつも、どこか自己矛盾を抱えていたのです。
加えて、世の中に対する関心が強く、他事についても「溢れるほどの矛盾を感じていた」と三村は言う。この多感な年頃は、何かが足らないのに、何をしていいのかわからないという「ある意味、自暴自棄な精神状態にあった」そうで、ほかの同級生のように、大学受験に向けてまっしぐら、とはいかなかった。勉強に打ち込む意義が見いだせなかったのである。
例えば、公民の授業で憲法9条を読んだ時。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と書かれているのに、「でも自衛隊があるでしょう」と。なんで皆、この大変な矛盾を議論しないのかと、僕は腑に落ちないわけです。でも進学校だから、「そんなことは大学受験に関係ない」ムードで、結局僕は路線から外れ、とうとう勉強しないまま日々が過ぎてしまった。とはいえ実際は、柔道のほかにギターとか将棋にも夢中で忙しかったから、勉強をサボるための言い訳ですかね(笑)。
なんとか現役で滑り込んだのが愛媛大学の法文学部です。実は以前、親父が岩国市に家を買った際にちょっとした諍いが起き、結果的に、うちが引っ越さざるを得ないという理不尽な目に遭ったんですよ。親父は弁護士にも相談したのですが、親身になってくれなかった。親父は、僕と違って、真面目で勤勉な研究者肌の人だったのですが、そんな人が本当に困っても世の中は誰も助けてくれないと感じました。また「法律を知らないと生きていけない」という強い思いもあり、それが法学部選択につながっています。
「大学では真面目に勉強しよう」。そう思っていたのに、これがまた……自堕落な生活で。周りの雰囲気にどうにも馴染めず、僕にとってはどの授業も魅力的に映らなかったのです。マルクスの資本論概説書を読み込み、気がつけば夜が明けていたということもありました。ますます「世間のいうとおりにやっていてはダメだ」という思いが強くなっていた頃です。
一方、松山市には道後温泉があるでしょう、となると酒でしょ(笑)。もとより趣味が多くて遊ぶことには事欠かないし、町道場で少林寺拳法もやりと、大学にはほとんど行かず。モラトリアムですよ。今にすれば天国みたいな生活だったけれど、でも、心は全然満たされなかったですねぇ。
初めての和議事件で、得た悟り。行く道を事業再生分野に定める
事業を再生することで、社員やその家族、関係者たちの助けになる。それが最高の喜び
新卒で就職する気にもなれなかった三村は、司法試験を目指して上京。塾の講師職などで生計を立てつつ、もう少しモラトリアムは続くのだが、それを一転させたのは中央大学白門会への入会だ。千葉県松戸市にあったこの全寮制の塾で、三村はのちに一生の付き合いとなる多くの仲間や地元の人たちと出会い、ようやく“本気”になった。
白門会では本当に真面目に勉強しました。2年ほどして、受験界ではわりに有名な西戸山ゼミナールにも入りましたが、ほどなくトップクラスの成績になり、『受験新報』には僕の答案が模範として取り上げられたりもしました。だから、次の年の司法試験は受かる気満々で臨んだのですが、なんと、それまで受かっていた択一試験の段階で落ちちゃった。問題の傾向が変わったこともありますが、結局は僕の慢心。この時はさすがに失意のどん底でした。
翌年、択一には受かったけれど、今度は論文試験がダメ。ものすごく考えた結果、「根本的に考え方が間違っている」ことに気づき、ついに開眼したのです。それは、①問いに答えること、②原則―必要性―例外と思考すること、そして、③誰にでもわかる日本語を書くこと。これは、のちの仕事や人生にも生きています。そのおかげで、次の年は論文試験の最中に「俺、上位何番かなぁ」くらいの余裕でした(笑)。長らく続いた落ちこぼれ時代から、やっと脱却。その後は、司法修習生としても、成績含めてけっこう評判よかったんですよ。
その優秀さで、多くのオファーを引き寄せたなか、三村が選んだイソ弁先は、そのどこでもなく、元裁判官・郡司宏弁護士の事務所である。当時の三村は、企業法務にはまったく関心がなく、個人の事件を中心に扱う同事務所で、市井の人々の役に立ちたいと考えてのことだ。
郡司先生の事務所では、弁護士業の“土台”となる様々な事件を経験させてもらいました。妻と出会ったのも、この事務所です。一つ印象に残っているのは、先生が破産の申立代理人として関与していた案件。ある日、先生が「三村君、不動産の占有が取られそうだから、ちょっと行ってきてくれ」と。いわゆる占有屋対策ですよ。僕が何をしたかというと、破産宣告までの1週間、占有屋と枕を並べて寝ましてね、途中からすっかり仲良くなって、彼が僕の子分のようになっちゃった(笑)。並の神経ではちょっと耐えられない場でしょうが、僕はわりと平気だから、こんなとんでもない仕事もやったものです。
当初は、東京で3、4年頑張って、岩国か広島に帰って開業しようと考えていたのですが、すでに顧問先もついていたので、東京で独立することに。「三村藤明法律事務所」という名のとおり、弁護士は僕一人。事務は妻が支えてくれました。企業に寄りつきもせず、マチ弁としてやっていたのが……人生わからないもので、3年経った頃、僕はのちの弁護士人生を決定づけることになる和議事件に出合ったのです。
「今日不渡りを出しました。でも、どうしても再建したい。先生、何とかなりませんか?」。始まりは、この切羽詰まった一本の電話からでした。子供用品の製造・販売を行う従業員50名ほどの企業で、社長は、当時あった再建型の倒産処理手続である和議を望んでいました。再生事件の経験がまったくなかった私は、そのハードルの高さなど、耳学問で知っていることを絞り出すのに精一杯でしたが、一方で、何とか社長の思いに応えたくもあった。
不渡りを出した後も、平常どおり工場や店は開けて商売を続けること。債権者が押しかけても、逃げずに真摯に対応すること。そんなアドバイスをしながら、幹部たちと一緒になって再建計画を立案し、債権者会議に臨みました。当然、大勢の債権者たちは皆、目をつり上げていて、一触即発という異様な雰囲気ですよ。でも、丁寧な説明を続けていくなか、「応援するよ!」という大口債権者が出てきたのを突破口に、最終的には再建を進めることで了解を得ることができたのです。
社員たちはどん底から這い上がった気持ちになったのでしょう、それまで死んだ魚のようだった目をキラキラ輝かせるようになった。この時、僕は悟ったんです。「事業再生とは、人を再生することなのだ」と。そして、僕のような一弁護士でも、事業を再生することで、社員やその家族、あるいは取引先などの関係者の助けになると思うと、心底うれしかった。この事件をきっかけに、事業再生を一生の仕事にしていこうと決心したのです。
倒産・事業再生専門の弁護士として経験を積み、ステージを拡大させる
その後、案件の大小にかかわらず、三村は常に再生事件に関与するよう心がけてきた。伴って声がかりも増え、依頼される事件も大きくなっていった。そして世は、大倒産時代を迎えることとなり、その渦中にあった00年、三村は千代田生命保険の更生手続に深く関与。結成された法律家更生管財人団の筆頭管財人代理として、かつてない“大仕事”を戦い抜いたのである。
これはもう、本当に死に物狂いだったし、管財人を務めた坂井秀行弁護士とは、これを機に共同事務所を開設することになったので、その意味においても、間違いなく僕のターニングポイントになった事件です。
スケールが大きすぎて話せばキリがないのですが、僕にとって最大の山場になったのは、千代田生命の1兆円を超える資産を一括売却しようと動いた時。管財人団とスポンサー・AIGグループの間で、千代田生命の資産評価を巡る隔たりが一向に埋まらないことから、我々は、不動産や債権を市場に売却しようと大勝負に出たのです。クロージングに向け時間がないなか、現場は大混乱。物件の抵当権付債権と、不動産所有権を別の会社に売却するという初歩的なミスとか、山ほど問題が出ちゃって。各分野の優秀な専門家が集まっているのだから、間違いなど起きるはずもないのですが、情報交換が十分ではなかったのです。それで、僕は委員会を立ち上げ、専門家を束ねながら、連日夜中まで会議を重ねました。本音をいえば、逃げ出したいほどのしんどさでしたが、結果、期日までにクロージングすることができたのです。
終わった時、「俺ってこんなことができるんだ」と。一人事務所の時代ですからね、これほどの大型事件に携わったのは初めてのこと。それだけに危機を乗り切った経験はとても大きく、僕に自信をもたらしてくれました。
「坂井・三村法律事務所」が誕生したのは02年。三村が先述しているように、千代田生命の事件で共に戦ったことが、そのきっかけだ。依頼される事件の大型化、迅速化に一人で対応することの限界を感じていた三村は、坂井弁護士とタッグを組むことで新たな一歩を踏み出した。ここから、ステージはかたちを変えながら大きく飛躍していく。
国際倒産の第一人者である坂井から、「一緒にやらないか」と声をかけられたことは光栄だと思いつつ、実は1年間断り続けたんですよ(笑)。一人での限界は感じていたけれど、次をどうするか……の模索時期だったのです。坂井と一緒にやる、あるいは僕がイソ弁を雇う。さらに同期たちからも事務所設立の誘いがあって、選択肢は3つ。考えてみると、僕のもとに人を増やしたところで、どこにでもあるような事務所ができるだけだし、親分が何人もいる状態は得てしてまとまらず、総合力を発揮できない。という流れで、坂井と一緒になったわけです。よく待ってくれたと、今となっては感謝ですね。
坂井はチームワークが上手で、千代田生命事件の頃から、僕はその面白さを感じていました。例えば、ホワイトボードを使って、そこに事件の概要や論点をもらさず記し、チーム全員で議論しながらベストの結論を導いていく、正しい結論を導くためには期も年齢も関係ないというスタイルは、僕の性に合う。坂井とはタイプがまったく違う弁護士ながら、そういった仕事の進め方や波長がぴったりで、事務所が急速に成長する予感はありました。実際、伸びましたし、何より弁護士もスタッフも皆「事務所が大好き」という雰囲気のよさで、僕自身にとっても坂井・三村は最高の職場でした。
ビンガム・マカッチェンからオファーがあり、事務所統合となったのは5年経った頃。追ってすぐに新東京法律事務所が加わり、BSMA(ビンガム・坂井・三村・相澤法律事務所)になったわけです。国際ネットワークと多面性を持つ中堅事務所として、さらに成長が加速していきました。倒産事件全盛の頃でしたからね、僕自身も更生管財人として、セントヒルズゴルフクラブ、TCM、セラヴィリゾート泉郷など、立て続けに事件に取り組むハードな日々でした。実をいうと、僕は外資が嫌いだったんだけど(笑)、ビンガムは本当によくしてくれて、すっかり認識が変わった。自由に、思う存分仕事をさせてもらいましたね。
「常に全力を尽くす」ことで〝日々一新〟。さらなる飛躍へ
三村を取り巻く“地図”は、さらに変化する。BSMA自体は好調だったが、米ビンガムが代表者の交代を契機に「おかしくなった」。経営悪化が懸念されていたビンガムから有力なパートナーが離散し、結果、モルガンルイスに吸収合併されたのは14年のこと。この時、三村たちが選んだのは追従ではなく、「最大のシナジー効果を望める別のどこかと一緒になる」道だった。翌15年、BSMAはアンダーソン・毛利・友常法律事務所(以下AMT)との経営統合を果たした。
互いに補完し合う点が一致したのでしょう、アッという間に話がまとまりました。AMTが得意とするファイナンス分野に、僕らの倒産・事業再生が加わって、ジグソーパズルの最後のピースが埋まったように、国際・国内企業法務のあらゆる分野において、一気通貫のサービス提供が可能になった。専門分野に“抜けなし”で、規模的には大手ナンバー2という、統合で生まれた相乗効果はすごいですよ。自由な事務所ですしね、まだまだ発展する可能性があると思っています。
ある意味、合併慣れした僕が学び、大切にしているのは「一緒につくっていこうぜ」の姿勢です。どんな合併でも、両者それぞれには異なる文化があるわけで、“自分たちのもの”がいいに決まっているのです。面子もある。でも、それを一度捨てて、互いを理解して一緒にやっていくという姿勢にならなければ、絶対にうまくいきません。
その点、AMTは懐が深くて、何かを提案すればすぐに採用してくれる。例えば、BSMA時代からやっている「Happy Wednesday」。全事務所員参加でパーティーや出し物などをする交流会なんですけど、今も続けています。また、経験豊かな弁護士にエピソードを綴ってもらう「AMT徒然草」や、エリアを束ねるスタッフのリーダー会議を創設したりと、あれこれ提案してきました。僕はね、スタッフがとても大事だと思っているのです。本当にいい事務所というのは、スタッフが楽しいと思える事務所。これも、僕が大切にしている理念の一つです。
どのような事態にあっても、「言い訳をしない」「今の状態で全力を尽くす」――これもまた、三村の本領だ。事実、その弛まぬ連続が今日の確固たるポジションを築いたのである。「今も難しい案件が来ますが、困難なほどシビれるんですよねぇ」と笑う三村は、やはりエネルギーに満ち溢れている。
弁護士が多いだの、厳しいだのと悲観的な話をよく聞きますが、いつの時代にも、そしてほかの業界にも厳しい側面はあるわけで、僕としては「言い訳をするな」と言いたいところですね。まずは、置かれている環境のなかで全力を尽くすべきです。更生会社の社員たちにもよく言うのですが、「いい会社があるんじゃない。いい会社にするんだ」と。この会社という言葉を「職場」や「自分」に置き換えてもいいのですが、要は自律的に力を尽くすことが大切だと思うのです。
5年、10年先のことなんてわからないでしょう。僕自身、振り返ってみれば、考えてもいなかったことの連続。仕事にしても合併にしても、あらかじめ戦略を立てていたわけじゃなく、その時々、状況をよく分析し、最善だと思われる道を選択してきた結果です。そして、最善の選択をするためには、アンテナを張り巡らせておくことが重要になる。今、何が求められているのか、自分に何が足りないのか。目を凝らして世の中を見ていれば、風の吹く方向性は読めるものです。
例えば現在の事業更生は、以前と変わって準則型私的整理が主流になっていますよね。伴って、会計士やコンサルタントなど、法曹ではない職種に主役が移り、「あれ? 俺らの仕事がない」などと言う人がいる。でもその予兆は、法律家の管財人全盛期からあったわけで、アンテナを張っていないから出遅れるのです。今後は、また流れが変わるでしょう。そういうことを、「自分で考えようよ」という話です。
つくづく僕は、仕事が大好きなんですね。ずっと元気で、困っている人や企業のために働きたい。僕の元気の秘訣はね、子供の頃の「明日は遠足だ!」というワクワク感を持ち続けること。だから、仕事も趣味も思いっきりの全力になっちゃうんですよ(笑)。
※本文中敬称略
※本取材および撮影は、東京・赤坂Kタワーのアンダーソン・毛利・友常法律事務所で行われた。