建設省入省直後に結婚。官庁の仕事は安定していた。一生、務めようと思えばそれも可能だ。しかし、仕事と家庭の両立に苦労するなか、役人の仕事には限界を感じはじめていた。男女差別もまだ残っていた。
「この間に子どもが3人生まれ、生活費もかかるようになりました。若手公務員は給料が少ないですから、私の給料はベビーシッター代に右から左。夫に言われましてね。『君が働いても一銭も残らない。子どもを他人に預けてまで働いている意味がない』と。事実なんですが、これがこたえました(笑)。手っ取り早く稼ぐには、資格を取る必要があるかなと。それで浮かんだのが、司法試験でした」
建設省を退職し、3人の子どもを保育園に預け、受験勉強に向かう日々。夜は、勉強のために、子どもを叱りつけて寝かせたこともあったという。しかしなぜ、そこまでして司法試験だったのか。
「やっぱり自分の力を世の中に資して、生きている実感を得たかったんでしょうね。社会と関わり続けたかった。その残された唯一の道が、司法試験に合格することだと思い込んでいたんです」
だが、これが功を奏す。受験は3回まで、と自らリミットを決めたことも良かった。効率的な勉強が可能になり、2回目の挑戦で見事合格を果たした。弁護修習の場は、後に大きな影響を受けることになる故三宅省三氏の事務所に決まった。
「通勤しやすいエリアを指定させてもらったら、そこに偶然、三宅先生の事務所があったんです」と笑うが、経済学部出身の相澤氏は、人一倍、企業法務に興味を持っていた。そんな彼女が、倒産実務のプロフェッショナルと呼ばれる三宅氏のもとに送り込まれた偶然。当時すでに気鋭の中堅弁護士だった三宅氏から、ビジネスロイヤーとしての基本を叩き込まれたのである。
そして修習を終えると渡米を決意。2年間、アメリカ・ワシントンDCで暮らした。後に国際的なM&Aに携わったり、外国法事務所に籍を置くなど、将来に向けた準備のためかと思いきや、実はまったく違ったらしい。
「そんなかっこいい理由ではなかったんです(笑)。当時、作家の桐島洋子さんが1年間休業して、3人のお子さんとアメリカで暮らした経験を綴ったエッセイがあったでしょう。それを読んだ夫が感化されまして(笑)。それで、『子どもには、幼い頃にこそこういう異文化体験をさせるべきだ。お前が3人を連れて行ってきたら』と」
それまで、海外に行ったことなどなかった。英語は、聞けず・話せず・書けずの三重苦。だが35歳で、10歳、8歳、6歳の子どもを連れ、アメリカに旅立つのである。そして、予定もしていなかったハワード大学のロースクールへ入学する。
「最初は英語学校に入ったところ、あっという間に卒業させられてしまって。こうなると、ビザが切れてしまう。だからロースクールにでも潜入して、滞在期間を延長しようという横しまな発想です(笑)」
この頃には、講義や教科書は何とか理解できるようになっていた。しかし議論の場になると、語学力がついていかない。アメリカ人の積極性や貪欲性に圧倒されてばかりいては面白くないと奮起。卒業の頃には実践的な英語力と大抵のことでは動じない度胸を得ていた。
「不思議なことに、頭に血が上ると流暢な英語が出てくるんです。ケンカするたびに英語が上達するので、周囲からも驚かれました(笑)」
もちろん、米国での生活は3人の子どもにとっても、間違いなく好影響を与えた。語学力、複眼的なモノの見方、外国人に対する対応……。余談になるが、その後、長女は医者、長男は弁護士になり、次女は留学後にアメリカで結婚。米国で幸せな結婚生活を送っているという。