Vol.14
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福島 みずほ

HUMAN HISTORY

社会の中で感じた「不安、不満、違和感」をつぶさずに、こだわり続けてきたから今がある。弁護士で培った経験のすべてを生かし、「これも天職」と思って立法に取り組んでいる

弁護士
社民党 党首 参議院議員
内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全、少子化対策、男女共同参画)

福島 みずほ

社会環境の変化に伴って価値観は多様化し、「社会にとっての絶対的な幸せ」は、定めにくくなっている。しかし一方で「個人にとっての絶対的な幸せ」は確かにある。個人の絶対的な幸せと、この時代における「社会正義」実現のため、弁護士をベースに政治家として突き進むのが、福島みずほ氏だ。弁護士時代から取り組む「家族法ジャンル(選択的夫婦別姓制の導入など)」「職場ジャンル(賃金差別、妊娠・出産・退職強制、セクシュアルハラスメント、女性への暴力問題など)」を自家薬籠(やくろう)中のものとしながら、環境問題や平和の実現にも「夷険(いけん)一節」※1で活躍する福島氏の、これまでをたどる。

「言葉を使う仕事」にあこがれた小学生時代

父は宮崎銀行勤務で転勤が多く、宮崎県内の小学校を転々とした。

「転校を経験するまでは内向的な子ども。転校先で早くなじむための処世術だったのか、いつのまにか外向的な子どもになっていました」

本が大好きな少女で、「言葉を使う仕事」に就きたいと思っていた。将来の夢は小説家か、ジャーナリストか、弁護士。弁護士という仕事があることは、小学生時代に知った。

「ある映画を見に行ったとき、その合間に流れた“電波ニュース”※2に、子どもながら衝撃を受けました。富山イタイイタイ病だったか公害を扱った映像で、公害に汚染された土地でも、働き、生きていかねばならない農民の姿が映されていました。その公害裁判を伝える映像で、裁判所や弁護士を知りました。同じころ、公害裁判に手弁当で頑張る弁護士をほかのニュースで見たことなどから、弁護士という仕事にあこがれました」

そして高校一年生のとき、「私は弁護士になる!」と決意。

「父は常日ごろ、私にこう言いました。『今の日本社会では、女性であることがハンディキャップになってしまうから、資格を持たずに企業に入ったら苦労する。だから資格を持って働け』と。当時は男女雇用機会均等法がなかったし、私が『一生働きたい! 社会にコミットしていたい』という思いを強く持っていることを父も知っていたので、そうアドバイスしたのだと思います。それで理数系よりは文系の方が得意で、資格も取れるから弁護士がいいなと。当時、アメリカで消費者運動にかかわっていたラルフ・ネーダー弁護士がメディアに登場したのも、このころだったでしょうか。いずれにしても、社会で一生涯いきいき働きたいという思いと、“資格路線”をかなえる仕事として弁護士を目指しました」

市民運動、住民運動、女性問題などに触れた学生時代

福島 みずほ

東大文Ⅰに入学した福島氏。大学三年生までは「裁判問題研究会」というサークル活動に没頭する。労働災害や職業病、住民運動などをテーマにフィールドワークにいそしんだ。

「弁護士を目指すといっても、法律のことや法学について、よく分かって入学したわけではありませんでした。あまつさえ、一~二年のころは“社会とどうかかわるか”“自分はいったい何がしたいのか”“社会にはどんな問題があるか”など、抽象的なことを日々ぼんやり考えていたに過ぎず、職業病に悩む人たちなどの貴重な話も一生懸命聞くだけで精一杯。十分に理解できていなかったと、今なら分かります。現実をじかに見るという体験が、決定的に不足していた学生でした」

このころ、女性問題にも深い興味と関心を持つようになる。福島氏が19歳の年は国際婦人年※3。「何が問題になっているのか」を知りたくて、新聞や雑誌を読みあさった。その年の学園祭では「現代の女性の状況、現代の女性問題」といったテーマのシンポジウムを企画。国会図書館で関連論文や資料を調べ、打ち合わせを兼ねてパネラーの元を訪ねて回った。「女性問題」と聞くと物々しいが、それにかかわる女性の先輩たちが、社会でいきいきと活躍し、発言するさまに触れ、元気を得た。

福島氏が司法試験を初めて受けたのは、大学四年生のとき。

「結局受かったのは大学卒業後ですから、それなりに苦労しました。でもそんな時期を乗り越えられたのは、大先輩の中島通子さんや、林陽子さん、大谷恭子さんらと知り合えて皆さんが励ましてくださったから。司法試験に受かった日、中島さんたち女性弁護士が『これから一緒に頑張りましょう』とお祝いしてくれて、とてもうれしかったことを覚えています。受験生って、とてもつまらないものですよね。しかし、そんな時期にいろんな女性弁護士と知り合えたことは本当にラッキーでした。目の前に輝いているロールモデルがあるわけだから、『私も早く弁護士にならなくちゃ』と奮起できました※4」

弁護士になって手に入れたライフワーク

1987年、弁護士登録後、「仙谷・石田法律事務所」※5に入所。

「当時はまだ、女性弁護士の就職が難しかった時代。雇ってくれそうな事務所、つまり仙谷先生と石田先生に、必死で手紙を書きました。雇っていただいたものの、事務所の仕事はあまりした記憶がなく、自由にさせていただいた気がします。そんな私を見守ってくださっていた仙谷先生と石田先生には、心から感謝です」という福島氏。

弁護士になってすぐ、アジアからの出稼ぎ女性の緊急避難所「女性の家HELP」の協力弁護士を務め始めた。人身売買、認知、結婚、離婚、交通事故などさまざまな事件に、単独あるいは共同で取り組んだ。

「例えばだまされて日本に連れてこられ、売春を強要されて逃げ出した女性のケースも何十件と担当しました。そんなことが許されてきたことがショックで、この事実を一人でも多くの方に知ってもらい、何とかしたい、何かできないかと、日々模索しました」

入所翌年には、国際人権規約(B規約)を批准した日本の人権状況がこれに合致しているか、日本政府が提出した報告書が審議されると聞き、ジュネーブまで傍聴に行った。それをきっかけに、国際人権・国際人権法に目覚めた。

弁護士として、女性として、一人の人間として「人権」を掲げる氏の元には、女性や子どもに関する法律相談や訴訟案件が多く寄せられた。

「例えば、セクシュアルハラスメントの裁判。賃金差別の裁判。妊娠・出産で退職に追い込まれる女性の裁判なども担当しました。特に“セクシャル・ハラスメント”は1989年の流行語大賞にもなったほどで、あの時期は相談がだいぶ多かったと記憶しています」

また、選択的夫婦別姓制の導入と婚外子差別撤廃の、裁判や市民運動にも取り組んだ。

「選択的夫婦別姓については、1988年11月、ある国立大学の助教授(当時)が『戸籍名を使わせてほしい。通称名(つまり旧姓)を使用したい』と東京地裁に提訴した裁判を、弁護士の一人として担当しました。彼女は結婚前の姓名で研究や論文発表や講義を行っていて、通称名を使わないと支障が出ると主張。この裁判は、9年後に和解が成立。全面勝訴的な和解ではなく、講義などで一部、通称を使用できるという結果に。10年かかった裁判で私が感じたのは、旧姓を通称として使うことのためだけに、なんて歳月とエネルギーが必要なんだ! ということ。この間、時代とともに別姓に関する多少の理解は得られてきたように感じますが、やはりまだまだ※6。それと婚外子の差別撤廃裁判※7も担当しました。これらは、私自身の問題※8でもありましたから人ごととは思えず、趣味と実益と生きがいを兼ねたテーマとなりました」

「生きている人間がいて、法律があるのだから、生きている人間に困難を与えてしまう法律は変えることも必要」と福島氏。市民運動を起こし、裁判も担当しながら、市民立法にも携わった。民法改正のために、千葉景子さん(現 法務大臣)の秘書的なポジションで、参議院法制局に通い詰め、国会でロビー活動も行った。婚外子の差別撤廃裁判で負けたことや、ロビー活動などの成果があがらなかったことは、福島氏が政治の道に進む一つのきっかけになった。

議員から党首、そして内閣府特命担当大臣へ

福島 みずほ

一瞬一瞬に全力投球!その瞬間に懸ければ次の活路は見いだせる

1998年7月、「社民党・福島みずほ参議院議員」が誕生。立候補の直接の動機は、土井たか子氏に誘われたことだ。

「1989年以降、参議院の法制局で法案を作る作業に加わったり、議員会館でロビー活動を行ったり。1990年代の初めには土井さんの選挙応援にも行ったので、以前から土井さんとの面識がありました。ある日、土井さんが『これから国会には有事立法がさみだれのように出てくる。そんな国会で一緒に頑張ってほしい』と。私自身、有事立法の成立には反対でしたから、悩んだ末に立候補しました」

立候補の決意を両親に報告したときの逸話がある。

「『今度、社民党から立候補しようと思ってる』と母に電話をかけたら、『あなた、お金かかるんじゃないの?』と一言(笑)。尋ねられたのはそれだけで、社民党から立候補することについて『なぜ?』という問いかけは一切ありませんでした。弁護士の活動も議員としての活動も根本的に支持してくれ、私のすることに驚かない両親でした」

両親は党員ではなかったものの、社会党支持者だったという。福島氏が社民党に所属し、国会で「憲法9条改正反対」や「有事立法反対」を強く主張するのは平和や人権に関する意識の高さからであり、それは少なからず両親に影響されたもの。

「私の祖父母はアメリカ移民で、祖父の弟はアメリカの日系人強制収容所に入れられたこともあると聞きました。また、私の父は特攻隊の生き残りです。終戦記念日になると仲間を思ってか、父が涙ぐむのを幼いときに何度も見た記憶がありました。母からは、友達や友達のお兄さんが戦争で亡くなったことをしばしば聞かされましたし、両親とも戦争をいとう気持ちや平和への渇望を強烈に持っていたことは間違いありません。そうした両親の影響に加え、長崎の原爆記念館に行ったことで核兵器の恐ろしさも体感しましたから、戦争はいやだ! 戦争反対! は、“私の根幹そのもの”となっているのです」

参議院議員となった福島氏は、弁護士時代と変わらず精力的だった。

「DV防止法※9や児童虐待防止法の改正は、弁護士時代からの流れ。いくつかの専門分野を持って、個別のケースを深掘りする弁護士と異なり、議員になると、環境問題、財政、医療、ODAなど、広範なテーマに携われる面白さが出てきました」

「環境・人権・女性・平和」を掲げる社民党で、名古屋刑務所の受刑者への暴行事件、有事法制反対とイラク戦争反対などの平和問題などにも、取り組む日々が始まった。

そして社民党の広報委員長や幹事長を務めた後、2003年11月に党首に就任。昨年9月に誕生した鳩山内閣では、内閣府特命担当大臣を拝命※10。弁護士時代にNGO活動などで取り組んでいた興味関心の高いテーマをそのまま国会に持ち込み、大臣として手掛けられる形だ。

「男女共同参画については、まさに“男女平等の部分”が担当ですし、民法改正については千葉法務大臣とタッグを組んで取り組んでいるところです※11。私の原点、あるいは核となる部分に重なる問題も多く、まさに集大成のような仕事に携わっています。その分、成果を出すことが期待されて、プレッシャーですが」

内閣府特命担当大臣は、あらゆるテーマにおいて「横ぐし」が刺せる。

「今、自殺対策を含めて10以上の共生政策のテーマを担当しています。内閣府は、横断的にほかの役所にモノが言える利点があります。例えば、共生政策の1テーマである『障害者施策』。内閣に『障がい者制度改革推進本部』を設置し、障害者権利条約の批准に向けて、障害者基本法の改正などを目指しています。障害者差別禁止法を成立させるにあたっては、厚生労働省はもとより、国土交通省、文部科学省など、さまざまな省庁の大臣が改革推進本部のメンバーです。これは今夏までに中間とりまとめをしますから、そこでなんとかいったんの成果を出したいと思っています」

弁護士と議員の共通点。あるいは相違点

法律を解釈して運用する弁護士と立法を担当する議員、その両方の楽しみを知る福島氏。

「私にとって弁護士と政治家はさして違いがなく、戸惑いもありませんでした。法律は、慣れてくれば手になじんだ小刀みたいなもの。つまり多少不格好な小刀でも、あの小刀この小刀と上手に選んで使い分ければ、素手ではむけないリンゴもきれいにむける。社会を理解したり、社会や現実に切り込んでいくときのツールがすなわち法律ということです。その小刀(法律)を自在に使いこなせるのが弁護士なら、切れ味の良い小刀(法律)を自分で作れるのが立法=議員の仕事。立法は実に楽しいですよ。DV防止法を例に挙げますと、まず暴力というテーマにおいて、女性に対する暴力というジャンルにするか、家庭内暴力というジャンルにするかをメンバーで議論・検討する。当時クリアしなくてはいけなかったのは保護命令をどのように導入するかということと、配偶者暴力防止センター(現 配偶者暴力相談支援センター)を設置するという2点。そのために、自由人権協会の女性弁護士に頼んで勉強会を開き、国会の立法過程で役所を説得するための理論武装の仕方を教わる。当事者である女性たちの声も聞き、彼女たちの思いを反映して進めていくわけです。夢や主張は形がなく言いっぱなしになりやすいのですが、法案にして議論をすると、少しずつ現実に近づけられる。法律や制度は絶対に変えられないものではなく、生きている人々のために変えていくことができると、立法に携わり実感しています」

「法律を扱う仕事」「質問をする仕事」という点は、いずれにも共通。実際、福島氏は「質問をする仕事(弁護士)をしてきたから、国会で法律にのっとった質問や反対尋問をすることが楽しくて仕方がない」と笑う。

「違うとすれば、『議員は組織を動かさねばならない』という点でしょうか。弁護士は自己完結型の仕事で、組織的な訓練の機会はあまりなかったと思います。私自身、『組織の中で生きること、組織を動かすこと』は、最も苦手な科目でした。それが社民党に入り党首になったことで、多少は分かるようになりました。もっとも、『組織』にまつわる事柄については毎日がいまだにOJTなのですが」

これからの弁護士に贈るエール

福島 みずほ

弁護士の経験を生かし、政治の世界でも活躍する福島氏。福島氏ならでは、弁護士という仕事の「職域の可能性」についての見解を伺った。

「“我田引水、自画自賛”ですが、『法の支配』『日本国憲法』を学んだ人が立法に携わるのは良いことだと思います。なぜなら『法律家や法律家を目指す人たちは、多元的な価値を重要に考えられる人だ』と、私は考えるからです。『多元的な価値』が持てる人は、例えば議論が偏った方向に走りそうになったとき、それを防ぐ助けになります。多様な価値観が反映されてこそ、質の良い政治はできあがる。ですから若い弁護士の方には、政治の世界も将来の選択肢としてあり得るということを、ぜひお伝えしたいです」

また弁護士を目指しながら、もしも将来に不安や不満を感じている方がいるならば、むしろそれを逆手にとってほしいと福島氏はいう。

「『“生き難さ”というのは財産だ』と私は思います。この社会の中で生きていく過程で生じた不安や不満や違和感は、新たな道を切り開くためのヒントになります。私も、なんとなく感じた社会での不安、不満、違和感をつぶさずに、それにこだわり続けてきました。解決法を見つけるために、弁護士になっても議員になっても大臣になっても、ずっとこだわり続けています。そうした『自分にしか見つけられないこだわり』は、若いうちだからこそ見えてくる場合も多々あると思うのです。ぜひそうした『日々の気付き』を大切にしてみてください。私も、弁護士の職域拡大に一生懸命取り組みますし、身をもってこんなこともあんなこともできる! ということを、皆さんに示し続けたいと思います」

※1/自分の運命が平穏であろうと、また険しく厳しいものであろうと、節操を変えずその職責を全うすること。

※2/当時、映画の合間に流れていた、ニュースや社会問題を伝える短い映像ドキュメント。

※3/1975年、第1回世界女性会議 メキシコ大会開催。新聞やテレビなどメディアで大きく報道された。

※4/そうした女性弁護士らを紹介してくれたのは、パートナー(夫)である海渡雄一弁護士(東京共同法律事務所)。お互い18歳のときに裁判問題研究会で知り合って以来の、「お付き合い」。大学在学中に司法試験に受かり、福島氏よりも先に弁護士となった海渡氏は、モチベーションが下がらないよう、リフレッシュできるようにと、福島氏を励まし続けた。

※5/仙谷由人氏と石田省三郎氏。同事務所が担当した事件に、土田・日石・ピース缶爆弾事件がある。

※6/選択的夫婦別姓制の導入についての現状は福島氏によれば次のとおり。「民法改正での選択的夫婦別姓は議員立法ではなく、閣議決定を経た立法として出したい。今国会の予算案が成立した後でしょうね」(福島氏)

※7(婚外子の差別撤廃裁判)/「『住民票の続柄欄における婚外子の差別表記をなくしてほしい』という裁判を、ほかの弁護士と一緒に担当。両親が婚姻届を出さないで生まれてきた子ども(婚外子)の法定相続分を婚内子の二分の一と規定する民法の規定は、憲法の『法の下の平等』を規定した十四条に反するのではないかという主張をした裁判だったが、最高裁で負けました」(福島氏)

※8/「私も姓を変えたくなくて、婚姻届を出さずにパートナーと“共同生活”を送っています。子どもを産むときはさんざん悩みましたが、娘は法律上、“婚外子”となっています」(福島氏)

※9/参議院の「共生社会に関する調査会」のもとにプロジェクトチームを作り、成立にこぎ着けた。

※10/現在、消費者行政推進、食品安全、少子化対策、男女共同参画などを担当している。

※11/「昨年9月に、千葉法務大臣がマニフェストを実践するとして『民法改正/国内人権侵害救済機関の設置/人権条約の個人通報制度(自由権規約ーB規約ー選択議定書)を批准する/取り調べの可視化の実現』との見解を表明しました。このうち三つめまでは、私が取り組んできたテーマです」(福島氏)