郷原信郎氏。元検事という視点からの経済事件へのコメントや、特捜の捜査手法批判などで、とかく話題にあがる人物だ。一方、日経新聞や経済誌などの弁護士ランキング※1では、企業法務部門や不祥事・危機対応部門において、ここ数年連続して上位にランクインする“コンプライアンスの専門家”であり、同分野における独自の視点、論点からの発言も非常に多い。郷原氏の発信力の強さは検事時代からで、「異色・異端児・奔放」と評されるのは、そのためだろうか。アグレッシブな人物と捉えられることもあるようだが、語り口や発する言葉は「思索を楽しむ学者タイプ」かつ「自らの知識、経験を喜んで伝授する教師タイプ」。それが実際の印象だ。
郷原氏は、初めから弁護士を目指していたわけではない。幾度となく迷い、悩み、模索して歩むべき道を探し当てた。
会社員を経て法曹の世界へ飛び込む
郷原氏は1955年、島根県松江市生まれ。「学校の勉強や宿題をきちんとこなす」という基本を忠実に守ってはいたが、母の教育方針で学習塾などとは無縁。公立の中学・高校で、伸び伸び過ごした少年時代だった。高校2年の秋ごろから勉強が面白くなり、1年半の猛勉強で東京大学理科二類(理二)に合格。意欲の源泉は、テレビで見たドラマ「天下御免」(NHK)の主人公・平賀源内の生きざまだったという。
「高校時代の私は、社会と自分との関係性といったものに無頓着な、まったくの“子ども”でした。将来何をしたいかも決まっていなかったし、そのために何をすべきかも考えつきませんでした。ただ、ドラマの平賀源内が郷里の高松から船で大海原へと旅立つシーンに自分を重ね、『この箱庭のような狭い世界から抜け出す!』という思いをかき立てられたのです。とはいえ具体的な将来像はないままだったので、選択を先送りするために理二を選んだようなものです。理学部の地質学鉱物学課程を選んだのも消去法でした」
学部での地質学の勉強にもあまり熱が入らなかった郷原氏。大学4年の夏休みも終わるころ、はたと卒業後の進路について思いを巡らした。
「『大学院でもないし、就職といってもどこへ行こうか』と。教授になんとか三井鉱山(当時)を紹介してもらって落ち着き先は決まったものの…。就職先選びにも主体性はなく、結局やりたいことが見つけられなかった大学4年間でした」
入社後の配属は資源調査部。坑内および開発予定地の炭鉱地質(炭層)調査が仕事だった。初めて派遣されたのは、北海道・上砂川。
「マイクロバスで道なき山中へ行き、沢沿いを掘り進めて、現れた地層を分析するという仕事でした。私はノートマンといって、上司の地層分析を記録するだけ。早朝出掛けて夜戻り、深夜までかかって記録内容を図面化。あとはコップ酒をあおって寝る。そんな生活が2~3カ月続くわけです。地質技術者としての仕事に幻滅しただけでなく、戦前から財閥の中核だった会社の権威主義的な体質にも反発し、退職を考えるようになりました」
うっくつした生活を送る中、法曹界へ踏み出すきっかけが訪れた。
「山中での仕事中、上司の話でたまたま“法律”について考えさせられました。調査で山を掘り起こすための営林署の許可について、上司が『営林署の職員に、ちょっと鼻薬を利かせておけば大丈夫だ』と言っていたのです。『それは何か犯罪になるのではないか』と、ふと疑問がわきました。その時初めて“法律”というものの存在を強く意識しました」
月に1回の休日に札幌へ出掛けた折、書店で1冊の本を購入した。
「憲法学者の小林直樹先生が書かれた分厚い本でしたが、なんとなく内容がわかったし、それまで自分の頭の中で全く使っていなかった部分を使うことに快感を覚えました。そういえば大学の教養課程で履修した法学概論の成績も良かった。もしかしてオレは法律の世界に向いているのではないか、そう思いました」
仕事のかたわら憲法・民法・刑法の本を読み進めるうち、その実感が一層強くなり、会社を辞めて司法試験に挑戦することを決意。
「両親は最初、反対しました。しかし『いろいろやりたいことはあるが、まずいちばん難しいことに挑戦したい』という私の真剣な言葉を聞いて父が理解を示し、母も納得してくれました」
そこで会社は1年半あまりで退職。広島の両親の家に身を寄せ、独学で司法試験の勉強を始め、2年後に見事合格した。
「もともと勝負ごとが好きなので、試験も同様『勝つために最も合理的な方法』を考え、勉強しました。法学部出身者と比べて知識量・勉強量が劣る分をカバーするには論理性しかない。論理的に筋の通ったことを書けばそれなりに評価してもらえるのではと思い、基本論に立ち返って論理を展開するという方法で司法試験に臨み、成功しました」
法曹界でのスタートは想定外の検察官
理系からの転身者でかつ26歳という若い修習生は検察にとって魅力的だったようだ。法律事務所に就職が内定していた郷原氏を、検察教官が熱心に勧誘した。いわく「子どものころから強いモノに立ち向かっていく傾向があり、決して体制順応型ではない」タイプ、権威主義的な組織に嫌気がさしたことも会社を辞めた理由の一つだった氏にとって、「組織の一員」として検察に入ることに迷いはなかったのか。
「内定先の事務所のボスに検事任官を勧められ、他に選択肢がなくなりました。私の代わりの修習生を検察教官から紹介してもらったとのことでした。でも、検事の仕事や検察組織をよく知らず、格別の思い入れもないまま任官したので、なりたてでも大きな権限を与えられる検事の仕事は予想以上に刺激的でやりがいがありました。しかし公安部、特捜部などで大規模な事件の共同捜査体制に組み込まれるようになると、上司の判断あるいは組織の決定に従うことを求められました。“検察の論理”に直面することが増え、違和感に悩むようになっていきました」
任官10年目の94年、東京地検特捜部に所属していたころに、捜査の手法や方針への反発から辞職を決意したが、法務省人事課長、刑事課長から強く慰留された。理由は、郷原氏が検察内で「独占禁止法(以下独禁法)の専門家」という特別な存在だったからだ。
郷原氏が独禁法に出会ったのは、任官7年目に公正取引委員会(以下公取委)へ審査部付検事として出向した時で、ちょうど日米構造問題協議でのアメリカの要求を受け、独禁法の運用強化が国策として求められていた時期だった。
「独禁法違反に対する罰則適用を恒常化していくため、告発方針の策定・公表など、公取委と検察の間での告発の枠組み作りに関わりました※2。独禁法という“競争世界”に、私は向いていたのでしょう。独禁法に関して公取委の人と論争しても負けない、絶対の自信をつけました」
慰留されて検察にとどまったものの、検察本流の特捜部とは決別した。その後、独自の検察の世界を切り開いていくことになる。95年には広島地検に異動、特別刑事部のわずかな陣容で地方政界の腐敗の摘発に取り組んだ。99年には、法務総合研究所(法総研)の研究官となり、独禁法違反などの企業犯罪に対する制裁制度の研究にもいそしんだ。
2001年、長崎地検に次席検事として赴任し、それまでの特捜部とは異なる独自の手法で検察捜査に取り組んだ。それは政権政党の地方組織の、ゼネコンからの集金構造そのものに公職選挙法と政治資金規正法で斬り込み、“政治とカネ問題”の発端となった「自民党長崎県連違法献金事件」に結実した※3。
「公取委と法総研を経て手にしたライフワーク=“カルテル・談合に対する制裁”の問題について、検察の実務を通して新しい成果を挙げたいと考えました※4。公共調達をめぐる談合が背景となった腐敗の構造を捜査で解明することを自分自身のミッションにしたのです。その過程で独自の捜査手法である『サッカー型フォーメーション』が生まれました。従来の検察の捜査手法と異なり※5、検事個人が主体性と判断力を最大限に発揮し、メンバー相互で連携・協力し、事実の解明を進める方法です。経験の浅い若手ばかりでしたが、それぞれが優れたサッカー選手のごとく持てる力を発揮し、組織全体のパフォーマンスを高めました※6。このとき“指揮官”の私は『空中戦※7』という手法を活用しました。それは捜査対象の会社側などに働きかけ、自主的な事実解明を促す捜査手法。『社会で活動を認められている組織は、社会の要請に応えていく義務がある。だから疑いを受けている事実について真実を明らかにする義務がある』と、捜査指揮官の私が説得に当たったのです」
郷原氏が長崎地検という一地方検察組織で行った捜査の実践は、まさに、氏が現在説いているコンプライアンス(社会の要請に応える)に他ならなかった※8。長崎地検の捜査手法を検察全体に広めたい、というのが氏の願いだったが、それはかなえられなかった。東京地検では公判部勤務になり、捜査の現場から遠ざけられたのだ。その年の秋、桐蔭横浜大学の特任教授を兼任。独禁法をベースとする経済法令の制裁制度論の研究に軸足を移し、それをコンプライアンスの研究という独自の分野に昇華させていく。郷原氏はこの時期、桐蔭横浜大学学長に、「コンプライアンス研究センター(以下CRC)」の設立を提案した※9。
「それまでは、独禁法違反などの違法行為に対する制裁体系の研究でした。しかし制裁体系の問題を指摘しても所管する公取委や検察がその気にならなければ何も変わらない。ならば逆に企業の側で制裁にどう対処すべきか、というコンプライアンスの在り方を研究する方が合理的だと考えたわけです。私は検察組織に属したままコンプライアンスをテーマとする研究に取り組み始めました」
郷原氏は、04年4月には再び法総研、翌年春からは派遣検察官として桐蔭横浜法科大学院教授と研究・教育中心のポストに就き、CRCを中心とする研究活動に本格的に取り組んだ。そして06年、コンプライアンスの研究という独自の分野を切り開いた氏は、23年間勤めた検察を離れて弁護士登録、08年には現在の郷原総合法律事務所を開設した。
弁護士の働き方、歩むべき道は一つではない
失敗やトラブルや事件の背景には必ず、「その世界」のゆがみや問題がある。それを解決するためのアプローチこそが事実の解明と新たなルールの創造だ
郷原氏の功績は、コンプライアンスを「法令遵守」ではなく「(法令の背後にある)社会的要請に応えること」と定義したこと。それは長崎地検での経験や、法総研、CRCでの活動など実体験を通して育ててきた考え方だ。
「コンプライアンスを私流に解釈すれば、『企業や組織の具体的な問題を解決し、その組織を社会の要請に応える方向(良い方向)に向けていくための具体的実践』です。ではどうすれば組織は社会の要請に応えていけるのか…そのために必要なことを私は五つの要素に整理し※10、『フルセットコンプライアンス』とネーミングしました。長崎地検で取り組んだ『事実の全面的な解明』も、重要な要素です。組織で重大な不祥事が起きたとき、行うべきことは、『まず事実を明らかにすること。そして問題の本質にさかのぼって原因を吸収し、そのうえで社会に対して説明をして理解、納得を得ること』。具体的な法令を手掛かりに、その背後にある社会的要請に組織がバランスよく応えていくにはどうするか?ということを考える、これがコンプライアンスの基本です。ここで、検事時代の『事実・証拠を見る目』が役立っているのは確かです。それをなくすと単なる観念論になってしまいますから。そう考えると、検察での経験は、私にとって大きな財産ですね」
弁護士となって5年。多くの著書を執筆し、全国を飛び回って講演もこなす。一方で「不二家 信頼回復対策会議」「新日本監査法人 第三者委員会」「田辺三菱製薬 メドウェイ問題社外調査委員会」「東京医科大学第三者委員会」「キリンホールディングス 第三者委員会」など多くの組織の不祥事に関わってきた。いずれも「責任追及が目的ではなく、当該問題について世の中に問題の本質を正しく理解してもらい、そのうえでその企業あるいは組織が正しく再生し、良くなっていくことを目指す活動をする」のが、郷原氏の目的。問題の本質に目を向け、根本原因を明らかにし、抜本的な再発防止策を提案するという仕事を徹底して行ってきた。中でも、不二家の問題※11は印象に深いという。
「不二家の問題には、『規則遵守』にこだわり、表面的な事象に目を奪われて本質を見失うといかに危機を拡大させてしまうかという、まさにコンプライアンスとクライシスマネジメントに関するあらゆる問題が凝縮されていました」
郷原氏は、刑事も民事も訴訟にはほとんど関わることがないという。氏の仕事は、先に挙げた第三者委員会や関連するクライシスマネジメント。つまり企業の危機的な事態に対し、どうやって信頼を取り戻して失墜を免れるか、企業のダメージを最低限に抑えるかということを考え、その対応やアドバイス、事後のフォローを行うことがメインタスクだ。そうした働き方ができる弁護士は決して多くない。ライフワークというべきテーマを見つけ、それを軸に弁護士としての優位性を得て、オンリーワンの道を歩める郷原氏の生き方は幸せに映る。
「『自分がやりたい、やるべきだ』ということを、クライアントや組織から束縛されず自由に思いきりやれるのはありがたいことです。私は検察の世界で独自の経験をしてきたことがベースとなって、こうした立場で仕事ができる幸運に恵まれました。誰でも目標を持って努力をすれば、そうした働き方や生き方をするチャンスはつかめると思います。CRC設立の提案を受け入れ全面的に支援してくださった桐蔭横浜大学の鵜川学長(当時)が、亡くなられる前の最後の法科大学院の卒業式で言われた『自由人たれ』という言葉が今でも心に残っています。『自由人となるには、大変な努力と研さんが必要だ』というお話でした。しかし目先のことを考えずに自分の力を社会に対して発揮したいという思いを貫けば、誰もが『自由人』になれるはずです。ぜひ若い弁護士の皆さんにも、それを目指していただきたいと思います」
社会・経済環境などが変化し続ける中で「自由人」であり続けるには、変化・変革への柔軟な対応力が求められる。この社会で「弁護士が担うべき役割は何であるか」についての感度も高くなければならないだろう。これを、郷原氏はどう見るのか。
「司法はこれまで“世の中の周辺部分”でしか機能してきませんでした。企業や個人が日常的な(経済)活動をする中でもトラブルという“世の中の中心部分での活動”に、司法は積極的に関わってこなかったのです。司法制度改革によって司法に携わる人を増やし、リーガルサービスの領域を拡大していこうというのであれば、社会の外縁部分でしか機能してこなかった司法の世界を“社会の中心部”に向けていかなければならない。そのためには、法律がもっと身近なものになり、みんなが法律を使いこなせるよう、まず司法の世界自体が変わることが必要です。それを実現するためには、法と人間との関係自体を変えていかねばならないのです。『法令遵守』を上から下に押しつけるのではなく、市民が法を理解し、法を中心としたコミュニケーションあるいはコラボレーションの輪を広げていくこと、そこに法律家が積極的に関わっていくことです。これからの経済社会・市民社会の中で“ルール(法)”をどう機能させていくべきか。法律を使いこなすプロの法曹資格者が、市民社会、経済社会で法を機能させる動きをいかにしてリードしていくかを考えるべき時期に来ています。作られたルールを守ることだけではなく個別の領域で、実態に即してルールを“作ること”“活用すること”“変化に応じて改めていくこと”を実践していかねばならない。私が掲げている新たなコンセプトは“ルールの創造”です。最新の著書でもその言葉をサブタイトルに使い、前面に打ち出しました。従来の発想にとらわれず、社会や経済の実態をしっかり考えながらルールを創造し、“活用する”という動きを社会全体に広げていく。それは、私たち弁護士がこれから目指すべき、新たなタスクです」
参考/『検察の正義』(ちくま新書)、『検察が危ない』(ベスト新書)、『「法令遵守」が日本を滅ぼす』(新潮新書)、『思考停止社会~「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書)(以上郷原氏著)
※1/「ビジネス弁護士ランキング2010」(「日経ビジネス」日経BP社刊)では不祥事・危機対応部門で第2位、「2010年活躍した弁護士ランキング」(日本経済新聞12月24日付け)では企業法務部門で第9位。
※2/郷原氏が枠組み作りの後、調査にも関わった独禁法違反事件が通称ラップカルテル事件。他に埼玉土曜会談合事件(告発見送り)、シール談合事件。
※3/郷原氏が長崎地検在任中に携わった「佐世保重工助成金不正受給事件」「自民党長崎県連違法献金事件」の詳細については、『検察の正義』に詳しい。
※4/「公共工事をめぐる談合と腐敗の構図を解明し、市民に明らかにして長崎という地域をより良いものにしたい。長崎の解明から、日本の公共調達をめぐる構造的な問題の解明につなげたいと考えた」(郷原氏)
※5/「検察独自捜査では、一人の主任検事の下に多数の応援検事が配置され、主任検事が設定した一定のストーリーに沿った供述を得るため、長期間にわたって被疑者・参考人と対峙(たいじ)して取調べを行うという手法が一般的。応援検事は担当する取調べに必要な情報のみが与えられ、事件の全体像は示されない。全体像を把握し、捜査の方向性を判断するのは主任検事と決裁官で、応援検事がやるべきことは余計なことを考えず、気迫を持って粘り強く取調べを行うことだった」(以上『検察の正義』より)。郷原氏が特捜の応援検事であったとき、この「頭を使わない応援検事の仕事」に幻滅。その思いが逆に、長崎地検での「サッカー型フォーメーション」という、独自の捜査手法の誕生(および実践)を促した。
※6/若手検事たちの活躍は「全庁的な捜査体制の構築(副検事や検察事務官ほか一丸となった取り組み)」の起爆剤となった。郷原氏はこの変化を「組織の爆発的な進化」と呼ぶ。
※7/長崎地検の捜査の特徴の一つが「コラボレーション型捜査」。被疑者・捜査対象者と検察の間に対立軸を作らず、最終的には味方として取り込み、コラボレーションの関係を築くというもの。これを可能にするのが、従来の検察独自捜査(=歩兵戦)にはなかった新たな捜査手法(=空中戦)。郷原氏が命名した「歩兵戦」は、被疑者・参考人の取調べという手段による捜査のこと。地方検察では長期間の歩兵戦を行う人員的余裕がない。加えて企業に関わる事件では取調べを受ける社員に自分の意思で会社側に不利益な供述を行わせることは困難。そこで証拠の収集と事実の解明する方法を個人の取調べによらず、多面的にアプローチする方法として「空中戦」を編み出した。
※8/長崎地検での捜査は長崎県の公共工事をめぐる腐敗構造を市民に対して明らかにした。「法と正義」を前面に掲げた捜査に長崎県民・市民から多くの激励・支援が寄せられた。
※9/法曹需要の拡大のため、経済社会と企業社会と法科大学院の接点を作る必要がある、と考えた郷原氏。そのインターフェース機能としてCRCを大学内に設立。シンポジウムの開催などを通じ、経済・企業社会との関係は深まった。しかし残念ながら肝心の法科大学院生たちは司法試験に目を奪われ、なかなか参加してくれなかったということだ。
※10/①社会的要請を的確に把握し、その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにする②その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築する③組織全体を方針実現に向けて機能させていく④方針に反する行為が行われた事実が明らかになったり、その疑いが生じた場合、原因を追究して再発を防止する⑤法令と実態とが乖離(かいり)しやすい日本で必要なのが、一つの組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情、つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に、そうした環境を改めていくことという五つの要素(『「法令遵守」が日本を滅ぼす』より引用)
※11/2006年11月、不二家埼玉工場における消費期限切れ牛乳の使用を指摘し、「発覚したら雪印の二の舞」と隠ぺいをそそのかすよう表現した外部コンサルタント会社作成の社内資料が社外流出。「隠ぺい企業」と誤解され、過熱報道が相次いだ。その後、郷原氏は、TBS「朝ズバッ!」の不二家関連報道について、国会参考人陳述、BPOへの審理要請などで、ねつ造疑惑を追及した。