Vol.69
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渡邉 惠理子

HUMAN HISTORY

「面白そう」「やってみたい」、気持ちのままに進んでみると、どこからか元気が湧いてくる

長島・大野・常松法律事務所
パートナー
弁護士

渡邉 惠理子

「自主自律」「手に職」をめざして法学部入学、司法試験受験へ

渡邉惠理子の仕事の99%は、企業結合、違反被疑事件調査対応など独占禁止法関係の案件で占められている。渡邉が、独占禁止法に“はまった”のは弁護士1年生の時、爾来、「rare species(希少種)」と言われた時代から、渡邉はいつも“前例のない道”を歩んできた。留学ではほぼ独占禁止法だけを学び、実務経験のある弁護士として公正取引委員会に勤務、独占禁止法の国際大会のスピーカーやパネリストを務めるなど、女性弁護士第1号の冠がつくものも少なくない。しかし、パイオニアながら、渡邉には意外なほど気負いがない。「高邁な志があったわけではなく、なんとなく面白そう、やってみようか、の連続で気がついたらここまできていました。続いたことは奇跡に近い」と笑う。面白そうなことに惹かれるまま、ただ、都度全力で学び、全力で仕事をする――彼女の今日は、そういう確かな強さで紡がれている。

生まれは福島市ですが、会社員だった父の異動に伴い東北と新潟を転居していました。小学校は2つ、中学校は3つです。転校生は、“出来上がった世界”にひとりで入っていくのでそれなりに大変ですが、一方で全部リセットされるのでこれが結構面白い。

小学校・中学校の時に入っていたガールスカウトでは、キャンプでのテントの設営、かまど掘り、重い荷物の運搬などの力仕事も当然のこととして自分たちでやっていました。宮城県第一女子高校(当時)の入学式で校長先生の「当校は白河以北の名門女子校にして良妻賢母を育てる――」という挨拶を聞いた時は、正直引きましたが、学校や生徒は自主自律をめざす校風で、当時は革新的だった制服自由化も学生主導で行われ、いろいろな力仕事も当然自分たちでやっていました。私も、大学で、重いからカバンを持ってやると言われた時は、「ええっ、えっー!」と驚くくらいにはなっていました(笑)。

高校生の頃に具体的な職業イメージを持っていたわけではありません。ただ、いったんは会社勤めをしても結婚や育児で家庭に入らざるを得ないことが多かった母たちの世代が、よく「経済力は絶対必要」と言うのを聞いており、大学受験を前にして、漠然と「就職」を考えるとやっぱり法学部かなぁと思っていました。

地元の東北大学法学部に進学。大学の講義やゼミを通じて“法律の面白さ”に目覚め、司法試験の受験も意識するようになった。当時、法学部1学年の学生数は約230名、うち女子学生は約10名。学生と教授陣との距離は近く、渡邉は「手をかけて育てていただいたと思う」と振り返る。

高校生までは、正直、学校で教わる勉強が面白いとは感じたことはなく、歴史やミステリーなど自分の好きな分野の本を気ままに読んでいるほうがはるかに楽しかったのですが、大学で初めて「勉強が面白い」と思うようになりました。法学一般で、既存の判例から事件を区別して異なる判断を導くにはどうしたらよいかと問われ、「事実が違えばよい」ことに気がつき、これはなかなか面白いと思いました。数学は苦手で苦戦しましたが、法学部で学ぶロジックは、ある種数学の証明問題を解くようなものだと思っていました。

当時の東北大には「東北の3賢人(または4賢人)」と呼ばれた民法の教授たちの講義があり、私は、とりわけ、鈴木祿彌(ろくや)教授とその夫人の鈴木ハツヨ教授(東北学院大学)に、言葉に尽くせぬほどお世話になり、また、自分の法律家としての在り方にも大きな影響を受けました。例えば、ずば抜けて頭のきれる祿彌先生が、朝5時には起床、コーヒーとケーキを召し上がった後はまず勉強(研究)しているのを目のあたりにして、私のような凡人はまじめに地道にこつこつと努力を継続するしかないと覚悟を決めました。この気持ちは今でも変わりません。一方、祿彌先生、そしてハツヨ先生も、いつも冗談や洒脱な会話で家族や学生を笑わせ、どんなに難題に直面してもユーモアを忘れないことを近くで見てきて、これも「法律家たる者、かくありたい」と思ってきました。両先生のドイツ留学時は、先生のお宅で、「おばあちゃん」と呼んでいたハツヨ先生のお母様と愛犬のクロと一緒に留守番をしました。師範でもあったおばあちゃんに茶道や華道の教えを受け、まるで実の孫のようによくしていただいていました。

東北大学では、鈴木祿彌先生をはじめ、先生方の著書や論文の校正などのバイトをしていました。先生方からは、勉強に限らずいろいろなことを教えていただきました。例えば、小嶋和司教授(憲法)の研究室で、初めて「金継ぎ」をしたお茶碗を見て壊れていると思ったのですが、小嶋先生が、金継ぎについて説明されたうえで「いつも娘に言うのだけれど、ひとつだけでいいから、河井寛次郎や三輪休雪といった名工のお茶碗を普段使いしてご覧なさい」と言われたことがずっと頭にあり、昨年、ようやくひとつ購入しました。でも、まだ普段使いまでには至っていません(笑)。

経済力が必要という思いがあり、また、思いがけず、2年生でとった憲法・民法・刑法の試験結果がよかったことで、司法試験を受験してみようかと思うようになりました。就職のことを考えて入った法学部でしたが、先輩たちを見ていると、四大卒女性の企業への就職は容易ではなく、また、実際に就職した先輩たちが数年で退職したり、結婚で肩たたきに遭ったりすることを知って、公務員であれ司法試験であれ「まず資格。手に職」と思うようにもなっていました。後になって、資格だけでは食べていけないことはわかったのですが(笑)、入口として、まずは資格を取ろうと考えたわけです。

自分の力で生きていくためには経済力、そして手に職、まずここから始まった

予想外の家族の病気、やがて司法試験合格。想像もしなかった渉外弁護士になる

渡邉 惠理子
本取材および撮影は、長島・大野・常松法律事務所が東京オフィスを構える東京駅から直結するJPタワー(東京・丸の内)で行われた

父親に癌が見つかったのは渡邉が大学3年の春。渡邉は母親を手伝って看病や家事に追われるなかで「司法試験を受けている場合じゃない」と思ったという。しかし、両親の期待や鈴木祿彌・ハツヨ両教授たちの励ましもあって、なんとか合格に至る。

当時、医師から言われたのは「完治した例はない」「手術を繰り返すしかない」「手術も段々難しくなる」「余命は短い」ということでした。本人には告知しない方針の時代であり、また、本人に伝わらないよう配偶者にも伝達しないということで、姉と私が告知を受けました。難病で闘病中の弟はまだ高校生で、姉は地元にはおらず、先輩の話を聞けば、先輩の主催する答案練習会が週1回あるものの仙台には予備校もない、簡単に合格できそうにはなく、こういうことを「人生真っ暗闇」というのだと思いました。父がそういう状態になって、経済面での不安も大きくのしかかっていました。

そんな時に、祿彌先生が、「難しく考えないで、その時はうちの娘になればいいよ」「うちには子供もいないし、老後の心配もしなくていいし、学費は援助するから心配しなくていい」と言ってくださり、ハツヨ先生も「そう、本当に心配しなくてもいいのよ」と口を添えられ、最初は驚き、次にひとりで背負い込むことはないのだとほっとし、そして最後に嬉しくなりました。なお、おばあちゃんからも、お小遣いやお菓子をたくさん(笑)、という嬉しい励ましをいつもいただいていました。

大学は首席で卒業し、卒業生総代として卒業証書を受けました。母は父が涙を浮かべるのを初めて見たと言っています。一方、祿彌先生は折に触れて「成績がいいことはいいことではあるけれども、重要なのは、物事を複眼的に捉えること、試験でいい答案を書くこととは違うところにある」と言っておられました。今でもこういった祿彌先生の教えを思い出します。

幸い、弟は難病をうまくコントロールしながら大学に合格し上京、姉は奨学金で博士課程に進学、父は何度も手術を繰り返しながらも、最初の宣告時期を越えて存命し、経済的にもなんとかなりそうと思える状況になりました。ようやくあとは自分のことだけ心配すればよいと思った時は、司法試験に合格もしていないのに目の前の霧が晴れていくような思いでした。自分の意思を超えたところでの挫折のつらさは、仕事での苦労とは違うように思います。私にとってのその後は余生のように感じています。

ロースクールの学生から中長期人生計画に基づく進路相談を受けたことがあります。計画は思いどおりにはいかないことのほうが多いし、キャンバスに描いた自画像で自分の手足を縛っていると、描く理想とのギャップに苦しむことになってしまう。結局「出たとこ勝負」で十分と、雑駁になることも大切ではないでしょうか。

1985年に司法試験に合格。渡邉は一貫して裁判官になるつもりだったという。しかし、たまたま参加した長島・大野法律事務所(当時)への事務所訪問をきっかけに、想像もしなかった渉外弁護士へ進路を変え、その後の留学や公取委勤務へつながっていくことになる。

渉外事務所・渉外弁護士についてほとんど知見はなく、修習中も法律事務所への訪問はまったくしていませんでした。ただ、当時の長島・大野訪問に欠員が出た時に、この機会を逃すとおそらく渉外事務所を訪問する機会は一生ないだろうと思い、手をあげました。訪問してみると、会社のようなオフィス、弁護士の執務室、稼働内容と時間を記録するディリーレコード、また、英語(なのか日本語なのか当時の私には区別のつかない言葉)で進む会話を目の前にして、驚くばかりでした。ただ、その後にご馳走になった中華料理はとてもおいしく、弁護士の話も楽しくて、「何かいい事務所だなぁ」(笑)と思って仙台に帰りました。

まったく思いがけず「うちに入りませんか?」と声をかけていただいたのは、仙台に戻ってからです。このお誘いに、「知らない都会」の東京に私ひとりで出ていくのは怖すぎる(笑)と思い、また、任官志望と期待していてくださった裁判教官にも申し訳なく感じる一方で、渉外事務所に就職しても何をどうすればよいのかわからないけれど、ともかく面白そうと強く思いました。最後にやってごらんと背中を押してくれたのは、手術と入退院を繰り返すなかで小康状態にあった父です。「これ以上考えても仕方ない。」給与も含めて勤務条件も聞かずに飛び込んで、結果現在に至っています。

事務所に入る際、長島安治弁護士に面談する機会がありました。どきどきしながらもまっさきにお伝えしたのは、普通に学校で学んだ程度でしか英語ができないのですが、それでもいいのでしょうかということでした。長島弁護士は「入ってから勉強すればいい」と即答されましたが、最初の案件で、いきなり英語の会議に参加、終了後ただちに「では、議事録」、米国のクライアントに「電話で伝達」といった指示が続き、その都度、「えーっ!」と(心のなかで)叫び、先輩アソシエイトに助けてもらいながら、都度何とか乗り切りました。何年も必死にやっていると、得意ではなくとも、英語でパネリストができるくらいにはなってくる、不思議です。

当時、世間では「女性は男性の3倍働いて初めて一人前と認められる」と言われていました。また、「辞めたい」と言った時に引き止められるような存在にはなりたいと思っていました。先輩アソシエイトの「来年になれば楽になるよ」という言葉--ただし、翌年楽になるということはまったくありませんでした(笑)--に支えられ、赤坂近辺に勤務した同期たちや事務所の先輩、同期の弁護士たちと食べ、飲み、日々の励ましにしていました。

「人生いい時もあれば、悪い時もある」そう受け止められることが強さになる

独占禁止法で身を立てたい!留学、公取委勤務へ

渡邉は、1年生のGWの初日、事務所に忘れ物をとりに行ったところでパートナーから独占禁止法の案件のアサインメントを受けた。知らない法律だけど「面白そう」。経験を重ねてもわかないことだらけで、気がつけば“はまって”しまっていた。

当時の東北大には経済法の講座はなく、いわゆる土地勘はまったくありませんでした。法律の規定ぶりも曖昧かつ抽象的で、要件事実が何かもわからない、解説を読んでも主観的な記述しかなく、「こんな法律があってよいのか」と第一印象は大変悪かったと思います。しかし、だからこそ興味を持ったというか、はまってしまったのかもしれません。

最初は無我夢中で必死にリサーチし、作業をして一段落すると、「よくできるね」--ただし、これは本当とは限りません(笑)--と言われて、次の案件もアサインされ、ちょっと一段上の厳しめの仕事のアサインと褒めることで育てるのが事務所のやり方ではないかと思っていました(笑)。その後も独占禁止法の案件は途切れることなく続き、公取委初の問題解消措置がついた案件など、気がつけば独占禁止法の仕事が本当に面白くなっていました。長島弁護士、大野義夫弁護士のほか、伊集院功弁護士からも本当にたくさんの独占禁止法関係の仕事をいただきました。当時の秘書たちからは、「伊集院先生と仕事ができるなんてアソシエイトにとって名誉なことです」と激励されていました。

留学では本格的に独占禁止法の勉強をしたいと思っていました。この時も、ちょうど東北大でも教えておられた、ワシントン州立大学(UW)ロースクールのヘイリー教授にお会いする機会があり、翌年の比較独占禁止法プログラムでは日本とEUからも専門家を客員教授として招くので、日米欧それぞれについていい勉強の機会になるのでは、と声を掛けていただきました。そういうわけで、留学先はTOEFL受験前、アプリケーション提出前に決まりました。

UWでは、必修科目以外は独占禁止法に関係する授業のみを履修しました。それぞれの法域・国の専門家から学んだことはその後の糧になりました。責任が伴わないだけ仕事をするよりは気分的には楽でしたが、勉強は本当に厳しかった。最も困ったのは、経済学です。東北大でとった授業はマルクス経済学で、それはそれで面白かったのですが、留学時は反トラスト法の授業に必要な限りでの経済学を学ぼうと思うものの、当たり前ですが授業も英語で、火星の言葉を聞いているような感じでした。やむを得ず、日本から日本語の教科書を送ってもらい、まずそちらを読んで「脳内変換」してなんとなくわかった気になったというところで終わりました。ヘイリー先生がチュートリアルというJDの学生1名と私しかいないゼミのようなクラスを設けてくださったのですが、毎週100ページ近い基本書の読み込み、英語が苦手な私が先生と学生2名で徹底的に議論することもきついトレーニングでした。ただ、休日にはみんなで料理を持ち寄ってパーティをしたり、ピクニックに行ったり、ドライブに出かけたり、また、依頼者、勤務先の弁護士や秘書が頻繁に自宅に呼んでくれたり、留学生活は十二分に楽しめたと思っています。

ちなみに、夫は日本に残しての単身留学になりました。周りからは「前代未聞」と言われていたようですが、私としては、渉外弁護士として仕事を継続するなら、留学は必要、また、せっかくの比較独占禁止法プログラムで学ぶことができるなら、という思いがあって決めました。夫の勤務先は全国転勤が予定されており、別居を前提とせざるを得ない私との結婚は、たぶん人類愛的な見地から決めたのではないかと思いますが、終始、最も信頼のおける友人でもあり(と私は思っていますが、本人に聞いたことはありません)、よき理解者でもあります。留学も、仕事も、一番応援してくれたのは夫です。

渡邉 惠理子
激務を続ける渡邉の右腕、歴代の担当秘書の方々と

渡邉は、比較独占禁止法でLL.M.を取得した後、予定を1年延長して、長島弁護士の推薦で米国のローファーム「カークランド・エリス」シカゴオフィスで実務経験を積む。ウィリアム・ストレフ弁護士やタフト・スミス弁護士というメンターパートナーにも恵まれ、独占禁止法の案件を手がけさせてもらうことができた。都合2年間、「みっちり独占禁止法だけを勉強した」ことになる。そして、帰国して日を経ずして公正取引委員会事務局(当時)に入局、また新たな世界に飛び込むことになった。

留学から帰国後、より専門的な知識を深めたかったのと、“執行する側”も面白そうと気持ちが動きました。当時は任期付き採用という制度はなく、入局にあたっては事務所を辞め、弁護士会も脱会して入局しました。事務所に戻る約束はせず、パートナー弁護士にも「公取委へ行ったら連絡はしないでください」という今思えば生意気なことを言って公取委へ入りました。

当時は、公取委も女性キャリアは10年にひとりしか採用していないと言われていましたが、優秀な女性キャリアが活躍していました。最初は、経済取引局総務課に配属されました。業務提携も所掌ではあるものの、主たる業務は最も役所らしい他省庁との法令協議・行政調整であり、課長補佐として、当時の大蔵省、通産省、総務省からの出向者と公取委職員で組成されたチームでいきなり最前線に立つことになりました。

役所間の協議はまったくのアナザーワールドとしか言いようがありません。初めての省庁間協議で、冒頭「権限はあるのか」と言われ、思わず、「そんなことより、サブの話をいたしましょう」と返したところ、相手方に思いっきり引かれてしまうという経験もしました。

当時、公取委全体にとっても課にとっても最大の課題は、独占禁止法適用除外の見直しと規制緩和であり、公取委の組織改編後も、経済取引局調整課の総括補佐として、終始同じ課題に取り組みました。国会の関係で徹夜することも珍しくなく、公取委での3年間は昼夜を分かたずひたすら働きました。実際、体を壊したこともあり、3年間勤務したあと退職し、しばらく夫の被扶養者として休養しようかと思っていました。

公取委での勤務はまさに激務としか言いようがないのですが、私にとってよかったことは、法律事務所とは違った仕事のやり方、違った人間関係を肌感覚として得たことです。弁護士は、当然ながら仕事には完璧を期し、だからこそ助言ができる。しかし、役所では完璧さに固執していると仕事が回らない、拙速も重要、限られた時間で6、7割程度できたところでよしとして報告をまとめる、違う仕事のやり方を体で覚えました。また、弁護士や法務部という比較的均質な環境とは異なり、役所では、仕事や面談の相手方は経歴や個性も千差万別で、公取委で仕事をしたことは貴重な経験になりました。

もうひとつ、糸田省吾元公取委委員からも大きな影響を受けました。糸田元委員は事務総長だった当時他省庁から「ミスター公取委」と呼ばれており、冗談のわかる洒脱なお人柄ですが、学者でもあり、また、仕事となると古武士的なところがあります。私が弁護士に戻ってからのことですが、「弁護士が正論を言わなくて誰が言うの」と目のさめる一言をいただき、迷いがふっきれて、自分が最もよいと思えることを助言することができたことがあります。

すこし時代はとびますが、2012年からNHKの経営委員・監査委員を務めた時は、経営委員・監査委員の立場から弁護士の業務を俯瞰することになり、これも現在仕事をしていくうえで、大きな影響を受けました。

公取委での経験も然り、NHKでの経験も然り、まったく異なる環境での経験は自分にとって大きな意味をもつのではないかと思います。

独占禁止法関係の実務に注力、同時に様々な公的活動も行う

常に一から勉強して思いきり頭を使う。ここに独占禁止法の一番の面白さがある。

渡邉は公取委を退職後、「しばらくゆっくりするつもり」だったが、「戻ってこい」コールを受けて、長島・大野法律事務所に復帰、2000年にパートナーに就任した。独占禁止法関係の案件が渡邉の仕事の99%を占めている。

ほかの分野でも同じだと思いますが、独占禁止法の案件にはそれぞれに“顔”があり、どれひとつとして同じものはありません。独占禁止法の案件では、そもそも取り上げる製品・サービスも違い、ビジネスモデルやカスタマー動向も千差万別で、まず事実がどうなのかによって進むべき方向がまったく違います。仕事のやり方としても、分析して意見書を出す時と、国際カルテルや企業結合案件で、依頼者のコントロールタワーになって全体を統括する時は仕事のやり方も大きく異なります。

その都度、一から勉強して事実を把握し、どういう立論ができるか、どういった事実があれば結論が変わるか、どのように説明したら公取委を説得できるかに思いっきり頭を使う――ここに独占禁止法案件の一番の面白さがあると思います。企業結合案件では、分厚いバインダーをドンと渡され、そのまま会議室にカンヅメになって製品や事業について教えてもらうことが多々あります。私にとってはこういうのがとても面白い。例えば、カスタマイズされた製品などは、グラデーションになっていて、どこでどう区切ればいいのかわからなかったりする。きっちりと分けて市場を画定しようとすると、それではかえって実態を見逃すことになる、そこを探って勉強していくのが面白い。独占禁止法の使われ方や競争当局の考え方もどんどん変わっていきます。今でも「独占禁止法とは何か」、まったくわかった気がしません。変化する独占禁止法とその執行に追いついていくのに精一杯です。

渡邉 惠理子
長島・大野・常松法律事務所の事務所内に設置された模擬法廷で、チームを組むアソシエイト弁護士と。左は、村瀬啓峻弁護士(69期)、右は、中村勇貴弁護士(68期)

渡邉は、本業のほか、独占禁止法に関係する著作活動や講演、さらに、慶應義塾大学法科大学院、政府委員会やNHK経営委員会・監査委員会などの活動を行うことも大切にしてきた。一方で、エネルギーをもらう機会も見逃さない。

様々な活動を通じて“外”を知り、いろいろな人に出会うことは面倒ですが、面白い。どんな活動であれ、本能が「やめておけ」というアラームを発しない限り、先々のことや損得勘定はひとまず措いて、その時面白ければそれでよいと割り切ろうと思っています。結果、道が開けなくたって仕方ない、だめなら早期に撤退すればいいし、あきらめるときはあきらめようと思うようになりました。仕事も趣味でも同じです。そのとき面白ければそれでいいと思えば、ゲームでいうHP(エネルギー)は都度必要なだけどこかから湧いてくるような気がしています。

弁護士は、時に体を張って、逃げない覚悟が必要になる職業であることは間違いないと思います。息抜きと睡眠は絶対に必要です。かくいう私にとって、中島みゆきの「夜会」と「コンサート」は1年分の元気をもらう必須の年間行事です。ファンクラブ会員にもなっています。また、(この場をかりて告白すると)柳家権太楼師匠、柳家さん喬師匠、立川志の輔師匠の落語、大好きです。今はなかなかチケットがとれませんがアソシエイトの時は夫と一緒に柳家喬太郎師匠(当時二ツ目)の追っかけをしていました。どちらも弁護士になってからずっと続いています。

まだ、目の前に仕事があって、人生のまとめに入るには、もうちょっと時間がかかりそうですが、枕があって、噺があって、落ちがつく――そんな落語みたいな人生を送りたいな……と思っています。

※本文中敬称略