金融系の弁護士としてキャリアをスタートさせた杉本文秀は、その専門性を磨き続け、企業・経済活動の“ど真ん中”を突き進んできた。金融取引が隆盛を極めたバブル経済期には、銀行や事業会社の大型資金調達に携わり、また、バブルの崩壊によって危機的状況に陥った1990年代後半は、日本経済の健全化に向けて力を尽くした。通じて大きな経済案件に関与してきた杉本には、日本社会への奉仕精神が宿っている。
また、2000年に誕生した長島・大野・常松法律事務所は、日本で初めて所属弁護士数が100名を超えた事務所として知られるが、杉本はその統合・設立における立役者の一人であり、組織運営の整備にも力を発揮。専門領域を持つ弁護士が協働して、いかなるニーズにも応えるという組織力の強さに先鞭をつけた。遡れば新しいことへの取り組みが多く、杉本の道のりはチャレンジの軌跡でもある。
田園風景が広がる静岡で育ちました。自然豊かな環境で、郊外にあった祖父母の家に遊びに行った時などは、よく田植えの手伝いやタケノコ採りをしたものです。祖父母の家は代々農家なんですけど、祖父は地方議員でもあったので、選挙の際には大勢の関係者が出入りしていたのを覚えています。その祖父がいつも口にしていたのが、法律の重要性。社会の円滑な運営には欠かせないものだからと、孫の私に「法学をきちんと学べ」「弁護士になれ」とよく言っていました。とはいえ、こっちは田んぼを走り回っているような子供ですからね、まったく意に介さず遊んでばかり(笑)。
通った小学校ものんびりしたもので、成績表がなく、いわゆるお受験とは無縁の環境でした。むしろユニークだったのは、農作業や収穫祭、陸上大会、修学旅行代わりの伊豆での遠泳といったイベントに力を入れていた点で、体を動かすことが大好きな私にはとても楽しかった。高学年頃からは科学に興味を持ち、自分で電子部品を買ってきてラジオやアンプをつくったりしていました。勢い、6年生の夏休みにアマチュア無線の資格を取ったんですよ。大人たちと一緒に講習を受け、半導体の性質や集積回路の構造などを学んでね。つまりは完全な理系で、のちの中学、高校でも一貫して得意だった科目は数学や物理でした。
あと印象的な出来事としては、中学2年の時に1カ月ほどロサンゼルスにホームステイしたこと。「行きたい」と言い出した私に周りは驚いていたけれど、好奇心が強いというか、一度やりたいとなったら引かないものだから、両親は理解して出してくれました。現地では英語の勉強もしましたが、ホストファミリーと過ごす時間が多く、これが本当に楽しかった。バーベキューをしたり、パーティーをしたり……とても親切に面倒見てもらって。行ったのは76年、折しも建国200年というタイミングでアメリカは活気に満ちていたし、その豊かさや懐の深さのようなものを感じました。今にすればいい時代のアメリカに触れたわけで、この時の体験が国際的な仕事にも憧れる一つのきっかけになったように思います。
静岡高校に進学してからも、変わらず理系科目に対する興味が強く、将来はエンジニアか研究者になるかと。私も周囲もそれが妥当だと目していたのですが、実は進路を意識する段になって文系に転向したんですよ。よくよく自分に問うてみると、研究所に籠もるよりは、人や社会の活動により深くかかわりたいという気持ちが強かった。祖父から何度も言われた「法律家になれ」という言葉も、頭のどこかに残っていたのでしょう。結果、社会をどう円滑に運営するか、法律を学んでみたいという気持ちが高まり、大学は法学部に進もうと決めました。担任の先生や同級生たちからは「ありえない」と驚かれましたけど(笑)。