Vol.80
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弁護士 杉本 文秀

HUMAN HISTORY

常に時代の変化を感じながら、仲間と新しいことにチャレンジする仕事にこそ、大きな喜びがある

長島・大野・常松法律事務所
マネージング・パートナー
弁護士

杉本 文秀

科学好きの理系少年。人や社会との接点を求めて、高校生の時に進路変更

金融系の弁護士としてキャリアをスタートさせた杉本文秀は、その専門性を磨き続け、企業・経済活動の“ど真ん中”を突き進んできた。金融取引が隆盛を極めたバブル経済期には、銀行や事業会社の大型資金調達に携わり、また、バブルの崩壊によって危機的状況に陥った1990年代後半は、日本経済の健全化に向けて力を尽くした。通じて大きな経済案件に関与してきた杉本には、日本社会への奉仕精神が宿っている。

また、2000年に誕生した長島・大野・常松法律事務所は、日本で初めて所属弁護士数が100名を超えた事務所として知られるが、杉本はその統合・設立における立役者の一人であり、組織運営の整備にも力を発揮。専門領域を持つ弁護士が協働して、いかなるニーズにも応えるという組織力の強さに先鞭をつけた。遡れば新しいことへの取り組みが多く、杉本の道のりはチャレンジの軌跡でもある。

田園風景が広がる静岡で育ちました。自然豊かな環境で、郊外にあった祖父母の家に遊びに行った時などは、よく田植えの手伝いやタケノコ採りをしたものです。祖父母の家は代々農家なんですけど、祖父は地方議員でもあったので、選挙の際には大勢の関係者が出入りしていたのを覚えています。その祖父がいつも口にしていたのが、法律の重要性。社会の円滑な運営には欠かせないものだからと、孫の私に「法学をきちんと学べ」「弁護士になれ」とよく言っていました。とはいえ、こっちは田んぼを走り回っているような子供ですからね、まったく意に介さず遊んでばかり(笑)。

通った小学校ものんびりしたもので、成績表がなく、いわゆるお受験とは無縁の環境でした。むしろユニークだったのは、農作業や収穫祭、陸上大会、修学旅行代わりの伊豆での遠泳といったイベントに力を入れていた点で、体を動かすことが大好きな私にはとても楽しかった。高学年頃からは科学に興味を持ち、自分で電子部品を買ってきてラジオやアンプをつくったりしていました。勢い、6年生の夏休みにアマチュア無線の資格を取ったんですよ。大人たちと一緒に講習を受け、半導体の性質や集積回路の構造などを学んでね。つまりは完全な理系で、のちの中学、高校でも一貫して得意だった科目は数学や物理でした。

あと印象的な出来事としては、中学2年の時に1カ月ほどロサンゼルスにホームステイしたこと。「行きたい」と言い出した私に周りは驚いていたけれど、好奇心が強いというか、一度やりたいとなったら引かないものだから、両親は理解して出してくれました。現地では英語の勉強もしましたが、ホストファミリーと過ごす時間が多く、これが本当に楽しかった。バーベキューをしたり、パーティーをしたり……とても親切に面倒見てもらって。行ったのは76年、折しも建国200年というタイミングでアメリカは活気に満ちていたし、その豊かさや懐の深さのようなものを感じました。今にすればいい時代のアメリカに触れたわけで、この時の体験が国際的な仕事にも憧れる一つのきっかけになったように思います。

静岡高校に進学してからも、変わらず理系科目に対する興味が強く、将来はエンジニアか研究者になるかと。私も周囲もそれが妥当だと目していたのですが、実は進路を意識する段になって文系に転向したんですよ。よくよく自分に問うてみると、研究所に籠もるよりは、人や社会の活動により深くかかわりたいという気持ちが強かった。祖父から何度も言われた「法律家になれ」という言葉も、頭のどこかに残っていたのでしょう。結果、社会をどう円滑に運営するか、法律を学んでみたいという気持ちが高まり、大学は法学部に進もうと決めました。担任の先生や同級生たちからは「ありえない」と驚かれましたけど(笑)。

社会や経済の“ど真ん中”で活躍できる弁護士になりたかった

苦手な文系受験ゆえに、第一志望だった国立は叶わなかったが、杉本は進学先として早稲田大学法学部を選択。同大学には個性的な学生が多く、交流を深めながら十分に大学生生活を楽しんだという。なかでも熱中したのは、入学してすぐに入った刑事法研究会での活動だ。

刑事法研究会では、仲間とよく議論を重ねたものです。刑法は法律のなかでは比較的論理的なところがあるので、性に合うというか、面白かったですね。模擬裁判にも熱心に取り組み、大隈講堂でやるという企画が出てからは、準備やら何やらで、結局3年生の終わり頃まで活動が続きました。学生にしてはちゃんとした模擬裁判をやるということで、のちに研修所でお世話になった中西武夫教官や、二弁の会長も務められた弁護士の川崎達也先生にご指導いただいたことは、貴重な経験になりました。

法哲学にも興味があって、何のために法があるのか、法律家の存在意義は何だろうと、いろいろと考えるところは多かったです。法を形式的に適用するだけでなく、問題解決のために何が妥当かをしっかり考えること、それが法律家の真の役割だと強く感じるようになり、やっぱり弁護士になりたいなと。刑事に限られる検事や、受動的な裁判官よりは、より社会や経済と接点のある弁護士に強く魅力を感じていました。

一方、大学では経済学部の授業も取っていたんですけど、きっと好きな数学に未練があったのでしょう(笑)。『法学セミナー』以上に『経済セミナー』を読むのが好きでしたから。科学として捉えれば、経済学のほうが面白い。法学は人や社会を治めるための一つの学問で、法の意義、目的はそこにあるわけですが、事象の分析という面においては、経済学のほうが科学的です。ある事象が起こった時に、何と何が関連してそうなっているのか、それを分析するのが面白いのです。金融経済に対する関心は、この頃から強かったですね。

司法試験を明確に意識したのは4年になってから。そもそも、早稲田には一途に司法試験に向かう空気がないし(笑)、模擬裁判などの活動に力を入れていたから、スタートが遅かった。4年で最初に受けた司法試験は択一からダメで、記念受験に近かったと思います。卒業直後に受けた時には択一はクリア、論文はあと一歩という結果で悔しかったのですが、翌86年には合格することができました。ちなみに、当時は教養選択科目があり、私が取ったのは好きな経済原論。経済はずっと勉強していて、成績もよかったんですよ。合格した時、先輩から「杉本は経済原論だけで受かったんだろ」って言われたのを覚えています(笑)。

弁護士 杉本 文秀
同事務所が出資するリーガルテック企業・MNTSQ株式会社の社外取締役も兼務する藤原総一郎弁護士(パートナー・50期/写真左)、鈴木謙輔弁護士(パートナー・53期/写真中央)とオフィス内のフリーアドレススペースで

金融系の弁護士として。重ねた鍛練と留学を通じて知見を広めていく

司法修習を行ったのは神戸、杉本にとっては初めての関西生活となった。修習生の多くが同世代で、活発な議論とともにテニスやスキーといったスポーツにも勤しむなど、ここでも杉本は「十分に楽しんだ」。そして修習を通じて、企業・金融法務にかかわりたいという気持ちを一層強くした杉本は、意向どおり歩を進める。入所先として選んだのは、金融系に強い常松・簗瀬・関根法律事務所(現長島・大野・常松法律事務所)。社会に足を踏み出したのは89年、バブル経済真っ只中の時期であった。

繰り返し述べてきたように、経済好きな私は数字にかかわりたいと思っていたし、金融関係に進むという方向性は早くから定まっていました。修習である程度わかった現場と、アメリカなどの海外事情とを比較すると、日本の法律家にも、もっと社会や経済の真ん中で活躍できる場があればいいのに……そう感じるようにもなっていました。当時は、弁護士が経済の中心に関与するのはなかなか難しい時代だったんですよ。倒産事件や経済事件での活躍はあったけれど、いわゆる企業活動の“ど真ん中”という意味では。それがファイナンスの世界では少しずつ変わってきていたから、金融関係の仕事に強く興味を持ったわけです。

入所を決めた常松・簗瀬・関根法律事務所は、当時、渉外事務所として著名だったブレークモア法律事務所から、国際的な金融取引をしていた部門が独立してつくられた事務所です。修習生の時に何度か訪問しましたが、代表の常松弁護士から聞いた話が刺激的で。なかでも国際市場での証券発行であるとか、日本を代表する事業会社の大規模なファイナンス取引であるとか、修習ではまったく耳にしないようなタイプ、規模の仕事話を聞いて、そういう案件に携わりたいと胸を躍らせました。

大規模な金融取引が多数あった時代です。私も入所早々、アソシエイトながら、日本の大手銀行がアメリカのノンバンクを買収するという案件にかかわりました。海外マーケットで数千億円の資金調達をするチームにいきなり入ることになり、英語での対応も多かったから、それはもう必死でしたが、日経新聞のトップを飾るような大型案件に関与できたのは嬉しかった。無事に集結できたのは先輩方の指導あってのことで、今にすれば自分の役割など小さかったけれど、“1年生”の経験としては間違いなく大きかったですね。

以降も金融機関、特に銀行の案件にたくさん関与し、数をこなすなかで鍛えられてきたという感じです。その後数年間は、著名な事業会社も含めたエクイティファイナンスやデットファイナンスに携わり、加えて金融規制関係の仕事や、企業の海外投資案件も担当することが多くなりました。何度となく海外出張にも出て、とにかく忙しい毎日……。世界の業界トップを競う日本の企業はみんな本当に強かった、そういう時代に私は鍛えてもらったように思います。

どのような仕事でも、一つひとつの経験は、必ずのちに生きてくる

弁護士 杉本 文秀
幼少の頃から「好奇心旺盛な性分は変わりません」と語る杉本氏。弁護士となって以降も、キャピタルマーケットを専門領域としながら、新たな興味・関心が生じた分野の勉強、研究を続けている

92年、杉本は順当な道筋としてコロンビア大学ロースクールに留学。ニューヨークは自身が望んだ地でもあった。新婚で行ったこともあり、「長い新婚旅行のような面もあった」と振り返るが、毎日出される宿題の量には圧倒されたという。そして、修了後の現地大手法律事務所での研修を通じては、大いに知見を広めることとなった。

アメリカではコーポレートガバナンスの気運が高まっていた時代です。そのなか、経済大国である日本がアメリカの脅威になっていたから、日本のガバナンスに対する関心はこと強かった。まさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」で、日本企業の形態や文化に対するリスペクトがあり、ずいぶん研究されていました。私もコーポレートガバナンスのゼミで、「keiretsu(系列)」などの日本型ガバナンスについて発表したことを覚えています。アメリカは本当に株主が強い資本主義だけれど、そういう形態だけでいいのか……要するに株主資本主義だけでなく、様々なところからの監視がガバナンスで生きることもある、といったペーパーを書いて。分析や検討を通じて、双方学ぶものがありましたね。

修了後は、シンプソン・サッチャーというニューヨークの大手法律事務所で研修しました。1年ほどの短い期間ながら、ここで得たものも大きかった。仕事としてはやはり金融関係が多く、まだ日本になかったREIT(不動産投資信託)や中米のインフラの証券化、いくつかのIPO案件も経験しました。留学前からアメリカの弁護士とは何度も仕事をしていましたが、現地で一緒に仕事をしてみると、彼らの検討の深さには感銘を受けたものです。

それと、圧倒されたのは規模感の違い。シンプソン・サッチャーには、当時でも約100名のパートナー、300名のアソシエイトが在籍していたでしょうか。こういった規模の事務所が日本に出てきたのは5年くらい前ですからね……。彼らは30年も前にそれを実現していたわけです。これは純粋に規模だけの話ではなく、10人、20人の法律事務所と比べれば、当然のことながら個々の弁護士の専門性も動き方も全然違うということです。

日本にもこういう事務所をつくらなきゃいけないと、強く感じました。特に企業法務の場合、それなりに大きな規模で専門性を持ち、それがチームとなってクライアントにサービスを提供しなければ、本当の意味でニーズに応えられない――危機感にも似た思いでした。一緒に留学していた日本の弁護士とも、「まずは弁護士が100人を超える事務所を実現させよう」といった話をしていました。どんなに大きな案件でも、100名規模ならば何とか対応できますから。この時の思いが、のちに長島・大野・常松をつくる原動力となったのです。

日本経済の健全化に向けて。そして、弁護士100名を超える事務所設立に尽力

研修を終えて帰国しようとしていた時、杉本に出向の話が持ち上がった。出向先は、イギリスの投資銀行であるSGウォーバーグ(現UBS)の日本法人。事務所からの要請を受けることにした杉本は、95年、コンプライアンス部長という役職で管理職に就く。当時、弁護士が企業で勤めるためには弁護士会から営業許可を得る必要があり、かつ、杉本が初めてのケースだったため、「理解してもらうのに苦労しました」。

出向は急な話でしたし、弁護士会などへの手続きも簡単ではなかったけれど、結果、SGウォーバーグでの仕事経験は非常に有意義でした。管理職として経営会議にも参加し、会社、経営を知るという意味ではものすごく勉強になった。営業サイドからプレッシャーがかかるという体験もしましたし、投資銀行のオペレーションがどう回っていくのか、生の経営現場で学ぶことができましたから。

また、出向後すぐに、SGウォーバーグはスイス銀行に吸収されることになったのですが、これもまたよい経験となりました。日本での統合作業における規制面、法律面を担当することになった私は、大蔵省や証券取引所、日銀などとの折衝や手続きを取り扱ったのですが、当事者として当局と向かい合うのは、緊張感はありましたけど、新鮮でとても面白かった。どのような仕事でも、一つひとつの経験は、必ずのちに生きてくるものです。

統合が落ち着いて、事務所に戻ったのが96年。入所した頃とは打って変わり、日本経済が大きく傾いていた頃です。バブル崩壊後のあの頃は、私が知る限り、最大の危機状態でした。日本という国がこれで成り立つのかと思うほど……。不良債権をたくさん抱えていた銀行は、自己資本を調達できなければ倒れてしまう。国際的な規制で、銀行は自己資本を充実させないと融資などのリスクを取れないし、場合によっては健全性を失って破綻する懸念が出てきます。90年代後半は、まさにこの懸念がピークにあった時期で、金融機関としての機能を回復するため、もっと言えば日本経済を健全化させるためには、自己資本の充実がものすごく重要だったのです。

優先株や劣後債など、自己資本の調達手段は従前からありましたが、当時の会社法で発行できるようなものではニーズに応えきれなかったので、優先株に関する新しい手法を外資系投資銀行と開発するということもやりました。そのなかで、信託を使った信託方式という手法は多くの大手銀行の自己資本調達で採用され、日本経済の立て直しに少しはお役に立てたかなと。私だけでなく、事務所の弁護士が総出で取り組みましたが、この時期の数年で、数兆円にのぼる自己資本調達に関する助言をしたと思います。本当に大変な時代でした。週末になると、「あそこが危ない」という噂が流れるような状況で、さすがに暗い気持ちにもなりましたし。でも、こういう仕事ができたのは、ある意味、弁護士冥利に尽きます。日本経済のど真ん中に立ち、社会に奉仕することができた――そう思っています。

最高のサービスを提供するには、専門家のチームワークが欠かせない

長信銀の自己資本調達の案件で、杉本らが長島・大野法律事務所(当時)と協働したのは97年、まさにこのさなかだった。旧知の間柄に加え、本件を通じて両事務所の信頼関係がより深まったことを機に始まったのが“統合検討”である。約2年の準備期間を経て、「ゼロからつくり直した」組織は、00年1月1日に誕生。同年、日本で初めて弁護士数100名を超える事務所となった。分裂の歴史を辿ってきた法律事務所において、完全統合の実現は画期的なことであった。

ものすごく忙しい時代だったこともあり、「100名を超える事務所を」というのは、皆に共通する思いでした。必要な時はチームを組み、複数の専門家が協働して最高のものを提供する。かつてニューヨークで抱いた夢が実現できそうだと、私自身、統合準備には力が入りました。双方の事務所から3名ずつ、6名の統合チームをつくり、私もメンバーの一人として尽力しました。規模だけを追って慌ててしまうと、上辺だけの統合になりかねない。そうではなく、やはり第一義にすべきは、国際的に見ても最高のサービスを提供するファーム。だから、完全にゼロからつくったのです。パートナー規約や様々な制度について、そしてチームがきちんと機能できる組織体制について、すべてを合議しながら。

結果、ベストな体制で依頼者の案件に当たれるような、近代的かつ合理的な組織体制を整えることができたと思います。準備中は当然“密かに”進めていたわけですが、100名近くの弁護士が誰一人として公表前に情報を漏らさなかったんですよ。「人の口に戸は立てられぬ」と思っていたのに(笑)。そして、両事務所からは誰一人抜けていません。全員が一つのパートナーシップにまとまったのは、それだけ皆の統合実現への思いが強かったということです。以降、ご存じのように、ほかの大手も追随することとなったのですが、長島・大野・常松の統合が法律事務所のあり方の流れを変えたものと思っています。

統合後は引き続き事務所の運営に関与しつつ、プレーヤーとしての仕事も一層忙しくなりました。自己資本関係の仕事は続いていたし、ほかにも金融機関の統合や大型IPO案件、住宅ローンの証券化などといった証券化案件とか。しばらくして世の中的には敵対的買収が注目されるようになり、私たちキャピタル・マーケットチームも、コーポレートを担当するチームと協働して対応することが増えました。長島・大野・常松が考案した事前警告型の買収防衛策を導入する企業が相次ぐなか、これは新株予約権などを使うものなので、キャピタル・マーケットチームとの協働になるわけです。私自身の担当では、事前警告型の買収防衛策が法廷で争われた最初のケースとなった日本技術開発の案件において、株式分割の差止め仮処分で勝利したこともあります。関西の鉄道会社の買収防衛では、かなり激しく村上ファンドとも対峙しましたし、この頃もまた、90年代後半の金融機関の危機と同じく、とても緊張する案件が続いた時代でしたね。

時代の変化を見据え、組織力とサービスを強化。チャレンジ精神は尽きない

続いて杉本は、リーマンショックによって傷んだ金融機関の自己資本の拡充に奔走し、また、グローバルな危機管理案件にも関与。10年頃からは、国際的に非常に大きな問題となったLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)の不正操作への対応にも追われた。時代が流れ、変化しても、杉本が長きにわたって歩んできたのは、やはり経済のど真ん中だ。「結局のところ、金融機関を中心に様々な危機対応をやってきたような気がします」。

LIBORの不正操作は、ある意味、現在のグローバル危機管理の始まりだと言えます。実際、日欧米の当局への報告やクラスアクションへの対応に走りましたが、国際的に活動している企業にとっては、問題が世界中で連鎖するので、日本当局だけで事は済みません。アメリカやヨーロッパ当局とも話をしながら、世界全体のバランスを見て、どうやって問題を収束させていくのかを考えなければならない。本当に大きい案件って国内だけで済むことはありませんから、制度の違いも含めて、常に勉強しながら対応する必要があります。

そして、こういった場面で力を発揮するのは、やはり専門性を有した弁護士のチームワーク。ずっと金融機関の危機対応をメインにやってきて、それを痛感します。危機管理にしても、キャピタルマーケットの案件にしても、例えばタックスのパートならば税の専門家に、独禁なら独禁の専門家に頼らざるを得ない。もちろん勉強はしていますが、専門家に任せるところはきちんと任せ、一つひとつの専門性を繋ぎ合わせていく。そういう役割分担があって、大きな案件・ディールは成り立つのです。特に危機管理など、とても一人じゃ不可能ですよね。技能的にも様々なものが絡んでくるし、場合によっては訴訟があり、外国人の弁護士とも組む必要も出てくるから、自分の守備範囲だけで解決できるものじゃありません。常に時代の変化を感じながら、仲間と新しいことに挑戦する仕事には大きな喜びがあります。だから私は、独立しようと思ったことは一度もないんですよ。

マネージング・パートナーになった15年からは、プレーヤーとしての仕事は抑え、マネジメントに注力しています。時代が変わって、昨今ではSDGs・ESG、企業と人権の問題、経済安全保障など、企業を取り巻く新しいテーマがたくさん出てきているでしょう。新分野の案件が増加しているなか、私の役割は、引き続き依頼者のニーズにしっかり応えられるよう、違った専門性を持つ弁護士たちが協働しやすい環境をつくること。組織的な対応力の強みはうちの文化でもあり、私が長く描いてきた法律事務所の“有り様”です。この思いに変わりはありません。

弁護士 杉本 文秀
同事務所のオフィスではフリーアドレスのトライアルをしている。ここでは、マネージング・パートナーの杉本氏をはじめ、パートナーも基本的に個室を有せず、フリーのデスクや共有スペースで執務にあたる

その環境づくりにおいて、早くから積極的に推進してきたのがITの活用だ。18年には、リーガルテックの導入、業務フローの見直しとIT化を検討するプロジェクトチームを立ち上げ、いくつかの事例では実際の導入も進めてきた。そして翌19年、長島・大野・常松は新興企業であるMNTSQ(モンテスキュー)に8億円を出資、協働しながらリーガルテックの拡充に努めている。“技術系”の杉本にとっては、これもまた関心の高い分野であり、現在は同社の監査役として深くかかわっている。

まず導入したのは、M&Aのデューデリジェンス業務をサポートするプラットフォームで、今はそれに加え、契約関連の最新のナレッジシェアにも使っています。反復作業や事務的な作業はIT技術を最大限活用し、弁護士はより高度な判断が求められるところにエキルギーを集中させていく、というのが背景にある考えです。「弁護士の仕事はいずれAIに置き換えられる」という論もありますが、定式的な書類作成などはともかく、弁護士本来の仕事がAIに取って代わられることはないと思っています。具体的な事実関係は千差万別ですし、どのような仕事でも、最終的な目的は関係者に納得してもらい、コンセンサスを形成することにあるのですから、弁護士業務にはハートがなければならない。そうした本来の業務に集中するためにも、リーガルテックの進展が必要なのです。

一方、MNTSQ自身も大企業向けにリーガルテックサービスを提供していて、契約関連の情報共有プラットフォームや、自動ドラフティング機能など、すでに多くの企業で採用されています。将来的には法務だけでなく、幅広くコーポレートガバナンスのツールとして使っていただきたいと考えているんですよ。

実は、このMNTSQは代表を務めている板谷隆平の強い思いから始まったものです。うちのアソシエイトとして業務に当たっていたなか、非効率な部分に疑問を呈し、業務の効率化はもっと図れると。そのために、大学時代から交流のある仲間と一緒に「リーガルテックの会社を起こしたい」と言うので、事務所としても投資しようと決めた経緯があります。

「手を挙げた」ことにはしっかり対応し、チャレンジをサポートする、プロジェクト化できるものはしていくという態勢はつくっているつもりです。技術的な進歩もあって、フレキシブルな働き方や様々なチャレンジができる時代になってきたのです。「前についていけばいい」という発想はやめて、違った新しいことにチャレンジする気概を持ってほしい。それぞれ個性がありますからね、持ち味を生かし、伸ばせるような環境づくりは私の役目、そう心得てこの事務所をさらに成長させていきたいと思っています。そして私自身も。今、プロボノにも力を入れていますし、新しいデジタルバンク・金融についてとか、興味が尽きません。これからどういう社会になっていくのか、そこにどう貢献できるのか、よく勉強しながらリーガル領域のベスト・プラクティスを追求していきたいですね。

※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。