大転機となった2年間のアメリカ生活。
培われたグローバルな視点
弁護士としてキャリアをスタートさせ、現在はエンタテインメント業界の最前線で活躍する田中ハリー久也。職業としては弁護士というより、プロデューサーと紹介するほうが相応しい。西村眞田(現西村あさひ)法律事務所勤務、米国留学を経て、ウォルト・ディズニー・ジャパンに入社。同社では、テレビ番組と映画版権営業責任者、映画配給事業の日本責任者などを務めてきた。自身が望み、選び取ってきた“異色の道”である。もとより限定的なリーガル業務に執着がなく、田中にとって弁護士資格はあくまで「有効なツールの一つ」。身につけたローヤーとしてのスキルを存分に生かし、やりたい仕事を自ら切り拓いてきた。胸には「日本と外国との架け橋になる」という、変節なき強い思いがある。
小さい頃は体が弱く、風邪をひいては学校を欠席し、本ばかり読んでいました。私が大きく変わったのは、渡米がきっかけです。小学校3年の夏、眼科医の父がボルチモアにある大学に赴任することになり、家族全員でついていきました。2年間でしたけど、これが人生最大の転機となりました。
ボルチモアは大きな街ですが、アジア人は非常に珍しく、そのぶん偏見と人種差別もあった時代です。でも、転入した現地の小学校がとてもよかった。皆、初めて見る日本人を珍しがってはいたけれど、まったく“線引き”をしないんです。アメリカは多民族国家だから、受け入れの懐が深い。人には違いがあり、「できること」「できないこと」があるのは当然だという感覚でした。区別をしないから、英語がわからない私も皆と同じ教室で授業を受け、わからないことは、先生や生徒たちが代わる代わる教えてくれる。かと思えば、スペリングが得意だった私を能力に応じて飛び級させたりする。つまり、得手はさらに伸ばす、不得手は仲間が助けて克服させるという素晴らしい環境だったわけです。
自然に恵まれ、空気もよかったから風邪も全然ひかなくなりましたし、運動が苦手な私がラクロスチームのレギュラーにもなれた。性格まで積極的になりました。線引きをせず、すべてを受け入れるアメリカの強さみたいなものを肌で感じたのは大きかったです。一方、島国の日本は他国との間に線引きしがちと感じたこともあって、貴重な経験をした者の責務として、日本と世界との橋渡しができる人間になりたいと思いました。結局、これが今日までのキャリアを貫くテーマになっています。
中学からはずっと慶應義塾です。中高時代に熱を上げたのはパソコンと登山。パソコンは触り始めると存外に面白く、プログラミングしながらゲームをつくり、雑誌にも投稿。本格的にという意味では登山も同じで、山岳部に入部し、先生や大学生たちの指導を受けながらけっこうきつい山にも挑戦しました。人との競争を嫌う私にとって、個々の楽しみ方がある登山は魅力的でした。ただ、続けたのは高校1年まで。北海道の大雪山に行った時、ビバーク中にヒグマが現れ、死ぬかもという事態に遭遇して……。結果はテントを引き裂かれただけで済み、全員事なきを得ましたが、あの時の恐怖は忘れられないですね。
「慶應に入れられたのは、親が医者になることを望んでいたから」。祖父の代から医師、その田中家の長男としてプレッシャーはあったという。高校3年から理系コースに進み、田中自身にも「あわよくば」という思いはあったが、実際には、慶應義塾大学の医学部は超難関である。趣味や好きなことに時間を費やしていたこともあり、受験勉強も十分ではなかった。あきらめた時に浮かんだのが、外交官という職業である。
外交官なら親も文句ないだろうと(笑)。ならば経済か法律だと、進学したのが法学部。ところが、外交官コースの授業を取ってみると、主要科目が難しくて自分にはできる気がしなかった。それと、慶應OBの外務省官僚の話を聞く機会があった時に、学閥が強い世界だから、例えば駐在先も限られてくると脅されて。「君がやろうとしている東と西の架け橋は簡単ではない」と意外にも諭されたのです。
では次はと考え、臨んだのが民間の外交官とも呼ばれる通訳ガイド(現通訳案内士)の資格試験です。ずっと英語の勉強を続け、英検も取っていたから、その延長線で挑戦してみようと。語学では唯一の国家試験で、当時は合格率2%ぐらいだったでしょうか。附属校上がりで勉強の習慣がきちんとついていないので、まずは勉強の仕方を身につけ、リズムをつくろうと予備校に通い始めたら……なんと1年で合格できた。
これがまた転機となりました。勉強の仕方さえわかれば、同様に司法試験もいけるかもと勘違い(笑)。それで、親にはチャレンジは3回まで、ダメだったら普通に就職すると伝えて受験態勢に入りました。通常は、受験仲間で勉強会をしたりもするのでしょうが、私の場合は基本、予備校と独学です。遊び仲間との付き合いを絶ち、最短時間でいかに効率よく集中して勉強するか――徹底的にペースメイキングして。結果的に通訳ガイドの試験で得た経験が役立ちました。1回目、2回目とも手応えはあったのですが、論文式試験がダメで、合格したのは約束ギリギリの3回目です。
「人間力を研ぎ澄ます」。
この大きなテーマに自問自答を繰り返している
スタートは渉外事務所から。
経験や学びを得て、志向がより明確になる
司法修習の配属先は神戸。初の関西暮らしとなった神戸は、「都会でありながら自然を擁するバランスの取れた素敵な街だと思った」。修習後は同地に根を下ろすことも選択肢にあったが、ここで思わぬ事態に遭遇する。阪神・淡路大震災だ。自身も被災者となり、滞在中に行ったボランティア活動を通じて、田中は大きな教訓を得た。
もう死ぬのだと思いました。地震が発生した時、布団がドンと突き上げられ、冷蔵庫や机が文字どおり飛んだ。続いた大きな揺れは、まるで大男が部屋全体をつかんで、振り回しているかのようでした。何かが体にぶつかっていたら、ただでは済まなかったでしょう。幸い私自身はケガもなく、神様に生かしていただいたと感じたものです。
当然、修習は中断。私は神戸に思いがあったので、しばらくボランティアとして活動することにし、全国から届く衣類を仕分け・分配するチームに入って走り回っていました。地震発生半日後には、多くの店のウインドーが割られ、略奪が起きていた世界です。誰もが必死、生きるためには致し方ない。社会秩序が崩れた状況において、一番力を発揮するのは“人間力”なんだということを知った。誰も経験したことのない事態ですから、現場を1秒でも長く知っている人が知恵を出し、リーダーシップを執る。資格など関係ありません。まだ弁護士になる前だったけれど、ある種の虚しさを感じました。すべてが失われた時、どこまで人の役に立てるかが試される。そういった人間力を研ぎ澄ましていかなければならない……以来ずっと、私の大きなテーマとなり、自問自答を繰り返しています。
結局、裁判所も修習生の面倒は見られなくなり、「外に実家がある人は戻るように」ということに。だから私は、途中から修習地が東京に変わっているんです。神戸は素敵な街で気に入っていたし、弁護士修習でお世話になった個人事務所の先生から、「いずれ跡継ぎに」とも言われていたので、震災がなければ道は違っていたかもしれない。人生、何がどうなるか、わかりません。
よりクライアントに寄り添えるインハウスは、やりがいがとても大きい
修習を終えた田中は、大手渉外事務所の西村眞田(当時)に入所する。法律と英語を駆使しながら日本と海外を橋渡しする弁護士もまた、“民間の外交官”。いくつか事務所訪問をしたなか、「やりたいことができそうだ」と選んだ先だ。この頃から、田中の胸には「海外で勝負できる仕事人になりたい」という思いがあった。
入所後、2人のパートナー弁護士につきましたが、それが所内でも随一の優秀かつ厳しい先生方で……。当時は、めちゃくちゃ長時間、ハードに仕事するわけです。渉外事務所は大変だけれど、一般的な事務所に比べて数倍の経験ができたと思うし、弁護士としての力をつけるうえで、すごく鍛えられ、勉強になったのは確かです。
大変なタスクも喜んで引き受けました。得意な英語を生かそうと海外訴訟に手を挙げたり、M&A案件にも積極的に関与したり。ただ、求められる業務レベルが非常に高くて、入所3カ月目に「合併契約書を作成して」と言われた時は、さすがに頭を抱えました。条文を見たことはあっても契約書なんて知りませんから、合併の実務をゼロから勉強しなきゃいけない。それに正直な話をすれば、私は法律業務自体に強い関心があったわけじゃないので、何かにつけビハインドスタートになる。なので時間はかかったけれど、全部乗り越えるぞという思いで頑張ってきたつもりです。
グローバル規模のM&Aを通じては、ネゴシエーションや合理的なディールメイキングを、国際仲裁を通じては紛争処理における解決手段など、その技術について学ぶことができました。また、規模は大きくないですが、いくつかのエンタテインメント案件に携わり、業界の魅力に触れられた。なかでもワーナーミュージック・ジャパンに出向した経験は、今の素地になっています。この時は定期的に顔を出す、出張事務所のようなかたちでしたが、ある意味ではインハウス。業界、クライアントの近くにいると、仕事の範囲がとても広がることを実感しました。彼らが何を悩み、何を欲しているのかがよくわかるから、よりニーズに寄り添ったサービスを提供することができる。この仕事は私の性に合っていたし、後にインハウスを志向するきっかけになりました。
そんな日々のなか、私は突然倒れてしまった。入所3年目に入った頃です。当初はすぐに治ると思っていたのですが、数日、数週間経っても一向にダメ。仕事が気になって起き上がろうとしても体が動かない。医師の診断では、原因は過労とストレスで、それを解消するしかないと。休養を取らせてもらって、結局復調するまでに半年かかりました。この間、仕事を全部引き取ってくれた事務所には心の底から感謝しています。そして途中、パートナーの先生方から「無理することはない。得意な仕事、やりたい仕事をしっかりやってもらえばいいから、安心して戻って来て」と声をかけてもらったことが、大きな励みになりました。
留学を経てインハウスへ。
弁護士資格を生かして、ビジネスの領域に立つ
2000年、田中は念願だった留学に出る。ニューヨーク大学ロースクール修了後は、ワシントンDCにある米国事務所で研修。次いで、ブリュッセルにある欧州事務所にも駐在し、ヨーロッパにおける仕事や生活にも触れた。いずれもセッティングされたものではなく、自ら探して飛び込んだ先だ。聞けば、留学に発ったその時から“次の道”を考えていたそうで、田中は積極的に動いていたのである。
事務所には本当に申し訳ないのですが、自分のなかでは“卒業”感覚でした。お礼奉公が比較的自由な時代でしたし、燃え尽きた感があったものだから、いったん区切りにしようと。なので実は、留学中から次の場を模索していました。思いとしては、拠点をアメリカに移して、外から日本を支える仕事がしてみたかったのです。実際に、内定をもらった事務所もありました。
そうしたら、今度は9・11。留学翌年に起きた同時多発テロ事件です。ワシントンDCで研修中でした。この時も歴史的な事件に巻き込まれたのですが、神戸と同様、やはり人間力というものに思い至りました。そして、また生かされたのだから、突然命を絶たれた人たちの分も精一杯生きていかなくてはいけない、と改めて思いましたね。ご存じのとおり、この事件は世界経済に深刻な打撃を与え、一時期は多くのローヤーも失業するという事態になりました。当然の成り行きとして、私も内定取り消しとなり、帰国することに。この先どうするか……その時に浮かんだのがインハウスです。西村時代の経験が蘇りました。特にエンタテインメント業界は、法律そのものの枠組みよりも、日々の実務の実態を深く知ることが、より的確なクライアントサービスにつながることがわかっていたから。また、エンタテインメントを志向するならば、内部に入って業界の当事者になることは大きな差別化となって、それがインハウスを続けるなり独立するなり、次のステップにおいても大いに役に立つと思えたのです。
帰国後に入社したのがウォルト・ディズニー・ジャパンです。日本でディズニー・チャンネルを立ち上げるというタイミングでした。政府の許認可と様々な権利が絡む放送事業を営むうえで、日本の弁護士資格を持つ人を求めていたから、折よく私が法人内における日本人弁護士第1号となりました。ディズニーは、エンタテインメント業界における巨人です。カバーする範囲は、映画、テレビ、ゲーム、商品化、舞台、パーク事業など、やっていない分野は賭博以外ほぼありません。私は、せっかく内部に入ったので、この“帝国”のすべてを吸収し尽くすつもりで、初日から業務に臨みました。テレビ事業部所属ではありましたが、興味がある映画事業をはじめとして、ゲーム、商品化事業など、他部署の代表にも面談を申し込み、日本法人内で唯一の弁護士資格者であること、ゆえに外部事務所に頼みづらいことも、私なら社内の人間として、また同じ仲間として相談に乗ることができる、ということを宣伝して回りました。始めてみると、外資系ということもあって契約書周りの仕事は大量で、他部署案件も含め、事務処理の究極に挑戦している感があった。また、法律事務所のようなリソースもないので、必要なスピードとリーガルリスクのバランスを取る日々によって、判断力を鍛えられました。毎回ぎりぎりの判断をし、事業現場の実態を知れたことはとても役立っていて、経営者となった今でも、この習慣を実践し続けています。
ディズニー・ジャパンには17年間在籍したが、「弁護士的業務は最初の2年で終わっています」。法務の枠を超えた仕事ぶりが評価され、田中はその後、事業開発、営業、マーケティングへと軸足を移し、多彩な経験を積んだ。この間には、テレビ番組と映画の版権営業責任者、映画配給事業の日本代表などといった要職も歴任。「キャリアは圧倒的にビジネス」と言うように、田中はここで今日の礎を築いたのである。
法務にいた頃、営業が持ってくる案件に対して「こんな取引が可能じゃないか」「このスキームでビジネスモデルをつくったらどうか」などと、余計なことをたくさん言っていたんです。私は型どおりの仕事をするのではなく、所属している事業の一員として、より発展させるためにどうするか、という視点できちんとやりたかった。契約書の作成、交渉にあたっては、現場実務や取引の構造などを細かく知る必要があるし、それがどんな判断でその構造になっているかを理解する必要があります。なので、ディールにかかわる値付けや数字についてもきちんと相場観を自分で持つよう心がけていました。そういうマインドで、渉外や営業のサポートもやっていたら、ボスから「ビジネスに移ってこないか」と言われたのです。社内に新規事業開発のセクションができたタイミングで、私には思いがけない話でしたが、新しい世界が開けましたね。
一番大きな経験となったのは、在籍中7、8年にわたって長く携わった営業です。自分に最も向かない職種だと思っていたのですが、ボスから「営業を経験しないと経営者にはなれないぞ」と言われまして……おかげで人見知りも克服しました。ディズニー・チャンネルの番組をケーブル局に買ってもらうとか、映画を民放に販売するとか、BtoBの営業です。ゴルフや会食といった、いわゆる接待もやりました。先方の放送局の番組内容や視聴率、映画の興行収入などを全部チェックして、会食の際には適切なコメントを出す業界人として振る舞わなければなりませんから、予習が大変でした。
苦戦した場面も多々ありましたが、それなりに成果は挙げてきたつもりです。その後はビデオ部門のマーケティングとセールスを管轄したり、モバイル・アプリ事業の責任者を兼務したり、映画配給事業の日本代表を務めたりと、本当に様々なビジネスを担当させてもらった。特に、映像制作の過程に携わったことで、ハリウッドの制作資金の流れや作品制作のプロセス、作品の売り上げなど、当たり外れの詳細が見られたのは大きかったです。この間、数千本以上のテレビ、映画作品のプロセスに関与し、勉強させてもらったことが、まさに現在の仕事のコアになっています。
東と西の架け橋になるようなものを一つでも多く世の中に出したい
「東と西の架け橋になる」。
変わらぬ思いを胸に、新たなステージへ
ディズニー時代、“ビジネス”に移行してからは田中の名刺に弁護士の肩書は入っていない。「なので、私は弁護士じゃないんですよ(笑)」。ただ、キャリアの大元には弁護士資格がある。それを有効なツールとして活用し、また、ロジックや広い見識、コミュニケーション力などといった弁護士の持てる力を存分に生かして、好きな道を切り拓いてきたのである。20年、田中はエアリアル・グループを設立して独立。新たなステージに立ち、日々奮闘している。
そもそも、ディズニー入社のきっかけは私が弁護士だったから。そのステータスのおかげで、様々な場面でスキルを発揮することができたのです。ディールの条件を事細かく把握しているからこそ営業に立てたわけですし、取引先や監督省庁との交渉においても信用面で大いに役立ちました。あとは発生しそうなリスクも含めて、ビジネスの先々を見据えるのにも、弁護士ならではの視点が生きたと思います。日本では弁護士といえば、まだ限られた範囲の仕事しか想定されない傾向があるようですが、クリエイティブに考えれば、キャリアはもっと広がるのに……と思います。
独立する時には、法律事務所とメディア・エンタメビジネスのコンサルティング会社(エアリアル株式会社)を立ち上げました。事務所の看板は、まさに信用面をカバーする意味で掲げたもので、現状、弁護士業務のウエイトは全体の10%ぐらいでしょうか。コンサル会社のほうは、メディア領域でいえばテレビやホームビデオ、アプリ、映画などすべてを扱っていて、この網羅性はディズニー時代に培った経験が武器になっています。ありがたいことに早々から複数のスタジオや会社が声をかけてくださったので、ご期待に応えるべく、日々、楽しく業務に取り組んでいます。
最近関与したプロジェクトには、「ジブリパーク」の立ち上げがあります。スタジオジブリの世界を表現した広大な公園です。ここは愛知県が事業整備し、ジブリと中日新聞社がジョイントベンチャーをつくって管理運営するという構造で、このビジネススキームに基づく仕組み、プロセスづくりに携わりました。ジブリの取締役になり、2年近く動きましたが、大変だったのは三者の関係整理です。県の事情、ビジネスの事情、そしてクリエイターとしての事情、それぞれの事情を勘案し、あらゆるリスクを計りながら、いかに全員が納得できるスキームをつくるか。事業計画の策定、細かな対応マニュアルづくりから資金に関する交渉など幅広く仕事をさせてもらいました。結果として、世界のディズニーと日本をリードするアニメーションスタジオ、この両極に従事できたことは、大きな財産となっています。
さらに田中は、外国人を含む4人のパートナーと「STUDIO MUSO」という会社を設立し、作品づくりにも乗り出している。この業界におけるアウトバウンド、インバウンド両面に貢献する活動だ。自らを「映像上がり」と言うように、田中にとって映像プロデュースは最大の焦点だ。「映像を通じて、東と西の架け橋になる作品を一つでも多く世の中に出していきたい」。今、夢は確かな輪郭を帯びてきている。
制作において根幹、ハブとなる部分の活動で、企画を立ち上げ、お金を集め、クリエイティブも含めて作品を成立させるのがプロデュース業です。アウトバウンドとしては、日本の優れた作品や作家をもっとグローバルに認知してもらって、資金調達から制作・配給まで、世界をマーケットに考えられるような素地をつくりたいと考えています。具体的には今、私たちのオリジナル企画を基にした脚本開発を進めていて、それを海外の制作・配給会社に売り込み、グローバルレベルのドラマシリーズをつくろうと動いています。あるいは、発掘した漫画の原作をお預かりして、「これで実写映画をつくりましょう」と海外にプレゼンしに行っています。日本の漫画には秀逸な作品が数多あるのに、海外市場に出ているものは本当に氷山の一角。もったいないですよね。実を結ぶのはまだこれからですが、確かな手応えを感じているところです。
一方では、日本国内で国際レベルでの映像制作ができるような環境づくりを考えていて、こちらはインバウンド。とりわけ、長らく、日本という小さな市場を前提に限定された制作予算、スタッフでコンテンツを制作してきた体制には、もはや限界がある。私が見てきたハリウッド作品のつくり方、資金集め、予算管理の仕方、そういったモデルとプロセスを日本人が使えるようになれば、クリエイターや日本のコンテンツがさらに世界に羽ばたける可能性が一気に広がると思うのです。例えばロサンゼルスに学校をつくって、制作者やタレントたちがインターンシップで学べる仕組みを構築できないだろうか……中長期的にはそんなことも視野に入れています。
好きな世界に身を置き、やりたい仕事ができ、今、とても面白いです。私のキャリアが奇想天外だからか、なかには“回り道”と言う人もいるけれど、全然そうは思っていません。すべてつながっているし、先述したように弁護士資格があったからこそ歩んでこられた道です。資格はあくまでも一つのツール。どんな肉付けをして、どんな付加価値を社会に提供していくか。そして、自分が思い描く道をどう切り拓いていくか。こういった視点を早くに持てた私は幸いでした。何かを目指すために「弁護士から入る」という人がもっと出てくると、弁護士業界はさらに面白くなると思います。
※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。