1990年代初頭、我が世の春を謳歌していた日本経済が、バブル崩壊の嵐に見舞われる。想定外の事態に、その後の人生の変転を余儀なくされた日本人は、枚挙にいとまがない。折しもそのさなかの92年に弁護士バッジを着けた大西正一郎も、例外ではなかった。ただし、「会社員には向かない」とこの道を選んだ新人弁護士にとって、それが“法律家らしくない”キャリアを切り開く転機となった、という意味で――。入所した事務所で倒産案件を数多く手がけるなか、自ら手を挙げ、官主導で設立された産業再生機構へ。退社後は、機構の元メンバー松岡真宏氏とともに、事業再生などを手がける民間企業、フロンティア・マネジメントを設立し、共同代表取締役に就く。異色の経歴を歩みながらも、常に心の内にあったのは、「弁護士としての正義感」。その矜持は、今も変わることがない。
生まれ育った家は、東京中野区の新井薬師にありました。でも、近所に友達っていなかったんですよ、私。小学校から、電車を3本乗り継いだ茗荷谷駅近くにある東京教育大学(現筑波大学)の付属校に通っていたので。地元の学校に行っていた子たちとは、接点がなかったのです。
父は弁護士、母は彫刻家で美術教師という、ちょっと特殊な家庭環境でした。恐らく親には、子供も“英才教育”的な環境に置きたいという気持ちがあって、わざわざ国立の学校に通学させたのでしょう。息子としては、言われるままに受験して、合格したので、毎朝ラッシュの電車に揺られて通わざるをえませんでした。勉強は決して好きではなかったのですが、比較的真面目な優等生だったのではないでしょうか。自分で言うのもなんですけど。
よく、親の姿を見ていたから弁護士になったのかと言われるのですが、そうではないんですよ。父から「弁護士になれ」と言われたことはありますが、私はどちらかというと天の邪鬼で。「なれ」と言われると、逆にそれとは違う方向を目指すタイプ(笑)。
父親自身、もともと会社員だったのが、30代半ばで退職し、4年間司法試験の勉強をして資格を取った、という経歴の持ち主でした。だから、私が小学生の頃は無職だったんですよ。残念なことに、念願の弁護士になって7年後、私が高1の時に急病で亡くなってしまいました。
法律の世界に行くつもりはなかったけれど、そんな父から教わったことがあるとすれば、「自分は組織に向かない人間らしい」ということです。父が一念発起して司法試験に挑戦したのは、まさにそれが理由で、実際、会社勤めの大変さをよく口にしてもいた。そんな人生と重ね合わせて、子供ながらに、自分も同じじゃないのか、と。大学を出て普通の企業に就職しても、自己実現は難しそうだという自覚は、その時期から私のなかに芽生えていました。
小学校から高校までは、エスカレーター式に進学。小・中と野球部、高校では柔道部に籍を置き、スポーツにも勤しんだ大西は83年、小学校以来となる受験に臨む。ただ、この時点でもまだ弁護士になるつもりはまったくなく、複数の大学、学部を受験していた。首尾よく合格したなかから早稲田大学法学部を進学先に選んだのは、「中野区の家から一番近かった」からだった。
今はわかりませんが、当時の早稲田の法学部は、それほど苦労しなくても、単位を取ることができました。バブルに向かっていくという時代背景もあって、学生時代はけっこう自由奔放に遊んでいましたね。
一生懸命やっていたのがテニスサークルの活動で、その合宿費用を稼ぐためにバイトに明け暮れるような生活でした。部員が80人くらいいて、最後は部長に。今にして思えば、大人数の集団を切り盛りした経験が後々生きたと言えば言えなくもないんですが、少なくとも司法試験とはまったく関係ない場所で青春を謳歌していたわけです。
将来の進路について真面目に考え始めたのは、4年になってから。最初は、マスコミ関係に心が動かされて、就活も始めたんですよ。早稲田は新聞社やテレビ局に行く人間も多かったですから。でも、普通の会社とは多少違うとはいえ、マスコミも組織だし、なにか違和感があるな、と。
そこに至って、弁護士を目指すというのをリアルな目標として考えるようになりました。父に言われても心は動かなかったけれど、もともと刑事ドラマとか法廷ドラマとかは大好きで、権力と戦い、人権を守る弁護士には憧れがありました。論理的にものを考えるのは不得意ではなかったし、何より自分は法学部にいるじゃないか(笑)。
もう4年生だし、とりあえずどこかに就職してから考える、という手がないわけではありませんでした。でも、後悔はしたくなかった。まずやってみて、駄目だったら諦めればいい、と心を決めました。この期に及んで司法試験に挑戦すると聞いた仲間からは、「無謀すぎるだろ?」などさんざん言われましたけどね(笑)。
当時の司法試験は、合格者500名余りの、今よりずっと狭き門です。突破を目指すのならば、1、2年生で勉強を始めるのが当たり前。それでも在学中に受かるのはかなり優秀で、みんな留年したり大学院に行ったりして、受験を続けていました。出遅れた私は、留年せずに大学を卒業し、予備校に通うことにしたんですが、そこには、“10年戦士”のような人もけっこういましたね。だらだら続けるのは嫌だったので、自分にはあえて「チャレンジは3回まで」という制約を課したんですよ。
試験勉強は楽ではありませんでしたが、予想どおり法解釈などに求められる論理的思考というのは、私に合っていました。大学卒業から3年後の90年、晴れて合格を果たすことができました。