Vol.85
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弁護士 大西 正一郎

HUMAN HISTORY

弁護士として培った正義感、そして法律の知識――。それがビジネスの世界で大きなアドバンテージとなった

フロンティア・マネジメント株式会社
代表取締役 共同社長執行役員 弁護士

大西 正一郎

父親譲り?の組織に向かない性分を自覚し、弁護士を目指す

1990年代初頭、我が世の春を謳歌していた日本経済が、バブル崩壊の嵐に見舞われる。想定外の事態に、その後の人生の変転を余儀なくされた日本人は、枚挙にいとまがない。折しもそのさなかの92年に弁護士バッジを着けた大西正一郎も、例外ではなかった。ただし、「会社員には向かない」とこの道を選んだ新人弁護士にとって、それが“法律家らしくない”キャリアを切り開く転機となった、という意味で――。入所した事務所で倒産案件を数多く手がけるなか、自ら手を挙げ、官主導で設立された産業再生機構へ。退社後は、機構の元メンバー松岡真宏氏とともに、事業再生などを手がける民間企業、フロンティア・マネジメントを設立し、共同代表取締役に就く。異色の経歴を歩みながらも、常に心の内にあったのは、「弁護士としての正義感」。その矜持は、今も変わることがない。

生まれ育った家は、東京中野区の新井薬師にありました。でも、近所に友達っていなかったんですよ、私。小学校から、電車を3本乗り継いだ茗荷谷駅近くにある東京教育大学(現筑波大学)の付属校に通っていたので。地元の学校に行っていた子たちとは、接点がなかったのです。

父は弁護士、母は彫刻家で美術教師という、ちょっと特殊な家庭環境でした。恐らく親には、子供も“英才教育”的な環境に置きたいという気持ちがあって、わざわざ国立の学校に通学させたのでしょう。息子としては、言われるままに受験して、合格したので、毎朝ラッシュの電車に揺られて通わざるをえませんでした。勉強は決して好きではなかったのですが、比較的真面目な優等生だったのではないでしょうか。自分で言うのもなんですけど。

よく、親の姿を見ていたから弁護士になったのかと言われるのですが、そうではないんですよ。父から「弁護士になれ」と言われたことはありますが、私はどちらかというと天の邪鬼で。「なれ」と言われると、逆にそれとは違う方向を目指すタイプ(笑)。

父親自身、もともと会社員だったのが、30代半ばで退職し、4年間司法試験の勉強をして資格を取った、という経歴の持ち主でした。だから、私が小学生の頃は無職だったんですよ。残念なことに、念願の弁護士になって7年後、私が高1の時に急病で亡くなってしまいました。

法律の世界に行くつもりはなかったけれど、そんな父から教わったことがあるとすれば、「自分は組織に向かない人間らしい」ということです。父が一念発起して司法試験に挑戦したのは、まさにそれが理由で、実際、会社勤めの大変さをよく口にしてもいた。そんな人生と重ね合わせて、子供ながらに、自分も同じじゃないのか、と。大学を出て普通の企業に就職しても、自己実現は難しそうだという自覚は、その時期から私のなかに芽生えていました。

小学校から高校までは、エスカレーター式に進学。小・中と野球部、高校では柔道部に籍を置き、スポーツにも勤しんだ大西は83年、小学校以来となる受験に臨む。ただ、この時点でもまだ弁護士になるつもりはまったくなく、複数の大学、学部を受験していた。首尾よく合格したなかから早稲田大学法学部を進学先に選んだのは、「中野区の家から一番近かった」からだった。

今はわかりませんが、当時の早稲田の法学部は、それほど苦労しなくても、単位を取ることができました。バブルに向かっていくという時代背景もあって、学生時代はけっこう自由奔放に遊んでいましたね。

一生懸命やっていたのがテニスサークルの活動で、その合宿費用を稼ぐためにバイトに明け暮れるような生活でした。部員が80人くらいいて、最後は部長に。今にして思えば、大人数の集団を切り盛りした経験が後々生きたと言えば言えなくもないんですが、少なくとも司法試験とはまったく関係ない場所で青春を謳歌していたわけです。

将来の進路について真面目に考え始めたのは、4年になってから。最初は、マスコミ関係に心が動かされて、就活も始めたんですよ。早稲田は新聞社やテレビ局に行く人間も多かったですから。でも、普通の会社とは多少違うとはいえ、マスコミも組織だし、なにか違和感があるな、と。

そこに至って、弁護士を目指すというのをリアルな目標として考えるようになりました。父に言われても心は動かなかったけれど、もともと刑事ドラマとか法廷ドラマとかは大好きで、権力と戦い、人権を守る弁護士には憧れがありました。論理的にものを考えるのは不得意ではなかったし、何より自分は法学部にいるじゃないか(笑)。

もう4年生だし、とりあえずどこかに就職してから考える、という手がないわけではありませんでした。でも、後悔はしたくなかった。まずやってみて、駄目だったら諦めればいい、と心を決めました。この期に及んで司法試験に挑戦すると聞いた仲間からは、「無謀すぎるだろ?」などさんざん言われましたけどね(笑)。

当時の司法試験は、合格者500名余りの、今よりずっと狭き門です。突破を目指すのならば、1、2年生で勉強を始めるのが当たり前。それでも在学中に受かるのはかなり優秀で、みんな留年したり大学院に行ったりして、受験を続けていました。出遅れた私は、留年せずに大学を卒業し、予備校に通うことにしたんですが、そこには、“10年戦士”のような人もけっこういましたね。だらだら続けるのは嫌だったので、自分にはあえて「チャレンジは3回まで」という制約を課したんですよ。

試験勉強は楽ではありませんでしたが、予想どおり法解釈などに求められる論理的思考というのは、私に合っていました。大学卒業から3年後の90年、晴れて合格を果たすことができました。

弁護士 大西 正一郎
執務室で社員であり弁護士の篠原沙也香さん(67期)と業務の打ち合わせ。現在、フロンティア・マネジメントグループには5名の弁護士資格者が在籍している

検事か弁護士か――。迷った末に「世の中全体とかかわれる」弁護士に

入所した事務所で想定外の倒産事件を担当。その“面白さ”に目覚める

実は“正義の法律家”に憧れる大西には、「検事になりたい」という思いも消し難くあったのだという。司法修習の段階でも迷っていたのだが、最終的には、「法廷という限られた世界にいる検事よりも、世の中全体とかかわることができる弁護士のほうが、自分には向いている」と進む道を決断する。92年、就職先に選んだのは、奥野総合法律事務所(奧野善彦所長)である。

奥野事務所を選んだのは、奥野先生が非常に魅力的な方だったことが大きかったですね。「弱きを助け、在野に生きる」という座右の銘が象徴するように、正義感に溢れていて、人間味があって。面接の時、いきなり事務所のビルの下にあるカラオケスナックに連れていかれて、「歌え」と言われたのには、面食らいましたけど(笑)。

それにしても、入所早々、倒産事件にどっぷり浸かることになるとは、思いもしませんでした。就職活動をしていた頃は、まだかろうじてバブルの余韻が残っている時期でした。だから、就活の説明では、「奥野事務所の主な仕事といえば、大型の不動産の立ち退きなどで、報酬はいいし、夜8時にはみんな帰っているよ」と言われていた。担当案件には、家事事件もあれば訴訟もある、刑事事件もあるからいろんな仕事もできそうだというのも、私にとっては“願ったり”の環境でした。

それは嘘ではなかったのですが、バブルが弾けたために、経済社会のほうが変わってしまった。私が入所するのを待っていたかのように、一転して倒産事件のラッシュになって、事務所には次から次に依頼が舞い込んだわけです。そうなって、奥野先生が事業再生のエキスパートだったことを知り、世の中からどれだけ頼りにされているのかも痛感させられたわけですが。

教科書がない倒産事件で再建の手助けができる達成感は大きい

個人の離婚事件や相続、刑事事件なども含め、ピーク時には訴訟だけで年間40件ほどを担当する忙しさだったが、一貫して仕事のうえで大きなウエートを占めたのは、倒産事件だった。とはいえ、弁護士として実際に仕事を始めるまで、想像もしていなかった領域である。戸惑いなどはなかったのだろうか。

やってみて、正直これは面白いと感じましたね。単に必要な手続きを踏んでいくというだけでなく、数字が絡んだりして、複雑なパズルを解いていくようなところがある。人にもよると思うのですが、倒産弁護士は私の性に合いました。

事件の当事者には、例えばピンチに陥った事業の経営者、従業員、そして債権者がいます。案件によってはスポンサーを探す必要もある。そういういろんなステークホルダーの利害を調整するのが、倒産事件の醍醐味です。事案ごとに置かれた状況はバラバラで、教科書がないのです。“経験値”と“想像力”で勝負するしかない。

しかも、今も言ったように関係者が大勢いて、結果から生じる影響が非常に大きいわけです。そういう“重い”事件を解決して、会社の再建を手助けできた時の達成感は、何ものにも代えられません。

数ある案件のなかで最も印象深いのは、98年の日本リースの会社更生案件です。ファイナンス業で失敗した同社の負債は、2兆3000億円という当時の日本最高額で、直前には、三洋証券が破産、山一證券が自主廃業。これらも含め、「金融機関の再生は不可能」というのが従来の常識でした。資金調達のための信用が命の金融機関が一度倒れると、企業価値が大きく棄損され、金融資産の劣化がどんどん進みます。従来の会社更生手続きに則って更生計画づくりに1年もかけていたら、とてももちません。

この案件では、奥野先生(管財人)を中心とする管財人団が結成され、私もその若手メンバーとしてそこに加わりました。再生のためにはスピードが不可欠だとわかっていた我々が考案したのは、会社更生法にない「更生計画策定前の事業譲渡」という、いわば“ウルトラC”のスキームでした。裁判所との協議や債権者への説明には骨が折れましたが、目論見は当たり、裁判所の開始決定から数カ月後、主要なリース事業をアメリカのGEキャピタルに高値で譲渡することに成功しました。回収金で債権者への弁済を行い、日本リースの従業員を1人も解雇せずに済むという“みんなが喜ぶ”成果を上げることができたのです。不可能なはずの金融機関の再生をやり遂げたことの波及効果は大きく、後の民事再生法の制定にも影響を与えました。

ここで、私は同社のリース事業のM&Aと更生計画の作成をプロジェクトマネージャー的な立場で担当させていただきました。事務所時代、そうした多くの倒産事件を経験したことが、私にとって大きな財産になったのは、いうまでもありません。

それにしても、奥野先生からは多くのことを学ばせてもらいました。事業再生の目的は、従業員を救い、債権者に迷惑をかけないという正義の完遂。弁護士の役目は、それが実現できる公正な方法を考え、実行することにある。社会に出てすぐ、奥野先生と出会えたことは、大変幸運でした。

産業再生機構に入社。そこでの経験、出会いを基に起業を決意

2003年、有用な経営資源がありながら過大な債務を抱える企業の再生を支援することを目的に、株式会社産業再生機構が設立される。興味を抱いた大西は、事務所の了解を得て同年に入社し、カネボウ、ダイエーなどの大型の再生案件にかかわる。再生機構は当初5年(結果的には4年)の時限組織であり、任務を終えた後は、再び事務所に戻るつもりでいたそうだ。

産業再生機構は、債務に苦しむ企業に対する不良債権の買い取りや出資などを通じ、再建サポートを行います。国もかかわったそういう組織ができるという話を聞いた時、倒産事件をハードランディングさせる従来の法的規制中心の世界から、こちらの方向にシフトしていくのは間違いないと感じて、人材募集していた同社に応募したのです。

入社してまず気づいたのが、自分が周囲から「法律屋さん」と見られていることでした。事業再生には、金融やビジネス、会計など様々な分野が絡むわけですが、「先生はあくまで法務の立場からものを言う専門家なのでしょう」と。

でも、せっかく再生をやるのだったら、そういう立場にとらわれずに、事業のなかまで入って取り組んでみたかった。事務所での倒産事件の経験を生かせば、そんなに遠い世界ではないはずだ、という、そこはかとない自信もありました。

ただし、そのためには、市場、競争など、それらを踏まえた事業戦略はどうあるべきかといった産業論を理解する必要がありました。その点で役立ったのは、いろんな分野から機構に集まってきていた人たちの生きた経験や知見です。彼らとの議論は本当に刺激的で、勉強になりましたね。後から考えれば、それはまさに私の人生を変える日々だったわけです。

弁護士 大西 正一郎
2022年には自社で投資事業を行うフロンティア・キャピタル株式会社を設立。同社の代表取締役社長CEO 兼COOも兼務するなど、忙しい日々を送っている

ところで、産業再生機構と聞くと、粛々とリストラを敢行する組織、というイメージを持つ人も少なくないのではないでしょうか。実際には情というか、人間同士のいろんなやり取りがあって、当時の経営者の方で今でも親しくしている人が結構いるんですよ。担当したカネボウでは、創業来の伝統がありながら、稼げなくなった繊維事業からの撤退という重い課題がありました。ダイエーに至っては、“進駐軍”である機構への拒否反応が半端ではなく、一度は支援を断念し、チームの解散式をしたほど。私は、両社ともに再生計画の策定後、取締役になって現場で計画の実行も支援しました。一貫して訴えたのは「社員の幸せのためにどうすべきかを、一緒に考えましょう」ということ。組織を動かすのは、結局は人です。最終的に、会社のキーマンたちとお互いの思いをわかり合えたことで、困難な状況を前に進めることができました。

担当した再生案件をやり遂げ、産業再生機構自体も07年に解散した。本来ならば古巣に戻るはずの大西だったが、同年1月に、事業再生のほか経営コンサルティング、M&Aを柱とするフロンティア・マネジメントを設立し、“普通の弁護士業”とは異なる道へと歩み出す。決断の裏には、2つの理由があった。

一つは、企業再建の道を極めるためには、倒産弁護士では限界があったから。通常、弁護士が担うのは、しかるべき手続きを申し立て、再生計画をつくって債権者の同意を得ること。いわば会社を再生に向けたスタートラインに立たせるまでが守備範囲で、あとは経営者やスポンサーの方にお任せします、ということになります。機構では、経営に関与してターンアラウンドの支援まで行い、その意義と面白さを実感しました。事務所に戻れば、それをやるのは難しい。

もう一つは、機構の仕事を通じて志を同じくする松岡という同志に出会ったことです。彼は流通をメインとする著名なアナリストで、事業の見方や数字の捉え方などをずいぶん教わりもしました。例えば、「大型案件ほど、ザックリでいいんだ」という話は、まさに目から鱗。緻密に見れば正しい答えが出るわけじゃない、それよりも大まかな勘所を押さえることが大事なのだ、と。なるほど、と思いましたね。

通常、事業再生をしようという時には、法律事務所、会計事務所、証券会社、コンサルティング会社などが協働してサポートに当たります。ただ、彼らは自ら担当する専門分野についての“部分最適”のアドバイスはしても、再生に向けたトータルの道筋を提示する役割ではありません。

一方、機構では、私と松岡のような異業種の人間が連携し、一つのチームとしてプレーしたわけです。そうすることで、別々の組織の人間が関与するよりも、“全体最適”を踏まえた“いい仕事”ができることに、私は大きな手応えを感じていました。そして、それは松岡も同じだった。このモデルが民間で実現できないものだろうか、と語り合ううち、「じゃあ一緒に起業しよう」という流れになったのです。

弁護士 大西 正一郎
約350名(グループ連結)の多彩なプロフェッショナルを束ね、「クライアントの利益への貢献」「ステークホルダーの利益への貢献」「社会への貢献」を通じて持続的成長を目指す

異業種の人間が集う会社だからこそ理念の周知・共有が重要になる

弁護士の価値観を基本に置きながら、会社の成長を支援する

同社に集うのは、経営コンサルタント、産業アナリスト、M&Aの専門家、弁護士、公認会計士、事業会社出身のビジネスのプロなど多彩なバックグラウンドを持つスペシャリストたちだ。案件ごとに、選抜したメンバーでチームをつくり、ニーズに即した経営支援サービスをワンストップで実行する。経営コンサルティングをはじめとする企業の成長局面におけるソリューションの提供も強化し、その比重が高まっている。18年には東証マザーズ(当時)に新規上場、現在は同プライム市場に上場している。

まだまだ成長途上ではありますが、このビジネスの意義を理解し、信頼し合える仲間が増えたことで、ここまで来ることができたと思っています。世の中がますます不透明化し、お客さまの“困り事”も多様化しました。こちら側があらゆるソリューションを備えていなければ、そのニーズに応えることはできません。逆に言えば、大手ファームのようなブランド力のない我々が振り向いてもらうためには、“単品商売”ではなく、多彩な専門性の組み合わせによるユニークなサービスで勝負するしかない。創業以来、そう考えて必要な人材を確保し、会社の規模を大きくしてきました。その仮説は間違っていなかった、と感じています。

ただし、単に“その道のプロ”を集めれば、そうした価値が発揮できるというわけではありません。異業種が集まる当社のようなビジネスだからこそ、「常にお客さまにとってのベストは何かを追求する」という姿勢、理念を組織として共有することが重要になります。当社は年に2回、全社員で“オフサイトミーティング”をやるのですが、そういう場に加え、私も松岡も折に触れて、社内で「自分たちの存在価値はどこにあるのか」という話をします。

ちなみに、当社は創業以来、「クライアントの利益への貢献」のほか、「ステークホルダーの利益への貢献」「社会への貢献」の3つを企業理念として掲げています。企業価値の向上は当然として、従業員や金融機関などの関係先、ひいては地域社会の幸せにつながるサービスの提供が、我々の目指すものなのです。

弁護士時代は、あらためて「我々の使命は、理念は」などと考えることは、あまりなかったです。民間企業の経営者としては、常にそれを問うというのも非常に大事な仕事の一つです。

今は自ら案件に関与することは稀で、もっぱらマネジメントと営業に、多忙な日々を送る。そのマネジメントについては、「管理して決裁して、というスタイルではなく、会社の戦略を考えるのがメイン」だと話す。昨年、新たに企業への中長期投資を目的としたフロンティア・キャピタルを設立し、やはり松岡氏と共同で代表取締役となるなど、新事業の開拓にも余念がない。

新会社は、今年に入って複数の金融機関から種類株式の発行により資金調達ができたので、いよいよ本格始動させます。既存の事業は、お客さまに様々なサービスを提供して対価を受け取るフィービジネスですが、今度は自分たちで投資もやる。投資先には我々がハンズオンで経営支援などの部隊を送り込んでバリューアップを図り、それがベストだと思えばM&Aや上場を検討する。これも、コンサル会社としては、あまりないビジネスモデルではないでしょうか。主に対象とするのは、事業承継などに悩む地方の中堅企業です。ですから、いろんな問題を抱える地域経済の活性化にも、多少なりとも貢献できるのではないかと考えているんですよ。

気がつけば、通常の弁護士とはずいぶん違う世界に来てしまいました(笑)。しかし、弁護士だったからこそここにいる、と言うこともできます。奥野事務所でも再生機構でも、私はたくさんの先輩や同僚のお世話になりました。彼らから学んだのは、つまるところ「正しいことを貫く」「おかしいこととは戦う」という職業的な正義感。そんな自分には、例えば目先の利益のために、理念とブレた行動を取るようなことはできません。そういうことも含めて、弁護士として育んだ価値観をビジネスの世界で生かせているという実感が、私にはあります。

逆に、こういう世界に飛び込んで、法律を知っているというのが、いかに大きなアドバンテージであるかということもわかりました。法律に詳しい人は、周囲にほとんどいないですから(笑)。

最近は、弁護士資格を持って企業法務部で働きたいという人も増えました。ただ、法務の担当者になるのと、ビジネスのど真ん中で勝負するのとでは、やはりスキルの生かし方が違います。弁護士として一線でバリバリやってきた人なら、この世界でも十分に通用するはず。法律の専門家に対する現場のニーズも非常に高いです。少しでもビジネスに関心があるのであれば、臆せず“こちら側”でチャレンジしてほしいですね。
※本文中敬称略