Vol.89
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弁護士 鮫島 正洋

HUMAN HISTORY

既存の事務所では対応できないリーガルニーズは必ずある。そこにサービスを提供することで弁護士業はサスティナブルにできる

弁護士法人 内田・鮫島法律事務所
代表パートナー 弁護士・弁理士

鮫島 正洋

高校で理系に目覚め東工大に進学。そこで待っていた挫折

2011年に直木賞を受賞し、大ヒットドラマにもなった池井戸潤氏の『下町ロケット』。物語には、大企業に特許訴訟を起こされ、窮地に陥った主人公を救う凄腕の弁護士・神谷修一が、キーマンの一人として登場する。そのモデルになったのが、日本に「技術法務」という新領域を切り開き、今もトップランナーとして走り続ける鮫島正洋である。意外にも、自ら志向したはずの理系の世界になじめず、社会に出てから弁理士、そして弁護士資格を取得したという“変わり種”。ただし、そうした紆余曲折のキャリアなくして、「神谷修一」の誕生は、おそらくなかっただろう。

1963年、神戸の生まれです。とはいっても、船会社の会社員だった父親の赴任地がたまたまそこだった時に生まれたというだけのことで、2歳の時には引っ越し。父はその後も転勤を繰り返して、横浜に家を建てたのは、私が中学生の頃でした。育ったのは横浜、というのがしっくりくる感じですね。

その間、小学校3年から6年までは、父がニューヨーク支店勤務となったため家族で渡米し、現地の学校に通いました。当時は日本人学校なんていうものはなく、地元の子供たちが通う小学校です。英語はまったくしゃべれませんでしたが、子供ですから順応性も高かったのか、数カ月もすると、周囲と問題なくコミュニケーションが取れるようになりました。

よく海外留学した人が「日本のことを外から客観的に見られたのがよかった」という感想を口にしますが、まったく同感で、日本のよさとか、日本人であることを再認識させられた感じがするのです。さすがニューヨーク。学校には同じような境遇の日本人もいたし、中国人、スペイン人など、まさに“人種のるつぼ”でした。教室は、さながらそれぞれが各国を代表するミニ国際会議みたいなものです。そういうなかで、日本人として恥ずかしくないようにとか、子供ながらにそんなことを考えていました。今も「日本のために」という思いに基づき、政府関係の委員を数多く拝命させていただいているわけですが、ニューヨーク時代の経験がバックグラウンドにあるのかもしれないと思っています。

帰国後もいくつかの中学校を転々とした後、公立の名門、横浜翠嵐高校に入学する。そこで没頭したのは、ニューヨーク時代のリトルリーグから始めた野球だ。翠嵐高校は有数の進学校ではあったが、「正直、勉強は好きではなかった」と言う。なかでも、年号を丸暗記するような科目には意義を見いだすことができず、「自分の頭で考えられる物理などのほうが、まだましだ」と、興味は徐々に理系に傾いていく。そして81年、進学先に選んだのは、東京工業大学だった。理系科目はそこそこいけるし、帰国子女で英語力にはアドバンテージあり。それなりに胸を膨らませて入学したのだったが、その思いはたちまち挫折に取って代わられることになった。

祖父は海事系の弁護士で、父もある時期まで後継ぎを目指したという、バリバリの文系家系だったんですね。幼い頃からそういう家風みたいなものが刷り込まれているので、“理系のメッカ”の文化とか世界観についていけないわけです。東工大にやってくるのは、自分でロボットを組み立てたり、日がな顕微鏡を覗いていないと気が済まなかったり、という人たちばかり。すぐに、自分が典型的な落ちこぼれであることを自覚しました。

東工大では、2年生の時に専門分野を選択するのですが、自分の成績に鑑みると、金属工学科以外の選択肢はなかった。そんな状態ですから、挫折感だけが強くて、勉強なんかする気にならない(笑)。喫茶店でコーヒーを飲んで時間を潰したり、麻雀のメンツ集めをやったり……。

怠惰な大学生活でしたけど、何とか4年で卒業することはできました。東工大は、各科目60点が合格ラインなんですよ。私は、80点とかがない代わり落第点もなく、全科目60から65点の間にピタリと収まった。教授に「こんな成績表は見たことがない。お前の点の取り方は奇跡的だ」と真顔で褒められたのを、今でも覚えています(笑)。

考えてみたら、法学系の家系。弁理士試験の勉強は面白かった

就職して“宝物”に出合う。自らに課した仕事と司法試験の両立

卒業後は、就職担当教官のツテで藤倉電線(現フジクラ)に就職する。入社早々任されたのは、新しいタイプの電線の開発製造ラインの責任者だった。そこで痛感させられたのが、「やはり自分はエンジニアには向かない」という冷厳なる事実。加えて、材料の仕入れや品質管理、スタッフのシフト管理をはじめとするマネジメントもこなし、かつ、人員不足のため自ら夜勤シフトにも入らざるを得なかった。逃げ出したくなるような状況下、鮫島のメンタルは限界を迎えていった。「このままでは自分の人生はダメになる」「ならばどうする」という葛藤が、人生の転機を呼び込んでいく。

とにかく、野球以外には真剣に取り組んだことがなかったですから。遅きに失したかもしれないけれど、これからのことを考えて、何かアクションを起こさないといけないんじゃないか、と。

悶々としている時に、家が法学系だったことを思い出しました。藁にも縋るというか、法律学をやってみたら、ひょっとしたら現状を変えられるかもしれないと、ふと思ったのです。で、やるからにはちゃんと資格を取ろうと考えた。結果的に行き着いたのが、知的財産権の専門家である弁理士だったんですよ。

曲がりなりにもかかわってきた技術×法律=弁理士と整理すると聞こえはいいのですが、それまで弁理士なんていう職業があることさえ知らなかった。ネットなき時代だったので、世の中にはどんな資格があるのだろうと思って、東京駅の近くにある大きな書店に行って、「資格全集」という本を立ち読みしたのです。パラパラめくって、最終的に残ったのが技術士と弁理士。技術で落ちこぼれようとしている人間が、技術士はないだろう。とりあえずこの弁理士という資格は法律系らしいし、挑戦してみようか。そんな、消去法の選択でした。

でも、資格の勉強を始めてみたら、そこに“宝物”が落ちていた。自然科学の世界では、「水は100℃で沸騰する」という法則は絶対です。それに合わせて、いろんなものや仕組みをつくっていくんですね。ところが、法律は世の中のニーズに従って、いかようにも変えていくことができます。目指す社会を実現するために法を制定したり、解釈したり。理系から来た人間特有の感想なのかもしれませんが、社会とのかかわりという点で、180度前提が違う学問に出合った気がしました。法律学と出合って、初めて勉強って楽しいんだな、と実感することができたんですよ(笑)。

弁護士 鮫島 正洋
設立パートナーの内田公志弁護士(38期)と。「『Science』誌を定期購読するほどの技術好きだった内田と前職の松尾綜合法律事務所で出会い、技術系企業向けのサービスに特化した、オンリーワンの法律事務所をつくろうと意気投合したのがはじまりです」(鮫島氏)

「会社は君をプロとして採用した」。上司のひと言で“プロ意識”を知った

とはいえ、すでに家族がいたこともあり、仕事を辞めて試験勉強にすべてをかける余裕はなかった。終業後に予備校に通って資格取得を目指した鮫島が念願の合格を果たしたのは、2年半の努力を重ねた91年だった。そして翌年、新たな活躍の場を求めて日本アイ・ビー・エムに転職し、知財部に籍を置くことになる。新天地でいよいよ本領発揮と思いきや、そこでも厳しい現実が待っていた。特許法には詳しいものの、知的財産権に関する実務経験はゼロ。技術面でも、弁理士試験で学び直した金属材料の仕事など、ほとんどなかったのだ。

上司からいきなり渡されたのが、専門外のコンピューター関連の案件にかかる資料でした。「これ、来週の月曜までにやっておいて」と。でも、読んでもまったく理解できない。仕方なく、「実はこういう仕事をしたことがなくて……」と言うと、返ってきた答えは、「アイ・ビー・エムは、君を知財のプロとして採用したんだよ」と、それだけでした。「四の五の言わずに、期日までにプロとしての結果を出しなさい」ということです。えらいところに来てしまった、というのが偽らざる気持ちでした。そこからはもう必死でやるしかなかったわけですが、後から思えば、しんどさに耐えて頑張れたのも、その上司のひと言があったから。“プロ意識”ってめちゃくちゃ大事で、30年前にそれを教えてくれたことには、今でも感謝しています。時々、事務所の部下に同じ話をするんですよ。あんなににべもない言い方はしませんけどね(笑)。

アイ・ビー・エムでの仕事は、ひと言で言えば、研究所から上がってくる発明を特許に仕立てること。要領を掴むと、周囲の期待にも応えられるようになり、面白さも感じました。ただ、そうなってくると、また別の疑問が頭をもたげてきたのです。自分のやっていることは“会社”では役に立っているけれど、どれだけ“社会”に貢献できているのだろうか、と。

そこまでのキャリアである技術系や知財の延長線上で、もっとビジネスそのものをサポートするような貢献ができないだろうか。そう思って出した結論が、弁護士資格を取ることでした。法律の勉強は水が合ったし、弁護士になれば、特許のライセンスにかかわるとか、一層“ビジネス寄り”の仕事ができるはずだと考えたわけです。

白状すれば、弁理士試験に受かっているのだから司法試験も楽勝だろう、くらいの感覚だったのです。ところが、勉強を始めてみたら、司法試験で求められる知識は、その質も量も弁理士試験の比ではなかった。仕事を辞めるわけにはいかない状況は変わらなかったので、どうやったら一日をフルに使えるライバルたちに対抗できるのだろうかと、時間の効率的・戦略的な使い方には心血を注ぎました。

その結果、極端な朝型を採用しました。始発電車に座った瞬間から勉強を始め、会社に着くと自社の図書館で始業まで約3時間。昼休みは40分机に向かって、終業後はさすがに疲れているので、英語でいえば単語帳づくりのような頭を使わない論点整理みたいな作業をやる。これで、1日6時間ぐらいの勉強時間を確保しました。

土曜日には予備校の模試があるのですが、金曜日の夜はわざと深酒をしたりもしました。なぜかって? 本番で風邪をひくかもしれないでしょう。頭痛に苛まれながら問題を解く、という超実践的な模擬試験です(笑)。まあ、ハードな生活のなかで、週末ぐらいは大好きなお酒を心置きなく飲みたいための言い訳でもあったのですが。

当時、自分には、「昼間は知財のプロであれ」という規律を課していました。プロとして籍を置く以上、司法試験と仕事を両立させなければ筋がとおりませんから。実際、アイ・ビー・エムが87年にノーベル賞を受賞した「酸化物超電導」という研究の基本特許の権利化という、特許をやる人間ならば誰もが憧れるような案件にも携わりました。司法試験最終合格を果たした96年には、同社の半導体部門の知財戦略に貢献したという理由で、会社から特別貢献賞もいただいた。「司法試験と仕事を両立する」という初志を貫けたことは、誇ってもいいのかな、と思っています。

社会貢献も視野に独立し、掲げた「技術法務」の看板

「3回で受からなかったら諦める」というのも自らとの約束だったが、その期限だった96年、見事合格の夢を叶えた。アイ・ビー・エムでの仕事には未練もあったが、腹を固めて12年の会社員生活に別れを告げた鮫島は、99年、修習を終え、晴れて弁護士となる。36歳での新たな船出だった。同年、大場・尾崎法律事務所(現シティユーワ法律事務所)に入所、翌2000年に、松尾綜合法律事務所に移籍する。

大場・尾崎法律事務所は、特許訴訟では定評があったのですが、訴訟はある意味“必要悪”です。知的財産を武器にしてビジネスや社会進歩に貢献したい、という自分の思い描いていた仕事とはちょっと違うな、と。弁護士になって早々、そんなジレンマに陥ってしまったんですよ。たまたま同期の弁護士と飲んでいる時に、その悩みを話したら、「じゃあ、うちに来てみたら」と紹介されたのが松尾事務所でした。

そこは、必ずしも知財に強い事務所ではなかったのですが、逆に「特許のわかる弁護士を探していた」というのがラッキーでした。駆け出しながら、自分のやりたいことをやらせてもらえましたから。

知的財産に対する関心が高まってきてはいたものの、「うちみたいな技術系の会社には必要みたいだけど、そもそも知財って何?」というのが当時の中小企業の平均的なレベル。「何をやったらいいかわからないから、アドバイスを」という相談も結構あって、自分の持つ知財や技術の知識が、その人たちのビジネスに役立つかもしれない、という感覚をそこで初めて持つことができたのです。

松尾翼先生には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。わけのわからない理系出身の人間が、入ってくるなり勝手に技術の案件ばかりやり出すのだから。普通のボスなら怒るでしょう。でも、松尾先生には、それを許してくれる度量と理解がありました。

松尾事務所で、のちに一緒に独立する内田公志と出会ったのも、運命的と言うしかありません。内田は法学部出身ながら、技術が大好きな弁護士。理系で落ちこぼれ、法律学に活路を見いだした私とは好対照でしたけど、目指す方向性も人間的な相性もピッタリで、いつしか2人で技術系の案件を専門に扱うようになりました。

ただ、そうして徐々に技術系の案件が増えてくると、人員拡張が必要になる。さすがの松尾先生も難色を示すなか、松尾事務所でやっていくのは厳しいと判断しました。

弁護士 鮫島 正洋
小説家・池井戸潤氏のベストセラー作『下町ロケット』(直木賞受賞)に登場する神谷修一弁護士のモデルが鮫島氏というのは有名な話。池井戸氏と鮫島氏は十数年来の飲み友達で、何度も弁護士の仕事の話を聞かれたそうだ

そういう経緯で、04年7月、内田・鮫島法律事務所を設立。だが、自ら案件をこなすだけでなく、人材育成や組織運営といった“経営”を担うのは、一筋縄ではいかず、初めのうちは人を採用しては辞めていく、という悪循環だったという。それを乗り越えられたのは、「鮫島事務所ではなく、内田という相棒がいたから」。そして、「技術法務で、日本の競争力に貢献する」という唯一無二のミッションに対する信念、確信があったからにほかならない。

もともとメーカーにいたからわかるのですが、日本には中小企業も含めて、優れた技術を持った会社がゴマンとあります。では、その技術を理解したうえで法律業務ができる法律事務所は、どれだけ存在するのか。少なくとも我々が事務所を立ち上げた20年前は、なかったのです。

今でも「法務」は弁護士、「知財・技術」は弁理士、「ビジネス」は顧客(経営者)が、バラバラに担っています。でも、これでは、統合的なアドバイスには至らない。

我々が掲げる「技術法務」をひと言で言えば、これら4つの要素に精通した一人の弁護士が、統合的な視点に立ってソリューションを提供する、という概念なんですよ。訴訟に勝つためとか、特許を取るためとかだけに法律を活用するのではなく、持っている知財や技術を企業戦略に組み込み、競争力を高めるために活用する。そのためのサポートを行うわけです。

例えば「独自の技術を開発したが、どう収益化したらいいかわからない」というのは、ものづくり中小企業の“あるある”です。一つの方策は、大企業などと組んで、商品化や販路の確保を実現すること、いわゆる「オープンイノベーション」です。その場合には、提携先にどんな条件を提示すべきか、クライアントと一緒に経営戦略レベルで考えます。最終的な契約書の作成や、訴訟リスクのヘッジまでアドバイスできるのが弁護士の強みで、コンサル会社との差別化も可能になるのです。そんなふうに、ビジネスモデルの構築から技術の収益化までを一気通貫でこなすのが、技術法務の真骨頂といえるでしょう。

当然のことながら、それをやる弁護士は、「技術は嫌い」では務まりません。でも、初めから特定の技術領域に長けている必要はないと思っています。興味や探求心があれば、知識を広げることはいくらでもできるんですよ。そういう意欲を持った人材に恵まれたことが、事務所を成長させる原動力となったことは、言うまでもありません。

知財への理解の広がりが、テックベンチャーの飛躍を生む

サポートを求める人のため、全国津々浦々のネットワークを築きたい

司法試験挑戦のモチベーションにもなった、「知財の知見を社会、ビジネスに生かしたい」という思い――。鮫島は、独立と時期を同じくする04年、特許庁が設立した「地域中小企業知的財産戦略支援事業統括委員会」の初代委員長に指名され、それを一つのかたちにしていった。以来20年、行政と二人三脚で知財戦略にかかわるプロジェクトに携わってきた当該分野の先駆者には、今という時代が「ようやく努力が実を結ぶかもしれない重要なステージ」に映っているようだ。

41歳の若さで特許庁から声がかかったのは、私以外に同じようなことを言っている人間がいなかったからでしょう。特許庁のプロジェクトでは、主として中小企業をターゲットとして知財の啓発活動に取り組んできたのですが、10年ほど前からは、技術系のスタートアップがターゲットに加わってきたんですね。そうなると、面白いことが起き始めました。

彼らには、ベンチャーキャピタル(VC)とか大学とか、会計事務所とか証券取引所とか、これまでの中小企業とは異質のセクターの人たちがかかわります。そんなステークホルダーたちの多くが、「知財って結構重要だよね」という認識を持つようになってきたのです。

特許は、ビジネスを独占する手段と捉えられがちですが、特に近年は、「自社が開発した技術を特許というかたちで資産化する」といった機能が注目されています。売上実績のないテックスタートアップの場合はなおさらで、知財戦略がしっかりしていないと、企業価値を上げることができません。そこに投資してリターンを得ようと考えているVCが、「儲けるためには、知財が鍵だ」という事実にようやく気づいたわけです。テックスタートアップ創出に向けた政策的な後押しもあり、そうしたスタートアップへの投資意欲が、ここ数年で大きく盛り上がっていることを実感します。知財に対する理解の広がりが、その流れをつくり出したのは、間違いないでしょう。口幅ったい言い方になりますが、私には「すべては04年のプロジェクトから始まった」という手応えがあります。

ともあれ、今後5年くらいで、IT分野のメルカリのような成功例が、テックスタートアップの世界でも生まれてくるかもしれません。日本が再び「技術立国」の旗を掲げる契機になるのではないかと、私自身期待を持って見つめています。

現在、事務所には、30名を超える弁護士が所属する。設立来、企業での技術職経験者などを採用してきたのだが、「そうすると、ベテランのおじさんばかりになる(笑)」こともあり、この5年ほどは、「修習修了後ストレート組」も迎えるようにしているそうだ。弁護士業という“海”に、技術法務という新たな領域を切り拓いてきたわけだが、「依然として“ブルーオーシャン”が広がっている」と鮫島は言う。

我々の土俵は、オーソドックスな弁護士とは一線を画しているニッチ市場です。でも、そこにあるニーズの規模は、とても30人で賄えるものではありません。潜在需要も含めて、技術法務の手法を適用すべき顧客は、星の数ほどいるわけです。そういう人たちに必要なサポートを提供することは、ひいては日本経済の復活、発展に貢献することにもなるでしょう。

この事務所を100人規模くらいにして、「技術法務市場を独占しました」という方向性もありうるとは思いますが、何となく“20世紀的”な臭いがしますよね(笑)。そうではなくて、技術法務の意義を理解してくれるほかの法律事務所と手を携え、全国津々浦々、技術法務のネットワークを形成していきたいんですよ。これも、恐らく私自身でやらなければならない仕事。事務所創立20周年の節目を迎えた今、次の課題として位置づけて、全力を挙げて取り組みたいと考えています。

振り返れば、人より十数年遅れてこの業界に入った時から、私にとって「人と違うことをやって生きていく」のが至上命題でした。当時、「弁護士は法律の専門家で、ビジネスに及ばなくていい。ましてや、技術なんかわかる必要すらない」というのが、常識だったんですね。ならば、そうではない事務所をつくれば、マーケットに受け入れられるのではないか。その原点を忘れずに走りぬいた結果、今があります。

「マーケットは常に歪んでいる」という言葉を座右の銘としています。今この瞬間にも、既存の事務所では対応困難なリーガルサービスを求めている人は、必ず存在します。特に昨今のように、カーボンニュートラルとかサーキュラーエコノミーといった概念が次々に出てくる時代には、日々新しいニーズが生まれていると言っても、過言ではないでしょう。そういう新たなニーズを見つけてサービスを提供していければ、弁護士業はサスティナブルです。特に弁護士として独立したい人、事業を起こして社会に貢献したい人には、この視点を持って頑張ってほしいですね。
※本文中敬称略

弁護士 鮫島 正洋
今年の7月に設立20周年を迎える内田・鮫島法律事務所には、現在34名の弁護士が所属。IT企業勤務経験のある市橋景子弁護士(71期)、理工学部出身の多良翔理弁護士(75期)ほか、技術系のバックグラウンドを有する弁護士が多い