Vol.28
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葉玉 匡美

HUMAN HISTORY

目の前の事件、人のために一生懸命尽くすこと。仕事のクオリティを上げて、常に全力で臨む。「独自性」はそこからしか生まれない

TMI総合法律事務所
パートナー

葉玉 匡美

人生の出発点となった「商売の怖さ」と「家族の絆」

葉玉匡美(はだま・まさみ)のキャリアは実に多彩だ。1988年、大学在学中に司法試験に合格した後、まずは司法試験予備校で教壇に立ち、93年に検事任官。それから法務省民事局付検事、東京地方検察庁特捜部検事を歴任し、現在、弁護士生活6年目に入ったところだ。弁護士への転身を除けば、すべて請われてきた道。新たな職務に就くたび、葉玉はそれを必然のように取り込み、バイタリティあふれる仕事をしてきた。様々な顔はあっても、根っこにあるポリシーは明快。「常に葉玉匡美で在り続ける」――それは、環境やかたちに囚われず、法律を使って自分の力で生きていくということ。“規格外の法曹”ともいうべき葉玉は、人生を存分に楽しんでいる。

私が思い出せる一番古い記憶は、2歳の時のもので、母が私を抱いて布団の中で震えているシーンです。外からは「ドンドンドン」と戸を叩く音が聞こえる……。両親は福岡の久留米で食料品の卸会社をやっていたのですが、一度潰れたんですよ。この時、債権者が取り立てに来ていたのでしょう。それから、両親は会社を立て直すのにひどく忙しくて、私はしばらく知人の家に預けられていました。このあたりはほとんど記憶にないのですが、ある日、会いに来た母に、幼かった私は「このおばちゃん、誰?」と。「これはいけない」と思った母は、早く商売を立ち直らせて、家族3人で暮らせるよう必死に働いたそうです。それがかなったのは、私が5歳になる頃でした。

父は、商売するのは好きなんだけど、稼いだお金を管理できないタイプ。わりに奔放な人でね、例えば、店の幌付きトラックを勝手に使って、私を連れて遠出をしたりするわけです。店の缶詰を持ち出して、布団やらガスバーナーを積んで、いわばキャンピングカーですよ。沖縄に行った時は、「波の音を聞きながら寝よう」といって、二人して海岸で横になっていたら、地元の人が「あんたたち、こんな所で寝てたらハブに噛まれるさー」って(笑)。慌てて逃げたこともあります。少々野蛮ながら、父はいろんなことを教えてくれました。私の出発点は、商売の怖さであったり、家族の絆であったり。今も、自分にとって一番重要な要素になっていると思います。

ちなみに卸会社のほうは、仕事がうまくいって、年商70億円ほどの規模になっていました。ただ、私が検事になってから数年後に、実質経営者だった母がガンで亡くなったので、最後はM&Aで売却しました。従業員の生活も守りたかったから、私が自分で売り先を探し、交渉して。経済事件をやっていたこともあり、資金繰りや損益計算書などの数字は読めたし、仕事で経験したことが生きたというわけです。

葉玉 匡美

久留米大学附設高校、東京大学と、学生時代を通じて葉玉が熱中したのは演劇である。演者として舞台に立つことはもちろん、脚本や演出も手がけた。観客の空気とともにつくり上げていくライブ感が、たまらなく面白かったらしい。時には演劇、時には勉強、対象が何であれ、葉玉は「今、充実できること」に常に全力投球してきた。

高校時代に一番やっていたのは、武田泰淳の『ひかりごけ』。あとは、自分でオリジナル脚本を書いたりね。演劇って、同じ脚本で同じメンツでやっても、その一回一回が違うんですよ。客が笑ったら喜劇になり、笑わずにジーッと観ていれば悲劇になる。観客も俳優も、その時のちょっとした気分で変わっていく“生き物感”が大好きでした。15人程度の小さな演劇部でしたけど、文化祭やコンクールにも出て、かなり本気でやっていました。

3年になってからは、東大受験に向けて真剣モードです。私は切り替えが早いんですよ。授業に集中し、みっちり勉強していました。ただ、この頃は法曹をまったく意識していなくて、「一番潰しがきく道は何か」を考えたら、答えが東大法学部だったのです。本来、私は理系なんですけど、血を見るのがいやだから医学部はないと。それと商売人の子として育っているので、勤め人や公務員もイメージできない。東大法学部に行けば、何かになれるだろう、何かできるだろう、そんな感じだったんですよ。

でも、自分でも矛盾していると思うのですが、血に弱いわりには、検事になってから何度も解剖に立ち会い、医学部生よりよほどひどい状態を見てきた。公務員になりたくないと言ってたわりには、法務省で仕事してたんですからねぇ(笑)、人生、わかりません。

1年間の集中勉強で司法試験に合格。そして予備校の講師に

84年、定めたとおり東京大学法学部に進学。世がバブル期に突入する直前である。キャンパスは総じて軟派ムード。周囲の学生がそうであったように、葉玉もマージャン、デートに“忙しく”、引き続き演劇にも精を出していた。大学の授業は「出欠を取る授業以外はまったく出ていない」。司法試験を目指し、行動を起こしたのは3年生終盤になってからだ。その時に決めたことは、「絶対に1年で受かる」だった。

多くは、今はなき「Hot-Dog PRESS」というデートマニュアル雑誌を脇に抱えて、女の子を何人口説けるかに関心を持っていたような時代ですよ。クリスマスに向けて、1年前から赤坂プリンスを予約しなきゃいけないとか(笑)。そこまで軟派じゃなかったけど、私も十分に遊んでいました。塾の講師や家庭教師のバイトをすれば、月に30万円ほど稼げましたから、それはそれでいい時代だったと思いますね。

演劇は3年まで続けて充実していたのですが、俳優でメシが食えないことはわかっていました。バブルだったからどこにでも就職はできたでしょうが、やっぱり自分は勤め人になるタイプではない。ならば、司法試験でも受けてみるかと。当時、私が“アッシー君”として尽くしていた女の子がいましてね(笑)、彼女に「1年で司法試験に受かったら何してくれる?」と聞いたら、「30秒キスしてあげる」と言うんです。それで絶対の約束をして、一気に準備に入ったというわけです。極めて模範にならない動機です(笑)。

司法試験に合格するにはどうすればいいか、自分なりに調べたところ、大学の講義をいちから聞いていたのでは間に合わないと思った。そもそも、法律の授業には一度も出ていなかったわけで、基本書を読んだこともなければ、刑法199条が何かも知らない。予備校に行って、一気呵成にやるしかないと考えたのです。私のやり方はいつも明確で、目的達成のためには何が必要か、その最も効率的な方法を選ぶ。例えば基本書を全部読むのに、計算すると3カ月かかると⋯⋯それで間に合わないと思ったら優先順位を変えていく。コツは、勉強すること自体を目的にせず、身につけるにはどうすればいいか。なおかつ、それをどう使えるか。そういう発想をすることです。

実質4年生から始めて、それからは世の中の誰よりも勉強したという自信があります。結果、5年生の時、決めたとおり1年間で合格することができました。30秒キスの約束をしたくだんの女性との結末は⋯⋯内緒。私は、このネタで長年笑いを取ってきましたけど、これだけは黙秘権行使です(笑)。

葉玉 匡美

司法試験に合格したあと、葉玉はすぐに司法修習に入らず、自らが学んだ「LEC東京リーガルマインド」の講師となる。わずか1年で合格した葉玉に、予備校から「教えてくれないか」と声がかかった。期待どおり手腕を発揮し、講座「葉玉ゼミ」から多くの合格者を輩出。カリスマ講師として人気も高かった。2年半ほど講師を務めたが、「その後の法曹人生において、これほど役に立ったことはない」と、葉玉は当時を振り返る。

何より、私の法律家としての基礎が築けたと思っています。1年間で合格したということは、裏を返せば知識が凝縮しすぎているということ。でも生徒はみな違うし、法律に対する捉え方もそれぞれ。あらゆる側面から質問されることに対し、わかりやすく説明する努力をするうち、自分の法律知識が格段に深まったのです。法律を説明する能力、コミュニケーション力がものすごく磨かれました。加えて、私は刑事訴訟法以外すべて教えていたので、科目ごとに学んだあらゆる法律について、「法体系ってこうなっているんだ」という自分なりの解釈を確立することができたのです。

だから、基本書に出てくる“大先生の言葉”をそのまま伝えるような授業はしなかった。私はもともと理系でしょ、中学生の頃からマイコンを始めていたので、法概念を図にして説明したりね。けっこう人気はあったと思います。葉玉ゼミには50人ほどの生徒がいましたが、最終、9割以上の合格者を出すこともできましたし。年齢も大して変わらないので、今でもみな仲がいいというか、慕ってくれているんですよ。

揺るぎない法曹の核を得た検事時代。次いで、会社法の立案へ

葉玉 匡美

法律家の仕事の本質は「説得」にある。それは検事、弁護士と立場が違っても同じ

その後、2年間の司法修習を経て、葉玉は検事としての道を踏み出す。実のところ、修習中は、葉玉の頭に検事や裁判官になるイメージはまったくなかった。歳をとった両親を案じたこともあり、漠然と「地元の福岡で弁護士をやろうか」と考えていたのである。話が変わったのは、福岡での修習時代に、お世話になった検察教官からの一本の電話だった。

何となく、弁護士かなぁという感覚だったんですよ。ただこの当時、弁護士事務所が弁護士をオープンに募集しちゃいけないような風潮があって、いわゆるツテが強い時代でした。特に地方ですしね。そういう不透明さが気持ち悪くて⋯⋯いよいよになればLECに戻るとか、何か生きていける道はあるだろうと曖昧な考えでいたところ、ある日突然、私の担当検事だった人から電話があったんですよ。「お前、就職決まったの?」「いえ、まだです」「だったら、5年でいいから検事やらない?」と。私は「はい」と即答、2秒で決定ですよ(笑)。

福岡地検からのスタートでしたが、幸運なことに、私は最初から、特捜部でずっと活躍していた人のもとで仕事することができたんです。事件の処理の仕方って、検事によって全然違うのですが、私はここで“検事たるもの”をたたき込まれた。「警察から挙げられたものが正しいかどうか」ではなく、真実は自分で調べる、まさに捜査していくことが検事の本業であると。だから、早くから独自捜査に携わらせてもらって、若手ながら毎年のように検察官逮捕していました。警察による逮捕、送致が通常ですから、これは極めて珍しいことです。事実を導き出すために事件背景を洞察し、懸命に証拠を調べ検証することに、やりがいと楽しみを覚えていました。

こんな一件がありました。覚醒剤使用の嫌疑がかかった事案です。「腕に3回注射を打っていた」という目撃証言を得て調べていたのですが、被疑者は否認です。どうしたら証言を立証できるか⋯⋯必死に考えて思いついたのが、オキシフルを塗るというもの。傷口に塗ると泡が出るじゃないですか。で、本人同意のもとにやってみたら、やはり3カ所から泡が。古い注射痕はだめでも、新しい傷はごまかせない。それで自白が取れ、周囲にそのことを言ったら「そんな話、聞いたことがない。なるほどねぇ」と。そんなふうに、新しい捜査手法を考えたり見つけたりするのが、すごく好きだったんですよ。

転勤を重ねながら、暴力団関係や経済事件、殺人による死刑求刑事件の捜査など、葉玉は様々な事案を深耕し、得た経験を血肉としてきた。そして検事8年目に入った2001年、次に下ったのは、法務省民事局への転勤命令。会社法の立案担当者として「財政や経済に強い」葉玉に白羽の矢が立ったのである。本人にすれば予期せぬことだったが、新しい場でもまた、葉玉は存分に力を発揮する。

入った途端に担当したのが保振法(株券等の保管及び振替に関する法律)。誰も何もわからない(笑)。何より、私が司法試験のために商法を勉強したのは、昭和56年改正商法で、以来まったく勉強していないのに、いきなり法務省で商法の最先端に立ったわけでしょ。しかも、どうやら立法を担当するらしいとわかり「えーっ」ですよ。でも、必要なことを一生懸命勉強していけば体に入るし、私としては面白さのほうがずっと強かった。

会社法、株券・社債の電子化、ハーグ条約などの立案に携わりましたが、いずれも、いちから白紙に絵をかくような仕事をできたのは恵まれていたし、貴重な経験になりました。改めて学んだのは、法律家の仕事の本質は「説得」にあるということ。法案化の過程においては、反対する政治家や、いろんな利害関係者を説得しなければならないのですが、私の場合、LECの講師や検事としての経験がすごく役に立ちました。人を説得する。それは、相手の話をよく聞き、何を求めているのか、本音は何なのか、十分に理解したうえで心を解きほぐしていくということ。私がずっとやってきたことです。検察官なら被疑者や証人を説得する、弁護士なら争う相手や、時にはクライアントを説得する。立場は違っても、仕事の本質は同じだと思うんですよね。

大きな改正をした時、それゆえに起きる混乱や不都合を生じさせてはならないーーこれは、法律をつくった人間の責務です。だって会社が新商品を発売したのに、「取り扱い方法は教えません」ではお客さんが困るでしょ。商売の世界では当たり前のことなのに、取扱説明書のある法律って、あまりにも少ない。会社法施行後は、当然、数多の質問が寄せられたわけですが、実際のところ電話対応が大変ですし、ホームページに集約して解釈・回答を法務省として示すとなると、決裁の問題もあって時間がかかりすぎる。そこで私は、『会社法であそぼ。』という個人ブログを立ち上げたのです。“葉玉個人”が勝手に語っているぶんには問題なかろうと(笑)。ブログ内ではわかりやすく会社法を解説し、質問もフリーに受け付けるようにして。翌日には即回答です。例えば、会社の法務部の方々に重宝されましたし、このブログを通じて、私の名前がそこそこ知られるようになったのかなと思っています。

弁護士への転身。多彩な経験と「解決力」を武器に邁進する

葉玉 匡美

有終の美を飾るまでと、葉玉は法務省民事局に5年半在籍。次なる場は東京地検特捜部、葉玉はちょうど40歳になっていた。「特捜部の仕事も大好きだった」というが、多忙を極めるため休みが取りづらく、家族との時間を重んじる葉玉にとってそれはつらかった。加えて、遠からず管理職となり、捜査の第一線に立てなくなる。それも、葉玉にとっては魅力がなかった。結局、半年で特捜部をあとにし、葉玉は弁護士としての道を歩き始めたのである。

特捜部で慰留はしていただきましたが、私には出世志向もないし、葛藤や未練は全然なかったですね。私は、常に葉玉匡美で在り続けたいんです。予備校の講師、検事、弁護士と何であれ、葉玉というヤツが法律を使いながら生きているーーその核があればいいのです。巡り合わせた環境や現場仕事を最大限に楽しむことができるというのが、私の特徴でしょうか。

弁護士になろうと思って、いくつか大手法律事務所を回ったのですが、なかでもTMI総合法律事務所の雰囲気が自由闊達で、肌に合いました。大手の場合、例えば独禁法なら独禁法だけという縦割り的な仕事が多いけれど、高い専門性を持ちながらもジャンルを特化しないTMIが、私にはよかった。実際、入所してからの5年間、あらゆる仕事をしてきました。会社法の立案担当者ということで、会社法関係が多いと思われているようですが、私の全体の仕事からすると5%くらいですよ。ブログで鍛えられているので、会社法の質問なら、どんなものでも10秒で結論を出しますから、タイムチャージ的には商売にならない(笑)。それは冗談にしても、コンプライアンス関係や、独禁法、知財もやるし、金融商品の設計、M&A、離婚調停⋯⋯何でもやります。私自身、会社法に特化していくつもりは全然なくて、これまでのように、より新しいこと、面白いことを経験していきたいのです。

ビジネスロイヤーとなってから手がけた代表的な事案には、三菱ケミカルホールディングスと三菱レイヨンの経営統合があり、ほかにも様々な業種にわたるビッグクライアントを有し、葉玉は企業を支え続けている。自ら、誰にも負けないとするのは「解決力」だ。ここに、明確な弁護士像がある。

自分の経験枠だけで、「こうなる可能性もある。ああなる可能性もある。どうしましょう」と言うような弁護士にはなりたくないんですよ。どんなに難しい事案でも、何かかたちをつけて解決をする。私は、この能力が人より長けていると思っています。きっと、私より法律や判例を知っている人はたくさんいるでしょうが、解決力は負けません。どんな事件でも相談事でも、ひとつとして同じ顔はないんですよ。我々の仕事は、書物ではなく、人間、個々の顔と向き合うこと。そして、何が真実かをしっかりと見据えること。そもそも、クライアントが全部正しいことを言っているとは限らないわけで、真意を捉えれば、別の解決方法を提案することだってできるのです。ディスカッションや調査のなかからこそ、真のソリューションが出てくる。私は、その力をもっと研ぎ澄ましていきたいと思っています。

これだけ弁護士が増えてくると、己の武器となる独自性が、ますます重要になってくるでしょう。何も大上段な話ではなく、実は、目の前にある事件、困っている人のために一生懸命尽くすことがすべての出発点なのです。そこから自然に、独自性というものが生まれてくる。最近、私はよくAKB48の話を例に挙げるんですけど、250人くらいメンバーがいて、トップ層ってわずかひと握りでしょ。スポットライトが当たらない女の子たちは、与えられた公演や握手会などの仕事で、どうしたら自分が輝けるか、それは凄まじい努力をしているわけですよ。自分にできることは何かを必死に考えている。まぁオタク的な話は別にしても、このあたりの努力感覚、学んでほしいですよね。目先の利益を追うのではなく、仕事のクオリティを上げて常に顧客のために全力を尽くす。そこからいい循環が始まる――経験上、私はそう確信しています。

※本文中敬称略