Vol.34
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村松 謙一

HUMAN HISTORY

「FOR OTHERS」――今ほど、この精神が求められている時代はない。そして、これこそが弁護士としてあるべき姿である

光麗法律事務所
弁護士

村松 謙一

野球に明け暮れた少年時代。自由闊達に育つ

「会社再建専門の弁護士になる」――村松謙一がそう決めたのは、修習生の時。以来30年、変節なくこの道を走り続けてきた。東京佐川急便や長崎屋などといった一部上場企業から、地域に根ざす個人商店まで、倒産の危機から蘇らせた会社は100以上。その大半は、もう助かる見込みがないと、誰からも見放されたケースだ。「会社の生死は、経営者や従業員の命につながっている。だから、100%再生させなければならない」。会社再建とは人間の救済。そう考える村松は、決してあきらめることなく、己の心身をも削るようにして死力を尽くす。その様は、NHKの人気番組『プロフェッショナル仕事の流儀』でも紹介され、大きな反響を呼んだ。数々の修羅場を踏み越え、命と正対する村松の心根は強く、そして優しい。

静岡県の清水にある実家は、大正時代から続く材木商で、地元では影響力を持つ大店でした。清水といえば、今はサッカーの街ですけど、僕が子供の頃は、港を中心に、製材や造船など様々な産業で隆盛を極めていました。うちにも、出稼ぎで職工さんが大勢やってきて、一緒にご飯を食べたり、ずいぶん可愛がってもらったものです。親父は忙しくてね、記憶に残っているのは、いつも遅くまで仕事をし、そろばんをはじいている姿。幼心に、商売人は大変だなぁと感じていました。

僕は活発に動き回る子供で、何でもこなすほうでしたが、最も熱中したのは野球。小学生から「野球小僧」そのものですよ。足が速かったし、肩も強かったからずっとレギュラー選手で、夢はもちろん甲子園。進学した清水東高校は、山下大輔さんや松下勝美さんらを出した野球の名門校で、僕も自分の将来は野球以外に考えられなかった。朝から晩まで野球漬けの日々で、チーム一丸、甲子園を目指して頑張っていたのですが、3年最後の県予選は、ベスト4をかけた試合で1点差の逆転負け。泣きましたねぇ。小学生の頃から夢見てきたことが終わった……から。

でも、次は神宮球場だ!と。この頃、六大学野球で圧倒的な強さを誇っていたのは慶應義塾大学で、あのグレーのユニフォームに憧れていたんです。で、進路相談の際、「慶應に行きたい」と言ったら、先生は「お前の学力では無理だ」と一蹴。そりゃそうです、進学校なのに、野球ばかりしてたんだから。「毎日8時間も勉強している連中に、申し訳ないだろう」とも言われ、それで僕は、逆に奮起した。猛然と受験勉強に取り組んだのは高校3年の秋からでしたが、なんと、現役で慶應の門をくぐることができたのです。「無理だ」「ダメだ」と否定されると燃える、これは昔から変わらない性分です(笑)。

慶應義塾大学法学部に合格した村松は、行李ひとつと布団を抱え上京。目的どおり野球部に入り、寮生活を始めた。憧れのユニフォームに身を包み、再び野球に明け暮れる毎日。しかし、入部して1年もたたぬうち、練習中に右肘を複雑骨折し、その影響で肩をやられた。「神宮球場のバッターボックスに立つ」という夢は、早々についえてしまったのである。

悩みました。悶々と。卒業後は、実業団で野球を続けようと考えていましたしね、その落胆は大きかった。結局やめることにして、寮を出てからは、親戚の家で身を潜めるように暮らしていました。しばらく空虚な時期が続いたのですが、ある時、ラグビー同好会から声をかけられたんです。何もしないよりいいだろうと思ってテストを受けてみたら、走れる。スポーツが好きな僕は、すぐに夢中になりました。あれは格闘技なんで、野球とは全然違うけれど、猪突猛進型の僕には合っていた(笑)。得点を挙げても騒がないジェントルマンな感じも好きでしたねぇ。

司法試験のことは、何となく頭にあったんですよ。大学受験は野球部に入るのが目的だったから、弁護士になるとは全然考えていなかったけれど、漠然と「法律は面白い」と思っていたんです。「隣家の柿が自分の家の庭に落ちたら、その柿は誰のものか」。例えば、そういった権利の法的解明は、クイズを解くような感覚で面白かった。それと、子供の頃からシャーロック・ホームズや江戸川乱歩などの探偵物が好きだったから、人とかかわって真相を明かし、事件を解決する――そんな存在に憧れもあったんでしょう。

司法試験に挑戦すると決めたのは、就職を意識する時期になってからです。ノンプロの道はなくなったし、かといって就職するとなると、親父の会社に入ることになる。それはイヤだった。半ば消去法的な「弁護士になる」宣言でしたが、でも親父は、家業を継ぐことを強要せず「やりたいことをやればいい」と。いつも自由な環境を与えてくれた親には、本当に感謝しています。

25歳で司法試験に合格。〝カバン持ち〞から始まった鍛練の日々

大学を卒業した村松は、司法試験に向けて勉強を始めた。「短期間の集中勉強で慶應に合格できたのだから、司法試験もいけるだろう」。甘く考えていた村松に、現実の壁は厚かった。当時は合格率2%前後の時代である。最初のチャレンジではまったく歯が立たず、2回目は論文でアウト。ここから尻に火が点いた村松は、〝体育会系〞らしく、持ち前の根性を発揮する。

家から仕送りをしてもらっていた生活で、〝甘ちゃん〞だったんですよ。ハングリーにならねばと、仕送りのいっさいを絶ち、自分を追い込むことに。親父の会社の支店が川崎にあったので、そこの宿直室で寝泊まりさせてもらいながら、生活費は材木担ぎのバイトで稼ぐ。貧乏受験生で予備校に通うお金はないから、基本、独学でしたが、中央大学の真法会に通ったことがいい刺激になりました。法曹界を目指す凄い人たちがいっぱいいて、一緒についていこうと猛勉強した。「なんで、こんな無謀なことにチャレンジしてるんだ」という思いもあったけれど、ここで跳ね返されたら、一生後悔する気がして。3回目の挑戦で合格した時は、喜ぶというより、「これで無職にならずにすむ」という安堵の気持ちでしたね。

修習生時代に、外部の先生による倒産事件の講義があったんです。この頃、紳士服のヴァンヂャケットや、出版社の三省堂といった有名企業が破綻し、倒産が社会的な関心を集めていた時代でした。講義を聞いて、倒産事件はダイナミックである、弁護士として力を存分に発揮できる領域だと思ったのです。そんな折、修習生仲間のツテで紹介してもらったのが、企業再建の第一人者である清水直(しみず・ただし)先生。お会いしてみると、強烈なオーラを漂わせている方で、話が面白いの何のって(笑)。帰りに「興味があるなら」と渡されたのが、『臨床倒産法企業再建・整理の現場から』という清水先生の著書でした。そこには企業再建の現場が生き生きと描かれていて、「これだ!」と。自分も、会社再建専門の弁護士になると決めたのです。

1983年、清水直法律事務所に入所した村松は、新たなスタートを切る。師と仰ぐ人物に就けるのは幸運なことだが、ここからが大変だった。清水弁護士の厳しさはつとに有名で、新人弁護士は〝カバン持ち〞から始めなければならない。「教えてはくれない」から、仕事のやり方や技は盗まなければならない。在籍していた7年間で、村松は徹底的に鍛え上げられた。

朝7時に先生の自宅前で待機。お迎えの車が来たら一緒に乗って、事務所に着くまでの間、その日の仕事のレクチャーを受ける。で、僕は事務所でずっと山のような〝宿題〞をして、夜はまた、先生を自宅に送り届ける。僕が家に帰るのは、毎日夜12時を回るという生活で、途中からは、清水先生の自宅から1㎞も離れていない所に引っ越しました。書生のようなものです。

厳しさは半端ではなく、最初の頃は、起案なんか書いても書いてもボツ。主語と述語のつながりからテニヲハに至るまで、容赦なし。こと文章や時間については厳しくて、どれだけ怒鳴られたか……もう、ボロクソ(笑)。叱り方には心がこもっていたのですが、その時はわからないでしょ。ある時、さすがに耐えかねて辞表を懐にしのばせていたら、「小さい子供がいるんだから、こらえてください」と、カミさんに止められたこともありました。

でも、本当に鍛えられました。清水流の極意を必死で吸収しようとする僕に、先生も「俺のものは全部盗め」という感じで、銀行の交渉や債権者集会にもどんどん連れていってくれた。大きな事件も経験させてもらいましたし。銀行との話の進め方、債権者に対する説得の仕方、そして何より、助けを求めて飛び込んでくる中小企業の社長、つまり依頼者の〝目線に立つ〞ことの大切さをたたき込まれました。僕は清水先生の10人目の弟子。カバン持ちとしては、一番くっついて回ったんじゃないでしょうか。この厳しい修業時代がなければ、今の僕はありません。

精力的に仕事をするさなか、ふたつの死によって絶望の淵へ

会社の救済は人間の救済。そして、心の救済。僕は、そう信じて日々闘っている

35歳の時、〝親離れ〞をした村松は、八丁堀駅近くに事務所を開設。一人、顧問先ゼロからのスタートだったが、磨いてきた知識と技があったから、不安はなかった。事実、「若くてイキのいいのがいる」という評判のもと、村松は大小様々な再建事件を手がけ、この領域における若手弁護士の筆頭として活躍するようになる。

変わらず仕事漬けの日々でしたが、そんななか、どうしても書きたかったのが自分の本。清水先生のところにいた頃、僕は学んだ技術をノート20冊に書きためていたので、それらを公にし、いろんな人に役立ててもらいたかったのです。それが、94年に出した『複合的和議』。経営に行き詰まったメーカーが和議による会社再建の道を選択し、最終的に和議認可決定に至るまでの再建ドラマを小説風に仕立てたものです。和議法はすでに廃止されているから、今となっては古い話ですが、僕は和議事件も多く扱っていました。当時「和議は詐欺だ」なんて言われたくらいで、誰にも信用されず、法律にも不備があった。でも僕は、やりようによっては「使い勝手がある」と考え、ものすごく勉強したんです。それで、会社更生と和議を足して2で割ったような手法を〝複合的和議〞とネーミングし、実際に十数件やったでしょうか。

会社更生や民事再生も学んできましたが、これらは多くの商取引先を巻き込む事態となる。例えれば、傾いた船の縁に手をかけて「助けてくれ」と泣いている人たちを、全員海に突き落とす感じというか……。体力があるところはいいけれど、力のない零細な取引先などは潰れてしまう。ただ、それは和議も同じで、数々の案件に携わるうち、裁判所の力に頼って会社を再建できたとしても、「果たしてこれでいいのか」というジレンマに陥るようになりました。「おかげで連鎖倒産した」と恨まれたこともある。僕らが手助けした会社は残るけど、それが本当に再建といえるのだろうかと。

それで到達したのが〝私的再建〞です。私的再建は、独自に練り上げた再建プランを金融機関にだけ持ち込み、借入金の返済猶予、債権カットなどを了解してもらう手法。体力のある金融機関に、無理を聞いてもらうわけです。この方法ならば、商取引先などに迷惑をかけることはないし、表に出ないので、再建にとって最大の障害である信用不安も回避できます。しかしながら、金融機関を説得するのは容易じゃない。年単位の時間を要し、ひどく労力もかかるので、これを多用する弁護士は僕ぐらいでしょう。もちろん、会社更生や民事再生がいけないという話ではなく、まずは私的再建の可能性を探る。それは、今も変わらぬ僕の流儀です。

独立して7年経った97年のこと。「弁護士としてどんな会社でも救うことができる」と自信にあふれていた頃、村松に試練が訪れる。私的再建を進めていた会社の社長が自殺、「依頼者が死ぬ」という弁護士として最大の苦渋を味わうことになった。さらに翌年、今度は村松の家族が不幸に見舞われる。摂食障害で入院していた長女が、夭逝したのである。村松は文字どおり、絶望の淵をさまよった。

関西地方で、子供服販売店を経営していた社長です。ある月曜日の明け方、僕の事務所に大量のファクスが届いていて、そこに書かれていたのは詳しい営業報告と、そして「ぎりぎりまで悩みましたが、私は首を吊り、自殺を致します」という遺書。

時、すでに遅しでした。茫然としながらも、僕は、自分に託された会社の整理をするため、新幹線に飛び乗った。車中で、破産申立書や商品を守るために保全処分の申立書を書き……そして最大の仕事は、債権者の方々への対応です。ホテルに集まってもらって事情説明したのですが、この時ばかりは身の危険も覚悟していました。しかし予想に反して、債権者は皆同情的で、「大変でしょう」と慰めてくれる方もいた。老齢の経営者の死は、人ごとではなかったのでしょう。一連の対応で事なきは得たものの、でも、社長は世の中から消えてしまった。「僕なら人を助けられる」、そんな過信は打ち砕かれ、このまま弁護士を続けていていいのだろうか――精神的な重圧から、仕事が手につかない状態に陥りました。

さらに大きな打撃を受けたのが、翌年。高校生だった長女が、15歳9カ月で命を落とした。友人たちと軽い気持ちで始めたダイエットから抜け出せなくなり、食事を受け付けなくなったのです。あちこちの病院を巡り、都内の総合病院に入院させたものの、わずか2日後に、あまりに突然、娘は逝ってしまった。完全に光を失った僕は、それから3年間、絶望の淵をさまよい続けたのです。「生きていることが、こんなにつらいのか。もういつ死んでもかまわない」と、毎日思いながら。

志を思い起こし、「人間の救済」のため、ひたすら走り続ける

「先生は仕事しなくていい。ゆっくり休んでください」。顧問先の社長たちは、そう言葉をかけてくれた。師匠である清水弁護士や先輩たちからも多くの手紙が寄せられ、村松は「温かい言葉が僕をかろうじてこの世にとどまらせてくれた」と振り返る。そして2001年暮れ、思いがけず参議院財政金融委員会から参考人として呼ばれたことが、〝村松再起〞のきっかけとなった。

当時、社会問題になっていた不良債権処理や、RCC(整理回収機構)の機能拡充について意見を聞きたいというものでした。RCCは回収のプロでしょ。僕もずいぶん痛い目に遭ってきましたが、倒産の現場からいえば、回収と再生は矛盾するものなんですよ。行き過ぎた早期処理は、生き残る可能性がある会社まで破綻に追い込んでしまうケースがある、ということを訴えたのです。そして、「倒産で死ぬ人がいるんだぞ」とも。僕は意見を述べながら、長らく眠っていた心、正義感が目を覚ますのを感じていました。

もう一つ、意欲を取り戻すきっかけとなったのは、伊豆の老舗旅館「落合楼」の再建事件を手がけたことです。事態としては、約10億円の負債を抱えて沈没寸前。借入金の返済は1年以上滞っている状態でしたが、異例なことに、そのメインバンクであるスルガ銀行が再建をしたいという。「建造物が文化財の指定を受けているので、できるだけ残したい」と。意義ある話だと思いながらも、難問であることはわかっていたので、最初は腰が引けていたのですが、その文化財に指定された日付を知って驚いた。11月18日。娘の命日だったのです。これは単なる偶然じゃない。僕がやるべき仕事だと、娘がここに案内してきたように思えました。

このケースは、銀行と協議して民事再生法を申請し、重荷となっていた新館ホテルは売却、旧館のほうはスポンサー企業に営業譲渡して残しました。原則、僕はスポンサーを付けない主義なのですが、落合楼の社長が高齢で「引き受けてくれる人がいれば」という話だったので。その後、スルガ銀行や日本政策投資銀行などによる旅館再生ファンドが成立し、現在は「落合楼村上」として立派に再生しています。この案件は新しい再建スキームとして注目され、これを機に、僕は再び仕事に立ち向かえるようになったのです。

企業再建専門弁護士は、日本国内に数十人しかいないとされる。そして、昨今の主流である「迅速な処理」をよしとせず、5年、10年と時間をかける村松のようなスタイルを取る弁護士は、さらに希少だ。しかし、様々な会社再建の現場で「生と死」に向き合ってきた村松は、行き過ぎた経済合理性に異を唱え、今日も奮闘している。

僕はね、アメリカのように一発勝負ではなく、失敗した経営者に、もう一度やり直す機会を与えてあげたいのです。危機を招いた経営者が再び立ち上がり、自らが返済を完了させた時こそ、本当の会社再建が達成される。債権者にとっては、本当の回収ということになる。僕は、真摯な努力によって崖っぷちからはい上がり、そのぶん強くなった会社をたくさん見てきました。敗者復活を認めない歪んだ競争社会では、人は希望など持てないんですよ。年間3万人近い自殺者のうち、約8000人が倒産やリストラを原因としている事実を看過してはならないと思う。

今、経営危機に陥った地方のスーパーを担当していますが、最初、銀行から寄せられたのは「スーパーを売ってほしい」という話でした。でも「僕は経営者を残し、従業員を守る主義。あなた、相手を間違えましたね」と(笑)。実際に店舗に行くと、もはや仕入れができない状態で、品がなくガラガラ。聞けば、仕入れ業者さんは250社ほどだというので、全社に集まってもらい、再建プランをもとに「与信をください」と徹底交渉し、協力を仰ぐ。そういうことから始めるわけです。数年をかけての交渉でしたが、10社、20社と徐々に応じてくれるようになり、今、地域皆で手を握り合っていますよ。

まさに「FOR OTHERS」。僕は若い頃、自分の理念としてこの言葉を掲げたのですが、今こそ、「すべては他者のために」という精神が求められていると思います。少なくとも、それが弁護士のあるべき姿です。「勝てばいい」ではなく、他者を思いやり、それが原告であっても被告であっても、相手の心に寄り添いながら解決策を導き出すような力量をつけてほしい。そして、なぜ弁護士になったのか。その初心が薄れるような問題はたくさんあるけれど、事あるごとに立ち返ってほしい。どんな領域であれ、弁護士は人間の尊厳を守る、あるいは世の中をリードする素晴らしい職業だということを誇りにしながら……。

※本文中敬称略