弁護士の肖像:2015年3月号 Vol.44

弁護士の肖像

アトーニーズマガジン 弁護士の肖像

日本のリーガルサービスを牽引する、著名な弁護士の素顔や仕事観・人生観をご紹介。

Human History

弁護士の肖像

奧野総合法律事務所・外国法共同事業
 所長
 弁護士
 奧野善彦

豊かな自然を好み、読書に耽った少年時代。心おおらかに育つ

事業再生のエキスパートとして名を馳せる奧野善彦は、教育活動や地方公共団体での無料法律相談など、社会貢献にも意欲的なことで知られる。弁護士人生約50年。「弱きを助け、在野に生きる」を金科玉条に、愚直なまでにその姿勢を貫いてきた。バックボーンを形成したのは、日本法制史の大家であり、東京弁護士会会長などを歴任した父・奧野彦六氏の存在が大きい。「親父を超えられたかどうか」と奧野は控えめな言葉を口にするが、父親が創設した事務所を育て、社会に貢献し、弁護士としてあるべき姿を紡いできたのは、ほかならぬ奧野自身である。 生まれは東京ですが、すぐに湘南地方の平塚に移り住みまして。長兄が小児結核で夭逝したため、親父が空気のいい所で子供たちを育てたいと考えたようです。歩けばすぐに海岸があり、燦々と輝く陽のもとで海水浴や釣りに夢中になったものです。 終戦までの平塚には軍需工場があったから、予想される爆撃を避けるため、福島県の棚倉町(たなぐらまち)に疎開したのが小学校2年の時。平塚のマンモス校に比べて、棚倉の学校があまりに小さいことには驚いたけれど、より豊かな自然は私の性に合った。初秋ともなると、たくさんの赤トンボが澄み切った空を自由に飛び交い、それは美しい。忘れられない私の原風景です。 終戦の翌年、仕事の都合で上京することになった親父に伴って、私も東京で暮らすことになったのですが……学校での煩わしい人間関係や、都会特有のギスギスした生活がどうにもイヤでした。棚倉には母親ときょうだいが残っていたので、夏休みとかに遊びに行くと、伸び伸びと自然のなかで暮らした日々が蘇ってくるわけですよ。「やっぱりここがいい」。この時、私は中学1年で、成績がよかったこともあって「わざわざ田舎に戻らなくても」と両親や先生は反対したのですが、それを押し切って棚倉の中学に転校したんです。戻ってからは、遊びに勉強に、そりゃもう水を得た魚(笑)。だから、私の〝ふるさと〞は棚倉町なんですよ。弁護士になった翌年から今日にいたるまで、この地で無料法律相談を続けているのは、お世話になった地域と人々への恩返しでもあるのです。 解けない問題を解いた時の達成感、未知のことを知る高揚感、奧野にとって勉強は「楽しいもの」だった。加えて、学校図書館の蔵書をほとんど読んでしまうほどの本好き。変わらず学業に長けていた奧野は、在野を旨とする学校法人石川高等学校に入学する。勉強だけでなく、テニスや登山も楽しむなど、奧野は高校生活を謳歌した。 高校生になるとますます読書が面白くなって、ロマン・ロラン、ヴィクル・ユーゴー、シェークスピア、トルストイなどの文豪の作品を耽読していました。親父を見ていて、私も法曹界に進むだろうと予感していましたが、正直、小説家を目指そうかと心が大揺れした時期もあったんですよ。 大学受験は重くのしかかってきました。東大を出た親父が「法曹界に進むのなら東大以外ない」の一点張りで、担任の先生も「奧野は東大に進むもの」と考えていたから。期待を受け、覚悟を決めて臨んだものの、いかんせん私は数学が苦手。懸命に勉強したけれど、やはり数学の壁は超えられず、結局、東大には合格できませんでした。 浪人の身となり、予備校に通いながらのストイックな生活……つらかったですねぇ。翌年はさすがに親父も、東大以外に滑り止めとして、司法試験の合格者を多く輩出していた中央大学への受験を認めてくれて。2度目も東大合格がかなわなかった私は、中大の法学部に入学したのです。精一杯やったから私に悔いはなかったけれど、親父からは「東大でなければ人間じゃない」という無茶苦茶を言われたものです。 著名弁護士としての親父の存在が重く、反発する気持ちもあったのですが、親父の事務所は本当に小さくて、事務員を雇える状態じゃなかったから、大学生時代はずっと私が手伝っていました。電話番やら書面の清書やら、書生みたいなものです。親父は学者肌で、しかも「武士は食わねど高楊枝」だから営業努力とは無縁。よく友達から「お前は弁護士の息子だから、裕福な暮らしをしているんだろう」などと言われましたが、とんでもない。事務所も家も見すぼらしかった。でも、そうは言えないから聞き流してね(笑)。お袋は生活のやりくりに窮していたし、私は「弁護士って親父のような在り方だけではないはずだ」と思ったものです。「衣食足りて礼節を知る」で、きちんと生業を立てなければいけないと。

企業に勤めながら司法試験に合格。父親の事務所を継ぐ

司法試験に合格したのは5度目に挑戦した時。26歳だった。それまでの過程には、父親の東弁会長選出馬の手伝いがあったり、奧野自身の体調不良があったりとハンデを負った時期もあり、すんなりとはいかなかった。途中で奧野は、自立するためにシェル石油(当時)に入社し、受験勉強を続けている。 択一試験は合格するものの、論文がダメでね。4回目の時は口述試験までいったのですが、結局不合格で、すでに東弁の会長職に就いていた親父は、きっと大恥をかいたのでしょう。「もう面倒は見れん」と。半ば勘当され、家を出ることになったんです。 その時たまたま、シェル石油の法務室が中途採用していることを知り、すぐさま応募しました。口述試験までいったことを評価されたのか、26人の応募者のなかから、運よく私一人が選ばれたんですよ。実は、わずか1年半ほどの在籍だったんですけど、付き合いはずっと続いており、現在の昭和シェル石油の法律顧問も務めているので、なんともありがたいご縁です。 勤務時代に面白い経験をしました。三重県四日市にシェル石油傘下の工場があって、私は根抵当権を設定するために現地の法務局に出向いたのです。これには親会社であるロイヤル・ダッチ・シェルが絡んでいて、委任状が複数あるちょっとややこしい手続きでね。加えて法務局長が面倒な人で、「委任状に不備があるから、登記は受け付けられない」と言う。ついては……と要求してきたのが〝袖の下〞。怒り心頭に発した私は、「疑問に思うなら法務省の民事局に問い合わせてください」と。民事局とは親しい関係にあるとハッタリをかましたわけです。すると何のことはない、登記は受理された。この局長、過去にも同様のことがあったらしく、苦肉の策ながら切り抜けた私は、シェル石油社内ですっかり株を上げたというわけです(笑)。 シェル石油で働く傍ら、奧野は中央大学の受験団体・正法会に通いながら司法試験に向けて準備を整えていた。十分な余裕で突破したのが1963年。前年に論文試験に合格しているから、それは免除される特例があったが、奧野は一からすべて〝受け直した〞。奧野らしい実直ぶりだ。本人としては、覚えめでたく、待遇もよかったシェル石油に残りたいと考えていたが、父親の事務所承継は両親の期待でもあった。 親父は「私も年を取った」と言うし、何よりお袋が「手伝ってあげて」と。大学時代に書生をやっていた小さな事務所に戻ってどうするんだ、という気持ちはあったけれど、無下にもできず、後ろ髪引かれる思いでシェル石油を退職し、司法修習に入ることにしました。 修習は大阪で、初めての地でしょう。街はとても刺激的で面白かった。酒も食事も美味しく、わずかな給料ながら自由奔放にやっていたんですよ。お袋からは毎月1万円の仕送りもあったし。ところがある日、お袋が倒れたという知らせを受け、東京に戻ってみると、なんと栄養失調だという。食べるものを節約してお金を貯め、私に送金していたのです。それまで私は、裁判官への道を勧められていたし、弁護士になるとは決めていなかったのですが、この一件で、お袋のために弁護士になろう、親父の事務所を継続・発展させようと決心したのです。 親父は一貫して清貧にこだわってきたから、当時の事務所には顧問会社が一社もなかったんですよ。まずは私の名を知ってもらうこと、それがスタートでした。福島県にいる小中高の同級生に自分が弁護士になったことを知らせ、同窓会の世話役を買って出たりね。何かトラブルに巻き込まれた時に、私の名前を思い出してもらえればいい。 田舎から出てきた多くの人には、東京で頼れる先がないもので、例えば不遇な労働条件にあってつらい状態にあるならば、私が相談に乗って助けることもできる。意義ある仕事だし、そうやって人間関係を深め、自分で依頼者開拓していくことは大切です。そして、東京商工会議所で法律相談も担うようになり、丁寧にアドバイスや講演を重ねていくなか、「うちの顧問になってほしい」と頼まれることが多くなった。 仕事が増え、所員を雇えるようになるまでに時間はかかりませんでしたね。 (以下略) 続きをご覧になりたい方は、バックナンバーをお取り寄せ下さい。すでに在庫がない号もありますので、予めご了承下さい。

■プロフィール

  • 奧野総合法律事務所・外国法共同事業
  • 所長 弁護士
  • 奧野善彦
  • 1936年4月20日 東京都千代田区生まれ
  • 1960年3月 中央大学法学部法律学科卒業
  • 1962年12月 シェル石油株式会社(現昭和シェル石油)入社
  • 1963年10月 司法試験合格
  • 1966年10月 司法修習修了
  • 弁護士登録(東京弁護士会・18期)
  • 奧野彦六法律事務所入所
  • 1979年年4月 北里大学教授に就任(現名誉教授)
  • 奧野法律事務所に改称
  • 1996年10月 奧野総合法律事務所に改称
  • 2004年4月 株式会社整理回収機構
  • 代表取締役社長(~2009年)
  • 2012年1月 福島県県外在住
  • 功労者知事表彰を受ける
  • 2014年1月 奧野総合法律事務所・
  • 外国法共同事業に改称