Vol.25
HOME弁護士の肖像弁護士 村尾 龍雄
  • ▼弁護士のブランディング支援サービス

    Business Lawyer's Marketing Service
  • ▼弁護士向け求人検索サービス

    想いを仕事にかえていく 弁護士転職.JP
  • ▼弁護士のキャリア形成支援サービス

    弁護士キャリアコンシェルジュ
  • 当社サービス・ビジネス全般に関するお問い合わせ
村尾 龍雄

HUMAN HISTORY

「ほかの人と差別化できる何か」を有していなければ、生き残れない時代。もっと、ハングリーになるべき

弁護士法人キャスト
代表弁護士 マネージングパートナー

村尾 龍雄

スポーツに明け暮れ、趣味にもとことん熱中。雄健な少年時代

法曹界において、常に“異端”と表される村尾龍雄は、事実、際立った事業展開をしている。90年代半ば、まだ誰も中国のここまでの台頭を予想していなかった時期に、いち早く上海に乗り込み、弁護士業を起点にビジネス領域を拡大してきた。法律・会計・税務に関するワンストップサービスを提供し、現在、村尾率いるキャストグループは、中国ビジネスに従事する日本企業を複合的にサポートする専門家集団として、その名を馳せている。相対していると、まごうことなき「起業家」という印象。リスクに怯えず、大勢にも流されない。転換期にあるこの時代、村尾のタフネスな生き方は、ひとつ大きな指針となる。

代々、医者の家系でして、両祖父、父を始め叔父、叔母など親戚もみな医者ばかり。だからといって、医者になれとか、勉強しろとか言われたことがないんです。父は、もともとジャーナリスト志望だったのですが、親から泣いて頼まれて医者になったという経緯があるので、僕にはむしろ「医者にならなくていい。お前の自由にしろ」と。

だから本当に自由満喫で、高校2年になるまで学校の勉強をまともにしたことがないんです。それよりも、周囲を笑わせるランキングみたいなものに、命かけていました(笑)。関西ですからね。いつもネタを考えているわけです。例えば、ジャンケンで負けたら床に落としたパイナップルを食わなきゃいけないとか、自分で自分を落として周りを笑わせる。授業中もそんなモード。腕白というのとは違うんですけど、笑いを取る点においては上位でしたね。

あとはスポーツです。中学がテニスで、高校に入ってからはテニスと陸上を掛け持ち。僕が通っていた西宮市立の学文中学は、当時スポーツが強くて、僕らの年は地方大会止まりでしたけど、1つ上の先輩はテニスで全国優勝しましたから。高校で、1500mを走ってみると、陸上部員よりも速いっていうんで、3年の11月まで駅伝大会などに駆り出されていました。去年からトライアスロンに挑戦していますが、僕にとってスポーツは、いい仕事や勉強を続けるための気力づくりに欠かせないものなんです。

もうひとつ、夢中になったものがある。それは、ペルーやボリビアといった南米の短波放送の聴取。「普通には理解できないでしょうけど」と本人が言うとおり、かなりマニアックな世界だ。雑音を極力カットできる性能のいいラジオを使い、アンテナを工夫し、自分で放送をキャッチしてひたすら聴く。これも欠かせない毎日の楽しみだった。

フォルクローレの音楽にはまったのと、南米・スペイン語のべらんめぇ調にも聞こえる、あの発音が耳に心地良かったんですよ。短波が電離層で反発する絶妙な時間帯があって、それが始まるのが夕方5時くらい。南米の東側からブラジル、ペルー、ボリビアの放送局と時間を追って順に聴ける。放課後は部活やってるでしょ。時間が近づいてくるとソワソワしちゃって、着替えもせず家にダッシュで帰る。内容を理解するために、参考書でスペイン語とポルトガル語を一生懸命勉強しました。で、各放送局に投書する中、エルサルバドルで活動していた反政府ゲリラの放送局にも手紙を送りまして。「あなたたちの放送に感動した。勝利を祈っています」。別に感動していないのに(笑)。そうしたら、つたないスペイン語で書いたその手紙が彼らの機関紙に紹介されて、送られてきた。こんな経験、きっと日本人で唯一ですよ。

そんなことばかりやっているから、成績が悪くなっちゃって。語学は得意でしたけど、数学なんて450人中430番。中学生の頃は地頭で勝負できますが、高校はそうもいかない。2年生の夏休み前、進学を考え始めた時期に、先生から「どこの大学も無理だ」と言われて、突如奮起して勉強するようになったのです。その時、夜に時間を取るラジオ聴取はすっぱりやめて。そこから半年で、学年1番になりました。1日10時間、体力に任せて死ぬほど勉強しましたから。先生方もびっくりで、「こいつ、勉強できたのか!」。3年生からは“できる人”に昇格し、周囲に教えるようになっていました。

充足の大学生活を経て働きながら猛勉強。司法試験合格を目指す

村尾 龍雄

現役で有名私立大学に受かったものの、関西で一番の学校に行きたかった村尾は1年浪人し、京都大学経済学部に進学。結果、6年間在籍するのだが、1年の時には南米へ放浪の旅に出かけ、その後は、学生プロレスや陸上に全力投球⋯⋯実に雄健で、エピソードにも事欠かない。村尾には、1日の時間が人の何倍もあるかのように思える。

南米へは一人旅です。僕がずっと聴いていた放送局を3カ月かけて巡る旅。ペルーのリマから入り、チチカカ湖に行くと「Ondas del Titicaca」、クスコの遺跡を見ながら「Radio Cusco」にも行く⋯⋯という具合で、謎のスペイン語を駆使しながら50局ほど回りました。ボリビアでは、チャランゴ奏者として有名なエルネスト・カブールの演奏を聴いたり。どこでも親切にされて、本当に楽しかった。「俺はペルー人の生まれ変わりだ」くらいの勢いでしたが(笑)、やっぱり、僕は第三世界志向なんだと。長時間移動するバスは、途中でゲリラにつかまる可能性があると聞いても怖くなかったし、汚いところでも平気で眠れる。そこにストレスを感じない自分がよくわかりました。でも、この旅行で南米熱はおしまい。これでもう思い残すことはない。気が済んだのです。

プロレスはね、これも高校の時からかなり真剣にやってたんですよ。アントニオ猪木に熱中した世代ですから。高校の文化祭の時はタイガーマスクに扮するため、にわか体操部員として1週間必死にバク転を練習。大学生になってからは「ストロング・マシン1号2号」と名乗って、僕は2号。当時は体重が軽かったので、技をかけられるほう。この時は、柔道三段のヤツに受け身を教わったり。いつでも、やるとなると本気でやる。当時は、死ぬ危険もありましたからね(笑)。

陸上部に入ったのは2年生の4月になってからで、800mの選手として走っていました。本当は入部する気がなかったのですが、他校の陸上部のマネジャーの女の子にアタックしたら、ものの見事にフラれまして。それで見返してやろうという、めちゃくちゃ不純な動機(笑)。でも、それで強くなった。関西の大会なら常に上位と、けっこういいセンまでいったんですよ。

  • 村尾 龍雄
  • 弁護士 村尾 龍雄

何か資格を取ろう――父親を見ていて、村尾はやはり専門職に就きたいと考えるようになっていた。経済学部という環境から、周囲には公認会計士を目指す人も多く、村尾の入り口もそこだった。しかし、司法試験に向けて方向転換したのは「弁護士のほうが待遇が良かったから」ときっぱり口にする。

もともと、大学には6年まで在籍してもいいという感覚だったのです。医者の家系でしょ、みんな6年間費やしているのだから既得権益だと。だから放浪の旅に出たり、5年生の7月まで陸上を続けていた。確信犯ですね。弁護士を目指して勉強に専心するようになったのは5年生の8月。でも、勉強ばかりの生活は苦痛以外の何ものでもなく、「これは無理だ」と悟った。それで、働きながら勉強を続けようと思って神戸市役所に入ったのです。

市役所には感謝しています。面接の際、司法試験を目指していること、受かったら辞めること、さらに法律にかかわる仕事がしたいことを率直に伝えたら、「そこまで正直に言うのは面白い」と受け入れてもらったのですから。都市計画局の法律担当に就き、行政法を勉強しながら実務に携わったことで、確かなバックグラウンドができました。

勉強時間は物理的に減るけれど、毎日のリズムができるでしょ。朝6時に起きて、出勤までの時間と電車の中で勉強、昼休みは先輩たちと5km走って、帰ってからまた勉強。このリズムを徹底的に守った。これ、言うのは簡単ですが、いわば修行僧のような生活で大変なんですよ。勤めている間も、僕は野球やテニスの大会、駅伝大会にも出ていたから、周りからすればお気楽に見えていたでしょうが、人生振り返れば、この頃が一番きつかった。

仕事も全力でしたよ。だって、手を抜いたら「勉強ばかりしやがって」って嫌われますから。局長に報告書を上げる時は誰よりも準備したし、後進のために業務マニュアルや係長昇進試験対策マニュアルをつくったりね。これは恩返し。今でも神戸市には可愛がってもらっていますが、その時代、その時代に縁のあった人を大切にするのは、とても有意なことだと思っています。

惹かれた中国に照準を定めて邁進。先鞭をつける

村尾 龍雄

理屈ではなく結果を出すことが第一。そのドライな上海の空気が心地良かった

92年、27歳の時に司法試験に合格。先輩の紹介を受け、長崎で修習生時代を過ごしたのち、村尾は大阪の大江橋法律事務所に入所する。神戸市での仕事経験を生かして国内弁護士になろうと考えていた村尾が、それまで興味などなかった中国に強く関心を寄せるようになったのは⋯⋯広大な大地を自転車旅行したのがきっかけ。初めて中国に触れて、その「逞しさ」と「良さ」に惹かれた。この国は絶対に伸びる。村尾は自分の直感を信じ、以降のフィールドとして中国を選んだのである。

修習生の時に、内蒙古のフフホトから天津まで、4日間で1100kmの距離を自転車で走るイベントに参加したんです。1日ざっと270km、大変ですよ。僕は完走しましたが、参加者60人のうち、最後までバスを使わず完走したのは12人でしたから。ここでも道中、たくさんの人に親切にしてもらって、いっぺんに中国が好きになった。そして逞しく、僕には好印象でした。

帰ってきて大江橋法律事務所に入ったら、巡り合わせのごとく、それがちょうど上海に事務所を設立したタイミング。「中国に興味はないか」。もちろん「ある!ある!ある!」(笑)。95年当時の話ですから、誰も中国なんて行きたがらないんですよ。中国法を“中国地方”にかけて「岡山県条例の研究ですか?」なんてイヤミを言われる雰囲気で。中国には法律などないという意味です。確かに、今と比べれば不整備でしたが、僕には伸びるという確信があった。むしろ、欧米に行けと言われていたらイヤでしたね。英語圏では、すでに優秀な先達が多く活躍しているわけでしょ。過酷な競争があるところでは、勝てるとしてもパフォーマンスが悪いと思っていました。でも、自分は第三世界志向ですし、誰も見向きもしない中国ならイケるかもしれないと。

96年に上海事務所に赴任しました。陣容は創業者である塚本宏明先生と僕、あとは秘書だけという小さな所帯でしたが、ニーズはものすごくあった。翌年、タイのバーツ暴落から始まったアジア通貨危機で、企業の撤退が多かった時期です。会社の解散や清算業務ばかりやっていました。いずれにしても、「理屈ではなく結果を出すことが第一」というドライな上海の空気は、思っていたとおり心地良いものでした。

大江橋法律事務所での在籍は4年半。99年8月、村尾は独立を果たす。渉外弁護士の足場は、どうしても欧米中心になる。中国法務という特殊な分野で、より自由に、より早く業務を拡大するには、リスクを取ってでも自分の事務所を構えることが必要だと判断したからだ。2人の秘書と共に不安だらけのスタート。だが、この99年は、中国がアジア通貨危機から立ち直るべく、外資に対する規制緩和を打ち出した年で、まさに時節到来。00年には上海にキャストコンサルティングを設立するなど、早々に躍進する。

顧客を獲得できるだろうか⋯⋯最初は不安で心配で。承諾なしに大江橋時代のクライアントとお付き合いすることは許されません。でも、これも塚本先生に心から感謝していますが、「クライアントが村尾を望むならいいよ」と応援してくれたのです。とにかく来るもの拒まずで必死に臨んだら、独立した初月から予想をはるかに上回る売り上げを計上することができました。“お祝い”仕事なども含めてですけどね。

それで勢いをつけて、公認会計士の三戸俊英先生たちとタッグを組んで、上海にコンサルティング会社を設立したのです。標榜したのは、会計士や税理士などの専門家が融合することで提供できるワンストップサービス。ここでは現地採用をし、最初から15人ほどの所帯でした。別段、苦労があったという記憶はないんですよ。すぐに、大手電気メーカーから受けた債権回収案件で9億円ほどを回収し、その成功報酬で初年度のキャッシュフローを回せましたから。独立した99年は、日本企業が力強く中国に進出し始めた時期で、大手メーカーを中心に名だたる企業から大きな仕事も受任。そして、ここを境に中国は豊かになっていく。中国が伸びる時期にぴったり符合していたのです。今思えばラッキーでしたね。

父方の祖父は、大日本帝国陸軍の軍医(内科)で、終戦を迎える桂林への行軍の前に、1年半ほど上海に駐留していたそうです。優しい人でしたから、きっと地元の人々のことも懇切に診ていたのではないでしょうか。その徳が、孫である僕に巡ってきたのではないかと思っているんです。

より深く、より広く。「ブリッジパーソン」として進化を続ける

  • 村尾 龍雄
    東京事務所
  • 村尾 龍雄
    大阪事務所

確信どおり、上昇気流に乗った村尾たちのビジネスは確実に成長してきた。05年、合併によって設立された「弁護士法人キャスト糸賀(現曾我・瓜生・糸賀法律事務所)」では、グループ総勢約280名の規模となり、この頃、村尾はグループの財務体質を強化するべく株式上場という夢を描く。結果、時代の潮目が変わって、上場への挑戦はブレーキをかけられることになったが、これが、現在の少数精鋭体制へと転換するひとつのきっかけとなった。

初めてのことに挑戦したいという思いはいつも強いですから、上場にもトライしたかった。でもコンサルティング業って、入り口の要件を満たすことはできても、その後も成長し続けることを説明するのが難しいでしょ。無秩序に人を増やしても、そのコストが顧客の負担となり、さらにサービスの質が低下しては本末転倒です。

だから別途、人材ビジネスを柱に立てようと考えたのです。現地の工場で働く人員を手配して、日本的な教育にも注力する。ものすごいボリュームですから、これはいいと思ったのですが、07年に労働契約法が施行されて、流れが完全に変わってしまった。結果としては、やめて良かったと思っています。人材ビジネスの企業は、大手も含めて今、強い規制と激しい競争に苦しんでいますから。

そして、この頃に再認識したのは、組織が肥大化すると、同じ志や価値観のもとですべてのスタッフと共闘関係を築くのが難しいということ。組織の中で派閥があったりすると、一枚岩になれません。ビッグ4のように、伝統も仕組みも確立されていれば話は違いますが、我々は中小企業ですから。それで08年に分離し、新体制として「弁護士法人キャスト」を設立。身の丈に合った経営を常に意識し、業務量がオーバーフローしたり、我々の専門性だけではディールへの対応能力が不足する場合には、国内外問わず外部の専門家の助力を得て、最善と思われるチームを組織する。文字どおり、少数精鋭体制として再出発を図ったわけです。

村尾 龍雄
上海事務所

現在、キャストグループは5つの法人で形成され、日本2拠点、中国7拠点(香港含む)をネットワークする。従前の業務だけでなく、中国企業の日本進出サポートや日中両国間でのM&A案件、さらに日本企業が必要とする投資家をアジア各国で発掘するファインディング業務など、その業容は広がりを見せている。中国法務の領域でトップランナーとして走る村尾が次に狙うのは、コモン・ロー圏だ。

昨年11月、香港の司法試験を受けたんです。1科目3・5時間で4科目の事例に対して英語で論文を書く。数カ月かけて勉強できた会社法には合格したものの、2カ月で追い込んだあとの3科目はダメ。でも、今年も楽しみながら勉強して再度トライするつもりです。なぜ挑戦するのかというと、ひとつには、実務家として法廷弁護士と組んで英語で法廷に立ちたいと思ったから。中国語ばかりで話をするのにそろそろ飽きてきましたからね(笑)。もうひとつの理由は、コモン・ローの国で自らの知見を広げたいからです。

さらに、香港法と同時並行で勉強するつもりなのがインド法。香港法から出発すると、同じコモン・ローに属するインド法もわかるようになるのではないかと。日本法と中国法の比較法を16年間やってきましたが、今後は香港法やインド法との比較法を数年間一生懸命勉強して、最終的にエネルギーが残っていればイスラム法をやりたい。そこからインドネシア法やトルコ法との比較法に入る。需要がありそうでしょ。

周知のとおり、日本の弁護士人口は急増しています。95年、僕が弁護士になった時は全国で1万5000人弱だったのが、今や3万人超。簡単には食っていけませんよ。仕事はピラミッド型ですから、皆ができる同じことをしていては、それはレッドオーシャンに身を置いているということ。自分の適性を知り、発揮できる個性がなければ生き残れません。若い弁護士は危機感を持っていますが、それをエネルギーに転換して、自分の個性を生かした差別化のために使ってほしいのです。

中国人には日本人と同様、傾向的な長所と欠点がありますが、決定的長所として尊敬するのは大胆にリスクを取るところ。ダメだったら、またゼロから始めればいいという腹の括り方がすごい。だから、勝つ時はドッカンと成功するのです。ビジネスにおいても日本では和の文化が尊重されますが、中国では、すきあらば他者を出し抜く“闘”の文化が当たり前。また、時間を問わず携帯電話にどんどん連絡が来ますから、まさに24時間の臨戦態勢。それが好きか嫌いか、分かれるところではありますが、今、凋落傾向にありながらも、日本に閉じこもろうとする日本の弁護士を見ていて、強い危機感を持っています。というより、持っていなきゃおかしいのに、どこかまだ安穏とした鈍さを感じます。日本の弁護士は世界的に見ても明らかに資質が高いのですから、語学に磨きをかけさえすればもっともっと活躍できるはずです。僕もいまだ修業中の身ですが、「ほかの人と差別化できる何か」を有していなければ生き残れない時代だということを、メッセージとしたいですね。

※本文中敬称略