飯田氏は姫路市の生まれ。実家は、油卸を営む小さな中小企業だった。
「姫路の田舎で、親戚が近隣にいっぱいいたんですよ。その親戚の家を廻って『お祭りをはしごする』子どもでした。お祭り好きは未だに変わっていませんね。お祭り好きな父の血を引いたのでしょう。受験勉強に集中しなくてはいけない高校3年のときですら、太鼓の音が聞こえてくると勉強を放り出してお祭りに行ってしまったことがありましたよ」と飯田氏。それでも現役で東大法学部に入学。高校の頃から始めた柔道を続けたくて、柔道部へ入部した。
「大学の柔道部では、東京オリンピックでヨーロッパの寝技柔道に日本柔道が完敗した直後で、寝技ばかり練習していました。寝技は非常に物理学の原則に適ったもの。立ち技には天性のひらめきが必要ですが、寝技は努力と練習次第で強くなれる。それが私にはぴったり合った。派手さはないが面白かった。私の現役時代のエピソードを一つお話ししましょうか。山下泰裕さんの師範で、当時中量級の世界チャンピオンであり、寝技は世界一と言われた方と練習試合をした際、彼は私を押さえ込めなかった。遂に彼は『立って来い』と大声で叫んだ。その逸話は柔道部で語り継がれていて、私の自慢。立技中心の講道館では二段でしたが、寝技なら自称四段(笑)」
毎日の練習の外に合宿と遠征が年間100日余りはあった。4年の夏に引退し、そろそろ真剣に勉強しようかと思った矢先、東大紛争が始まった。安田講堂事件があった年だ。
「柔道部のOBの院生や助手が大勢立ち上がりました。みな素晴らしい人ばかりで、それは、ものすごく感じるところがあった。先輩たちの姿を見て、弁護士になろうと。弁護士としての出発点は、やはりそこでしょうね」
飯田氏は弁護士を目指したときの思いを、多くは語らない。しかし東大闘争を間近に見た多くの法学部生が職業として弁護士を選択したのと同様、飯田氏にも同じ思いがあったのではなかったろうか。
色々と考えるところがあって、もう1年間柔道をやり、それから、柔道部で鍛えた体力にモノを言わせ、10カ月間猛勉強をした。面倒見てくれる先輩の助けもあって、無事に司法試験に合格。しかし司法研修所に入るまでの間、姫路に帰郷する。
「実は、司法試験の合格発表直後に結核を患っていることが判り、療養所に入っていたんです。今でこそ結核は治せますが、当時はまだ亡くなる方がたくさんいました。生と死を見つめ、それについて考える時間でした。それは私の人生にとって、意義があったように思います。実は長年、この話は秘密にしていた。私は柔道部出身で元気があり、体力勝負の弁護士だって周りから言われているからね(笑)」
飯田氏は1年遅れて「退院見込み」で司法研修所に採用される。その後の実務修習をきっかけに、森綜合の先輩や仲間と協働していくようになる。