そうして、検察官の道へ進んだ矢田氏。1976年、東京地方検察庁検事任官。当初から「特捜検事になりたい」という思いがあった。
「東京から仙台や千葉へ転勤になったときも、いずれ贈収賄などの権力犯罪の捜査に、この経験を役立てようという意識がありました。例えば『一対一の密室犯罪』という意味では同じともいえる覚せい剤譲渡事件の捜査なら、覚せい剤を誰から入手したか、上流(出元)に向かって追いかけていく突き上げ捜査を行う。また、ソープランドの売春防止法違反事件を担当すれば、店と地域担当警察官との癒着はないかと調べる。日々の捜査で“特捜的な網”を張り、私なりに頑張ったつもりでした」
特捜部へ配属となるには、東京地検にいる必要がある。しかし、次に命じられたのは釧路への転勤だった。
「仙台・千葉と、誰よりも活躍してきたつもりでいたのに、なぜ釧路なんだと、正直くさりました。人間、能力評価については、他人には厳しく、自分には甘いものですからね。しかし、そのすぐ2年後には東京地検に配属。組織の人事とは自分の思い通りに運ばない、己のもくろみを超えた論理があるのだなと感じました。組織・企業の人事も学んだ、いい検事時代を過ごしました」
しかし、東京地検に入っても、特捜部に入ることは容易ではない。
「まずは直属の上司に認められるよう日々の行動・捜査で、実力と熱意をアピールするしかない。私が特捜へ行けたのは、たまたま。刑事部にいたとき、元警察官による連続強盗殺人事件があり(※1)、重要被疑者の取り調べに抜てきされました。そのとき特捜からきた応援が、松尾邦弘さん(2004~06年、検事総長)と熊崎勝彦さん(元・地検特捜部長)。この先輩二人に『頑張ってるな』と評価してもらえたのがきっかけだったのかなと思います」
そして1985年に特捜部へ配属。検事になって9年目のことだった。
「東京地検特捜部時代、印象に残った事件は『投資ジャーナル事件(※2)』。それと『リッカー粉飾決算事件』。これは初めて内偵捜査をしました。当時は借方貸方といった簿記会計の知識が不十分で、おまけに会計処理はコンピューター会社が行っていまして。ガサ(捜索)令状を取るためにコンピューター会社の担当者を聴取することになったのですが、この人の話すことが日本語とは思えないほど理解できず、本当に参りました。このままきちんとした調書が取れなければガサが遅れる、私自身も特捜から追い出されるかもしれないと焦りました。しかし、ずるずると時間が経過するうち、追い出されるのも覚悟のうえで、勇気を出して副部長に相談に行ったのです。すると副部長は『簿記会計の知識は不十分、コンピューターもよく分からんお前だからやらせてるんだ。分からないやつが取り調べるから、素人にも理解できる調書ができるんじゃないか。まさかお前、格好つけて取り調べやってんじゃないだろうな』と。知らないことは必死に調べて、相手に聞けと。それでハッと気付きまして。猛勉強し、取り調べのときは、相手に対して『おれはまったく分かってない検事なんだ。おれに分かりやすいよう説明しなかったら、これから毎日、いつまででも取り調べをやるしかない!』と。自ら、何も分からない検事だと“自白”して、やっとなんとかなったという思い出があります」
その後、大阪地検特捜部で「砂利船汚職事件(※3)」「豊田商事事件」などを担当。さらに東京地検に戻り、「リクルート事件」を担当した。
「砂利船のときは主任検事。大阪地検では『タクシー汚職事件(※4)』以来の、国会議員の起訴。豊田商事事件では、永野一男会長の下の社長の取り調べを担当。リクルート事件では江副会長の秘書室長などを取り調べた。振り返ると、いつも大きな事件にかかわっていたと思う」
矢田氏が特捜部で重用されたのは、取り調べがうまかったからというもっぱらの評判だ。では、なぜ取り調べで次々と、成果を挙げられたのか。
「取り調べは相手の心に入り込むことが大切。私自身、ボロボロな人生を歩み、それをもって相手に自分をぶつけていくからよかったんでしょうか。貧乏で心の闇に苦しんでという、底辺から立ち上がってきたことが根底にあるからかもしれませんね。なんだか、かつて同僚だった田中森一さんと似ているな…」