※1/いわゆる中国「残留孤児」について、国による「帰国政策」の遅れと帰国後の自立支援政策が不十分であったことを違法として、国家賠償を求めた訴訟。国の法的責任を明確化し謝罪をさせ、孤児に対する政策転換および老後の生活を保障する新たな支援策を国に策定させることを目的にした。「改正中国在留邦人支援法」成立を受けて、原告が訴訟取り下げという形で終結。
※2/中国「残留孤児」国家賠償訴訟関東弁護団 副団長を2002年6月から現在まで、同訴訟全国弁護団連絡会議 代表幹事を2004年7月から現在まで務める。
※3/2006年12月。
※4/2005年8月に自民党・公明党の議員の賛同を得て与党(当時)PT結成。原告団・弁護団は同PTとの連携を重視し新政策づくりを進めた。
※5/1954年、憲法を擁護し平和と民主主義および基本的人権を守ることを目的に若手の法律研究者や弁護士、裁判官などによって設立された団体。現在、弁護士と研究者によって構成される弁護士学者合同部会と、司法修習生の部会がある。イタイイタイ病や水俣病などの公害裁判、環境問題、医療過誤、消費者問題、報道被害、外国人の人権、じん肺、最近では情報公開や戦後補償問題、薬害エイズ(HIV)訴訟など、多くの人権侵害事件に対し、会員がその中心となって救済活動に取り組んでいる(同会ホームページより)。
※6/ドブ川事件(万田事件)・ドブ川闘争:万田事件は1971年5月28日東京地裁で勝訴。損害賠償の支払いや、犠牲者合同慰霊祭を北区が主催。また、その判決がメディアに大きく報道されたことからドブ川安全対策に関する世論が高まり、江戸川区・葛飾区などを相手としたドブ川闘争へと拡大。これをきっかけに、東京都各区による用水路へのフタ掛けや、ネットフェンスガードの設置が行われた。
※7/1970年5月、鉱山保安法依願で前橋地検に告発した本件は、刑事事件として前橋地裁で起訴、東邦亜鉛および精錬所責任者に有罪判決。安中公害発覚は、富山イタイイタイ病の原因物質がカドミウムであると知られるようになったころ。闘争に発展する過程で、安中でも同様の原因物質が長年にわたり垂れ流されていることが判明した。その後長期に及んだ安中公害裁判は、『安中-大地のいのちをいつくしんできた人々』(安中公害裁判原告団・弁護団発行)に詳しい。
※8/「四大公害訴訟」を契機に1969年から青法協が毎年公害研究集会を8回実施。1978年からは「人権研究交流集会」へと発展した。今日まで14回開催。その人権研究交流集会の第1回目(小野寺氏が事務局長の時代)。
※9/元常磐炭鉱夫のじん肺患者、井田氏は当時、川崎労災病院に入院中。井田氏の遺志を継いだ遺族が「井田じん肺訴訟」を東京地裁で起こし、弁護団はその当日、訴訟提起の記者会見を本拠地いわき市で行い、いわき市民、とりわけ元常磐炭鉱夫たちに支援を呼びかけた。
※10/「じん肺弁護団全国連絡会議」によって、各弁護団が経験交流しながら協同で理論研究・構築し、いずれかの弁護団が勝てばそれを橋頭堡(きょうとうほ)としてさらに判例・解決例を高めていくという闘い方が確立された。中国「残留孤児」国家賠償請求訴訟でも、同様の手法が生かされた。
※11/じん肺は、多量の粉じんを吸収することにより肺機能が破壊される職業病。労働組合(全日本建設交運一般労働組合・建交労)がトンネル建設労働者の労災職業病認定に取り組み始め、四国(徳島・松山・高知)、函館など各地裁にトンネルじん肺訴訟を提訴。1996年10月以降「あやまれ、つぐなえ、なくせじん肺」というスローガンを掲げ、主要元請け企業と国に対して全面解決を求める運動が全国に拡大。2001年2月以降全国23の地裁・支部で順次すべて和解成立。2002年11月東京地裁提訴から全国11地裁で「根絶訴訟」として国の責任追及もなされ、5地裁で国の賠償責任が認められた。2007年6月には原告団と政府がトンネルじん肺根絶のため合意。『いのちの絆』(全国トンネルじん肺闘争本部発行)に詳しい。
※12/1995年8月に「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」創設(当時幹事長小野寺氏、現団長代行)。731・南京虐殺・無差別爆撃事件訴訟、山西省戦時性暴力被害訴訟、海南島戦時性暴力被害訴訟、平頂山事件訴訟、中国人強制連行・強制労働事件における全国10地裁での訴訟、旧日本軍遺棄毒ガス・砲弾被害訴訟、8・4チチハル遺棄毒ガス弾被害訴訟などを指す。