92年、27歳の時に司法試験に合格。先輩の紹介を受け、長崎で修習生時代を過ごしたのち、村尾は大阪の大江橋法律事務所に入所する。神戸市での仕事経験を生かして国内弁護士になろうと考えていた村尾が、それまで興味などなかった中国に強く関心を寄せるようになったのは⋯⋯広大な大地を自転車旅行したのがきっかけ。初めて中国に触れて、その「逞しさ」と「良さ」に惹かれた。この国は絶対に伸びる。村尾は自分の直感を信じ、以降のフィールドとして中国を選んだのである。
修習生の時に、内蒙古のフフホトから天津まで、4日間で1100kmの距離を自転車で走るイベントに参加したんです。1日ざっと270km、大変ですよ。僕は完走しましたが、参加者60人のうち、最後までバスを使わず完走したのは12人でしたから。ここでも道中、たくさんの人に親切にしてもらって、いっぺんに中国が好きになった。そして逞しく、僕には好印象でした。
帰ってきて大江橋法律事務所に入ったら、巡り合わせのごとく、それがちょうど上海に事務所を設立したタイミング。「中国に興味はないか」。もちろん「ある!ある!ある!」(笑)。95年当時の話ですから、誰も中国なんて行きたがらないんですよ。中国法を“中国地方”にかけて「岡山県条例の研究ですか?」なんてイヤミを言われる雰囲気で。中国には法律などないという意味です。確かに、今と比べれば不整備でしたが、僕には伸びるという確信があった。むしろ、欧米に行けと言われていたらイヤでしたね。英語圏では、すでに優秀な先達が多く活躍しているわけでしょ。過酷な競争があるところでは、勝てるとしてもパフォーマンスが悪いと思っていました。でも、自分は第三世界志向ですし、誰も見向きもしない中国ならイケるかもしれないと。
96年に上海事務所に赴任しました。陣容は創業者である塚本宏明先生と僕、あとは秘書だけという小さな所帯でしたが、ニーズはものすごくあった。翌年、タイのバーツ暴落から始まったアジア通貨危機で、企業の撤退が多かった時期です。会社の解散や清算業務ばかりやっていました。いずれにしても、「理屈ではなく結果を出すことが第一」というドライな上海の空気は、思っていたとおり心地良いものでした。
大江橋法律事務所での在籍は4年半。99年8月、村尾は独立を果たす。渉外弁護士の足場は、どうしても欧米中心になる。中国法務という特殊な分野で、より自由に、より早く業務を拡大するには、リスクを取ってでも自分の事務所を構えることが必要だと判断したからだ。2人の秘書と共に不安だらけのスタート。だが、この99年は、中国がアジア通貨危機から立ち直るべく、外資に対する規制緩和を打ち出した年で、まさに時節到来。00年には上海にキャストコンサルティングを設立するなど、早々に躍進する。
顧客を獲得できるだろうか⋯⋯最初は不安で心配で。承諾なしに大江橋時代のクライアントとお付き合いすることは許されません。でも、これも塚本先生に心から感謝していますが、「クライアントが村尾を望むならいいよ」と応援してくれたのです。とにかく来るもの拒まずで必死に臨んだら、独立した初月から予想をはるかに上回る売り上げを計上することができました。“お祝い”仕事なども含めてですけどね。
それで勢いをつけて、公認会計士の三戸俊英先生たちとタッグを組んで、上海にコンサルティング会社を設立したのです。標榜したのは、会計士や税理士などの専門家が融合することで提供できるワンストップサービス。ここでは現地採用をし、最初から15人ほどの所帯でした。別段、苦労があったという記憶はないんですよ。すぐに、大手電気メーカーから受けた債権回収案件で9億円ほどを回収し、その成功報酬で初年度のキャッシュフローを回せましたから。独立した99年は、日本企業が力強く中国に進出し始めた時期で、大手メーカーを中心に名だたる企業から大きな仕事も受任。そして、ここを境に中国は豊かになっていく。中国が伸びる時期にぴったり符合していたのです。今思えばラッキーでしたね。
父方の祖父は、大日本帝国陸軍の軍医(内科)で、終戦を迎える桂林への行軍の前に、1年半ほど上海に駐留していたそうです。優しい人でしたから、きっと地元の人々のことも懇切に診ていたのではないでしょうか。その徳が、孫である僕に巡ってきたのではないかと思っているんです。