Vol.32
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土井 香苗

HUMAN HISTORY

志と情熱こそが、人間の原動力になる。「やるべきだ」と思うことがあるのなら、リスクを恐れず真っ直ぐ突き進むべき

ヒューマン・ライツ・ウォッチ
日本代表
弁護士

土井 香苗

エリートコースを歩むも、否定されてばかりだった少女時代

世界最大級の国際人権NGO「ヒューマン・ライツ・ウォッチ(以下HRW)」が、アジア初の拠点として東京オフィスを開設したのは2009年。その立ち上げに奔走し、現在、日本代表を務めているのが土井香苗だ。大学在学中に最年少(当時)で司法試験に合格、さらに、米大学のロースクールで修士号を取得するなど、絵に描いたような優れた経歴を持つ土井だが、彼女の白眉は、純粋な情熱である。少女の頃から、飢餓、難民、弾圧などといった世界の問題に心を砕き、「苦しんでいる人を助ける仕事がしたい」――ずっとそう思い続けてきた。究極の夢は、「世界中の人々が、一人残らず人権を享受できる世界をつくること」。土井は、グローバルな人権活動に専任する日本人弁護士第1号として、今日もその道を突き進んでいる。

土井 香苗

父はパイロットで、母は専業主婦。妹との二人姉妹で、私はバレリーナになることを夢見て……と言ってしまえば、比較的恵まれた家庭環境なのですが、決してハッピーだったわけではないのです。私たち姉妹は、親から叱られてばかり。それは、鬱積した気持ちを子供にぶつけるという、厳しいものでした。否定ばかりされていたから、幼い頃は自分に自信が持てなかったし、加えて、小学校では陰湿なイジメが横行していて、私はどこかビクビクしているような内気な子供だったのです。

そんな私が自我に目覚めたのは、桜蔭中学校に進学してからです。3年生の時、明らかに転機となる二つの〝出合い〞がありました。ひとつは、イギリスでのホームステイ。3週間ほどの短期間でしたが、通ったサマースクールにはヨーロッパの様々な国から生徒が集まっていて、「海外は広い」ということを、初めて実感できたのです。私は、とにかくドメスティックな子供だったので……。そして何より、この短期留学は、苦手だった英語を克服するきっかけを与えてくれました。

もうひとつは、難民支援活動家である犬養道子さんが書いた本、『人間の大地』に触れたことです。国語の授業で、その一部が副教材として使われたのですが、アジアやアフリカの難民が置かれている実情と、その背景を抉りだすようなルポルタージュに衝撃を受けまして。もっと知りたいと思った私は図書館に走り、一気に読み切りました。飢餓問題や難民問題など、世界で起きている不正義に目が向くようになったのは、ここからですね。今日の原点です。もし私が、穏やかな家庭でぬくぬくと育っていたら、多分、人生の軌道はまったく違ったものになっていたでしょうね。もっと、こぢんまりした人間になっていたと思います。

中学・高校と、進学校である桜蔭で過ごした土井にとって、東大受験はごく自然な道筋だった。学業優秀だった土井は現役合格を果たすが、実は、法学部への進路は本人が望んだものではない。将来は、国際協力関係の仕事に就きたいと考えていたからだ。しかし、「女が社会で生き残るためには資格が必要。文系なら弁護士になりなさい」。それが親の言い分だった。

国際関係などの学問をやっても、絶対に食べていけないと。もちろん私も自分の考えを主張し、幾度となく衝突しましたが、イライラを爆発させる親が恐ろしく、結局折れたという流れです。「入ってから転部することもできる」と説得を受けたこともあり、まぁ妥協の結果ですね。だから、転部前提で受験した私は、弁護士になるつもりなんて全然なかったんですよ。

ずっと勉強一色でしたから、入学したら何か別のことをしよう、そう決めていました。選んだのは馬術です。体育会で練習は厳しかったけれど、その面白さに、私はすぐ夢中になりました。三鷹にある馬場に朝5時から入り、練習が終わる頃にはもうクタクタ。大学に行かなくても「まぁいいや」状態の日々で(笑)、当然、成績はひどく落ちました。もはや、転部かなわずです。

そして2年生になる頃、また親と対立ですよ。馬のことしか考えていない私を見て、このままでは司法試験に合格できないと、危機感を募らせていたのでしょう。「どうするの!」。世紀の大ゲンカをした挙げ句、馬術部は辞めさせられることになり……泣きましたねぇ。それからは、やりたくもない司法試験の勉強に突入です。この時期は、本当に暗い学生生活でした。

本当の意味で始まった「自分の人生」。そして、エリトリアへ

司法試験まであと2カ月となった頃、土井は、妹と連れ立ってとうとう家出する。本人の言葉を借りれば、緊張が絶えなかった家庭に「限界がきてブチ切れた」。生活費を稼ぐためにアルバイトに追われ、アパートで貧乏生活を余儀なくされたが、それでも手に入れた自由は最高だった。家に戻ることは、わずかにも考えなかったそうだ。

すでに1年ほど、司法試験に向けて準備していたので、家を出たからといって受験を放棄するのはもったいない。終えるにしても、最後までやって堂々とやめたい。そう思っていたので、塾の講師などをやりながら勉強は続けました。毎日8時間勉強、4時間バイト、そんな感じでしょうか。当時は電車賃すらもったいなくて、家庭教師先には自転車で通ったものです。片道20㎞の距離を。大変だったけれど、でも、自由は素晴らしく、解放感に満ちあふれていました。10代、20代の若いうちは、それも自分で選び取ったものならば、貧乏だって楽しいんですよ。

結果、最初のトライで合格できたのですが、「これでもう勉強しなくていい」と、ホッとしたのが正直なところです。この過程においては、司法試験の神様と呼ばれる伊藤真先生の大きな存在があります。私は伊藤塾に〝入信〞していたんですけど(笑)、受験勉強を通じての一番の収穫は、人権に目覚めたことです。「日本の憲法の柱は〝個人の尊厳〞を定める憲法第十三条である――」。先生の講義を聞いた時、ものすごく感動して。それまで、憲法が何たるかその本質を知らず、法律は一般庶民を縛る窮屈なものだという感覚だったので、憲法が大好きになりました。伊藤先生は、いやいや取り組んでいた司法試験の勉強に風穴を開けてくれたというわけです。

通常ならば、司法修習生となり、法曹界入りをするところだが、土井が選んだ道は違う。合格したらやりたいことがあったからだ。まずは、国際交流NGO・ピースボートに乗ること。加えてもうひとつ、アフリカに渡って1年間ボランティアに従事することである。「世界中を見てみたい」「難民を助けたい」――中学生の頃から胸にあった情熱は褪せていなかった。この時、21歳。将来の仕事を保留にする時間は十分にあった。土井はやっと〝自分の人生〞を踏み出したのである。

受験勉強中、気分転換にと思って、ピースボートの創設メンバーである辻元清美さんの著書を読んだのです。思っていた以上に船内は自由な雰囲気だし、手軽に世界一周できそうだと強く惹かれました。実際は、お金がなくて世界半周だったんですけど(笑)。乗ってみて感じたのは、バイタリティのすごさです。著書どおり、自由な空気に満ちていて、船内では誰もが活動を自主企画し、提案し、実践する。桜蔭、東大と、世間でいうエリートコースを歩んできた私は、与えられたものをコツコツやるのは得意だったんですけど、自ら考えて行動を起こす――それは、とても刺激的な世界でした。

当時、アフリカで独立を果たしたばかりの小国・エリトリアを教えてくれたのは、ピースボート代表の一人、吉岡達也さんです。アフリカで何かボランティアをしたいという私の相談に、親身になってくださって、「エリトリアの法整備を手伝う仕事ができるんじゃないか」と勧めてくれたのです。確かに役に立てるかもしれない。エリトリアに行きたい! 燃えました(笑)。吉岡さんと共にピースボートを途中下船し、エリトリアの法務大臣に直談判です。「司法ボランティアとして1年間参加し、勉強させてください」。第三世界ではこういうプリミティブな手段が有効だったようで、その場でOKが出ました。それから一旦日本に戻り、4年生になった春から、単身でエリトリアに渡ったのです。

1年間の滞在経験は、本当に意義あるものでした。世界各国の法律をリサーチするのが主な任務だったのですが、インターネットや本などほとんどない状況下で、助けてくれたのは、日本の様々な関係機関や国際的に活躍する実務法曹家たち。多くの出会いがありましたし、現地のアスマラ大学法学部生たちとの交流、すべてが財産です。

今、エリトリアは深刻な独裁国となってしまって、それに反対する友人たちが不当に拘束されたり、亡命せざるを得ない事態になっているのは残念でなりません。でも、それは彼らにとって理想を選ぶということ。人間は、究極のところで正しい道を選択する。すごいなぁと思うんですよ。わずかな期間に、国は独裁化する可能性があるのです。民主主義の国だと思っている日本だって、今日この日がずっと続くとは限らない。そういう感覚を持てた意味においても、エリトリア行きは、私のキャリアを決定づけた大きな節目となりました。

人権保護を主領域に弁護士として活動。成長の布石に

土井 香苗

人権弁護士の仕事をやってみて、「私のパッションに合う」。間違いなくそう思った

00年、土井は弁護士としてスタートを切った。エリトリアでの活動で様々な法曹関係者に出会い、なかでも人権保護のために骨身を削って仕事する弁護士らと接したことが、彼女にこの道を選ばせた。「弁護士は、難民や戦争といった問題を解決するために、非常に役に立つ職業である」。そう考えるに至った。入所したのは、東京駿河台法律事務所。小規模ながら、国際的な人権分野で活躍する同事務所で、土井は〝基礎体力〞をつけていく。

代表弁護士である上柳敏郎先生には、エリトリア時代からお世話になっていたので、そのご縁です。一般的な業務はもちろん、カンボジアの司法支援や国際環境など幅広くカバーしている事務所で、私もいろんな事件を担当させてもらいました。企業法務も扱いましたし、交通事故、遺産相続、離婚……もう何でも。一つひとつの事件にドラマがあって、それが興味深いというか、とてもやりがいを感じていました。

並行して取り組んでいたのが「アフガニスタン難民一斉収容事件(01年)」。自分から手を挙げて弁護団に参加し、ほぼ最後まで4年間やっていたので、この事件が一番印象深いですね。タリバン政権の迫害から逃れてきたアフガニスタン人たちを、当局が不当に拘禁した事件ですが、何とかして彼らを入国管理局の収容所から救出するために、弁護団は超人的に働いていました。裁判は二転三転し、最終的には最高裁で負けてしまったけれど、ひとつの足跡は残せたと思っています。世論を喚起したこと、難民申請の権利拡大に向けた制度改革につなげたこと。それらは大きな成果だし、私自身にとっては、人権保護のためのあらゆる実務を学ぶ機会となりました。現在の私の基礎になっています。

人権弁護士は、とにかく忙しい。やるとなったら、どんどん仕事がきちゃいますし、場合によっては〝費用持ち出し〞にもなります。私も、今よりはるかにハードな日々でしたが、「自分のパッションに合う」ということは、間違いなく感じていました。

5年間在籍したのち、土井は人権保護の本場で「国際人権法」を学ぶため、ニューヨーク大学ロースクールに留学する。日本での忙しい生活に区切りをつけ、「半分は休養するようなつもり」だったが、待っていたのは勉強漬けの日々。「時間量やその密度は、司法試験の時以上だった」と振り返る。その甲斐あって、修士課程を修了し、ニューヨーク州の弁護士資格も取得。土井は次なるステップに歩を進める。

世界中から集まっている学生たちは、皆アンビシャスで、大学院に入学した時から熱心に就職活動するんです。私はといえば、日本で抱えていた事件に決着をつけて渡米するだけでフーフーでしたから(笑)、周りを見て「そうか。考えなきゃ」と。留学した日本人弁護士は、自分の事務所に戻るのが主流ですけど、私は人権の世界的なムーブメントに触れていたかったし、100%の時間を人権保護活動に費やせる職場環境がほしかったのです。

その時に意識したのが、HRWでした。アフガニスタン難民事件の裁判で、HRWの調査資料を使っていたので存在は知っていましたが、本当の意味で知ったのはニューヨークに行ってからです。HRWは、人権侵害について世界最高の情報を持ち、政府に対する外交政策を提言するシンクタンクの機能も併せ持っています。いわば、国際法を国家に守らせる〝番人〞。私が長い間やってみたいと思っていた活動内容で、理想のNGOだと思いました。

ただ、HRWは学生たちの憧れの的。フェローになるには競争率300倍、インターンでも100倍という狭き門です。周りは超優秀な学生ばかり。とても無理だと思った私は、何とかしようと方法を調べ、日本の国際交流基金が出しているフェローシップを獲得して応募したんです。「1年間、私をタダで雇用できますよ」とアピールして。選ばれた時は、心底うれしかったですね。まだ日本にHRWの事務所がなく、日本に対するアドボカシー(提言活動)がうまく進んでいなかったので、HRWとしても「いいチャンス。どれぐらいできるか試してみよう」という感じだったと思います。

なので、私の採用条件は「日本の外交政策を改善するためのアドボカシーを行うこと」。大国である日本が、世界的に重要な人権問題を解決することに寄与していない、それが問題だとも言われました。最初は不安いっぱいでしたけど、日本の政策や政治状況をHRWに説明することから始めて。それから実際に上司を日本に連れて行き、外務省や国会議員などへのアドボカシーをやってみたら、HRWにも手応えがあったようで、私の存在が認めてもらえるようになったんです。

HRWの東京オフィス代表に就任。夢実現に向けて邁進する

  • 土井 香苗
  • 土井 香苗

HRWにおいて、日本は良くも悪くも「存在感のない国」だった。注目されるほど人権状況は悪くなく、他方、注目されるほど人権保護にリーダーシップを取っているわけでもない、ということだ。しかし、土井の存在は、日本へのアドボカシーの可能性を示唆した。HRWで評価を得た土井は、07年、東京にオフィスを開設するという任務を肩に、帰国した。

東京オフィスを開設する最大の理由は、日本政府へのアドボカシーを進めるためですが、まずは活動資金を確保すること。それが最初の仕事でした。HRWは監視する立場ですから、当然、政府からの資金援助はいっさい受けず、運営は個人や企業からの寄付で賄っています。さて、どうするか。経済界にまったく縁のない私は、頭真っ白でした(笑)。最初に声をかけたのが、ライフネット生命保険の現副社長、岩瀬大輔君。司法試験の受験仲間です。ファンドレイズの目標額は、年間4000万円。日本で人権保護の寄付を募るのは容易じゃないと思っていましたが、彼は私の夢に共感してくれて、「大した額じゃない。絶対にできるよ」と。岩瀬君が突破口になって、志ある経済人たちとつながることができたのです。09年4月にオフィスをオープンできた時は、感無量でした。

アドボカシー、メディアへの発信、ファンドレイズ、これらが仕事の3本柱です。日本の外交政策をもっと人権尊重のものに変えるための働きかけ。そして、そのアドボカシーを成功させる基盤として、メディア活用も重要な位置づけにあります。どんなにいい提言を持っていっても、「そんな問題が起きているんですか?」では話になりませんから。積極的に、世界の人権危機ニュースを発信していくことが必要です。私は、日本を「人権を守るための世界のリーダーだ」と言ってもらえる国にしたい。日本の外交政策にはまだまだ課題がありますが、着実かつ確実に、夢に近づきたいと思っています。

今年1月、日本政府は北朝鮮の人権侵害に関し、「国連の調査メカニズム新設を支持する」と正式決定した。尽力したのはHRW、日本政府の担当として力仕事を担ったのは土井たちである。東京オフィスの陣容は4名と所帯は小さいが、その存在は、世界90カ国をカバーするHRWのネットワークを背景に、確かに芽を出し始めている。

北朝鮮については、拉致問題が多く取り上げられてきましたが、それだけでなく、政治犯収容所の惨禍など、あってはならない人権侵害が数々あります。国連に調査委員会を設置し、実態を詳しく調査できれば、世界のメディアからも注目をあびるでしょう。いずれ安保理にも、その問題を挙げることができるかもしれません。まだ一里塚ですが、世界的には大国である日本が支持したことで、調査委員会は正式に設立される可能性がぐんと高まりました。何十年にもわたって続けられている北朝鮮政府の人権侵害に、光を当てる一助になると思います。

こういう仕事は、各国の政府が「はい」と言ってくれれば簡単な話なのですが……まぁ大変ですよ。そこに持っていくまで、世界中のNGOを組織し、キャンペーンを始め、そして世界中の政府を説得していくという、すさまじいプロセスを踏まなければなりません。実は、この領域で多く活躍しているのは法律家なんです。地域研究者やジャーナリストなどの専門家も数多いですが、HRWの職員の半分以上は法律家です。ですが、日本の法律家はいなくて、フルタイムでやっているのは私だけです。独裁だったり、戦争における民間人被害だったり、マイノリティの迫害・差別などの根っこは、法律家が中心となって解決しているという事実を、もっと知ってほしいですね。

弁護士目線で言えば、日本は〝真ん中の国〞。欧米先進国社会は人権について成熟しているし、逆に、発展途上国のエリートたちは欧米の教育を受け、国際フィールドで働きたいという環境にあります。日本はどちらでもない。自国に、自己完結できる活躍フィールドはあるけれど、グローバルな人権面での成熟はないというか。人権に限らずですが、もっと世界に目を向けて、キャリアの選択肢を広げたり、高いスキルを磨く努力をすべきではないでしょうか。けっこう行き当たりばったりできた私が言うのも何ですが(笑)。でも、自分の情熱、つまり人権のために、常により良い選択はしてきたつもりです。志と情熱こそが、人間の原動力だと信じています。

※本文中敬称略