Vol.54
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弁護士 村越 進

HUMAN HISTORY

弁護士は食えない、魅力がない?「人権の擁護」「社会正義」を堂々と掲げつつ、人の役に立ち、喜ばれる。こんなに素敵な職業はほかにない

新千代田総合法律事務所
前日本弁護士連合会会長
弁護士

村越 進

社会派テレビドラマで弁護士に憧れ、東大へ。司法試験は一発合格

「被疑者取り調べの可視化」の推進、最高裁との協議で実現させた労働審判実施裁判所支部の拡大、すべての児童相談所に原則として弁護士を配置する児童福祉法一部改正の後押し――。今年3月まで日本弁護士連合会(日弁連)会長を2年務めた村越進が、リーダーシップをいかんなく発揮した仕事は数多い。歴任した日弁連人権擁護委員会委員長、第一東京弁護士会会長なども含め、携わった“会務”で残した成果をみれば、それらがある意味“天職”だったことがわかる。その芽は、多感な少年時代にすでに顔を出していた。

生まれは信州・上田、そう『真田丸』の地元です。実家はいわゆる紙器製造業をやっていて、機械部品用、お菓子用などのいろんな箱をつくっていたんですよ。小さな頃から工場に入り込んでは、手伝っているのか邪魔になっているのか。そんな環境で育ちました。

今でも鮮明に覚えているのが、中学生の頃に放映されていた『判決』というテレビドラマ。7人の弁護士が、協力して弱い立場の人の権利を守るために奮闘するというストーリーでしたが、そこで扱われるのは部落差別や生活保護など、ビビッドな社会問題でした。何よりも、社会の矛盾に苦しむ人たちのために献身的に戦う弁護士がカッコよかった。私が漠然とではあるけれど、「将来は弁護士になりたい」と意識したのは、それがきっかけだったのです。

高校に進むと、生徒会活動に没頭しました。今から考えれば、「担ぎ出される」性分はこの頃からのものらしく、2年生になると生徒会長に。忘れられないのが「応援団の民主化」です。旧制中学の流れをくむ長野県上田高校にはバンカラの気風が色濃く残っており、応援団長は生徒会長よりもずっと権力を持っていて怖かったんですよ。それはおかしいということで、応援団を生徒会の委員会の一つにするという改革を断行したのです。普通は生徒会活動からは退く3年生の応援団長が「けしからん」と会長選に立候補して大接戦になるなど、“切った張った”もけっこう……。まあ昔からそんなことをやっていたというわけです(笑)。

弁護士 村越 進

一方で弁護士になりたいという夢は、その頃には明確な目標になっていた。東大法学部を目指そうという思いも定まっていたが、思わぬ事態に回り道を余儀なくされてしまう。村越が受験生となった1969年、激しさを増していた東大紛争のあおりで、入試自体が中止になってしまったのだ。急遽京大法学部にターゲットを変更するも、受験はあえなく不合格に。浪人生活の末、当初の目標を果たしたのは翌年だった。

東大に入学しても学園紛争の余波が完全に収まってはおらず、学生のストライキで半年ほどは授業がないような状況でしたね。麻雀ぐらいしかやることがないわけです。そんなこんなで、駒場(教養学部)の2年間は、ほとんど勉強した記憶がないんですよ。

だから司法試験に向けた準備を始めたのは、3年生になってから。ただし、そこからは本気です。「Ⅰ類談話会」という勉強会に参加して演習問題を解いて発表し、お互いに批評し合うといったことをやりながら、1週間に100時間は机に向かいました。

そんな生活を送っていると、自分でも頭が「おかしく」なっているのを自覚するんです。ついには耳鳴りもしてきて、東大病院で診てもらったら、「司法試験の勉強をやめればすぐ治る」と。東大の医者はなんと役に立たないのだ、と憤然としたのを覚えています(笑)。

それだけやっても出題範囲のすべてをカバーできたわけではなかったので、4年次に初めて受けた司法試験で合格したのは、ラッキーというしかなかったですね。周りの人たちも「え、お前が受かったの!?」という感じでしたが、正直、一番驚いたのは自分自身でした。

ともあれ、晴れて夢をかなえる入り口には立てた。修習を終えて選んだのは、ボス弁のほかに弁護士が2名という、こぢんまりした法律事務所です。一番の決め手は「定刻に帰れる」こと。実は学生時代から付き合っていた女性と結婚し、共働きすることを決めていました。後々の子育てなども考えると、それが魅力的で。最初から、あまり志の高い弁護士とはいえないですよね。

ちなみに、子供は3人できました。妻は朝が早いので、保育園に連れて行くのは私の役目でしたが、保育環境は今より悪く、1カ所に子供たち全員は入れられないのです。あっちこっちと連れて行くと、10時の法廷に遅刻したり。そんな“イソ弁”を大目にみてくれたボスには、今でも感謝しています。

独立してから人権擁護委員会の一員に。会務の醍醐味を知る

信用金庫の顧問だったその事務所の仕事は、金融絡みの事件が半分以上を占めていた。「厳しい事件に直面することも少ないが、大きな達成感を味わえるわけでもない」居心地のよい職場には、結局8年間在籍する。独立し、個人事務所を立ち上げたのは、子育ても一息ついた84年のことだ。その後88年には、2名の弁護士とともに「新千代田総合法律事務所」を開設する。ところで、この独立を機に、村越は弁護士会の会務に“のめりこむ”ことになる。きっかけは何だったのか?

“居候”を卒業するとすぐに、所属する一弁(第一東京弁護士会)の先輩から、「独立しても、最初はろくな仕事もなくて暇だろう。会務を手伝ってくれよ」と声をかけられたんですね。その時やっていた仕事にやや物足りなさを覚えていたことや、会員である以上少しはお役に立たないと、という責務も感じて承諾しました。

ただ、この時たまたま一弁の人権擁護委員会に“配属”されたことが、その後の私の進路を決定づけたと言っても過言ではないでしょう。そこで手がけた案件には、ずいぶん後、委員長になってからのことですが、筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者さんの代理投票制度がありました。意識は健常者と変わらないのに、病が進行すると、まばたきぐらいしかできなくなってしまう難病の彼らは、投票所に出かけることは困難だし、自書しか認められない郵便投票もダメ。要するに選挙権が行使できない状態にあったのです。

患者団体からの人権救済の申し立てを受けて我々が最終的に選択したのは、国家賠償請求訴訟の提起でした。内部に「弁護士会の一委員会が国賠訴訟というのは、やりすぎではないか」といった強い反対論もあるなか、侃々諤々の議論を何度も続けた末の結論です。

私は弁護団長を務めたのですが、提訴の結果、一審で請求自体は棄却されたものの、現状は違憲状態だという画期的な判決を引き出すことができました。ほどなく代筆による郵便投票が認められた。ALS患者以外も含め、何十万人もの人が投票できるようになるという成果を勝ち取ったのです。

そうした取り組みを通じて確信したのは、みんなで協力すれば、現実に世の中を動かせるのだ、ということです。法律を変えるなんて、弁護士個人がどんなに頑張ったところで至難の業でしょう。しかし、弁護士会が本気になれば、そこまでやれる。人権擁護委員会の活動で、あらためてこの仕事のやりがいに目覚めた感じがしました。弁護士になってよかったな、と。

弁護士 村越 進

その思いは、どこまでも弱者に手を差し伸べようとする『判決』の弁護士たちと通底するものだったのだろう。“水を得た”村越はその後、2001年から日弁連の人権擁護委員会の委員長を2年務めた後、第一東京弁護士会の副会長に就任する。そしてそのタイミングで、今度は弁護士会内部に鋭い意見対立のある案件のまとめ役を任された。そこでは一転、厳しい現実を体感することになる。

理不尽な犯罪で家族を奪われた遺族など、犯罪被害者の権利を広く認めるべきという世論が高まるなかで、国政の場などでは彼らを刑事訴訟に参加させようという動きが活発化していました。日弁連としてもこの問題に対する意思表示が必要だということになったのですが、内部にはそれを推進しようとする弁護士と、刑事弁護の立場から絶対に認められないという圧倒的多数派の刑事系弁護士の対立がありました。

そこで協議会をつくって議論しようということになり、ついては人権擁護委員会の委員長もやった“ニュートラルな”立場のお前が座長をやれ、ということになったのですが……。これはもう、死ぬ思いでしたよ。とにかく両者は水と油。あまりに険悪なので、「たまには一杯やりましょうか」と言ったら、「いやビール瓶のあるところで話をするのは危険だ」と(笑)。

そんなことを1年も続けて、何とか双方の意見を取り入れた報告をまとめたのです。ところが、日弁連の理事会で決議されたのは、結局多数派の主張そのままの、「被害者参加制度は導入すべきではない」という意見書でした。徒労というのは、ああいうのをいうんでしょうね。

だからというわけではないのですが、目を向けるべきは、その後、被害者参加制度が日弁連の反対にもかかわらず“予定どおり”施行されたという事実だと思うのです。そもそも世の中全体からすれば多くのテーマで、日弁連自体、少数派に過ぎない。制度に問題があると考えるのなら、少しでも改善するために、原理原則を言うだけではなく、場合によっては妥協点を探ることもしていかないと世間に理解してもらうのは難しい。また、物事をよくすることもできない。そんなことをつくづく考えさせられた一件でした。

〝実現力〟を掲げて日弁連会長に。外部とも地道な対話を重ねる

弁護士 村越 進

個人では困難でも、団結すれば世の中を変えられる。そこが“会務”の醍醐味

そんな試練も経験した村越は、08年に第一東京弁護士会会長に就き、1カ所しかなかった同会の公設事務所を多摩地区にも開設するなどの施策を実現する。そして14年4月、第49代日弁連会長に就任するのである。掲げたスローガンは「社会と会員の期待に応える実現力のある日弁連をつくる」。そこには、それまでの会務を通じて得た教訓がしっかりと込められていた。

“実現力”って変な言葉ですよね。なぜ“実行力”ではないのか。私としては、大声で主張するだけでは何一つ進まない、いかに状況を一歩でも先に進めていけるのかが重要だ、という思いを表現したつもりなんですよ。そのためには、世の中と正面から向き合って信頼関係を築き、社会的な支持を得ること。加えて会内の結束をさらに強めること――。この二つが今の日弁連という組織にとって最大の課題である、という問題意識がありました。

大小取り混ぜて様々な課題に取り組んだ中で、印象に残るものを挙げるとすれば、一つは「被疑者取り調べの可視化」ですね。導入を盛り込んだ法制審議会の刑事訴訟法改正案の取りまとめに、日弁連として賛成するか否かが議論になりました。

この問題は、私の前に宇都宮健児執行部で1年、山岸憲司執行部で2年検討を重ねてきて、賛成の方向でまとまりつつあったわけですが、「取りまとめ案は骨抜きで弊害のほうが大きいから反対せよ」という意見も根強くあって、やっぱり紛糾しましたね。3カ月議論して、理事会の採決では執行部方針に賛成58、反対23。いきなり厳しい結果でしたけど、決めるべきことを決められて、心底ほっとしました。大切なのはこれからの取り組みです。

これは今年に入ってからなのですが、最高裁がこれまで全国に2カ所しかなかった労働審判を実施する裁判所支部を、新たに3つ増やすと決めたのも、歴史的な出来事なんですよ。実はこれ、日弁連が最高裁に申し入れ、協議の末に実現したのです。こうしたテーマについて、最高裁と日弁連が協議して実現するなどということは、今まで例がありません。付け加えると、会費の1割強の減額も(笑)。一般会費の減額というのも、日弁連始まって以来のこと。会長選挙の時に、会費負担が大きいと訴える若手から「公約に掲げてほしい」という声もあったのですが、これはあえてそうしなかった。「言わなかったけれど、やったこと」です。

「言ったこと」については、その多くに取り組むことができたのではないかと思っています。自画自賛と言われるかもしれませんが。

様々な公約実現に向け、「世の中と正面から向き合う」こと、すなわち直面する課題に関連する外部の人たちとの対話を大事にしたのも、村越執行部の特筆すべき点だ。日弁連としてはあまり経験のないであろう、役所に負けない“ロビーイング”も実践した。

例えば「司法試験合格者は1500人に減らすべきだ」「司法修習生に対する給費を実現してもらいたい」と我々が主張するたびに、世間からは「君らは既得権益を守ることしか考えていないではないか」と言われ続けているわけですね。この誤解を解くのは、並大抵のことではありません。会議の場で空中戦を展開しているだけではまったく不十分で、関係者一人ひとりに丁寧に説明し、理解を広げていくしかないのは当然のことだと思うのです。

法改正が絡む審議会などでは、法務省も最高裁も、委員に対してきちんとレクチャーします。日弁連だけそれをやらないというのはやはり問題で、私の執行部では総力を挙げてそうした活動にも取り組みました。繰り返し話をするうちに、「日弁連はそんなことを考えていたのか」と味方になってくれる人もいた。大変でしたけど、少しでも我々の真意を広げられたのは、成果と言っていい。私はそう総括しています。

〝思いがけない〟若手の活躍に働き方のヒントが

弁護士 村越 進
本取材および撮影は、新千代田総合法律事務所が入居する神田神保町の岩波書店アネックスビルで行われた

会長職の激務を果たし、自らの事務所に戻った村越は、「これからは第二の人生」と笑う。“前会長”として今去来する思いを尋ねると、「これから法曹界を担っていくであろう若い人が、夢や希望を抱ける何ものかを残したい。中長期的に日弁連を発展させていける道筋を、自分なりに模索していくのも課題ですね」という答えが返ってきた。

いろんな意味で厳しい環境にもある若い弁護士、あるいはこれからこの道を目指そうという人たちに、どんなメッセージが発信できるのか?一つ言えるのは、訴状と準備書面を持って事務所と裁判所を往復するというルーチンワークが当たり前だった先輩たちと違い、今は考えもつかなかった分野に進出する道が開けているということです。論より証拠、それを実行する若手が、すでにたくさんいるのです。

最近だと例えば、東南アジア、アフリカなどの国に日本の若い弁護士が何人も渡り、JICAの専門員として法整備支援を行っています。日本も、明治時代にフランスからボアソナードを招いて近代法を築きました。似たような役目を、彼らが担っているわけです。

単一の民法典のない中国が、「民法総則」づくりを急いでいるのをご存知ですか。来春の全国人民代表者会議(全人代)を目標にしているようですが、なんとそこに支援に入っているのも大阪弁護士会所属の若き弁護士なのです。全人代のスタッフに迎えられて、もう5年ほど作業を続けているそう。日本の法を手本にした民法が中国でできれば、国際取引上も何かトラブルが発生した場合を考えても、メリットは大です。そんな国益をも背負って仕事ができるなんて、すごいじゃないですか。

もちろん今お話ししたのは一例ですけれど、インハウスや公務員になるとか、法律事務所にいるのとは違う働き方が広がっているのは事実なんですね。そこに、ぜひ目を向けてほしい。あえて言えば、そういう新たな道に積極的に挑戦してもらいたいと思うのです。

これも私が日弁連会長時代の最後に推進した案件なのですけど、原則として全国すべての児童相談所に弁護士の配置を義務づける内容を盛り込んだ児童福祉法の一部改正が行われ、今年10月1日から施行されました。児童虐待が増加する中で、児童相談所の役割はますます重要になっていますが、社会の要請に追いついてない部分も多いわけです。虐待の事実が明白なのにもかかわらず親権者が養護施設への入所などを拒むような場合、緊急に手を打つ必要があるのに、現場の児童福祉士が家裁に家事審判手続きを行うのは容易ではありません。でも、そこに法的知識を持った弁護士がいれば、状況はまったく違ったものになるはずです。

児童相談所は全国に二百数十カ所ありますが、現在任期付公務員として常駐している弁護士は、名古屋、福岡、和歌山の3人だけ。新たな仕組みが機能することにより、子供たちの安全や権利の確保に大きく貢献することは間違いありません。

ところが問題は、まだそこに手を挙げる弁護士が少数だということなのです。確かに楽な職場ではないかもしれません。でも、今お話ししたような社会的な使命を帯びて仕事ができるし、公務員としての身分も保障される。ちなみに公的機関への弁護士の配置が法律に明記されたのも、初めてのことです。十分チャレンジしがいのある新分野ではないでしょうか。そうした社会が求める現場で弁護士が成果を挙げれば、そのステータスもさらに向上するはず。様々な分野で、「やっぱり弁護士が必要だ」「自分たちの活躍の場はここにもあった」という流れにつながっていくことを、私は期待しているのです。

これからの弁護士会に望むこと、自らもフォローしたい課題として真っ先に挙げるのは、「弁護士という職業の魅力の発信」だ。では、村越自身はそれをどこに見出し、伝えていこうとしているのだろうか?

「若手は生活が苦しい」「今弁護士になっても食えない」というような話が当たり前のように語られますよね。それは大変だと当の若手に聞き取り調査をしても、「僕の周りには、そんな弁護士はいません」という返答ばかりなんですよ(笑)。厳しい現実は否定しませんが、ネガティブ情報だけが拡大されて独り歩きしています。いたずらに弁護士の数を増やすことには反対ですが、法曹を志す人が減少してしまうのでは、質の向上など望みようがありません。

でも考えてみてほしいのです。弁護士法には「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」が弁護士の使命だと明記されていますよね。これほど高邁な、あえて言うとカッコいい看板を堂々と掲げ、頑張って問題解決すれば感謝され報酬ももらえる。こんな職業、ほかにないですよ。単なる儲けや利益の追求ではなく、公益性を胸に秘めて“戦う”使命感、充実感は、例えば企業法務であっても変わらないはず。

そういう、この職業の意義ややりがい、さらには専門性を武器に活躍の舞台をもっと大きく広げていくこともできる可能性をアピールしていくことの重要性を、今ひしひしと感じるのです。多くの若者に、自分の少年時代と同じような夢を抱いてほしい。それが実現できる環境整備をお手伝いしたい――。当面それが、「第二の人生」に与えられた宿題だと思っているんですよ。

※本文中敬称略
※本取材および撮影は、新千代田総合法律事務所が入居する神田神保町の岩波書店アネックスビルで行われた