Vol.55
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弁護士 猿田 佐世

HUMAN HISTORY

一部の日本人が、「米国の声」を利用しながら自ら望む政策決定を日本で行っていく。そんな構造にアメリカの法律を変えた「弁護士の力」で挑みたい

新外交イニシアティブ
事務局長 弁護士

猿田 佐世

小学校時代に〝国連勤務〟を夢見た少女

2009年、政権交代により首相となった鳩山由紀夫は、「沖縄・辺野古に基地はつくらせない」と表明する。しかし猛烈な逆風を受け、就任わずか9カ月でその座を追われたのは記憶に新しい。この時「怒れるアメリカ」が“鳩山降ろし”に一役買った――それが一般的な受け止め方だろう。だが、偶然にもワシントンで学んでいた猿田佐世の目に映る“アメリカ”は、少し様子が違った。日米外交に影響力を持つコミュニティにも、「オキナワが反対するなら、別のプランを検討すべきではないか」といった多様な声が存在したのである。米国の実情が日本に伝わらない。逆もまた真。その“誰も気づかなかった日米関係”に風穴を開けるべく、猿田はワシントンで米議員相手のロビー活動を開始する。パワーの源は、弁護士としての技量、そして「子供時代から変わらない真っ直ぐな性格とエネルギー」だった。

子供の頃住んでいた名古屋のベッドタウンの街は、管理教育で有名なところでした。小学生にも廊下で正座、ビンタ・げんこつは当たり前、中学生男子は丸刈り、女子も眉上数センチのおかっぱ。大学で労務管理論を教えていた父親は、そんな異常な事態を変えようと改善を求めて活動していました。「強制的に丸刈りなんて、間違っている」といった話もよく聞きました。おかしいことにはおかしいと言う私の性分に、そんな親が影響したのは間違いないでしょう。

小学校時代に「国連で働きたい」という夢を持ちました。ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんがモザンビークで食糧難に苦しむ子供を抱く映像をテレビで見たのが、直接のきっかけです。世界で一番困っている人を救いたい、と。子供ながらに真剣で、高校受験の時に、現地で役立ちそうな土木科や機械科を受けようかと悩んだぐらい。

小学校では、こんなこともありました。5年生の時、いじめっ子の女の子に「やめようよ」と意見したんですね。そうしたら、その子の母親が家に抗議の電話をかけてきた。小5の女子にとって、“怒っている他人の大人”って、恐怖そのもの。電話口でわんわん泣いたのを覚えています。でも、後で考えてみると、言われたことは事実に反している。1カ月くらい迷った末に、意を決してこちらから電話をかけて抗議しました。話しているうちに、やっぱり泣いちゃいましたけど。

結局、中学は地元の公立には行かず、愛知教育大学の付属校に。そこは管理教育とは対極の自由と自主性重視の世界だった。同級生たちとディスカッションして物事を決め、誰もが体育祭にも合唱祭にも全力で取り組む。そんな学校生活を通じて、「おかしいと思ったら自分で考え、まず動いてみる人格」は育まれていった。

国立の教育大の付属中学だったのですが、一切教科書を使わない授業をやるのです。数学で図形の面積を出すのに、公式は教えてくれず、「君たちならどうする?」。顕微鏡とカエルを渡されて、「自由に細胞を見ていいよ」っていう理科の授業もありました(笑)。

勉強以外でも、例えばクラスの1年の目標などは、全部生徒のディスカッションで決める。そんな時には、皆で競い合うように自分の意見をどんどん主張していました。でも一番一生懸命になったのは、部活かな。小さな頃から運動が好きだったのですが、中学から器械体操を始めました。こう見えて、そこそこいい線いってたんですよ。

県立千種高校に進学してからも、体操は続けました。この学校も自由闊達な校風で、ディスカッションをするのが目的の1泊2日の合宿があったりしましたね。

私が弁護士を志したのは、高校2年の時。依然として国連に行きたくて、大学はどの方向に進むべきか悩んで、先生に相談しました。そうしたら、「猿田だったら弁護士が向いているんじゃないか」と。自分で言うのもなんですけど、今の私のキャラクターは中学、高校時代そのままなんですね(笑)。問題があれば皆をリードして議論する、イベントがあれば常に輪の中心。そういう私の姿を見て、そんなアドバイスをくれたのかもしれません。

2年の猛勉強で司法試験を突破。弁護士活動に勤しむ

弁護士 猿田 佐世

その一言で「弁護士になって国連へ」と目標を定めた猿田は、指定校推薦で早稲田大学の法学部へ。しかし、大教室でのマスプロ授業は「あまりにも面白くなかった」。もともと国際的な人権活動をやりたいと考えていた猿田は、当時大学のほど近くに事務所を構えていた世界最大の国際人権NGOアムネスティ・インターナショナル日本支部の門をたたく。

当然のことながら、そこに集う人たちはみんな“やる気”のある人間ばかり。総会ともなると何百人も集まって、ひたすら熱気にあふれた議論をするわけです。本当に感動して、日記に「これこそが民主主義だと思った」と書いたくらい。このボランティアは、その後渡米するまで10年以上続け、4年間総会議長もやりました。かなりのめり込んだのですけど、司法試験の勉強を始めた大学3年からは、一時的に全部断ち切りました。決断をする時の潔さは私の特徴かもしれません。周りの迷惑も顧みず、ですが……(笑)。

その代わり、勉強は誰にも負けないくらいやりました。朝6時に起きて塾へ行き、夜まで勉強して12時過ぎに寝る生活でした。中、高、大学と本格的な受験勉強をしていない私にとって初体験です。これを2年間続け、大学を卒業した1999年に、無事司法試験に合格することができました。

普通はここから司法修習へという流れになるはずなのですが、私は1年間それを延ばしてタンザニアの難民キャンプへ。人権、人権と言っていても綺麗事ではないのか、人権のカケラも存在しない場面でそんなコトバが役に立つのか――。一度現場を体験してみなくてはと思ったのです。キリスト教系国際協力NGOが派遣するボランティアとして、隣国ブルンジから逃れてきた難民たちの高校で授業を行いました。

授業は、世界人権宣言などをベースに平等や人権、自由について講義を行うというものでした。ツチ族・フツ族の民族紛争から命からがら逃れてきた彼らにとって、最も縁遠い理念といっていいでしょう。「そんなのは絵に描いた餅だ」と反発されるのではないかという気持ちもありました。

でも始めてみたら、みんな熱心に話を聞いてくれるんですよ。生徒の中には紛争で学校に行けなかった50代の人もいました。「ツチ族に家族を殺されたからと復讐していたら、いつまでも戦争は終わらない」「私はビラを撒いて逮捕されたことがある。でもあれは表現の自由だよね、サヨ」と話してくれました。人権感覚は私たちと全然変わらなかった。自分の目指してきたものが間違っていなかったことを、逆に彼らに教えられた気がしました。今の私の原点となる体験です。

帰国し修習を終え、晴れて弁護士となった猿田は、02年に東京共同法律事務所に入所する。アムネスティの活動を通じて、同事務所の海渡雄一弁護士と知り合ったのが縁だった。人権問題に正面から取り組む弁護士が集まる事務所で、表現の自由、難民問題、労働問題、刑務所内の人権問題など様々な案件を担当し、「めちゃめちゃ働いた」ことは、後に米国で始めたロビー活動にも大いに役立つことになる。扱った中にはこんな事件もあった。

イラク戦争さ中の04年に、高校生を含む日本人3人が現地で拘束され、犯人グループが「72時間以内の自衛隊撤退」を要求するという出来事がありました。当時の小泉純一郎首相は「撤退はしない」と早々に宣言し、世間では「危険な場所に行くほうが悪い」との“自己責任論”が噴出し、家族や3人へのバッシングが吹き荒れました。

社会から孤立する人質の家族を、放ってはおけません。私は仲間の弁護士十数人と弁護団を結成し、3人が無事解放されてからは彼らも含め、そのサポートに力を尽くしました。

当事者の代理人として政府などとの交渉を行い、国会議員への働きかけをし、殺到するメディアに対応し、不当な報道に対しては裁判を起こし……。限られた時間の中でマルチな活動を展開し、多少なりとも“被害者”の支えになれたと思います。全方位の活動が必要になる弁護活動で、様々なことを学びました。

ニューヨークに留学、そしてワシントンへ。日米外交の真実を知る

弁護士 猿田 佐世

アメリカでは、やれば何かが動く。そこにロビイングの醍醐味がある

忙しく弁護士活動に取り組むこと5年、猿田は新たなアクションを起こす。07年、高校時代からの夢だった留学に出たのだ。行先は、ニューヨークにあるコロンビア大学ロースクール。当地を選んだのは、そこに国連本部があったことも理由の一つ。ロースクールでは国際人権を専攻した。

国連には、時々会議を傍聴に行きました。女性差別撤廃委員会の委員のインターンも経験したんですよ。ニューヨークでは、米国最大の国際人権NGOヒューマン・ライツ・ウォッチでインターンもやりました。

ただ、米国に留学する頃には、頭の中の多くを“自分の国の問題”が、なかでも“平和”の問題が占めるように。確かに国際人権は大事です。しかし、自衛隊イラク派兵や憲法改正などの日本の動きを見ていて、世界中で人権を実現するためにも、日本の政治を変えることが、日本に軸足を置く一人として重要なのではないか、日本を動かす努力をしなければならないのではないか、と。もしかすると、自分は“国際人権”のベールを被ることで、まさに目の前で起きている問題から目を背けていたのかもしれない――。そんな思いにとらわれたのです。

心境の変化に直接影響したのは、イラクへの自衛隊派遣、憲法改正の国民投票法の制定といった“きな臭い”動きの顕在化だったという。ともあれ、自らの価値観の中心にあるはずの憲法や安全保障の問題から距離を置いていた自分に気づいた猿田は、思いをかたちにすべく、09年、今度はアメリカン大学で学ぶため、米国の首都ワシントンに引っ越した。

アメリカン大学は、紛争解決学で全米一を誇っていました。そこで平和や安全保障について根本から学びたいと思ったのです。ところでワシントンは人口65万人ほどのコンパクトな街なんですよ。そこに日本でいえば永田町と霞が関が凝縮され、米国政治のみならず世界政治を動かす人たちや、それらに影響を与えたい各国の人々が結集して、権力にできる限り近づこうとしたり、情報発信をしたりしています。日米外交の米国側の拠点であることは、いうまでもありません。

大学で学ぶ傍ら、そうした現場を自分の目で見てみたかった私は、米国のシンクタンクなどが主催する日米関係に関するシンポジウムに積極的に出かけました。そういう場で、日本外交に影響力を持つような人たちとの人間関係も築いていくことになるのですが、話を聞きつつ私の心に生まれたのは、強い違和感だったのです。

今にして思えば、あの時期たまたまワシントンに引っ越したのは、運命としかいいようがありません。日本では総選挙で民主党が圧勝し、政権交代。時々帰国していましたし、当時、一瞬とはいえ存在していた日本国内の期待感がどんなものか、私も理解していました。同時に、直後から「米国は民主党政権の誕生に強い懸念を抱いている」というステレオタイプの報道が繰り返されたことも。

でも、ワシントンの雰囲気は違った。「民主党の誰と話せばいいのか」といった戸惑いは多くの米国人の口から聞かれたけれど、「この政権はダメだ」と頭ごなしに論陣を張るような外交関係者は、ほとんどいなかったのです。

違和感が、「これは間違っている」という認識に変わる決定打が、今に続く沖縄の辺野古基地建設問題でした。鳩山首相が「普天間基地は少なくとも県外移設」と表明したのに対して、「米国が怒った」と報道されましたが、当時ワシントンには様々な意見がありました。代表的な“知日派”の元米国務副長官リチャード・アーミテージ氏でさえ、「別の案の検討が必要だ」と語るのを、私はこの耳で聞きました。多くの日本人の認識とはかけ離れた柔軟なアメリカの姿が、そこにありました。

しかし、ワシントンにいる官僚や大メディアなどの日本人が、懸命に鳩山首相の声がアメリカに届かないようブロックしていた。これまでと異なる外交方針を唱える者の声は、たとえ首相の声であってもワシントンに伝わらない。納得がいきませんでした。

普天間移設に賛成・反対以前に、日米外交がごく一部の特定の人々によって動かされており、まったく民主主義的でないと実感し、強い危機意識を抱きました。そうした構造に気づいてしまった以上、黙って見ているという選択肢は、私にはありませんでした。

思い立ったのが、日米外交に影響力のある議員へのロビイングです。5年間の日本での弁護士生活が生きました。人権問題は、裁判だけでは解決できないことが多い。国会に働きかけ、街でシンポジウムを開催し、それをメディアに伝えてもらう。そうした活動に取り組む先輩たちの姿を見、自ら実践するうちに、それが体に染みついていました。後は、私の唯一の売りである生まれつきのエネルギーで、なんとかなるだろうと(笑)。

09年12月、沖縄問題が議論される米下院の小委員会委員長であるエニ・ファレオマバエガ議員相手に、初めてのロビイングをした時のことは忘れられません。彼は「沖縄の人口は2000人くらいか?」と私に尋ねるのです。その無関心さに衝撃を受けました。でも、無駄ではなかった。その議員は翌年1月に来日し、私の求めに応じて、時の政権幹部との面談に応じてくれました。「やれば何かが動く」ことを実感する成功体験になったのです。

新たな日米外交の構築を目指しシンクタンクを設立

弁護士 猿田 佐世
2014年、沖縄返還交渉の際に米国交渉官を務めたモートン・ハルペリン氏を、約半世紀ぶりに新外交イニシアティブが沖縄に招致。猿田氏が現地のコーディネートをした

ロビイングや独自の調査を通して改めて浮かび上がったのは、「米国内で対日外交に影響力を持つ“知日派”は多く見積もっても30人程度。彼ら以外の米国の声は日本に届かない。また、米国へも日本に存在する多くの声はほとんど届いていない」という構造だった。盤石なはずの日米外交のパイプは、ごく一部の人々により独占されていたのだ。何とかしたい、しかし一人では限界がある。そう考えた猿田は、13年、シンクタンク「新外交イニシアティブ」(ND)を設立する。当初の理事には、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏、東大教授の藤原帰一氏、ジョージ・ワシントン大学教授のマイク・モチヅキ氏、法政大学教授の山口二郎氏が名を連ねた。その後、元内閣官房副長官補の柳澤協二氏、ジャーナリストの屋良朝博氏が加わる。

“ワシントンの意見”が歪んで伝わるのは、それによって利を得る人たちがいるからです。例えば“米国の外圧”によって何かを日本で実現させたい人々が、ワシントンで語られていることのうち自らの都合のいいものだけをつまみ食いして、わざわざ“現地発”のニュースとして大々的に流す。国内で記者会見するよりも、効果は絶大です。私はこの仕組みを「ワシントン拡声器」と命名しました。

拡声されるのは、沖縄問題に限りません。TPPだって、推進派の議員連盟が米議会にできたのは、日本政府のロビイングの結果です。トランプさん以前から、慎重派は議会に大勢います。

NDの目的を一言で表現すれば、「従来の外交では運ばれない声を届ける新たな外交ルートを築く」です。すでに成果も上げています。

15年6月、沖縄県の翁長雄志知事がワシントンを訪問した時には、私たちがその随行訪米団の企画・同行を行いました。訪米の目的の一つでもあったのが、米国の軍事予算を決める国防権限法という法律にあった「辺野古が普天間代替施設の唯一の選択肢」という条文を取り除くことでした。辺野古基地建設については、地元沖縄では反対が圧倒的民意ですし、日本全体で見ても過半数の人は反対。それを無視して建設を強行するのを民主主義とは呼べません。私たちは粘り強く削除を要請するロビイングを続けました。結果、16年の同法から、その文言は消えた。外交関係者以外の力で米国の法案が変わるのは、極めて異例のことです。

ひょんなことから米国の首都で日米外交に首を突っ込んだ私ですが、未知の世界を開拓しているという思いも、やりがいもあって、充実した毎日です。これも米国のすごさだと思うのですが、働きかけると、こっちがびっくりするくらい状況が動くこともあります。ワシントンではたくさんのアメリカ人弁護士がロビイング活動をしていますが、ワシントンにしてみれば、今まで私たちのようなことをする日本人はいなかったから、それ自体が新鮮な驚きなのかもしれませんね。

猿田は、今年弁護士生活15年目を迎える。「これは絶対に間違っている、という自分なりの正義を実現しようと目の前の課題に取り組んでいるうちに、ここまできた」と述懐する彼女に、「弁護士だからできたこと」を聞いてみた。

大多数が日本に関心を持たない米国で、しかも従来の日米外交の枠に収まらない日本の声を届けるためには、多くの工夫が必要です。現状を整理し、問題の根源を明らかにして、相手に通じる視点で説明を行う必要がある。大事なのは「では、私は何をすればいいのか?」という相手の問いに、明確な提示をすること。問題について根拠条文を調べ、判例に当たったうえで、解決のためにこうしてほしい、と相手方に働きかける弁護士としての経験が役立っています。後輩へのメッセージとしては、「弁護士であれば、何にでも挑戦できるのだから、難しいことにトライしませんか?」ということでしょうか。日本社会で実現が難しいこと、というのは、少数者の人権を守ったり、弱者が生きやすい社会をつくったりすることだと思います。私はそのなかで「少数者の声を外交に届ける」という分野を開拓してきました。米国の法律を変えるなんて少し前の私には考えられないこと。しかし、可能性を信じて動けば、他国の政策に影響を与えることだって不可能ではないのです。

“やれば動く”といっても、例えば辺野古基地建設が撤回されたわけではありません。現在NDでは、普天間基地の県外移転を目的とした提言の準備をしていますが、沖縄の声が100%届いたら、事態は絶対に変わると思っています。日米が真にわかり合えるために、これからも頑張ります。

※本文中敬称略

弁護士 猿田 佐世
猿田氏の近著2冊。『新しい日米外交を切り拓く沖縄・安保・原発・TPP、多様な声をワシントンへ』(集英社クリエイティブ)、『アメリカは日本の原子力政策をどうみているか』(岩波ブックレット)