「努力で済むならしてやろう」の心意気で司法試験を突破
「日本経済失われた10年」の象徴的な出来事となった1997年の北海道拓殖銀行、山一證券破たんのニュースを、弁護士・武井一浩は留学先のニューヨークで知る。その後、武井は、日本経済の再生のため始まっていた商法、会社法改正をはじめとする制度改革議論に参画し、組織再編制度、ガバナンス改革といった新しい仕組みづくりの一翼を担う。常に念頭にあったのは、「日本企業ひいては日本経済の成長戦略のため、弁護士として貢献できることは何か」。その模索は、今も続く。
小学校3、4年の頃だったか、自分は算数が好きなんだということに気づいたのです。後から考えると、やればやるだけ成果が出るところにハマったんですね。幼少期に少しサッカーをやったのですが、まったくダメ。練習したらレギュラーになれるという世界ではなかった。でも、算数ではそれが不思議と実感できた。結局、地元の灘中学に合格するのですが、算数の力だけでした。国語は普通、理科なんかは受験者の平均以下でしたので(笑)。
灘校では、テニスの部活に打ち込みました。中高一貫で、高2の秋に引退するまで、およそ5年間。練習はけっこうハードで、授業を終えてから、毎日夕方遅くまでやっていました。中高一緒でコートが2面しかないので、最初の2年間は10分もコートに入れず、ひたすら“腕立て腹筋”の基礎トレと球拾い。夏の酷暑の練習でも水も飲めない。練習してもやっぱり上達せず、後輩にも抜かされる補欠でした。
でも、こうした環境に逃げ出さずに耐えられたことが、逆に自分の財産になりました。辛い時期を耐えた先には何か必ずいいことがあると。試合も負け続きでしたが、「負けてから後悔しても遅い。先を見越して、負けないための努力をしておかないといけない」ということを身をもって学びました。
灘校は、医者になる学生が多い学校でしたが、私は子供の頃から解剖とかが苦手で(笑)。物理、化学も苦手なままだったので、進路は消去法で文系を選びました。
でも東大に入り、2年生になって法学部の講義が始まると、これは参ったな、と。先生の言うことがまるでわからない(笑)。どうしたものか途方に暮れ、講義を理解するために予備校に駆け込みました。
そんな武井に人生の転機が訪れたのは、司法試験の第一関門である択一式試験に合格した3年生の時。最終的な合格率は2%、択一も倍率7倍という時代で、ここから司法試験に真剣に取り組んでいく。
自分が択一に受かるなんて、これっぽっちも予想していませんでした。東大の同期の中でも合格者が少なかったですし、まぐれ以外の何物でもなかったのです。ただ、その時に思いました、「自分は司法試験と縁があるのかもしれない」「この縁は大切にしないといけない」と。
考えてみれば、子供の時の算数の成功体験を、司法試験にも援用しようとしたんですね。算数も法学も論理学として共通点があるし、司法試験は努力すればするだけ成果が出る世界だと信じて、「努力で済むのだったら、徹底的にやってみよう」と。そこからは腹を据えて勉強しました。3年からは大学の徒歩圏内に住んでいたのですが、下宿と教室と図書館の移動と、たまにやっていたテニスだけの、文京区から外に出ない日々(笑)。
とはいえ、1年後に晴れて司法試験を突破できるとは、正直夢にも思っていませんでした。前年の3年生の時の論文式試験は、散々な成績でしたし。ただ3年生の時に大学で聴いた講義では、速記者のように必死でノートをとっていました。どれも染み入るような素晴らしい内容の講義でした。
武者修行のつもりで渉外事務所へ。優秀な同僚に恵まれる
首尾よく大学在学中に合格を果たした武井だったが、実は弁護士、検察官、裁判官のどれになろうかさえ、目星がついていない状態だった。結局、「できるだけ先入観を持たずに、現場を知ろう」と取り組んだ司法修習を経て選んだのが、現在の西村あさひ法律事務所への入所である。そこには、彼なりの目算があった。
就職先は迷いました。研修所や大阪実務修習で出会った指導教官も、皆さん素晴らしい方ばかり。迷った中で最後の最後に考えたのは、「自分はここまでラッキーな道を歩んできている」という事実です。普通なら何年もかかる司法試験に、すんなりパスできた。だったら、5年ぐらい回り道してでも、まったく知らない世界に入って苦労して修行してみようと。
そこで、ろくに英語もしゃべれないのに、渉外事務所に入ろうと決めました。いくつか回ったのですが、西村事務所にはとにかく活気があって、みんな目を輝かせて仕事の話をされるわけです。同じ苦労をするならここがいいな、と。実際に入ってみてわかったのは、期待に違わず厳しい武者修行の場だということ(笑)。同僚はみなさん優秀な方ばかり。ただ何より、いろいろと議論ができるのが幸せでした。
よくやった仕事は、どこにも答えが書いていない質問へのリサーチです。図書館に籠もっていろんな資料に当たりながら、自分の頭で考える。地道な作業も多かったですが、実務家として一番大切な責任感を学べました。自分のアドバイス内容が果たして最善だったのか、常に自問自答する。自分が納得できるまで詰め切る。視野を広く取ればいろんなヒントが見つかったり、切り口の大事さに気づく。優秀な同僚に恵まれ、法律家として細かく“木”を分析する力を、まさに“腕立て腹筋”のように鍛えられました。
日本企業と外資企業とのクロスオーバーM&Aにもかかわりました。今では当たり前の“レプワラ”(表明保証)、“インデムニティ”(補償)、“デューデリ”(買収監査)といった概念は、私が駆け出しだった90年代前半、日本ではまだ一般的ではなかった。先輩弁護士から米国の先進的な実務をまさにオン・ザ・ジョブで教えていただき、日英両言語で契約書を作成していました。
幼少期から野球観戦が好きなのですが、94年の「10・8決戦」、例の同率首位で並んだ巨人対中日の国民的行事の試合の時も、土曜日ながら、日英両方の契約書を一人でその日のうちに完成させる必要がありました。事務所でテレビのある部屋に籠もって仕事していたことを、今でも思い出します。
M&Aの仕事は、日本法の特異な点にいろいろ気づく機会にもなりました。例えば90年代初頭に「どうして日本では、合併の対価として現金を渡せないのか?」という質問を受けたことがあります。この合併対価の点は2005年に会社法が改正されましたが、日本法だけを見ていてもわからない、新たな視点に接する機会にもなりました。
「ビジネス弁護士の成長は、“桃栗3年柿8年”」と武井は言う。留学前までが、細かく“木”を分析できる力を身につける“桃栗”の時期。さらにマクロの“林”や“森”を俯瞰できる力を身につけるため、95年、ハーバード大ロースクールへの留学に旅立つ。
ロースクールでは、会社法、税法、独禁法などを学びましたが、“ハーバード流交渉術”のゼミは印象的でした。いろいろなケースで交渉を実体験するのです。例えばオペラ歌手とオペラ座側の両サイドに分かれて、どんな出演契約を結ぶのかを交渉するとか。相手の立場をよく分析し、論理的、感情的、功利的という3つの説得力で交渉する、実践的な演習でした。
ハーバードのロースクールを修了後、英国に飛んで、オックスフォードのMBAコースへ。ビジネススクールに行く日本の弁護士はまだ少なかったのですが、留学前に、戦略面の選択肢を検討して道を示すアドバイスの仕事が楽しいと思ったのが動機でした。クライアントが進む道に迷っている。そこで、この先にはどういう選択肢がありえるのか、法の支配に適った選択肢を示す。選択肢の中にも“プロコン”があって、それを説明してクライアントが最善の選択を行う。またM&Aとかもそうですが、いろいろと難所が訪れるところを我々の関与でディールを前に進めることができる。これらは、社会的にも付加価値がある仕事です。こういう仕事をするためには、経営戦略論や組織論、ファイナンスなどをもっと勉強しておく必要があると思ったのです。
米国のビジネススクールだと2年かかり、阪神淡路大震災で実家が被災していたので2年は厳しいなと思っていたところ、ちょうど96年からオックスフォードで1年のコースが創設されたのもラッキーでした。ファイナンス、経営戦略、リーダーシップ論、組織論などを一通り学べただけでなく、米国のビジネスモデルを彼らなりの視点で、時に批判的に分析していたのは、視野を広げるのに役立ちました。
といっても、すべてが順風満帆な留学生活だったわけではありません。苦労したのは、やはり言葉ですね。ロースクールはペーパー試験でまだなんとかなるのですが、ビジネススクールは常に双方向で話さないといけませんから。なかなかのスパルタ環境でした。
翌年、米国に戻って、西村利郎先生のご紹介でニューヨークのポール・ワイス法律事務所に入所し、日本企業関係の仕事に携わりました。ただ、正直、それほど忙しくなかったんですよ(笑)。そこで、先輩の手塚裕之弁護士に『商事法務』の菅野安司編集長をご紹介いただき、論文を書くことに。留学から戻ると“柿8年”の時期になるので、何か形に残るものがないと差別化できないと考えたのです。
そこで書いた一つが、米国型取締役会の実態と日本への示唆という論文でした。まさに守りのガバナンスから攻めのガバナンスへと移っていった米国取締役会の機能の変遷の分析です。米国型がすべて素晴らしいという内容ではなく、日本に合うところと合わないところを峻別して指摘しました。『商事法務』に6回もの長期にわたって連載していただけたのですが、実はこれが、今につながるデビュー作というか、帰国後の仕事の重要な礎になりました。
留学から戻って商法改正を中心に制度論に関与する
弁護士が付加価値を提供できる未開拓分野はまだまだ多い。日本経済の成長戦略実現に弁護士の創造性を生かす
論文は、「日本でも、ようやくガバナンスに関する論議が出始めた」という編集サイドからのサジェスチョンを受けて書いたものだ。だが、実際に調べてみると、大半が社外の人間で構成され監督機関に位置付けられる米国の取締役会と、マネジメントボードを兼ねる日本のそれとは、著者自身が「ボードを取締役会と訳していいのか」という疑問を抱くほど、似て非なるものだった。その内容は、日本経済の再生を目指す制度関係者の目にも留まる。
98年に帰国した当時の日本は、バブル崩壊後の失われた10年の真っ只中でした。同時に、前年に持株会社が解禁されるなど、「選択と集中」といった企業活動を支える法的選択肢を増やし、日本経済を何とか立て直そうという制度論が、ちょうど本格化してきた時期でもあったんですね。
そうした政策づくりを担当される政府関係の方にも、大変幸運なことに、私の論文は相応の関心を持って読んでいただけました。例えば、当時の法務省参事官だった原田晃治さんから、『商事法務』に「今度は米国の会社分割制度を調べてもらえないか」という要請がありました。組織再編を柔軟に行えるようにして、日本企業の国際競争力を高めようと、政府が導入を検討していた時期でした。私は、当時米国にいた同僚の内間裕弁護士とともに調査を行い、制度導入の2年前の99年に論文を書きました。原田さんはとても気さくな温かい方で、制度論を前に進める創造性と現場力に接することができ、大変勉強になりました。
会社分割の話は組織再編税制という法人税法の大改正への関与にもつながりました。税法は司法修習中から興味があって勉強していましたし、西村事務所に入ってからも、現執行パートナーの保坂雅樹弁護士にご指導いただきながら、国際税務の緻密な勉強会を行っていたのです。
そんな経緯で経済成長のインフラづくりにも少しかかわるようになったわけですが、今から考えてもあの時期は、日本経済の一大変革期でした。商法は97年から毎年のように改正され、01年に至っては、3回も改正されています。そうしたなか、法学界の一流の学者の方々とご一緒する機会にも恵まれました。企業法務の世界にいる以上、会社法は必修科目ですが、実務に生かせる真の会社法を学べたのです。
光栄だったのが、有斐閣の『改正会社法セミナー』で、東大のゼミの恩師の江頭憲治郎教授から事務局として呼んでいただいたことです。東大の藤田友敬教授と神作裕之教授とご一緒に問題作成の事務局を務めさせていただきました。法改正というのは、制度を使ってみて初めていろいろな論点が出てくるもの。そういった実務の論点を様々拾って皆さんと議論しました。会社法解釈で検討すべき視野がとても広がりました。2001年改正の『新しい株式制度』(有斐閣)では、神田秀樹教授ともご一緒させていただきました。
企業や経済の成長戦略を実行するために、法制度のどこかがそぐわなくなっている。具体的にどう変えれば適合するのか?それを実務現場に即して分析して必要な提案を行う。これが、法律実務家としての私の役割でした。
ミクロから乖離したマクロを語っても付加価値はない
事務所のサイトに載るプロフィールを眺めれば、武井が、これまでにどれほど多くの政府機関や公的機関の委員会、研究会などのメンバーに名を連ねてきたかがわかる。同時に、これまた星の数ほどの論文、著作を世に出してもいる。ただそのベースには、徹底した現場主義があるという。
あんまりたくさんの書籍や論文を書いているので、「あいつは案件をやっていないんじゃないのか」と思われたりするのですが、そんなことはありません(笑)。時間配分にすれば、1週間7日のうち4日前後が案件、残りが論文執筆や公的活動という感じです。土日に執筆していることも多いです。
現場で案件などに自ら関与していないと、説得力のある制度論の議論もできないと思っています。ちなみに、こうした案件への対応と、制度改革にかかわる取り組みへのアプローチは、別のものに見えて、実は“使っている頭”の根っこが共通しています。制度というマクロが動くとなると、必ずミクロのボトルネックが、数多く露見してきます。このミクロを一つひとつ解決するべく、論点をきちんと抽出して利害調整を完了させないと、マクロも適切に動けないのです。
案件としてはM&Aや組織再編のほか、上場企業からの幅広いご相談に対応しています。最近話題になったものでは、数年前の東京エレクトロンと米アプライド・マテリアルズの“国際合併”があります。訴訟案件も、数は多くないですが、税務訴訟や企業間訴訟に関与してきました。
ガバナンス改革関連では、攻めも守りも両方、様々な案件に関与しています。最近ではガバナンスコードがマクロレベルで示されましたが、その趣旨を現場のミクロレベルで説得力をもって伝える仕事にも従事しています。
ビジネス弁護士として、日本経済の成長を願って法的なインフラ整備に尽力する武井だが、弁護士にはまだまだ、社会に提供できる付加価値がたくさんあるという。
事務所に入りたての頃、あらためて感じたのは、「弁護士というのは自由業なんだ」ということです。自由業とは仕事が来ない自由もあるわけで、「何か他人に負けないような付加価値を身につけないと、この世界では食べていけない」という思いが、常にありました。
同時に、経営コンサルタントやバンカーや公認会計士など、同じ文系の専門職がいろいろな相談を受けているのに、なぜ弁護士に相談がいかないのだろう、と。弁護士が提供できる創造的ソリューションの付加価値が、まだまだ認知されていないのでしょう。法律家という文系専門職が、その創造性を発揮できる分野はたくさんあると、ロースクールの学生にも話しています。
私のライフワークになりつつある成長戦略にかかわる分野も、その一例なのかもしれません。徹底した現場主義から緻密にミクロを分析してマクロにまで詰めていくことは、法律家にこそ期待される能力です。そういう社会の負託に応えるために、私自身もさらに研鑽を重ねたいと思っています。
事務所の創立者である西村利郎弁護士の執務室には、本が山と積まれていたという。土日まで出勤してその部屋に籠る大先輩の姿を不思議に思っていた武井だが、気がつくと自分もいつの間にか、休日出勤して勉強しているのが至福の時間になっているという。
付加価値のある仕事をするためには、日頃からの勉強が欠かせません。周辺領域まで含めて視野広くいろいろ勉強していないと、責任をもったアドバイスができないですから。
振り返ってみると、今私がこうやって仕事に打ち込めているのは、家族からの支えもありますが、事務所の同僚やスタッフの皆さんのおかげです。また仕事を通じて出会った多くの方からも現場でいろいろなことを教えていただき、感謝の念しかありません。
西村先生から教わったことは、いくつもあります。例えば、「切り口が大切だ」ということ。「魚を包丁でさばく時に、刃の入れ方さえ間違わなければ、身を崩さずにスパッと切れる。案件も同じで、切り口が正しければ、イシューが整然と並んで現れるのだ」と。
考えを必ずメモに書かせるという指導も、非常に役に立ちました。ものごとの理解度には、「聞いてわかる」「話せる」「書ける」という3段階があると思っています。聞いて理解したつもりでいても、話せなかったら不十分。話せても書けなければ、やっぱりどこか論理がつながってない箇所があるわけです。書けるだけの理解度が頭に定着していて初めて、他の論点につながる一種の化学反応が起き、プロとしての創造性が生み出されるのだと思います。
世の中が複雑化し、予見可能性が低くなればなるほど、新たなイシューが常に生じます。若い人たちには、自分の能力が社会に付加価値を提供できる、自分に適した分野を見つけてほしい。それが、私からのメッセージです。
※本文中敬称略