Vol.6
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安原 幸彦

HUMAN HISTORY

使命感や正義感だけじゃない。想像をはるかに超える出来事と心を揺るがす感動があるから、頑張れる

東京南部法律事務所
弁護士

安原 幸彦

大事なことは、最後に何を手にできるか

1996年2月、歴史的と言われた決断は、菅直人厚生大臣(当時)によって下された。社会を震撼させた薬害エイズ問題で、国が謝罪したのだ。直前の3日間、国会前で座り込みを続けていた原告らと弁護団の中に、安原幸彦氏の姿はあった。

「最後の日は、雪になりましてね。本当に寒かった。何をやっても巨大な壁が立ちはだかっていた戦い。最後まで勝てる確信は持てませんでした。でも、目の前には大勢の被害者がいる。勝つしかなかったんです」

この薬害エイズの戦いの中、東京HIV訴訟の原告弁護団は、どれほどの情熱を持って奔走したことか。戦いの舞台は、裁判だけではなかった。山場は世論を変えることにあった。そしてあの日、弁護団は、その瞬間が来るという大きな手応えを感じたのである。

「最後の最後まで、厚生大臣が何を発言するか知らされていなかったんです。だから、こういう解決の瞬間が来ることを予想していた人はいなかった。謝罪の言葉を聞いた時には、それまで張りつめていたすべての力が抜けていくようでした」

89年の第一次提訴から実に7年が過ぎていた。安原氏は、その後もハンセン病訴訟、中国残留孤児国家賠償訴訟と、国を相手取った大きな原告弁護団の一員となり、事実上の勝利を手に入れている。

「問題提起だけじゃなく、具体的な成果の上がる訴訟をやらないと意味がない。裁判で勝ったとしても、原告やその家族の抱える問題が解決し、要求が実現することにはなりません。僕たちが追求しなければならないのは、あくまでも具体的な実務であり、実利なんです」

事実、東京HIV訴訟でも、96年3月に和解をみたが、原告団のほかにも非加熱血液製剤によるHIV感染被害者は存在し、後に約700人が追訴。国の恒久対策として国立国際医療センターにエイズ治療・研究開発センターが設置されたのは、97年4月のことである。

「これは同センターの資料にもあるのですが、HIV感染症の治療法はその後に著しく進歩し、死亡者は一気に減少しているんです。大事なことは最終的に何を手にすることができるかです。東京HIV訴訟では、その後、たくさんの人の命を救うことができた。これこそが、最大の成果だったんです」

エリートなら、自ら不便な環境に身を投じるべき

1952年、東京生まれ。平凡なサラリーマン家庭で育った安原氏の周囲に法曹関係者はいなかった。実は東京大学法学部に入学するまで、「司法試験」の存在すら知らなかったというから驚きである。当時の安原青年を夢中にさせていたもの。それはスポーツだった。

「高校時代は陸上競技、大学に入ってからは、アメリカンフットボールに明け暮れましてね。それこそ大学1年のときは、24時間アメリカンフットボールのことばかり考えているスポーツ馬鹿でした(笑)」

だが、それから間もなくして、練習中に手首を骨折。これが安原氏の運命を変えることになる。

「練習に出られず、フラフラしている僕を見た友人に誘われましてね。裁判の支援活動でした。生活保護の不正受給を疑われている被告の無罪を一緒に勝ち取ろうと」

大学や高校が学生紛争で荒れていた時代である。自らその運動に身を投じることはなかったが、権力や権威の存在は意識していた。

「その頃から、社会的に弱い立場の人を助けてあげたいとか、権力から守ってあげたいという思いがあったのでしょう。それで、このときに知り合った1年先輩に言われたんです。『お前、司法試験でも受けてみたらどうだ』と。それで、弁護士に関心を持つようになったんです」

司法試験は在学中に一発で合格。弁護士としてのスタートの場には、東京の下町・蒲田にある東京南部法律事務所を選んだ。

「環境の整った都心の事務所じゃなくて、少しくらい不便なところで、自ら苦労を買って出てこそエリートだ、選ばれた者の役目だと思っていましたからね。それこそ、エリート意識プンプンでした(笑)」

入所から約10年間は、労働事件を中心に数多く取り扱った。事務所の近くに羽田空港があったこともあり、当初は航空関係企業の解雇事件などの処理に追われた。

「ほかにも、ありとあらゆる事件に携わり、ひたすら仕事をこなす日々。おかげで、案件処理の能力はずいぶんと磨けたんじゃないかな」

弁護士の力には2つある、と安原氏は言う。事件を処理する能力と、事件を引っ張ってくる能力。20代は、後者の力は小さく、前者が圧倒的に強い。30代に入ると、事件を引っ張ってくる能力が高くなっていくが、処理能力が衰えていく。さらに40代に入ると、今度は引っ張ってきた案件を自分で処理しきれなくなる。

「そこで、仲間の力やネットワークを活用して、うまいこと仕事をこなしていくようになるわけです。ただ、自分が50代になったときのことまでは、考えていませんでした(笑)」

実際、自分が培ったノウハウを次代に継承していかねば、と気付いたのは、50代に入ってからだという。そこにたどり着くまで、ずいぶん長い時間を要したものだと思われるかもしれないが、彼の活動を振り返ってみれば、もっともなことだ。東京HIV訴訟が始まったとき、安原氏は35歳になっていた。以来、難度の高い訴訟や救済活動に次々と関わり、怒濤の日々を過ごすことになるからである。

エイズパニックは重大な事件を葬るための陰謀だった

安原 幸彦

ところで、安原氏が弁護士人生をスタートさせた77年と言えば、それまで長く分裂していた「原水爆禁止世界大会」の国際会議が、14年ぶりに開催された年である。そして、たまたまそれに参加したという安原氏は、そこで被爆者の実際を知り、原爆被害者問題にのめり込んでいく。

「原爆症認定訴訟が始まるのは、その20年以上も後なんですけどね。当時はまだまだそんな状態にはありませんでしたから。今、考えると信じられないことですが、戦後12年間はプレスコードによって原爆のことについては話すこともできない、被爆者に対して何の援護、支援もないという状況が続きました。そして、57年にようやく旧原爆医療法ができ、原爆認定を受けた被爆者に医療給付の受給資格が付与されることになったんです。けれど、68年に旧原爆被害者特別措置法ができると、認定を絞り込む傾向が強くなり、認定被爆者の数が1%にも満たないという事態が続きます。私が原爆被爆者問題に取り組み始めた頃も、まだ『原子爆弾の障害作用とは何か、それに見合う補償は何か』といった議論が繰り返されていました」

しかし、原爆被害者問題は、放射線による起因性を立証するだけでは、解決には至らない。まずは、被害者がどういう心理構造にあって、どんな障害を抱えているのかを知る必要があった。

「原爆被害者が受けた傷というのは、ケガや病気だけじゃないんです。彼らは、地獄を見ていた。光景だけじゃない。爆風や熱線から自分の身を守るためには、死骸やケガを負って苦しんでいる人を踏みつけて逃げるしかない。目の前に、助けを求める自分の親や子がいても、どうすることもできないんです。そこで立ち止まり、救いの手を差し伸べていたら、自分の命すら失うことになります。被害者は常に、誰かを犠牲にしてきたという罪悪感を持って生きている。これをしっかり理解しないと、何も解決できないんです」

さらにこの当時、安原氏は医療問題弁護団に参加したことで、薬害エイズ問題に取り組むことになる。だがこの頃の日本は、いわゆる「エイズパニック」に陥っていた。世間では、HIV感染とAIDS感染が同等に扱われ、「感染者は隔離すべき」との声であふれ返っていたのだ。HIV感染被害者が自ら救済を求めることなどできるはずもなかった。

「決定的だったのは、女性被害者の出産報道でした。この女性の感染経路は、交際中の血友病患者にあったにもかかわらず、誤った報道によってAIDS感染者と捉えられてしまった」

この騒動について、安原氏は非加熱血液製剤によるHIV感染被害の重大さに気付いた国や企業が、その事実を隠匿するための工作だったと見ている。

「当時の日本では、性感染によるAIDSの発症事例はほとんどなかったんです。ところが、報道は性交渉によるAIDSのことばかり。しかも、そこには関係者しか知り得ない情報が含まれているんですからね。リーク以外考えられませんよ。AIDS発症を表に出して、薬害エイズを葬り去るためにです」

目の前に突きつけられた被害者の苦しみ

医療問題弁護団にこの問題を持ち込んだのは、自ら血友病患者だった保田行雄弁護士だった。それを知った、医療問題弁護団代表の鈴木利廣弁護士は提訴を決意。彼らの熱い戦いが始まるのである。

「難題は山積みでした。被害者のプライバシーは守れるのか。原告は集まるのか……。調査には2年もの歳月を要しました」

こうして89年に、薬害エイズ弁護団が結成され、提訴に踏み切ると、さらに厳しい事態が続いた。こちらが10ページの書面を出せば、相手からは100ページもの反論が返ってくる。情報の多さではかなわないのだ。しかも、原告13名のプライバシー保護のための匿名訴訟を堅持した彼らには、尋問の際は衝立を立てる、訴訟記録はカギをかけた書庫に保存するといった、裁判所との交渉手続きもある。何をするにも、苦戦を強いられた。

「私たちが目指したのは、真相究明、恒久対策、薬害根絶です。裁判前に調査面接した10代の青年は、自分が薬害エイズ感染者だと告げられたときの気持ちを『目の前に、バサっと黒い幕が引かれた』と表現したのです。僕が、どんなに頑張っても想像もできないような言葉でした」

人は未来があるから生きる力がわいてくるもの。彼の言葉は薬害被害の深刻さを物語っていた。

「別の青年は法廷でこう述べました。『1日でも1時間でもいい。いや1分でいいから。エイズのことを忘れたい』と。ショックでした。明けても暮れても頭から離れない。それが薬害被害者の現実なんです」

なんとかして打開策を見つけなければ。弁護団の有志は身銭を切り、調査団をアメリカ視察に向かわせる一方で、日本中の研究者にも協力を要請した。だが、決め手はない。

そして臨んだ原告団総会の日。どこからともなく「もはや、誰かがカミングアウトして、直に国民に訴えるしかない」という声が聞こえた。

「そんなこと無理に決まっている」誰もが心の中で、そう呟いていた。その時である、原告団席からスーッと手が上がった。

「僕、やります」

川田龍平君だった。会場がどよめく中、弁護団は互いの目を見つめ合いながら、彼の勇気を無駄にしないと誓った。

「それから半年かけて、新聞、テレビ、雑誌などを使った精緻な戦略プログラムを練り上げました。すると、彼の活動を支援する女の子が集まり始めました。面白いもので、女の子が集まるところには、男の子が集まってくるんですね。展望が見えた、と思いました」

新聞やテレビでは連日のように、薬害エイズ被害の実態が報じられていく。95年7月、厚生省を取り囲んだ「人間の鎖」には、実に3500人もの若者が参加したのである。まさに異例の事態だった。結審前にはNHKスペシャル「埋もれたエイズ報告」が放映され、裁判でもその事実関係が認められた。

控訴断念の決断を促した首相あてのメッセージ

ただ、その時点では、確かな見通しがあったわけではなかった。そこで、弁護団は裁判所の所見と和解勧告を手に、政治的解決のための説得に挑む。求めるのは、勝訴ではなく被害者救済のための実利だからだ。説得は官僚にも向かった。

「人間の鎖は、厚生省にも相当な圧力になりました。でも一方で、僕たちは第一線の局長、課長たちに率直に思いを伝える場を作っていました。訴訟相手に対して、プレッシャーをかけるだけではいけない。たたくだけでは反発されるだけ。攻めると同時にシンパシーも得なければ、相手を動かすことはできないのです。なぜなら裁判解決後の恒久対策には、官僚の力が必要になる」

弁護団は、水面下で何人かの議員と会い、政治に対する効果的なアプローチの方法を模索した。そして、その標的としたのが、当時の菅厚生大臣が所属する新党さきがけである。橋本龍太郎内閣で連立を組んでいたさきがけは、この事件を契機に内閣とともに一気に国民の支持を得ることになる。政治の世界は単なる感情論では動かない。しかし、政治家の計算だけで動くわけでもない。

「大事なのは、その両方に応えていくことです。なんのために政治家になったのかという原点。一方で政治的な野心も意識したプレゼンテーション。その両方を意識する。国を相手に戦うということは、トップの意思を変えるほかない。それは、いつ、どんな状況のときなのか。それを追求しないといけません」

弁護団が奔走する一方で、安原氏は、橋本首相に「控訴断念」の政治決断を促すメッセージを綴り、ある議員にそれを託した。

こうして迎えた96年2月。3日間の座り込み最終日、菅厚生大臣は国の責任を認めて謝罪した。薬害エイズ訴訟は和解で終了したのである。

やりたいこと、やるべきことが一致させられる仕事

安原 幸彦

強い者が勝っても、面白くないじゃないですか。弱い者が勝つから、ドラマチックなんです

安原 幸彦

それともう一つ。安原氏を語るうえで忘れてはならない取り組みに、2005年に始まった中国残留孤児国家賠償訴訟がある。原告は、祖国に帰国を果たした喜びの一方で、苦難を強いられていた。言葉の問題に加え、バブル崩壊後の不況で仕事もなく、生活不安を抱える人が続出したのだ。国がこの状態を放置した責任を問うたのが、この訴訟だった。なかでも、関係者を驚かせたのは、北海道から九州に至る全国15カ所の原告団が一斉に提訴したことだ。

「塵肺訴訟やスモン訴訟など、過去にも例がありました。世論を喚起するには、一つの方法になると。僕が注目してほしかったのは、政策対象者である残留孤児の9割が訴訟に加わっていること。これは、明らかに問題があったということでしょう」

実際、裁判そのものは敗訴が続く。だが、東京地裁が原告の請求を棄却した際、当時の安倍晋三首相は原告団と面会、新たな支援策の検討を指示したことで大きな注目を浴びた。

「これは与党に、残留孤児に対して我がことのように思える世代など、原告団の活動を支援する議員が多くいたことが影響しましたのかもしれません」

それにしても、50代半ばも過ぎたというのに、安原氏のこの情熱と行動力はどこからくるのだろう。

「あんまり言いたくないんですけどね。実はたまらなく面白いんですよ。自分の好きなように絵を描くでしょう。それが現実になっていく面白さ。しかも、その過程で自分の想像をはるかに超えるような出来事が起きる。川田君が自ら手を上げてくれた時もそうだったし、ハンセン病国賠訴訟(熊本地裁)の判決に対して、首相になって間もない小泉純一郎氏が『控訴せず』の決断を下したときもそうだった。その感動的な瞬間がたまらないんですよ。もし生まれ変わったら? また弁護士になりますよ。自分のやりたいことと、やるべきことを見事に一致させることができますからね。こんな贅沢な仕事、ほかにはありません(笑)」

それには、志を持つことが大切。志を持つ人こそが、この仕事で大きな力を発揮する。そう語る安原氏。

「ただし間違っても、志と欲求を混同してはいけません。金儲けがしたければ事業家になればいい。『お金なんていらない』なんて、きれいごとを言うつもりはないですよ。お金は稼がなければならない。優秀なスタッフを雇うにも、活動のための資料を買うにも、出張に行くにも、お金は必要ですから。でも、お金を得ることだけを目的にするのはおかしいということです。僕ですか? やっぱり、『弱きを助け、強きをくじく』がいいですね。だって、強い者が勝っても、面白くないじゃないですか。弱いものが勝つから、ドラマチックなんですよ」