Vol.61
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弁護士 井戸 謙一

HUMAN HISTORY

法曹は、与えられた資格の社会的意義を十分に理解し、胸に刻むべきだと思う。そして、自分が正しいと信じることを貫いてほしい

井戸謙一法律事務所
弁護士

井戸 謙一

憧れはジャーナリスト。大学時代に進路変更し、司法試験に合格

「社会に出て行く時、何か武器がほしい」――法曹資格はその武器に成りうると考えた井戸謙一は、大学在学中に司法試験に臨み、一発合格。裁判官として法曹界に入ってから、神戸地方裁判所を皮切りに福岡、大阪、山口など、日本各地を転々としながら32年間におよぶ道のりを歩んできた。判決に関与した著名な事案としては、我が国で初の違憲判決となった参議院定数訴訟、住基ネット差止等請求事件、そして志賀原発の原子炉運転差止請求事件などが挙げられる。いずれも、従来の慣習的な枠組みにとらわれず、思い切った判断をしてきた点に“井戸イズム”がある。57歳の時、依願退官して弁護士へと転身した井戸は、現在、滋賀県彦根市内に事務所を構えており、原発訴訟を柱としながら市井の事件と日々向き合っている。貫き続けているのは「自分が正しいと信じることをそのままに」という絶対的なポリシーだ。

旧国鉄で最後まで一運転士として働き続けた親父は、国労での活動も貫き通していました。家庭が社会党支持だったから、政府や体制批判の声はよく耳にしていたし、やはり影響を受けたのでしょう……わりに子供の頃から社会問題には興味を持っていました。中2の時だったか、部落問題を取り上げたNHKの特集番組を見たんですけど、この問題を全然知らなかった僕は、「日本にこんなことがあるのか」とショックを受けまして。それから意識していると、大人たちが差別的な言葉を使う場面が実際にあったり、革新的な考え方をしていた親でさえ、どこかに差別意識があるのを知ったりで、憤慨したものです。正月など、集まった親戚と議論をすることも度々でした。

大阪府立の三国丘高校に進学した頃から、世は学園闘争の時代に入り、ヘルメットを被ってデモをする人たちを見てきたクチです。僕が初めてデモに参加したのは、忘れもしない1970年6月23日、安保改定の時。この日の朝、担任が「今日は歴史的な日だ。後悔のないよう今日という一日を生きてほしい」などと言うものだから、「よし、デモに行ってみよう」と。参加したのは、クラスで僕だけでしたけどね。そういう時代にいましたし、この頃、ものすごく人気のあった本多勝一に憧れていた僕は、将来ジャーナリストになりたいと思っていたのです。

一方で、中・高6年間、熱心に続けたのはバレーボール。高校時代は部のキャプテンも務めたんですよ。選手としては背が低いのでセッターでしたけど、ブロックにも飛べるよう、必死になってジャンプ力をつける練習をしていました。僕がブロックすると鋭角にはならず、手に当たったボールは緩い線を描いてコートの後ろに飛んでいくものだから、前に寄ってきて構えているレシーバーたちを尻目に、けっこう点を稼いだものです(笑)。

弁護士 井戸 謙一

大学進学を控えた頃「成績がポンポン上がっていった」井戸は、受験先を東大一本に絞る。歴史や社会が得意だったことに加え、ジャーナリスト志望であったことから、選んだのは文Ⅲ。無事合格を果たして大学生活を送るなか、井戸はそれまでとは違う将来像を描くようになるのだが、契機となったのは、参加していた教養学部のセツルメント(大学生による貧民救済事業として始まった学生サークル活動)だ。

教養学部の学生は、貧困地域に行って子供たちに勉強を教えたりするわけですが、周りに多かったのが法学部の連中。この頃、サラ金問題が深刻化していて、法学部の学生が法律相談のかたちで支援していたんです。そういう学生たちに話を聞くと、皆「弁護士になる」と言う。法曹を意識するようになったのはここからでした。ジャーナリストもいいけれど、どういう立場になれるのかが見えなかったし、かといって、普通に就職する気が全然なかった僕は、社会に出るに当たって何か武器がほしいと考えるようになったのです。それが法曹資格。

司法試験に向けて勉強を始めたのは3年の夏からです。文Ⅲから法学部に編入する道もあったのですが、成績がその条件を満たすのに辛くも届かずで、僕は教育学部に在籍していました。なので、出る授業は必要最小限にとどめ、法学部の受験仲間と勉強会を開きながら学ぶというスタイルです。あとは、とにかく基本書を読み込む。1週間に100時間勉強すると決めて、頭に詰め込みました。

そうしたら、翌年初めて受けた短答式試験に通っちゃったんです。次の論文試験まで数カ月、準備なんて何もしていないから、今度は大慌てで会社法、民訴、労働法などをやって……それがまた通っちゃった(笑)。法学部の連中でも難しいのに、運が良かったのでしょう。僕は単位不足で卒業自体が危うかったし、合格しないと将来の見通しが立たない状態だったので、ほっとしたというのが実感でした。もっとも、早くに合格したぶん、修習生になってからけっこう苦労しましたけどね。

裁判官の道へ。慣習にとらわれない判決を重ねていく

井戸は、その後1年間大学に残って不足単位を修得し、教育学部をしっかり卒業。31期司法修習生として、大阪で修習に入った。セツルメントの経験から、当初は弁護士になろうと考えていたが、ここで井戸は裁判官へと志望を変えている。「大阪の裁判官が、非常に元気で魅力的だった」からだ。

当時、大阪方式、東京方式というのがあって、特に刑事部のやり方は全然違ったんですよ。例えば学生裁判なら、東京の場合は、法廷内で暴れるようなことがあれば警察を入れて追い出し、被告人不在で裁判を進める。対して大阪は「警察を入れたら裁判にはならない」ということで、頑として受け入れなかった。最高裁としては東京方式を望んでいたんでしょうけど、大阪には、「俺たちが正しいと思う裁判をする」、そんな雰囲気があったのです。それは修習生にも伝わってきて、影響を受けたのは確かです。気概を感じ、僕にとってはそれが魅力的に映ったのです。

どんなに弁護士が頑張って訴訟しても、仮に裁判官が聞く耳を持たない、あるいは理解しなかったら、いい結果は出ないわけでしょう。どうしたって、最後を決めるのは裁判官なのですから。修習を通じて、最終的な決定を出すという仕事の意義、面白さも感じていました。弁護士になると二度と裁判官にはなれないけれど、裁判官がダメだと思えばいつでも弁護士になれる。ならば、裁判官をやってみようと。

僕は一癖あると思われたのか(笑)、裁判官にと誘われはしませんでしたが、何とか希望どおりになったという感じでしょうか。修習中に、高名な刑事裁判官である石松竹雄さんから直に心構えを教わったこと、あるいは最上侃二さんが口酸っぱくおっしゃっていた「何より大切なのは裁判官の独立である」という言葉は、ずっと心に残っています。

弁護士 井戸 謙一
滋賀県彦根市にある井戸謙一法律事務所の執務デスクにて

79年、井戸は神戸地方裁判所に判事補として任官、スタートを切った。神戸地裁も活気にあふれ、裁判官会議ではいつも喧々諤々の議論が繰り広げられていた。いわゆる「シャンシャン会議」ではなく、時には、所長提案を反対多数で覆すこともあったそうだ。その活気は井戸の性に合っていたのだろう、「仕事はとにかく面白かった」。

任官して間もなく担当したのが、76年に起きた神戸まつり事件です。暴走族が群衆を巻き込む格好で起きた暴動で、多くの人たちが負傷し、新聞記者1名が死亡しました。この時、警察の装甲車を押した暴力行為で2人の若者が逮捕拘留されたのですが、取り調べ中に自白があったことから、殺人罪で起訴された。でも、これは別件逮捕拘留中の自白であり、自白調書の取り方が違法だということで、殺人については無罪判決にしたのです。その後、大阪高裁でも判決は維持され、無罪は確定しました。別件逮捕拘留中の自白の証拠能力をどう考えるか、この点を捉えた有名な裁判例の一つとして、今でも取り上げられているので、僕としても非常に印象深い事件です。

あと、同様に印象深いのは、大阪高裁で左陪席に就いていた90年代半ば頃の事件。一つは、90年に行われた参議院(選挙区選出)議員選挙に対して、「選挙が無効であることの確認を求める」という、いわゆる参議院定数訴訟です。この類の訴訟は、過去何回となく提起されてきましたが、裁判所が出した判決はすべて合憲。「違憲状態判決」すらなかった。それだけに、いきなり違憲とするのは難しいだろうと思いながらも、最大で6.59倍に及んでいた定数格差からすれば、少なくとも違憲状態判決は出さなければいけないと。そして合議の結果、違憲でいくことに決まったのですが、これが、日本で初めての違憲判決となりました。

その同時期に関与したのが、指紋押捺拒否で逮捕された在日韓国人二世が、逮捕は違法だとして申し立てた国賠訴訟です。一審は棄却でしたが、僕たちはその訴えを認めました。逮捕状を請求し、執行した京都府警の違法、そして逮捕状を出した地裁の裁判官の違法を。裁判官の職務義務違反を認めたというのは極めて稀なケースです。結果的には最高裁で逆転されましたが、ある意味、注目された事件でした。

名もない事件であっても、逆にどんなに社会的反響の大きい事件であっても、どこからも何の圧力も受けず、裁判官だけで議論して結論を出す。当事者が出した主張と証拠をしっかりと受け止めて判断し、結論を出す。僕は仕事を通じて、中立、公平の意義を学び、それを守り続けてきたつもりです。

弁護士への転身。持てる力を生かして原発訴訟に挑む

弁護士 井戸 謙一

期待される役割には、持てる力の限りを尽くして応えていきたい

井戸が“一国一城の主”である部総括判事の指名を受けたのは2002年、同時に赴任したのが金沢地方裁判所だ。
「どの地も楽しかったけれど、思い切った判決を出したという点で、金沢はより思い出深い」。その筆頭はやはり、北陸電力志賀原発2号機の運転差止訴訟で、住民の訴えを認めた事件だろう。

赴任した時には、裁判が起きてすでに3年半ほど経っていて、当時、原発訴訟は全敗の時代だったから、裁判所のなかには「住民が訴えても難しい」という空気がありました。僕自身も、漠然とそう思いながら記録を読み始めたんです。素人なりに一生懸命勉強をして。すると、いろんな問題が浮き彫りとなり、安全性についてもっと立証されなければ、従来どおりの棄却判決は出せないと思うようになったのです。

主な問題としては、まず、直下型地震が起きた場合のマグニチュードの想定が小さすぎたこと。そして、志賀原発2号機の近くにある邑知潟断層帯の動きに関する見解の相違。05年の春に出された政府調査委員会の評価によると、邑知潟断層帯は全部同時に動く可能性があって、その場合の想定マグニチュードは7.6だと。ところが北陸電力は、断層帯は連動しないとし、原発に一番影響がある断層が動いたとしても、マグニチュードは6.5くらいだと主張したわけです。どちらが正しいかわからないけれど、でも、原発事業者としては、調査委員会の見解を前提にしても大丈夫な安全対策を取るべきです。いずれにしても、原告住民側が提起している問題に対して、北陸電力からまともな主張が出てこなかったので、差止判決を出したのです。

こういう判決を出した後の社会的反響は大きく、推進派から攻撃されることも容易に想像がつきます。その時、どこに出しても恥ずかしくない、確かな事実認定と正しい論理に基づいた判決でなければ耐えられない。その確信が持てる判決を書き上げるまでには、布団のなかで考えていると全身が汗でびっしょりになる日もありました。それでも、決して自分を偽らないという思いがあればブレることはありません。

その後の京都地裁と合わせ、通算8年の民事部総括を務めた後、大阪高裁に転勤。ここで「裁判官として一番面白い時代は終わった」と判断した井戸は依願退官し、弁護士としての道を歩み始める。あの東日本大震災が発生した11年のことだ。当初は、居を構える彦根市で「マチ弁を」と考えていたそうだが、このタイミングは結果的に、井戸を別の世界へと導いた。

現在の僕の活動から、よく「3.11がきっかけで辞めたんでしょう?」と言われるのですが、そうじゃないんですよ。あの事故が起きたのは、裁判官を辞める直前ですから。むしろ、起きた時に思ったのは、自分の認識が非常に甘かったということ。志賀原発でああいう判決を書いていながら、まさかこんなにも短期のうちに起きるなんて想定もしていなかった。使用済み核燃料や集中立地の恐怖。これも頭になかったから、とにかく認識が甘かったという気持ちが強かった。テレビで福島第一原発の爆発映像を見た時は、「日本にはもう人が住めない」と体中から力が抜けたような感じでしたね。

事故後、僕は志賀原発の運転差止判決を出した裁判長ということで、メディアから取材を受けるようになりました。それで知名度が上がったのか、同じ滋賀県の吉原稔弁護士が相談にいらして、「大津地裁で原発訴訟を起こすから弁護団に入ってくれ」と。僕としては、裁判官時代のものを使って弁護士をやるのは何だかアンフェアな気がして、最初は断っていたんですよ。でも強引な方で(笑)。確かに、滋賀県の弁護士に原発訴訟の経験がある人は一人もいなかったし、自分の知識が役に立つのならばお手伝いしようと思ったわけです。途中、吉原弁護士が病に倒れてしまったので、僕が住民側の弁護団長を務めたという経緯です。

裁判官を辞めた時は、自分が弁護士として原発訴訟に立つとは思ってもいなかったけれど、現在は、大間原発や伊方原発など5つの訴訟活動にかかわっています。判決は、勝ったり負けたり……今後も続くでしょう。これらは短期間で決着がつく問題じゃないですが、力が続く限り、やり続けなければならないと思っています。

原発関連と市井の事件。役割を全うするべく走り続ける日々

原発関連でもう一つ、井戸が力を注ぐものがある。「ふくしま集団疎開裁判」(11年6月提訴)に始まる子供の被曝問題だ。郡山市の小学生14人を原告として、安全な環境で教育を受けられるよう市に対して集団疎開を求めた同裁判は、原発事故による子供の被曝を巡って司法判断を求めた初のケース。注目を集めたが、福島地裁は申し立てを却下。井戸はここに風穴を開けるべく、今日も活動を続けている。

もともとは、大学時代の友達が集団疎開裁判の準備を始めていて、「相談に乗ってくれ」と声をかけてきたのです。その過程で、僕が一番ショックを受けたのは、何といっても20mSv(ミリシーベルト)問題。文科省が、福島県内の学校での放射線許容量を年20mSvに設定したもので、これはとんでもないと。かつての志賀の判決でメルクマールにしていたのは、志賀原発が事故を起こした場合、1mSv以上の被曝をする恐れがあるかどうか、でしたから。それを20mSvまでは学校を開いていいなど、あり得ない。

国民を助けるのが国、官僚の仕事であるはずなのに、ここまで劣化しているのか……それなりに被曝の問題を勉強してきた人間として、看過できないと強く思ったのです。実際のところは元裁判官ですから、どこかの審議会の委員にでもなって“中立の顔”をして余生を過ごしてもよかったのですが、そんなことは言っていられません。

集団疎開裁判のあとも、「子ども脱被ばく裁判」を提起して、被曝問題についての活動を続けています。このまま政府の被曝政策が完結すると大変なことになるから、どこかで風穴を開けないと。福島が今後どうなるか、国際的なモデルケースとして注目されているわけで、日本の責任は極めて大きいのです。

弁護士 井戸 謙一
出張の移動の合間に、喫茶店でコーヒーブレイク。スケジュールをチェックする井戸氏

現在の仕事状況を尋ねると、「原発関連が6割ほど、あとはマチ弁」。地域の町医者のようにという初志は変わらず、井戸は遺産相続、離婚、交通事故などといった市井の事件にも取り組んでいる。依頼は引きも切らずで、さすがにオーバーワーク気味だが、それでも「期待される役割には、力の限りを尽くして応えたい」と井戸は言う。

最初は“元裁判官である弁護士像”みたいなものがあって、それを壊すのは……という気持ちもあったんです。でも、弁護士として走り始めると、そんな自分自身のプライドより、現実の裁判のなかで結果を出していくことのほうが、よほど大事だと実感しています。弁護士って、社会的な役割からしたら大した職業じゃないですか。例えば、原発をなくしたいと思う人はたくさんいて、僕らよりもっと人生を賭して活動する人だっている。でも、今の日本社会で現実に原発を止めていくには、司法で止めるしかない。その時、当事者の主張や学者の意見を集約し、書面にまとめ、裁判官を直接説得できるのは弁護士だけでしょう。そういう資格を与えられているのって、ものすごく社会的意義のあることで、我々はそれを十分に自覚する必要がありますよね。

弁護士過剰問題が取り沙汰されて久しいですが、将来を悲観的に考える必要はないと思っています。僕が市井の事件に携わるなかで感じているのは、“信頼”の重要性。言わずもがなですが、実際のところはどうでしょう? 人は生活において様々な法律問題を抱えているもので、最初は交通事故の相談に来た依頼人から「実は相続の問題もあって」という話を聞くことは珍しくありません。信頼していろんな問題を相談できる弁護士は絶対的に必要で、そのニーズはまだまだ眠っているように思います。

裁判官時代も僕が意識していたのは、この信頼。司法への信頼ですね。例えば本人訴訟の場合など、弁護士も断るようなやっかいな事件だったりするのですが、僕は極力ていねいに扱ってきました。主張をしっかり聞き、納得できれば証人尋問もする。だから勝敗にかかわらず、「しっかりと審議をしてくれた」と、けっこう評判が良かったんですよ。それは弁護士としても同じで、要は事件に対する取り組み方であり、当事者に対する姿勢。自分が正しいと信じることを貫き、決して自分を偽らない仕事ができれば、それが幸せな人生につながるのではないでしょうか。

※本文中敬称略