Vol.63
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名取 勝也

HUMAN HISTORY

グローバル企業でのジェネラル・カウンセルの経験に基づいて、顧客とともに最後まで最善を尽くしきる―。
常にその姿勢を貫いてきた

名取法律事務所
弁護士

名取 勝也

「国際的な仕事ができる弁護士になりたい」と独学で司法試験に挑戦

渉外事務所に入所後、米国留学から帰った名取勝也は、外資系企業の日本法人に転職する。まだインハウスローヤー自体が珍しかった1990年代初め、その世界に飛び込んだ若き弁護士は、その後外資を中心とする錚々たる企業の法務部門のトップ、ジェネラル・カウンセル(GC)を歴任する。2012年に個人事務所設立後は、再建を目指していたオリンパスの社外監査役に招かれ、複数社の社外取締役も務めている。そんな日本を代表するビジネスローヤーの原点は、“自分で学ぶ”精神を培った青年時代にあった。

生まれは静岡の港町、焼津です。家は海のすぐ近くで、夏は毎日泳いでいましたね。父親は遠洋に出る船に乗り込んで、世界中の海を巡っていました。その父もさらには母さえも、私に「勉強しろ」と言ったことは一度もない。今思うと、“上から教えられる”ことに頼らない性分は、そんな家庭環境で刷り込まれたのでしょう。

ただ、自ら勉強することは嫌ではなく、静岡高校に進学した頃は、東大法学部に行って官僚になろう、と漠然と考えていました。ちなみに、一応山岳部に所属していました。でも、山登りの格好をして麓でベースキャンプは張るのだけれど、たいていそこまで。もう時効ですけど、飲んで騒いで、翌朝は登山どころではないわけです(笑)。

何を思ったか、一度だけ冬山に挑んだことがありました。南アルプスの仙丈ケ岳という3000メートル超の山です。途中で吹雪いて、何も見えなくなって。無謀にもそれでも登山を続けていたら、偶然下山途中の静岡大学山岳部のパーティーに出会いました。「どこに行く気だ」と聞かれたので、「山頂へ」と答えたら、「そんなことをしたら死ぬぞ。俺たちについて来い」と。それで助かった。彼らに会わなかったら、本当に遭難していたかもしれません。

名取 勝也
同事務所のシニアパートナー江尻隆弁護士と

東大合格の夢は叶わなかったが、浪人は考えず、官僚への道はすっぱりと諦め、慶應義塾大学経済学部に入学する。受験動機は、「看板学部だから」というものだったのだが、その在学中に“畑違い”の司法試験を目指そうと思い立ったのは、なぜなのか。

たまたま人づてに、東京商船大学を卒業して司法試験に合格した人を紹介してもらったんですよ。話を聞いたら、海事関係の弁護士になりたくなったのだ、と言うのです。海事ですから、相手は世界。根が単純というか、何か決める時にあまり深く考えないというのも、私の性格なんですね(笑)。弁護士というのは世界を股にかけた仕事ができる、面白そうじゃないか、と直感的に感じて、司法試験への挑戦を決めたわけです。もともと英語も好きで、外交官のような国際的な仕事がしたいという気持ちも、心の中にありました。

経済学部生でありながら、司法試験突破を目指す。にもかかわらず、2年生ぐらいで始めた勉強は、やっぱり独学です。解説書や六法全書を買ってきて、下宿の部屋に籠もってひたすら読む。当時は、「30歳までに受かればOK」と普通に言われていた時代ですが、試験はあくまで実務家としてのスタート地点に立つための条件なので、できるだけ効率的に通過することだけを考えました。知識はすごく豊富なのに、なぜか何年も合格できない人から教えてもらうのは、その目的からはずれるのではないかと思って、意図的に外部との接触は遮断しました。“自分でわかる”やり方を貫いたんですよ。

合格は、大学を卒業した翌年、4回目のチャレンジでした。友人たちのほとんどはすでに一流企業に就職していたし、心底ほっとしました。経済学部のまま卒業しましたが、自分のなかに一つの視点に拠るよりは複眼的に世の中をとらえるほうがいいのでは、という考えがあったからです。

事務所に入り米国留学。「2年で帰国」の約束を反古に

司法修習を終えた名取は、当時の代表的な渉外事務所の一つだった桝田江尻(現西村あさひ)法律事務所に就職する。「国際的な仕事がしたい」という希望に沿って選んだ職場は、否応なくOJTで鍛えられる環境にあった。

当時は特に、弁護士を目指す人間には、弱者の味方、社会正義の実現のために、という志向が強かったと思います。でも、申し訳ないのですが僕はそうではなくて、その頃には「国際的なビジネスにかかわる弁護士に」という目標が、かなり明確になっていたのです。修習の合間に日経新聞を読んでいて、教官に煙たがられたことも(笑)。桝田江尻を選んだのは、大きすぎず、先生たちも若くて雰囲気がよさそうだったから。業界をよく知る人の「すごく伸びている事務所」という評価も決め手になりました。ただ、実際に入ってみると、“すごく伸びている”のは確かでしたが、人が全然足りない(笑)。まだ26歳の駆け出しにもかかわらず、1年目からクライアントとの会議に一人で対応させられるわけです。

今でも鮮明に覚えているのが、誰もが知る食品メーカー国際部の部長さんとの会議で、サイドレターの法的拘束力について尋ねられて必死で答えたり、グアムのゴルフ場用地買収を計画していた依頼者のために一人で現地に赴いて専門家や関係者と交渉したりしたことです。大変だったけど、とても面白かったですよ。

ミネベアが三協精機に国内初のTOB(敵対的買収)を仕かけた案件に携わったのも鮮烈な思い出です。ディフェンス側である三協精機のサポートをした桝田淳二先生の鞄持ちでしかなかったのですが、クライアントとの会議に同席したり、大学の先生に鑑定意見をお願いに行ったり。こんなにすごい世界があるんだというのが率直な感想で、進んで飛び込んだにもかかわらず、これからやっていけるのだろうかと不安にもなりました。でも、その後、GCとして様々な修羅場に臨んだ時には、このような経験が役に立ちました。

名取 勝也
名取弁護士の秘書は長女のさおりさんが務めている

本人は「弁護士としてはちゃらんぽらんの3年間だった」と評するが、期待もされていたのだろう。90年には、米国シアトルのワシントン大学ロースクールへ留学を許される。事務所からは「2年で帰国」を条件に認められた米国行きだったが、この時すでに、胸中にはある“秘策”があった。

履修したのは、日本法とアメリカ法の比較のプログラムです。後に東大の教授になり、またワシントン大に戻っているダニエル・フット先生が指導教官だったのですが、学びに行った意義は十分でした。ちなみに今年の3月、フット先生の授業にスカイプで参加して、日本のインハウス・カウンセルについての講義をしました。1年でそこを終え、2年目はシアトルの法律事務所でフルタイムで働きました。折しも日本はバブルの絶頂期で、現地に進出してくる日本企業が引きも切らず。

朝から晩まで忙しかったのですが、アメリカ人弁護士の仕事のやり方を目の当たりにできたのは、非常に有意義でした。クライアントの利益の実現という目標を念頭に、あらゆる事態を想定し、準備万端整えてクライアントに向き合う。当然といえば当然ですが、彼らの準備には隙がないわけです。同時に、顧客とは対等なパートナーで、その利益のために最大限の努力を払う、というプロ意識にも学ぶところが多かった。安全なところから当たり障りのないことだけを言ってもダメなのだと、強く感じました。

本来はその2年で日本に戻ることになっていたのですが、実は僕には、帰国しないでそのままビジネススクールに行くという考えが最初からありました。日本企業による海外投資が盛んな状況でしたし、実際桝田江尻もそうした案件に多く携わるようになっていました。そのための先進的で国際的な経営手法を学びたいと思っていたのです。事務所にしてみれば、ひどい話です。資金を補助して留学させたのに、騙し討ちみたいに帰ってこないのだから。江尻隆先生からお怒りの手紙をいただきましたが、当然ですよね。

「お許しください」という気持ちを抱えつつ入学したのが、ワシントンDCにあるジョージタウン大学ビジネススクールでしたが、“誤算”だったのは全科目においてグループスタディが課せられていたこと。しかも、グループに日本人が複数入ることは禁止されていたので、欧米の学生たちの議論についていくのに大苦労です。夜10時頃からのミーティングもたびたびで、終わると日付が変わっていたり。事務所に嘘をついた代償にしても、辛かった(笑)。

ただ、そこでも「欧米流の意思決定」に身をもって触れたことは大きな財産になりました。彼らは絶対に議論を曖昧にしないのです。喧々諤々やり合って、しかしだんだん収斂させていって、どこかでパッと折り合いをつける。議論に参加していて、日本人とは“響くところ”、納得のポイントが違うことを実感できただけでも、収穫でしたよ。その後、外資系企業で働くようになって、何の違和感もなく彼らの流儀に合わせることができたことは、そうした体験の賜物だと思っています。

ビジネスの世界に飛び込み、次々に新天地へ

名取 勝也

人は環境に育てられる。そういう“場”を目指しチャンスを逃さないことが重要である

異国で奮闘するさ中、サーチファームから「エッソ石油の日本法人が弁護士を探している」という連絡が届く。「桝田江尻に戻る」「マッキンゼーのようなコンサルに行く」との“3択”から名取が選んだのは、「事業会社に入る」ことだった。

ビジネススクールに行くと決めた時点で、近い将来、自分は法律事務所からは離れ、企業で働くことになるのだろうと思っていました。その決断が卒業後すぐかどうかはさすがに迷いましたけど、ニューヨークにあるエクソンのグローバル本部に出かけて面接を受けて、面白そうだ、やってみよう、と。

江尻先生には、事後報告です。帰国して「実は」と話すと、意外にも「仕方ないね」という反応だったんですよ。やはり先生も、僕がビジネススクールを口にした時から、その腹づもりはお見通しだったのでしょう。

想像したとおり、会社の中での仕事は面白かったですね。クライアントが外部の弁護士に何かの依頼をする場合には、基本的に意思決定の後です。内部にいれば、その決定過程に最初から加われます。社内のいろんな部署の人たちと協議しながら、一つのプロジェクトに誕生からかかわってサポートし、最後まで見届けられるというのは、インハウスならでは醍醐味です。

でも、その職場にいたのは2年ほどで、95年にはアップルコンピュータに移りました。エッソが嫌になったのではなく、たまたまアップルの人事本部長になった友人の、「GCとして来ないか」という誘いに惹かれたからなんですよ。成長著しいIT市場にあって、アップルは先進的な企業でしたし。

ところで、GCとは何か? 企業の法務の最高責任者なのですが、その使命、本質は、今も十分理解されているとは言い難いように思います。米国企業では、GCはCEO直属の弁護士です。しかし、「社長の顧問弁護士」ではありません。あくまでも、社長や経営陣が、株主の利益に適う判断、行動をとるために、法的側面に関して助言を行う存在なんですね。

アップル在籍中、その「GCの使命」に基づいて、辛い仕事をしたことがあります。本社との軋轢を生んだ日本法人の社長を交代することに。その旨を本人に通告する役目が、僕に課せられたのです。株主、具体的には本社の意思を行動の基礎とするGCにとって、「会社の利益にそぐわなくなった」という、その判断は絶対です。飛行機から降り立つ社長を出迎え、空港で「あなたは解任されました」と告げた時のことは、忘れることができません。

GCの本質を知る稀有な日本人弁護士を、世間は一つところに安住させはしなかった。98年にはサン・マイクロシステムズに招かれ、そこでアップルのコンシューマ・ビジネスとは違う“BtoB”の土俵で、「より複雑で高度な法律問題」に立ち向かう。そして02年、今度はやはり伸び盛りだったユニクロを展開するファーストリテイリングに転職する。

柳井正さんとの面接で、「僕に何を期待するのですか?」と聞いたら、「自分で決めなさい」と言うわけです。「戦力になるのなら、何をやってもいい」と。聞きしに勝る面白い人物だなと感じて、入社を決めました。結局、法務の仕事は2割くらいで、残りは店舗開発部を担当しました。北海道から沖縄まで出店候補地を探し、所有者等との交渉に飛び回る。宇宙人のような能力を持つ人の下で働くのは、ものすごくハードだけど、間違いなく鍛えられました。

だから、次に日本アイ・ビー・エムから誘われた時は迷いましたね。妻にも「これは企業間の比較ではなく、柳井さんかIBMかの選択だ」と話したほど(笑)。ただ、IBMは日本だけで年商1兆円、社員2万5000人の大企業でしたから、GCとしては最高ポジション。「ベストでラスト」のつもりでやる、と転職を決断したのです。

当時、社内には10人ほどの社内弁護士がいて、彼らをまとめ上げるのも、僕の重要な任務でした。徹底したのは、顧客サービスの意識を高めること、頼まれた以上の付加価値を提供すること。週1回、昼食を取りながらのミーティングを重ねるなかで、“一枚岩”のいいチームができたと思っています。ちなみに、今の事務所には、当時のIBM出身者が3人来てくれているんですよ。

そうやってGCを6年務めた後、顧客企業の人事や経理などの間接業務を中国IBMのリソースを活用しながら請け負うという、ビジネスプロセス・アウトソーシング事業の責任者をやりました。顧客にトランスフォーメーションのための多様な提案をして、最後は中国・大連に連れて行って現場を見てもらう。「法務色ほぼゼロ」の仕事ですが、自ら手を挙げました。企業の中で様々な案件に取り組むうちに、事業そのものをやってみたいという気持ちが、どんどん膨らんでいたのです。

このように、ファーストリテイリングでの2年間で真の経営者の姿を、IBMでの8年間で真のグローバル経営のあり方を学ぶことができました。経営、会社組織というのは、法律という単一の基準によって規律されるものではない。多様な要素と思惑が重なりながら変化し、まさに〝複眼的〟な視点から方向づけられ、運営されていくのだということを、実感しましたね。

それら仕事をとおして、経営におけるプロフェッショナル・チームの一員であるGCが、どのように会社を守り、成長に寄与していくべきかが、わかったように感じます。そして、その経験を生かし、今度は外からクライアントをサポートしていこう、との思いが徐々にふくらみ、企業内での仕事に区切りをつけ、“外に出る”決心をしたわけです。52歳の時でした。

事務所を創設。経験を生かし顧客志向を徹底

名取法律事務所を立ち上げたのは、12年のこと。とはいえ、企業の中からの“出戻り”ゆえにゼロからのスタートであったが、順調に顧客が増えたのは、「日本でのGCの第一人者」であったことが大きかったようだ。

同期の弁護士からは、「初めのうちは、壊れてると思うくらい、電話機が鳴らないよ」なんて脅されて(笑)。実際そうだったのですけど、そのうちに予想以上のお客さまが来てくれるようになりました。現在、顧客の7割が外資系企業ですね。案件には、たいてい本社が絡んできますから、海外との電話会議もしょっちゅうやります。彼らは、ロジカルに、様々な角度から検討を尽くしたうえで、「このような結果達成を目指してほしいが、ここまでは交渉権限を与える」という明確な指示を出せるように、こちらからの提案や議論を求めてきます。その時に、きちんと理由を述べられなかったり、クリエイティブな選択肢を提案できないと通用しないわけです。僕は外資で鍛えられていますから、そこはお手のもの。だから信頼されているのかもしれません。

クライアントとして日本の様々な法律事務所を使わせてもらった経験でいうと、彼らにはそういう戦略性が不足しているというか、「ここから先は、もう我々の仕事ではない」という姿勢が垣間見えるんですね。それは違うのではないかと思うのです。最後まで考え抜いて、顧客が納得し、感謝するレコメンデーションを行う。私の事務所では、そういうスタンスを貫いています。

当初は細々と3人程度でいいかな、と考えていたのですが、メンバーは7人に。8人目が近々入所してきます。西村あさひを勇退した江尻先生にも加わっていただいたんですよ。できれば桝田先生にもいらしてほしいと思っています。罪滅ぼしの気持ちも込めつつ、せいぜい“親孝行”したい(笑)。

名取 勝也
オープンな事務所運営を標榜する名取弁護士の執務室はガラス張り

本業の傍ら、現在数社の社外取締役、同監査役などを務める。独立直後、不祥事に揺れたオリンパスの社外監査役を打診され、迷った末に引き受けたのがきっかけだ。そこには、「これから正していかなければならない経営トップのコンプライアンス、会社のガバナンスの構築に、自分の経験を生かしてみたい」という強い思いがあった。

オリンパスの損失隠しというのは、過去の一部の経営者のやったことで、上から下まで問題があるわけではない。悪い部分が一掃された今、製品自体は素晴らしいこの会社は、きっと立ち直れるはずだ――。そう考えて監査役になったのですが、その後の経緯を見れば、判断は正しかったのではないでしょうか。社外役員には、他企業の社長を経験された人などがいます。そういう方々と話ができるのも、得難い経験。やはり経営を担った人たちは、発想の次元が違います。そういう意味では、しょせん我々弁護士のものの見方や考え方は、やはり一面的で狭い。自分自身、あらためて〝複眼的〟な視点と発想の必要を痛感しています。

振り返ってみると、ひょんなことから弁護士になり、なってからも人とは違う道を歩んで、いろんな経験をさせてもらいました。ただし、高い志を持って目標に突き進み、何かを掴み取ったという感覚は、僕にはありません。そうではなくて、置かれた環境が育ててくれた。“立場が人をつくる”というのは、真実だと思うのです。若い人たちにアドバイスするとしたら、できるだけそんなふうに成長できる場を目指してほしい。機会が提供されたなら、ぜひとも果敢に挑んでもらいたいということです。そして、ちょっと口はばったいですが、企業内弁護士の人たちには、僕を超えるような“スーパー・ジェネラル・カウンセル”になってほしいと願っています。

※本文中敬称略
※本取材および撮影は、名取法律事務所が入居するアーク森ビル西館で行われた。