語学力を生かし、英会話学校の講師に。そこで想像した40歳の私
榊原美紀が、国内ではまだ数少なかったインハウスローヤーとして松下電器産業(現パナソニック)に入社したのは、2003年。やがてそのスキル、あくまで前向きなマインドを武器に、弁護士として稀有な存在である業界のロビイストとして著作権や独禁法関連の法改正論議などにかかわる。そしてこの春からは、企業にとって一層重要度が高まるコンプライアンス部門の責任者に。加えて5月には、会員数約1500人を擁する日本組織内弁護士協会(JILA)の新理事長に選出された。このように日本の企業法務の先頭を走り続けてきた感のある榊原だが、ずっと遡ると「神戸松蔭女子学院大学文学部卒」の経歴が目に入る。バブル期、バンド活動に夢中になり、「関西のお洒落な女子大」に籍を置いた女性が、いかにして法曹を志し、その夢を叶えたのか。まずは、その人生の転機から語ってもらおう。
1968年、神戸市の生まれです。父は自営業で、自動車関連の会社のほか数軒の飲食店も経営していました。会社員には向かないタイプで、私もかなりそれに近いと感じていたんです。今だって「よく会社勤めができているね」と古い友人に言われるくらい(笑)。
中高は私立の一貫校で、高校時代には女の子ばかりのバンドを組んで、ライブもやっていました。勉強は、嫌いというか、したことはなかったですね、まったく。推薦入試で入った女子大は、キャンパスも華やかで新しい友達もたくさんできて、それはハッピーでした。ただ、中には大阪大や神戸大を落ちて泣く泣く入学してきたような、真面目に勉強するタイプの同級生も。私、そういう子たちとも仲良くなって、よく映画を観に行ったりしていたんです。
その友達の中には、留学を目指している子が何人かいました。大学に、アメリカのニューハンプシャーの大学との交換留学生制度があったのです。で、私も行ってみようかな、と。英語は好きで、外国の映画を字幕なしで観たいという動機もあったから、この時は一生懸命勉強してなんとか合格。まあ、ホームステイ先では遊んでばかりいたけれど、この時身につけた英語力は、すぐに役に立ちました。
1年間の留学から帰国してみると、周囲は就活モード一色です。でも、私にはどこかの会社に入るという〝常識〟がまったくなく、お気楽に英会話教室で講師のバイトを始めることに。お給料も結構よくて、「普通に就職しなくても、これでいいかな」と、適当な感じで考えていました。
ところが、ある時、40歳くらいのベテラン英会話講師の姿を見ていて、ふと思ったのです。あれが将来の私なのかって。教え方は抜群に上手で、生徒たちにも慕われているのだけれど、「何か違う」と瞬間的に感じたんです。
そこでなぜか頭に浮かんだのが、弁護士という職業。これはもう“思いつき”というしか説明のしようがありません。40歳になった時、自分が輝いているために、文系で一番難しい資格を取って自立するのだ!という感じでしょうか。もちろん司法試験の内容はおろか、法律の“ほ”の字も知らないような状態でした。
女子大卒業後しばらくの間は英会話学校で講師をしつつ、榊原は、父親に内緒でゼロから試験勉強をスタートさせるべく予備校に入学する。しかし、“英米文学科卒”の学歴に、ファッション誌から抜け出たような服装は、“場違い感”たっぷり。ところが、怖いもの知らずで挑戦するお気楽な彼女を周りは放っておけなかった。
司法修習時代に知り合った、同じく弁護士の夫は、「君は本当に省エネ合格だ」と呆れるのだけど、まさにそのとおり。予備校では、あまりにも場違いな私を見かねたのか、神戸大学卒の方が、「そんなやり方ではダメだ」と、神戸大の答案練習会に誘ってくれました。知り合いが一人もいなくて右も左もわからなかったので本当にラッキーでした。しかも、週に1回、現役合格した優秀な人によるゼミがあって、試験勉強のやり方を一から、丁寧に教えてくれたのです。
本格的な勉強をそれまでしたことがなかったから、なんの先入観もなく、素直に、ただ言われるままにやりました。「君は2~3年で受かる」という言葉を鵜呑みにして楽観(笑)。司法試験をすぐに受けろと言われて、受けたものの、1回目はボロボロ。でも2回目には当時の択一に受かって、3回目で最終合格することができました。
嘘みたいな話ですけど、振り返ってみると、周りから手を差し伸べられて、ありえないような英才教育を受けることができたおかげです。今、神戸大学のロースクールの講師や学部全体の経営を手伝っているのは、あの時の恩返しのつもりなんです。
法律事務所で海外留学。そこで知った〝グローバリズム〟
留学時代、「アメリカは10年先を行く」と実感。日本はまだ当時のアメリカに追いつけていない
司法修習時代、進路を企業法務に定めたのは、「格好いいし、英語が使えるし」という程度の軽い理由から。当時、関西では企業法務を扱う事務所は限られていたが、英語が話せる弁護士もまた貴重な存在だった。97年4月、榊原はセンチュリー法律事務所の一員に。晴れて法曹としての一歩を踏み出す。
事務所では、株主総会、知財関係などへの対応だけでなく、海外企業とのライセンス契約、合弁会社設立のお手伝いなど、実に様々な案件にかかわらせてもらいました。「お姉ちゃん、ほんまに弁護士さん?」なんて言う社長さんも中にはいましたけど(笑)、仕事が認められ「週1回来てほしい」と依頼してくれた上場企業も。今から考えると、インハウスの先駆けみたいなことをやっていたわけです。
この頃印象に残っている仕事の一つに、PL(製造物責任)訴訟があります。被告側代理人として裁判をやっていたのですが、大阪弁護士会の「PL110番」の弁護士募集を知り、勉強になりそうだと思って申し込んだのです。弁護士会に待機して、バンバンかかってくる電話に対応するという。そうしたら、終わってから消費者保護委員会のメンバーに誘われ、「一緒に訴訟をやろう」と言ってくれました。
普通はありえない話です。こちらは企業法務だから基本的に被告側、消費者保護委員会は被害者である原告側ですから。のこのこ「110番」に出かけて行くこと自体、“常識”をわきまえた先生ならしないはず。後から事務所に知れて、めちゃくちゃ怒られました(笑)。「榊原、利益相反になりかねないだろう!」って。
ただ、勉強になったのは事実なのです。原告側の考え方を知ることは、クライアントの利益にもなる。そういう話をしたら、最終的にはOKが出て、実際に数件の訴訟を担当しました。普段とは違う“人権派”タイプの弁護士さんと組んで仕事をするのは、面白かったです。会社の仕組みを知っているということは、敵の手の内を把握しているということですから、原告側にもメリットがある。PL欠陥住宅訴訟で、初めて勝訴的和解を勝ち取ったことはいい思い出です。
入所数年にして貴重な経験を重ねた榊原は、00年、かねてからの希望だった米国留学に旅立つ。日本の弁護士が留学先でいかに苦労するかは、よく聞く話である。ところが、彼女の場合は留学の“権利”を得るまでに、思わぬ障壁に直面するのだった。
留学を希望するロースクールを10校くらいは受けたでしょうか。返ってくるのは不合格通知ばかり……。そのうち、私が大学の法学部を卒業していないことが理由だとわかってきました。
そこで、受験した中で唯一電話によるインタビュー試験があったボストン大学ロースクールで勝負をかけた。日本の司法試験がいかに難関か、自分は文学部出身でありながらそれに合格するほど優秀なのだ、と英語で切々と訴えたわけです。その時対応してくれたディレクターとは今も仲良しなのですが、私ほど英語が話せる日本人受験生はいなかったと。いろいろ日本の司法試験の仕組みも調べてくれ、実はボストンも法学部出身が条件だったにもかかわらず、そのルールを変更してまで受け入れてくれたのです。
留学中最も勉強になったのは、欧米の学生たちの“姿勢”でした。とにかく、全員が挙手して質問する。講義が終われば、先生の取り合いです。英会話ができるとはいえ、法律用語を自由に操れるわけではないですから、最初は気圧されて。ところが、慣れてくると、みんな大した質問をしていないことがわかってきてホッとしました(笑)。
要するに、スピークアップ、自己アピールを懸命にやる。そうしなければ、誰にも相手にされないのです。恐らく、「これがグローバルスタンダードなんだ」と実感できたのは大きかった。実際、そういう場での図々しさも身につきました(笑)。
働く意識の違いも、衝撃的でした。「卒業後はどうするの?」と尋ねると、7~8割は「教育ローンを返済するために、給料の高いトップファームに入りたい」と答えるのです。「その先は?」と聞くと、そのままパートナーを目指す、インハウス・カウンセルになる、NPOに行く……。
一番驚いたのは、〝インハウス〟という言葉です。「何それ?」っていう感じ。「上場企業のジェネラル・カウンセルになれば、ローファームを顎で使えるんだ」みたいな話を聞いて、なるほど日本とは立場が逆だ、と感心。それからは、異なる視点で法曹界を見ることができるようになりました。また、彼女たちの話を聞きながら、「アメリカは10年先を行っている」と痛感したことを覚えています。でも、あれから約20年、日本の現状はまだ当時のアメリカに追いついていないといったら、言い過ぎでしょうか。
帰国後インハウスに。ロビー活動で手腕を発揮する
そうした留学体験も踏まえ、「外資系事務所で働きたい」と考えた榊原は、02年にフレッシュフィールズブルックハウスデリンガー法律事務所に移る。しかし、金融絡みの仕事に「楽しみが見いだせず」、半年あまりで挫折。次なる働き先を探し始めた時に頭に浮かんだのが、米国で知ったインハウスローヤーという存在だった。思い立ったら行動は早い。これはと思う数社を調べ、新天地にパナソニックを選ぶ。
外国に出て日本を眺めると、やっぱり電機か自動車と感じました。パナソニックには、学閥や中途に対する差別がないという情報も、決め手になりました。ただ、企業でどれだけやれるかは、未知の世界です。正直、2~3年働いてみて、ダメだったら事務所勤務に戻ればいい、くらいの気持ちでした。
入ってみると、生き馬の目を抜くような金融業界と違い、案の定みんな優しかった(笑)。とはいえ、仕事が初めから順風満帆というわけでは、もちろんありません。当時で社員数30万人近い組織ですし、正論を押し通していればうまくいく世界ではないのです。
入社して配属されたのは、IT・著作権担当の部門でした。ところが、数カ月後にチームリーダーが辞めて、私が責任者のポストに座ることになったのです。ちょうどネット家電が出始めた頃で、仕事としては興味深かったのですが、肝心の会社のことがよくわからない。例えば、何かの事件に対処するために証拠が欲しいと思っても、組織が複雑で、どこに行けば手に入るのか、人脈もないし、皆目見当がつかないわけです。
そんな時、「まずAさんのところに行き、次にBさんに頼んでください。順番を間違えないように」などとアドバイスをくれる優秀な部下がいたのは、本当に助かりました。言われたとおりにすると、実にサクサクと事が運ぶのです。素晴らしい部下による“家庭教師”のおかげで、コツが掴めるようになりました。こんなふうに、節目節目で“恩人”が現れてくれたことには、感謝するしかありません。
ところで、担当していたITや著作権、あるいは独禁法に関連する法務部門には、業界団体と様々な意見交換を行ったり、自らの利益を守るために政府機関と折衝したりといったロビー活動が必要となる。そうした場に出かけては、法律の専門家ならではの仕事を重ねるうち、榊原は徐々にそのフィールドで欠かせない存在になっていく。
最初に電子情報技術産業協会(JETTA)の法務や知財の委員会に出てほしいと言われた時には、「へえ、それも私たちの仕事なんだ」という感覚でした。行ってみると、何十社と来ている人たちの中に、弁護士なんて誰もいないわけです。みんな会社の普通の法務部員とかです。で、「今度、この法律が改正されるのですが」みたいな話になると、こっちは得意分野だから、「それは業界にとってマイナスです」などとガンガンしゃべる。ところが、ほかの人はほとんどしゃべらない。考えてみれば当然で、弁護士でもないし、日本企業の会社員は目立たないように振る舞うのがマナーなのでしょう。
そんなふうに目立っていたら、「では、その件についてワーキンググループをつくりましょう。ついては榊原さん、主査をやってください」と。「わかりました」と返答して会社に戻ったら、「勝手に引き受けたらダメじゃないか。社内の決済を取ってから受けてください」って(笑)。そのうちに「副委員長に」「委員長に」と次々要職につくことになってしまいました。
JETTAの委員会の委員長、副委員長ともなれば、例えば著作権問題に関して直接政府関係者に陳情したり意見交換したりします。そういう場で、情報をいち早く入手したりすることができたのは、ありがたかったです。
いうまでもなく、業界の代表として、その利益のために全力を尽くすのが私に課せられた任務です。著作権関係のトピックを2つ挙げると、1つは「私的録音録画補償金制度」です。簡単にいうと、デジタル方式で録音・録画を行う機器には補償金を上乗せし、著作権者に還元するというものなのですが、そもそもどこに著作権者の損害が発生しているのかわからない。この補償金の支払いを拒否したメーカーが訴えられた裁判では、最高裁まで戦って原告敗訴の完全勝利を勝ち取りました。
もう1つ、「フェアユース」の議論の進展があります。これもざっくりいうと、著作権者の権利侵害に当たらない「公正利用」であれば、その許可を得ずに著作物を使えるという法理です。アメリカのほか、韓国、台湾、イスラエル、シンガポールといったイノベーションに積極的な国はすでに備えていて、日本にも導入するために様々な活動を進めました。これについては、私たちが目指す制度からすると不十分ではあるのですが、その趣旨を盛り込んだ著作権法の一部改正案が、この5月に成立したんです。
図らずも足を踏み入れたロビー活動ですが、すごくやりがいを感じました。やりすぎを心配する人もいたくらい(笑)。でも、法律に明るい弁護士には、うってつけの仕事だと思うのです。業種を問わず、これからもっと弁護士が求められる領域だという気がします。
「JILA」理事長に。いきなりの改革に込めた思い
著作権法改正にめどをつけた榊原は、今年3月でロビー活動からは卒業、新たにコンプライアンスの責任者に着任した。今、日本企業は不祥事続きであり、最もホットな分野である。
ちょうど米国弁護士のローレンス・ベイツが当社のジェネラル・カウンセルに着任し、私は彼の下で働くことになりました。アメリカ人の上司というのは初めてですが、「こんなにフランクに人と接するんだ」というのが第一印象。“忖度”も一切必要なしで、“ミスター・リーズナブル”と勝手に心の中で呼んでいます(笑)。
コンプライアンスというのは、かつては後ろ向きというか、弁護士としてもあまり魅力を感じない分野だったと思います。しかし、時代は変わった。特に当社のようなグローバル企業の場合、多くの海外子会社まで遵法精神や倫理観が浸透していないと、大変な事態を引き起こす恐れがあります。
責任重大ですけれど、そうした“ホット”な分野で力を発揮できるのは、やはり嬉しい。実際に走り出してみると、普通の法律相談などと比べてクリエイティブな仕事であることもわかりました。待っているのではなく、実際にコンプライアンスの意味を理解してもらうために、いろいろなことを企画していかなくてはなりませんから。
自慢ではありませんが、私は以前から、社内外で相当怖がられているんです。みんなが一目置く役員に「榊原さんは怖い」「角が生えている」って言われるくらい(笑)。でも、コンプライアンスの旗振り役に限っては“いい人”というだけでは失格です。「ダメなものはダメ」と押し通さなければなりませんから。私だって嫌われ者になりたくはありませんが、問題が起きて会社が摘発されるくらいなら、それもやむなし。今は、そうやって腹を括っているところです。
米国留学でインハウスローヤーの存在を知り、日本でその礎を築いてきた榊原は、先頃JILAの新理事長に選ばれた。同時に、理事の女性比率を一気に40%以上に引き上げるという組織改革を断行する。英国の「30%クラブ」に倣ったもので、ダイバーシティーの推進をインハウスローヤーの世界から推し進めたい。所信表明で「これは一つの実験です」と宣言したそうだ。
「女性比率40%」と聞くと、ものすごく高く感じるかもしれませんけど、会員数の男女比率にほぼリンクしているのです。失敗したら私の責任ですが、きっと組織はいい方向に変わるはず。
例えば、女性は家事などマルチタスクでいつも忙しいから、時間を上手く使う人が多いです。延々結論が出ないような会議を、最も嫌う。物事をスパスパ前に進めようとするわけです。そのあたりから効果が出たらいいなと、期待しています。
いの一番にこれをやったのには、日本社会に対する「何やってるの!」という思いもあります。日本企業の管理職の女性比率は先進国の最低水準で、アラブ諸国と同程度です。女性役員が増えれば業績が上がり、投資家もそれを重要な投資基準にしているという結果も出ているのに。残念ながら、当社も例外ではありません。日本企業は「なんちゃってグローバル企業」です。そういった現実を変えていくのも、今後の私の使命であると感じています。
※本文中敬称略
※本取材および撮影は、パナソニック東京汐留ビルで行われた。