Vol.72
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影島 広泰

HUMAN HISTORY

チャレンジを続けるのは尊く、仕事人生を豊かにしてくれる。一つ確実といえる道は、「好き」「面白い」と思える領域に立ち、研鑽を重ねること

牛島総合法律事務所
パートナー
弁護士

影島 広泰

コンピュータ好きの理系少年が、司法試験を目指したのは独立心から

情報システム関連の訴訟・紛争解決、個人情報の取り扱い、ネット上のサービスに関する法務などを専門とする影島広泰は、この新しい領域のトップランナーである。2019年12月の日本経済新聞社「企業が選ぶ弁護士ランキング」では、データ関連部門1位を獲得、今日も相談や依頼が絶えない“頼みの綱”だ。まだ法整備が整っていない領域を切り開いてきたエネルギーの源は、「好きな分野だから」。聞けば、コンピュータに興味・関心を抱いたのは小学生の頃からで、ずっと生活の傍らにあったという。実際、影島はiPhone/iPad用の六法アプリ『e六法』を趣味の域で開発するなど、ITに通暁している。また、マイナンバー関連、個人情報取り扱いに関するセミナー出講や、著書もいち早く世に出すなど、人や企業の役に立つ情報発信において先陣を切ってきた。いずれも、単なる制度説明にとどまらない徹底した実務への寄り添いが最大の特徴で、それが厚い信頼につながっている。「この仕事がものすごく楽しい」と何度も口にする影島は、〝好き〟と〝専門性〟が合致することの強さを体現している。

影島 広泰
取材当日は、朝一の飛行機で福岡出張から帰京してインタビューに対応してくれた影島氏

故郷は静岡県の富士市。大手メーカーの工場が立ち並んでいた工業都市で、その山のほうにあるベッドタウンで生まれ育ちました。小・中学校は、普通に学区内にある学校に通っていたんですけど、いわゆる優等生だったと思います。学級委員をやり、中学では生徒会長をやり、成績も学年トップみたいな……田舎にいるじゃないですか、そういう優等生タイプ。あれです(笑)。まぁ狭いコミュニティにおける話で、大したことはないんですけど。

コンピュータには早くから興味がありました。小学校3年の時、手にしたコンピュータの本に夢中になったのをよく覚えています。巻末に“紙製”の実物大のキーボードが付いていて、「こうやって打つんだ」って。その後、親が中古のパソコンを買ってくれて、それからはもう楽しい機械。特にプログラミングが面白かった。当時は、売っていたソフトのパッケージにソースコードが載っていたので、真似てつくったりしていました。80年代~90年代にかけて一時代を築いたパソコン「MSX」がはやった時代で、まさに黎明期。ゲームにハマる子もいたけれど、私はそっちにはいかず、もっぱらプログラム派でしたね。

高校は、後の大学進学を考えて、静岡市清水区にある県立清水東高校を受験しました。狭い世界から出てみたかったし、定期券というものを持ちたくて(笑)。電車で片道1時間半かけての通学です。入った理数科は1クラスだけで、いわば地方のエリート養成コースみたいなもの。40人ほどいましたが、この理数科からは15人くらいが東大・京大に行けるという話で、私も東大受験は意識していました。親は全然うるさく言わなかったけれど、自分のなかでは自然な選択でした。

このクラス、ものすごく勉強するんですよ。夕方6時くらいまで授業があり、土曜日の午後もみっちり。夏休みも連日補習と合宿があったから、先生方も大変だったでしょうが、今思えばコストパフォーマンスがよかったのかも。誰も塾に行っていませんでしたから。周りが皆頑張っていたから、私も苦しいと思ったことはなく、けっこう真面目に勉強しましたね。

だが、東大受験はチャレンジせず。「言い訳になりますが、バリバリの理系にとって、受験科目にあんなに難しい社会が2科目あるのは無理だと」。東京に出ることを前提に考えていた影島は、一橋大学に進学。法学部を選択したのは、受験前から「弁護士になりたい」という思いを抱いていたからだ。ただ、それは具体的な職業イメージに惹かれてというより、強い独立心によるものだった。

高校生になった頃、実はけっこう本気で戦闘機のパイロットになりたかったんですよ。はやっていた漫画『エリア88』に憧れて。ところが、長い行き帰りの通学時間を勉強に充てていたら、アッという間に視力が落ちてしまった。もう身体検査の段階でダメですからね、どうしようもありません。ならば法学部に進むかという脈絡のない話なんですけど(笑)、どうせなら難しい資格試験にチャレンジしたかったし、独立した働き方ができる弁護士が魅力的に映ったのです。理系の研究職として企業で働く道もよかったかもしれませんが、トップにまで上がれるイメージを持てなかった。そういう意味では、ある種の野心というか、独立心は強いほうなんでしょうね。

とはいえ、大学に入った早々、「弁護士になりたい」はいったん棚上げ。一人暮らしになって自由だし、テニスサークルに入って青春謳歌、要は遊んでいたわけです。好きなパソコンは変わらず続けていましたが、いかんせん高額だったから、中古のを実用として扱うくらいで。それと正直、法律の勉強は暗記科目が多くて、あまり面白くなかった。私が法律を面白いと思うようになったのは、弁護士になってからです。

大学3年の後半になると、皆の就職活動が盛んになるでしょう。就職するか否か、初心に戻って司法試験を意識したのはこの頃です。やっぱり勤め人になるのは気が進みませんでした。当時は就職氷河期だったとはいえ、一橋大学は人数が少ないこともあって就職はそれなりに有利だったから、周囲からは「何でわざわざ司法試験を」と言われたものです。今は、一橋のロースクールってけっこう人気ですが、あの頃、周囲に司法試験を受けようという人は全然いなかったんですよ。

憧れたのは訴訟弁護士。思い叶って走り出し、好きな領域で勉強を重ねる

証拠を突きつけて明確な主張をする。法廷で弁論するのが憧れだった

影島 広泰
常に真剣勝負で臨む通常業務に加えて、講演、書籍の執筆など、一日の仕事のスケジュールは分単位で刻まれていく

司法試験の受験勉強は、もっぱら予備校で行った。4年生の時に腕試しのつもりで臨んだ初戦は完敗。その後、影島は1年間休学し、予備校でアルバイトをしながら並行して勉強に専念するというスタイルで挑戦を続けた。当時は、4万人受験して1000人合格するかどうか、合格率は約2%とされていた時代。加えて、司法試験改革の過渡期にも当たり、取り分けて難しいタイミングでもあった。影島が合格したのは01年、27歳の時である。

結局、大学は6年まで在籍し、卒業後も受験勉強を続けましたから、いわゆるベテラン受験生でした。予備校でチューターのバイトを続けながら……。厳しい時代だったので、周りには同じような人がたくさんいたんですよ。そういう環境の下ではあきらめが悪くなる(笑)。それに、たぶん1点差で試験に落ちたような年もあったから悔しくてね、結果粘ることになった。最後はもう連日ぶっ通しで、死ぬほど勉強しました。私より明らかに勝っている人たちがすごく勉強しているのを見て、それより努力が下回っているようでは受かる可能性はないと自分に言い聞かせ、やり抜いたら合格していたという話です。

東京で修習に入りましたが、私は合格を待たせていた彼女と結婚したので、新婚生活もスタートしました。受験生時代とは打って変わり、夕方5時頃には終わるから時間はあるし、いろいろと遊びにも行けて、とにかく楽しかったですよ(笑)。

修習で印象に強く残っているのは裁判修習です。「裁判所から見た弁護士」とでもいえばいいでしょうか。当然のことながら、弁護士の力量はそれぞれですが、多くの場合、裁判所から見ると的外れな主張をしているなぁと感じたのを覚えています。弁護修習で教わったことを裁判修習で見てみると、実際にはズレがあったという感覚です。

そのズレを解決できている弁護士が、きっといい弁護士なんですよね。弁護士になってしまうと、そのズレを認識することがものすごく難しい。今思えば、裁判所と検察、弁護士、いずれも違う立場で“見え方”が違うことを知る、俯瞰することの大切さを学んだように思います。というのも、弁護士になりたい気持ちは一貫してブレがなく、私は法廷で弁論するのが憧れでしたから、よけいに敏感だったのかもしれません。だって、カッコいいじゃないですか。証拠を突きつけて明確な主張をする。あれをやりたかったんです、私は。

弁護士人生をスタートする場として牛島総合法律事務所を選んだ理由も、それが大きい。企業法務の法律事務所のなかでは、訴訟がとても多いと聞いたからだ。実際、入所したら思い叶って、影島は「死ぬほど訴訟をやらされました」と笑う。

最初に主にかかわったのは、いわゆる会社の“取り合い”の民事訴訟や、法人税法違反の刑事事件です。検察官経験のある外部の有力な先生とチームを組みながら、刑事事件はかなり本格的にやらせてもらいました。仕事は始めた時から面白かったし、検察官に対して懸命に戦ったものです。事務所の仕事としては亜流だったかもしれないけれど、2年間にわたって週1回尋問がありましたから、証拠の読み方や尋問技術ではすごく鍛えられ、また、検察の壁が本当に厚いことも実感してきました。日本の刑事裁判での有罪率は99・9%だといわれていますが、まさにそうだなと。

あと思い出深いのは、M&AのDD(デューデリジェンス)です。入所して間もないうちに企業グループをまるごと買収するという大きな案件に複数件携わり、これはものすごく勉強になった。グループ全社に及ぶDDって本当に大変でしょう、私は契約を見るチームの一員として、時には徹夜仕事も辞さず……今時はまずい話ですが(笑)。でも、会計や法務のDDチームでクライアントに報告をする際に、アソシエイトである私だけ連れて行ってもらえたのはうれしかったし、早いうちに貴重な経験ができたと思っています。

仕事が変わったのは入所4年目くらいからで、エンタメ系の著作権とか肖像権を見るようになりました。追って増えてきたのがIT系、システム開発に関する案件です。日本の名だたるITベンダーが軒並み巻き込まれた架空循環取引事件を担当したのが最初。和解で終わり、いい決着だったと思っていますが、これは5年目に入った時だと記憶しています。

これらの仕事は、所内で常々「やりたい」と手を挙げていたので、そういう意味では“取りに行った”のです。訴訟事件やDD、一般企業法務の仕事と並行して、自分で著作権やインターネットに関係する法律を勉強していたし、外部の勉強会にもよく顔を出していました。で、詳しくなると、事務所に当該の案件がきた時に、例えば「こんな裁判例があるので、こういう視点もありますよね」という具合に、パートナーに対して説明ができる。となれば「ちょっとやってみてよ」とお鉢が回ってくるわけです。

パートナーになってから思うんですけど、案件がきて誰かにお願いする時は、やっぱり〝やりたいと思っている人〟、あるいは〝詳しい人〟と一緒に仕事したいもの。そうでないとクオリティが下がるし、クライアントに対して申し訳がない。当時、そこまで意識していたわけではありませんが、もとよりITは得意で好きな領域だし、どうせならという思いはありました。少なくとも、所内でエンタメ系の勉強会などがある時には、自分が一番詳しい状態でいようと。声をかけてもらえるようにね。

実務家として徹底したスタンスを貫き、新分野を切り開く

根本的な理由を見つけられるかどうか。紛争を扱うローヤーの力量はそこにある

時代を反映し、ソフトウエアやシステム開発にまつわるトラブルは後を絶たず、訴訟も増え続けている。「どっぷり浸かるようになった」影島は、システム開発契約に関する著名な事件「スルガ銀行対日本IBM事件」にも関与。勘定系システムの開発中止の責任を巡り、スルガ銀行が日本IBMに約116億円の支払いを求めた裁判に端を発したもので、影島は牛島信弁護士と共に日本IBM側として戦ってきた。

東京地裁が、ITベンダー側にとても不利な判決を出したのが12年。思い出したくもないですが、判決文を読んだ時は「信じられない」と思うと同時に、納得のいかない内容に、「絶対にひっくり返してやろう」と意を強くしました。

実際、控訴審では重要なポイントをひっくり返して、翌年、東京高裁は賠償額を減額する判決を下しました。結局、賠償することにはなったけれど、原審で納得できなかったところは変わっていました。これは、システム開発の実務にとって大きな意味を持つ裁判だったと思っています。もちろん、私自身にとっても。

システム開発の紛争って本当に多いんですよ。望んだとおりのシステムができなかったり、プロジェクトが途中で頓挫したりすると、発注側は「金返せ」になるし、ベンダー側は「仕事したのに」と紛争になる。公開されている判決文だけでも何百とあり、和解になった事件も大量にありますから、頻発しているといっていいと思います。私は今、世間にデータ関係の弁護士として認知されているようですが、実際、仕事の半分近くはシステム開発関係なんです。訴訟になっているものはベンダー側の代理人、ご相談は発注者側が多いという感じでしょうか。

当たり前なんですけど、失敗には必ず理由がある。大事なのは、表面には出ない問題の“本質”をいかに見つけるかです。例えば、「プロジェクトが頓挫しました」というベンダー側で代理人をしている時に、よくよく話を聞いて調べてみると、根っこのところで発注者の担当者との相性が悪いとか、協力を得られていないとか、それなりに理由があるのです。契約書に定められている債務が履行されているかどうかの表面的な主張なら、誰にでもできる。なぜうまくいかなかったのか? 根本的な理由を見つけられるかどうか、紛争を扱うローヤーの能力の差はそこに表れていると思います。

あとは、裁判所に対する説明のわかりやすさ。専門訴訟ですからね、実際に開発過程を説明する場面も多く、「いかに説得力を持つ説明をするか」は非常に気を使っている点です。模索は続くけれど、最後に勝ち負けが出る裁判は本当に面白い。インタレスティング、エキサイティングという意味で。負けるために依頼されているんじゃない、常に「相手をぶっ潰す」と思いながら臨んでいます(笑)。だって、負けていい裁判なんてないのだから。すべての領域でとは言いませんが、企業間紛争にはお互いに正義があるので勝ち切るしかないのです。

多忙な日々のなか、影島は個人の活動として六法アプリ『e六法』を開発。11年にリリースされ、ダウンロード数は優に30万を超えている。また、マイナンバー法が成立した13年を境に、関連する実務書や論文を意欲的に発表し、セミナー出講も重ねるなど、影島は“情報発信”を要に持てる専門性を高め、ニューマーケットを切り開いてきたのである。

『e六法』の開発については、9月のシルバーウィークの暇つぶしで始めたんですよ。当時は使い勝手のいい六法アプリがなく、だったら自分でと思って。もともとiPhone用のアプリを自作してみたかったし、どういうフレームワークになっているのか興味があったのです。連休中に一応動くものをつくり、あとは休日を使ってバグ出しなどをしながら仕上げていきました。手間はかかったけれど、知的好奇心が満たされて楽しかったですね。今はほかにもいいアプリが出てきましたし、一定の役割は果たせたかなと。実はこれ、ロースクールの人たちに重宝してもらったようです。リクルーティングを介して会った時に「あぁ、あのe六法の先生ですか」ってたびたび言われましたから。

マイナンバー法が成立したのは、いみじくも私がパートナーに就任した年。意識が大きく変わった時期です。仕事において、それまではパートナーが全責任を取ってくれていましたが、これからは入口から出口まですべて自分の責任になる。やはり違いますよ。そして、自分で仕事を取らなきゃいけない。書籍やセミナーは、“自分を売り出す”意味合いも大きかったのです。

「マイナンバー法が成立した」というニュースをネットで見た時、まずは何だろうと調べ、先行する文献なども当たりました。確信したのは、これからの企業法務に重大な影響が出る、ということ。それで真っ先に論文や本を書き、セミナーでの講演も始めたのです。当時は「マイナンバー法とは?」的な本や、弁護士業界では、かつて何度か浮上しては消えた国民総背番号制度に対する反対運動の再燃とか、いわゆる実務とはかけ離れた情報しかありませんでした。ビジネスローヤーである私がこだわったのは、その実務。例えば「人事や経理の書類はこう変わる」「本人確認のプロセスに必要な社内業務はこうなる」など、実務に則した内容を盛り込んで本を出したんです。セミナーも同様で、コピーを取っていいもの・悪い書類といった話から、社内規程のサンプルを配るなど、徹底して実務側に立ったつもりです。同じ視点で活動する弁護士はいましたが、社内の担当者がやるべきことをいち早く整理して伝えたという点で受け入れられ、“当たった”ということだと思います。

一層高まるニーズ。第一人者として研鑽を重ね、走り続ける日々

情報のキャッチアップや勉強は必死。でも、好きな分野だからとにかく楽しい

数ある書籍のなか、とりわけ早く出版された『企業・団体のためのマイナンバー制度への実務対応』は、制度の趣旨から各種のガイドラインまで必要な情報がすべて入っており、利用者にはバイブルともいえる専門・実務書となった。加えて、影島は「情報化推進国民会議」などの委員も歴任し、あまねく正しい情報発信に努めてきた。その姿勢は一貫している。胸にあるのはビジネスローヤーとしての信念だ。

影島 広泰
膨大な業務用資料、多様な文献や書籍に囲まれた影島氏の執務室。この秘密基地のような場所で様々なアイデアが紡がれてきた

企業の法務部に寄せられる相談に対する処方を提供するのが、ビジネスローヤーの本分じゃないですか。法や制度に関して私がどう思うか、私の意見を述べることに意味があるとは思いません。法学者ではなく実務家なのですから。法学者はこう、委員会はこう、あるいはメディアはこうと、様々な情報や動向を捉えたうえで、「こうしておけば企業は安心・安全」とソリューションを提示するのが我々の仕事。クライアントはそれを求めていると思っています。

データ関係はまだ未整備な領域ということもあり、勢い“さじ加減”に苦慮する企業側のニーズはどんどん大きくなっています。気がつけば、雪だるま式に仕事が増えているというか……。週に1件は新規のクライアントからご相談がある感じです。それは分野が新しいのと、専門とする弁護士数がまだ少ないからで、この領域で仕事をしているほかの先生方も同じ状態だと思いますね。これまで取り扱いのなかったクライアントや案件が集まってきているということです。

時々、なりたての弁護士から「ビジネスローファームで、どうやってお客さんを獲得するのか」と聞かれるんですけど、私も若い頃は不安だったりしました。でも、このマイナンバーのように新しい分野ができた時は、そこに参入してノウハウを蓄積し、新しいクライアントを獲得する。まさにそういうことではないでしょうか。やり方はいろいろあります。私の場合は書籍やセミナーを通じて“取りに行った”わけですが、王道のゴルフやお酒の付き合いなどもありだと思う。人それぞれですから。肝心なのは動き、専門性を磨き、経験を積むこと。見渡せば、改正も含めて新しい法律が次々とできています。ほかの分野にしても、「企業の法務部には現場からどういう相談が来ているのか」を想像して物事を進めていけば、現状に安住している先行者を追い越して参入することができると思いますね。

18年にはGDPR(EUの一般データ保護規則)が施行となり、日本企業は今年に控えている個人情報保護法の改正を睨みながら、GDPRの域外適用にも留意しなければならず、データ関係を取り巻く環境変化はめまぐるしい状態だ。多くの案件に追われながらも、影島はトップランナーとしての役割を果たすべく、日々学び、研鑽を重ねている。

最近、特に多くなってきたのは、グローバルに事業展開する企業のデータ関係の案件です。海外との拠点間でシステムを導入すると、世界のあちこちでデータのやり取りが発生するから、日本法はもちろんのことEU、アメリカや中国などといった諸外国の法律も問題になってきます。それらを踏まえ、包括的な契約書をつくったり、社内規程や運用ルールなども作成するというワンセットの仕事ですね。この類は、参入障壁はちょっと高いかもしれません。というのも、世界各国にネットワークがないとできないから。例えば、南アフリカでデータプライバシーに関する専門家を知っているか?となれば、やはりそれなりに網がないと。うちの事務所はグローバルネットワークを有していますし、私自身、データ関係で海外のいろんな弁護士と「頼み、頼まれ」をやってきたので、そこは財産ですし、強みにもなっていると思います。

こういった積み重ねから専門性は高まっていくものです。法律のことだけじゃありません。より重要なのは“相場観”とでもいえばいいのか……たくさんの他社事例を知っていることが必要で、私の場合なら「ドイツの企業もここまではできていない」「現実に日本の製造業ではこうです」というように、具体的な相場観を伝えるのが大切だということです。「○○という判断をされるリスクがあります」では何の解決にもならないし、法律を知っていれば誰にでも言えることでしょう。クライアントは〝実際のところ〟を聞きたいわけです。ここが、専門家と専門家じゃない人との境目。どの分野でもいえることではないでしょうか。

これからもデータ関係は研鑽を重ねていきたいですが、10年、20年先はどうなっているのか想像もつかないし、追いつけるだろうかとも思います。今持っているものを吐き出せばOKという世界ではないので、情報のキャッチアップや勉強は必死ですよ。でも、好きな分野だからとにかく楽しいし、ほとんど趣味ですから、まったく苦になりません。小学校3年で初めて手にしたコンピュータ雑誌を面白がっていた感覚が、まさか今日までつながろうとは(笑)。

私の周りでも、活躍している弁護士は本当に楽しそうに仕事をしているんですよ。そして、常にチャレンジしている。仕事がある程度回り始めると食えるようになるし、時間もなくなるから、得てして現状を維持したくなるものですが、知らないことにチャレンジを続けることはとても尊いと思うし、仕事人生を豊かにしてくれると信じています。そのためには、面白いと思える世界を見つけないと。弁護士としてやりがいを感じるとか、仕事として興味深いとか、やっていて自信がつくような領域ですね。私が言うのも口幅ったいですが、若い人たちにはそれを見つけてほしいです。そして動くなり情報発信をして、専門性を磨いていく。そうすれば必ず道は開けますから。

※本文中敬称略
※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。