Vol.88
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弁護士 棚橋 元

HUMAN HISTORY

新しい挑戦をいとわず、時には寄り道をしても経験の裾野を広げることが大切。結果は必ずあとからついてくる

森・濱田松本法律事務所
弁護士/ニューヨーク州弁護士

棚橋 元

テニスと勉学に勤しみ、文武両道を貫いた学生時代。法曹への入口は刑法から

30年以上にわたり、企業法務を主戦場としてきた棚橋元は、この分野の開拓者でもある。早期よりM&Aやプライベートエクイティ案件に多数関与し、そのなかには、前例がないスキームを構築してインパクトを残した仕事も少なくない。また、シリコンバレーでの執務経験から、ベンチャー投資、IT系などの案件にも精通しており、いずれにおいても、根底に流れているのは進取の精神だ。もともとは裁判官志望だった棚橋が弁護士の道を選んだのは、「チャレンジするなら、将来が読めないほうが面白そうだったから」。そして実際に、自ら機会をつくり出し、チャレンジを重ねてきたことで、棚橋は今、「存分に楽しく仕事ができる場」に立っている。
生まれは東京ですが、日本銀行に勤めていた父親の転勤に伴ってけっこう動いたんですよ。小学校に上がる時に香港へ行き、その後は大阪、兵庫と、4年生の後半に東京に戻るまで転校すること4回。最初は“よそ者”になるから、そこでどう動くか、溶け込むかといった、ある種の処世術は身につきましたよね。一貫して勉強は不得意じゃなかったし、足が速かったものだから、どこの学校でも運動会ではリレーの選手になるとか、いわば文武両道、それが自分のアイデンティティだと思っていました。
一方で、幼い頃からずっと持っていたのは、世の中の強いものに対する反発心です。わかりやすいところでいうと、アンチ巨人。V9時代のジャイアンツが嫌いで(笑)。主流というものに対して「それが当然ではないよね」という感覚があったし、“人と同じ”がイヤだったのでしょう。要は、根があまのじゃくなんですよ。
武蔵中学校に入学してから始めたのがテニスで、結果的に生涯の趣味となりました。けっこう頑張って、中・高時代は大きな団体戦にも出て、勝った、負けたに熱くなっていましたね。成績もトップクラスを維持し、高校を卒業する時には根津賞をもらったんですけど、実際のところ、そういうポジションをキープするのは大変でした。この頃はテニスと勉強だけの毎日で、自分なりにですが、文武両道であることに少々意地になっていた気がします。
進路を考える段になっても、具体的な職業イメージはなかったんですよ。ただ一つはっきりしていたのは、銀行員にだけはならないと。父も親族の多くも銀行員だったから、同じことをしても意味がない(笑)。なので、違う世界に行きたくて法学部を選んだという経緯です。実は、記憶にはないのですが、高校時代の友人が覚えていたことがあって。将来の夢として、私は何かに「国際司法裁判所の裁判官になって、国際紛争を解決したい」と書いたらしいのです。法曹の世界などまったく知らなかったはずなのに、たぶん教科書から得た生半可な知識で書いたんでしょう。一応、国際派を標榜していたという話です(笑)。
東京大学に現役合格した棚橋は、それまでの頑張りから開放されて、「自由にのんびりしていた」。学内最大・最強の東大トマトテニスサークルにも入ったが、しばらくは活動に熱が入らず、友人らと旅に出るなど、よく遊んだという。あらためてエンジンがかかったのは、本人曰く“人生の夏休み”を経た半年後のことだ。
1年の秋から本格的にテニスに勤しみ、追ってサークル活動全体にもかかわるようになりました。忙しくて講義にはほとんど出なかったけれど、当時はバブル期だったから、就職や将来に不安を抱く学生などいなかった時代です。私も深く考えずにサークル活動に熱中し、いずれはどこかに就職するんだろう、くらいの感覚でした。
そんな日々のなか、団体戦を終えた2年生の秋頃に、時間が空いてたまたま刑法の講義に出たんですよ。刑法の第一人者である西田典之先生の刑法総論で、これがとても面白かった。具体的な事例を挙げながらの講義は理屈としてわかりやすく、法律は面白いかもしれない――そう思わせてくれたのです。先生の影響って大きいですよね。
刑法に興味を持ってから勉強するようになり、3年の秋学期に選択したのが山口厚先生(元最高裁判事)のゼミです。学ぶのは刑法原論で、例えば違法性、有責性の本質を原書で読むみたいな……。所属するのは研究者を目指す人とか、大学院生が大半で、学部3年生は私だけ。しかも、テニスで真っ黒に日焼けしていて、時には「次回は試合なので欠席します」と平然と言い放つものだから(笑)、私はさぞ異質に映っていたと思いますよ。それでも、ゼミのみなさんには優しくしてもらった。こうした先生方や環境に恵まれ、徐々に法律の世界にシフトしていったという感じです。
どうせなら難関の司法試験にチャレンジして、資格という確たるものを持って社会に出よう。遅まきながらそう考え、初めてトライしたのが4年の時。ですが、ものの見事に短答に落ちて、そんな甘いものじゃないと思い知らされました。そこから1年間は留年して完全に勉強モードです。受験に向けて予備校に行くのは性に合わないので、いわゆる基本書をベースに、ひたすら自分で理解していくスタイルを貫きました。
もとから得意科目だった刑法に加え、とりわけ集中したのは憲法。基本は人権でしょう。多数者による支配は法治国家の前提ではあるけれど、そこで救われない少数派の人権に思いを致すのが憲法だと学んで、自分の価値観と合致したのです。そして、実務家になるのであれば裁判官だと。「裁判官になっていい憲法判断を下す。その判決によって一つでも世の中が変われば」と本気で思っていたし、それが勉強を継続するモチベーションにもなったのです。今にすれば、青くさい話ですが(笑)。

弁護士の道を決めたのは、将来が見えないぶんだけ面白そうだったから

どうせなら、より大きなチャレンジを。方向転換して弁護士の道へと歩を踏み出す

1989年、大学5年生の時に司法試験に合格。当時は、受験者全体の2%しか合格しないという難関であったが、棚橋は1年間の集中勉強で突破した。司法修習に入った段階では、本人が前述したように裁判官を志望していたが、過程で、初めて弁護士の世界に触れたことで、その方向性は少しずつ転換されていく。
当時の修習期間は2年だからゆったりしたものでした。イベントとして法律事務所訪問が行われたのは実務修習に出る前で、私はここで初めて弁護士の世界と接点を持つようになったのです。今だとロースクールもあるし、学部生でも実務家と接触する機会はありますが、私にとっては、初めて実際に見聞きする世界でした。
当然、どこの事務所も訪問すると仕事の話を熱心にしてくださるわけですが、例えばファイナンス案件がどうと言われても、正直わからない。そのなか、ちょっと異質だったのが現在の事務所、当時の「森綜合」です。訪問した際に、案件の話ではなく、弁護士は普段どういう考えで仕事や生活をしているのか、それを聞きたいとオーダーしたら、むしろ喜ばれまして。食事会でも「今日は仕事の話はなしだ」とすごく盛り上がり、事務所の先輩・後輩にもまったく垣根がない。とても楽しそうに話している様が印象的で、仮に弁護士になるならこの事務所だと思ったんですよ。
そう、この時はまだ“仮に”という話で、変わらず任官志望ではありました。ですがその後、実務修習に出たことで、弁護士の仕事も少しは理解できるようになったし、続いていた森綜合とのやりとりのなかで、次第に興味を持つようになったのです。裁判官になると、独立しているとはいえ大きな組織なので、自分がどんなキャリアステップを踏んでいくか、ある程度先が見えてしまう。他方、現在大手とされる法律事務所でも、当時はどこも30人程度の規模でしたからね。拡大していくという時期でもあり、将来が見えないぶんだけ面白そうだなと。企業法務も“これからのジャンル”だったし、どうせなら未知にチャレンジするほうが面白いと思ったのです。それで方向性を変え、弁護士になるならここと決めていた森綜合に入所したわけです。
森綜合法律事務所(当時)に入所したのは92年。棚橋は入所33番目の弁護士として、新たな道を踏み出した。まだM&A案件などにはほとんど関与がなかった時代で、当初は、大企業や証券会社をクライアントとする種々雑多な仕事にかかわった。棚橋は当時を振り返って、「学び、基礎を叩き込まれた新人時代の3年間は、私にとって一番大きな意味を持っている」と言う。
今であれば研修からスタートしますが、当時はどこの事務所も“いきなり”ですよ。入所した初日、大量のファイルを渡され、1時間後に始まる会議に「出て」と。日本の機関投資家が資金提供したニューヨークのビルにまつわる大型のリストラクチャリング案件でした。会議には出たものの、私には英語はもちろん、日本語で話していることもよくわからない(笑)。そのなか、先輩弁護士が錚々たる日本企業や証券会社の人たちを相手にどんどん仕事を進めていく。「自分もこうならなきゃいけないんだ」と強く思ったのを覚えています。
また、書面を作成するにしても、1年生の文章なんてたかが知れているでしょう。当然の如く、先輩弁護士によって修正されるのですが、それを見ると驚かされるわけですよ。使っている資料は同じなのに、ここまで書けるんだと。先輩たちは厳しくもありましたが、仕事のクオリティでもって私を育ててくれました。何かに窮すれば「合議して一緒にやるか」と、温かく最後の最後まで付き合ってくれたものです。
もう一つ印象に強いのは、ご存命だった古曳正夫先生の言葉。難しい仮処分の案件を進めていたなか、申立書面ができ上がるという段になってある事実が判明し、勝つ見込みがない事態になったんですよ。諦めざるを得ないとチーム全体が消沈したのを見て、古曳先生は「全勝でなくていいんだ。全勝弁護士というのはむしろおかしい」とおっしゃった。救われましたよね。もちろん、別の見方もあると思いますが、私には深く残っている言葉です。
留学に出るまでの3年間、様々な事件を扱ったことで本当に多くを学びました。仕事の中身というより、「ここまでやらないといけないんだ」ということを。そして先々、自分が先輩たちと同じ立場になった時、同等、あるいはそれ以上の弁護士にならねばと。仕事を“こなす”のではなく、どう取り組むか、弁護士としてあるべき姿勢を学べたことは、とても大きかったですね。
弁護士 棚橋 元
2013年から9年間、森・濱田松本法律事務所のマネージングパートナーを務めた。弁護士登録から一貫して同事務所に籍を置き、現在もM&Aプラクティスグループおよびベンチャー/エクイティファンドプラクティスグループのリーダーとして業務にあたる

留学で得た知見を礎に、新たなジャンルを切り開く。覚悟を持って仕事に臨む日々

95年、棚橋はハーバード大学ロースクールに留学。時代的には、インターネットが世界的なブームを引き起こしたタイミングであり、その先行者であるアメリカで学んだことは貴重な経験となった。そして、ニューヨークとシリコンバレーの法律事務所で執務した経験も、棚橋のキャリア形成に大きく生きている。
企業法務系だから、当然、日本の会社法に相当するものや証券取引法などを学ぶわけですが、私としては、自分で新しい何かを見つけたいという意識が強かった。その意味では、タイミングがよかったんですよ。ハーバードでいきなりインターネットに関連する授業ができたのです。ゼミ形式の「ロー・インターネット・ソサエティ」という授業で、現地の学生やビジネススクールの人たちにも非常に人気がありました。何かを探していた私も「入らなきゃ」と思い、すぐに応募したのですが、一介の留学生が入る余地はなく……。
でも、諦められず、教授にメールを送ったのです。まだメールのやり取りはあまり普及していない時代でしたが、自分のバックグラウンドや思いを文章にして。すると、1日も空けずに「いいよ」と。その懐の深さに驚きました。何も言わなければ何も与えられないけれど、自ら求めれば、既成にとらわれず門戸を開き、認めてくれる。これは、なかなか衝撃的な経験でした。そして、このゼミに参加したことが、私のキャリアに大きな影響を与えていくのです。
2年目の研修は、事務所のサポートによってニューヨークの法律事務所に決まっていました。M&Aセクションでお世話になりつつ、密かに考えていたのは“その次”。本来は帰国予定でしたが、もっと海外経験を積みたいという思いが強かったのです。当時事務所としても国際関係の拡充を戦略としていたので、わがままを通させてくれた。それで2カ所目の研修先として自分でアプライしたのが、シリコンバレー最大の法律事務所「Wilson Sonsini Goodrich & Rosati」で、2年間働かせてもらうことになりました。ここを知ったのは、まさに先述したゼミがきっかけ。ウィルソン・ソンシーニの弁護士がゼミのゲストスピーカーとして西海岸から訪れたことがあり、私はその時からすごく興味を持っていたのです。
ベンチャー企業をスタートアップからIPO後までサポートする事務所で、当時でも弁護士が300人ほどいたでしょうか。今でこそスタートアップ支援は盛んですが、当時の日本にはほとんどなかったし、大企業が中心の仕事をしてきた私には新鮮、かつ興味津々でした。ここで優先株やベンチャーファンドの実務を学び、知見を広げることもできた。それを、探していた“新しい何か”として持ち帰ったというわけです。

自ら動いたことで、留学で得たものはより大きな財産となった

弁護士 棚橋 元
7万5000冊を超える文献を備えたライブラリースペースで。森・濱田松本法律事務所はオンライン上で文献検索・閲覧ができるプラットフォームの開発に参画、全所員がそのサービスを活用している
当地で築いたネットワークも財産となった。シリコンバレーでの執務経験を持つ希有な日本人弁護士として、棚橋のもとには様々な案件や相談が寄せられ、仕事につながっている。例えば会社法施行後、初のケースとなったIn-Outの株式対価のクロスボーダーM&Aを担当するなど、いち早く前線に立ち、ひたすら仕事に打ち込んだ。
いわゆるブルーオーシャン的な“初めて”の案件が多かったです。折しも会社法が改正されて、日本でも新株予約権が使えるようになり、それを使って「何ができるか」をとことん考えるのは非常に創造的で面白かった。買収防衛策に新株予約権を使うというのも早い段階から着想し、新規ストラクチャーなどの実務にあたってきました。
誰も考えたことがない、今までにないスキームならば、何を発想してもいいわけです。もちろん、突き詰めた検討は必要ですが、自分が本当にできると思えばやればいい。こういう考え方に立てるようになったのは、やはり留学時代の経験からです。教わってきた「商法はこう」「企業法務はこう」といった概念が、異なる国、制度の下では違っていたりするわけで、それを実感できたのは大きかった。物事は相対的であるという視点が養われました。だから、柔軟な発想や考え方を持てるようになったのだと思います。
記憶に強いのは、アメリカの半導体メーカーの大手、マイクロン・テクノロジーが国産メーカーであるエルピーダを買収した案件でしょうか。エルピーダが倒産手続きに入ってスポンサーを探していた頃、韓国や中国のメーカーも関心を寄せるなか、アメリカで唯一手を挙げてくれたのがマイクロンでした。同社は先のウィルソン・ソンシーニのクライアントで、その意味ではネットワークが生きたのですが、やる以上、マイクロンは勝たねばならず、プレッシャーは大きかった。リスクを正確に分析・伝えたうえで、交渉条件も勝ち取らないといけない。かといってブレイクするわけにはいきませんからね、“ビッド”から最終契約締結まで緊張の連続。大変だったけれど、そのぶん大きなやりがいがありました。何より、成功した時にクライアントにとても喜んでもらえたこと、これが一番です。

事務所経営やライフワークを通じて得た豊かな経験。その裾野から次を見据える

仕事に打ち込む日々はハードではあったが、「存分に頑張れる環境で、私にはいつも楽しさ、面白さがあった」。その環境をつくる側に立ったのは2013年。以降9年間、棚橋はマネージングパートナーとして事務所経営に携わり、個人を軸に置きつつも組織力強化に向けた新たな取り組みを重ねてきた。
当初、経営を担う弁護士は7人体制だったのですが、私が中心メンバーになってからは、迅速な意思決定をするために、3人にまで人数を減らしました。そして、必ず内部で考えを統一してから、事務所全体の意見を聞く。これは、かなり心がけたスタイルです。事務所の人数が少ない頃とは違って、これだけの組織になると、大・中・小、たくさんの出来事が起きるので、マネージメントの意見を固めたうえでスピード感を持って経営にあたろうと。
リーマンショックや東日本大震災が起きた後で、どこの事務所も先行きが見えづらい状況にあった時代です。まずはトップラインを増やすことが重要だと考え、施策を打ってきました。元来“稼いでなんぼ”というタイプではない私が「トップラインが重要」と発信すれば、受け入れられやすいかな、とも考えて。それら施策に加え、アベノミクスによる経済成長の流れにも乗って、特にM&Aは右肩上がり。16年には件数、金額ともに日本の法律事務所のトップにまで伸びました。
他方、業務量が増え、多くの若手も入ってくるなかで、キャリアの多様化も考えなければなりません。私の若い時代は、仕事が好きで寝食忘れて働くという感覚もありましたが、今はそれだけがキャリアじゃないですからね。例えば、仕事のペースを選べる子育て支援制度だとか、多様な働き方ができるよう改革にも注力してきたつもりです。ただ、そうした制度化は重要だけれど、一方では、かたちがなくても皆が自律的に動く文化も守りたい。私自身が経験してきたように、うちには頑張る人、挑戦する人を支えるカルチャーがありますから。個の尊重と組織力の強化、このバランスをいかにうまく取るか――本当に深遠なテーマで、組織の責任を持つ者としてどういう考え方を持つべきか、思い悩んだりもしました。考える場面、挑戦する場面が多く、私自身も多少なりとも成長したのではないでしょうか(笑)。
弁護士 棚橋 元
オフィス内のコミュニケーションエリアで、M&Aプラクティスグループのメンバーと。「上下の壁がなく、一人ひとりの弁護士が自律的に考え、動き、頑張る仲間を支えるカルチャーが当事務所にはあります」(棚橋氏)

楽しく、思い切り仕事ができる場、共鳴し合える仲間こそが、私の力の源

一貫してM&Aを専門としてきた棚橋だが、シリコンバレーでの執務経験を端緒とするベンチャー支援にも長くかかわっており、ライフワークとなっている。帰国してからベンチャー企業に関連する経済産業省の委員会活動を続け、09年、産業革新機構(現INCJ)の発足時に取締役に就任。ただ一人の弁護士委員として、これまで運営にあたってきた。
発足時からINCJにはオープンイノベーションでベンチャー投資をするというミッションがあったので、そこに専門性を持つ弁護士として声をかけていただいたのです。現在、投資は産業革新投資機構が行い、INCJは15年の運用期間を通じて投資したものを回収するフェーズに入っています。結果としてはトータルでプラス。委員のなかでは私が一番若く、当初は何ができるだろうかという思いもありましたが、いいかたちで落ち着きそうです。
委員としての自分の役割をどう考えるかは、なかなか難しいものです。問題のありそうな投資をただ止めればいいのかといえば、それは違いますし、かといって、そこを甘くすると今度はモラルハザードになってしまう。投資をする、しないの最終判断は私がするわけではないけれど、法律の専門家としてどういう判断をするべきか、意見を出すか、深く考えると難しい。でも、例えば株式譲渡契約を見てくださいといった類の仕事ではなく、「この投資、どう思いますか?」は別の意味で面白く、鍛えられました。相当の数の案件を見てきたことで様々な事業に対する理解が進んだし、投資自体の意義もあらためて認識できたように思います。
現在、務めている東大での監事を含めて、弁護士業務以外でも様々な領域で経験を積ませてもらったので、将来的には、その経験を生かした社会還元をしたいと模索中です。それが今の一番の課題であり、目標です。もう一つの夢は、やっていて純粋に楽しいことを継続すること。私は合議でする仕事が大好きなんですけど、皆で「どう法解釈する?」「このストラクチャーについてどう思う?」と合議するのが本当に楽しい。そして、ブレイクスルーが生まれた瞬間、最高に嬉しくなる。そうして楽しく仕事を継続するのが夢。日本のリーガル・インフラストラクチャーを変えてやるとか、事務所をナンバー1にするとか、そのような高い目標じゃなくて申し訳ないんだけれど(笑)。存分に仕事ができるというのは幸せなことです。どういうキャリアを積むかも大事ですが、自分が楽しく思い切って仕事ができる場、共鳴してくれる仲間を見つけてほしいと思います。結果は必ずあとからついてきますから。
※本文中敬称略