Vol.7
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久保利 英明

HUMAN HISTORY

肝っ玉の据わった弁護士になりたかった。正義を守るために命がけで戦うのが弁護士なんです

日比谷パーク法律事務所
代表弁護士

久保利 英明

綿密な計画と戦略で広めた総会対策—久保利方式

トレードマークにもなっている派手なスーツやネクタイは、実はかなり若い頃からの趣味だった。

「もともと赤とか緑とかいったカラフルな色が好きでね。存在感があるでしょう。総会屋を相手にするとなると、こっちも気合いを入れてかからなくてはならないし(笑)」

この人物こそ、株主総会における一括上程・一括審議なる「久保利方式」で知られる久保利英明氏である。従来の「しゃんしゃん総会」と一線を画した画期的な方法で、企業と癒着する総会屋を次々に排除していく彼の働きは、企業法務のトップ弁護士としてその名を世に知らしめるきっかけともなった。

「初めからうまくいったわけじゃありませんよ。総会屋と決別したいという企業の株主総会の司令塔として、スムーズな議事進行が図れるように対策を企てたものの、4時間以上も総会屋に粘られたことがありました。総会担当者はただ1日の株主総会に向け、総会屋対策に奔走しながら次の1年間を準備に費やしていました。こうした神経をすり減らした担当者の姿を見て、決意したんです。本来あるべき姿に戻そうってね」

総会屋の人口は8000人以上といわれていた時代。1982年に改正商法が施行されると、生き残りをかけた総会屋の活動も活発になり、84年のソニー株主総会では13時間半というマラソン総会が他の企業経営者を震撼させた。

「企業には総会対策が必要だ、弁護士がサポートしないと経営の健全化は果たせない、なんて言う弁護士は、それまで一人もいませんでした。でも、僕が裏方として議事進行を支えるだけで、それまでビクビクしていた企業が元気を取り戻してくれた。総会対策・運営指導という仕事は、弁護士の新たな活動領域になると確信したんです」

今でこそ「久保利方式」といえば知らぬ者はいない総会運営手法だが、その陰には久保利氏ならではの戦略があった。日本を代表する企業でその有効性を示せば、新手法を取り入れる企業は一気に増えるだろう。そう考えた久保利氏は、民営化されたばかりのNTTへ事務所を挙げて営業をかけ、新手法で巨大総会の運営に取り組んだ。この成功が呼び水となり、JR東日本やソニーといった大手企業からの依頼が相次いだ。それにならった全国の上場企業も次々と久保利方式での総会運営を取り入れていったのである。

「アフリカの戦場で三度は死んだ」体当たりの経験で培った弁護士魂

1944年、埼玉県の質屋に生まれた久保利氏は、開成高校を卒業すると東京大学法学部へと進んだ。

「祖父の家系が士族でしてね。正義感が強くて、人に頭を下げるのが嫌いなところは、祖父の影響が強いんでしょう。だから、普通の勤め人は無理。医者かジャーナリストにでもなろうか、と考えたこともありました」

だが、医者になるには苦手な理系科目を克服しなければならないし、ジャーナリストになるにも新聞社や出版社に就職する必要がありそうだ。そんなとき、久保利少年は社会的正義を守ることを使命にする「弁護士」という職業があることを知る。

「これはいいと思いました。学費のこともあるから、大学は国立。できれば京都に行きたいなと、勝手に京都大学へ進むことを考えていたんです。そうしたら、母に言われましてね。『あんたの正義は、京都まで行かないと貫けないのか』と。これには参りました(笑)」

司法試験には東大法学部4年で合格。だが大学を卒業した久保利青年は、司法修習所の門をくぐらずに、アフリカやインドを巡る旅に出た。

「大学を出たての、全く社会性のない若造がいきなり弁護士になっても、何の役にも立てないだろうと思ったんです。東大や司法試験に受かったのは、ちょっと記憶力が良くて、目端が利いただけのこと。このまま弁護士になってもロクな仕事はできないなと」

どんな権力にも屈しない、肝っ玉の据わった弁護士になりたかった。それには、もっともっと苦労しなければならないと思った。大学時代、アフリカ解放闘争の支援活動に関わっていたこともあり、目指すはアフリカと決めた。

「シベリアからヨーロッパを経由してアフリカに入りました。壮絶でした。アフリカでは多くの人が命を投げ出して戦っているし、インドでは川を死体が流れていく。僕自身、ライオンのうなり声に震えたり、極度の下痢に2日間もトイレに座り続けたり、幾度も危険な目に遭いました。それで旅から帰る途中で思ったんです。『僕も3回くらいは死んでいてもおかしくなかったな』ってね」

帰国すると、体重は22キロも減っていた。このときの経験は、後に総会屋やヤクザの脅しに屈しない、氏の強い精神を支えるより所となった。

5000円のこだわりが森綜合との出会いをいざなう

久保利 英明

帰国後、69年に司法研修所へ入所した久保利氏は、人権派弁護士を目指した。成績は優秀(?)、弁も立つ。当然のごとく、司法修習で世話になった事務所からは、真っ先に声がかかった。

「それで、給料はいくらかと聞いたら、6万円だと。当時、新人弁護士の報酬相場は6万5000円。僕は、それで部屋の家賃を払って生活していく算段をしていたから、困りましてね。『なんとか、5000円だけ上げてくれないか』と頼みましたが、断られてしまった(笑)」

事務所に入所できなければ、一人でやっていく覚悟だった。“即独”でもしようかと考え始めた矢先、たまたま一人の弁護士に出会う。

「森綜合(現森・濱田松本法律事務所)の古曳正夫弁護士でした。アフリカで体験したことや僕の信念みたいなことを話したら、ずいぶんと興味を示してくれましてね。小さな事務所だというのに、『給料なら月7万円払うから、うちに来い』と。ここでなら自分の正義を全うできそうだと、6万5000円の給料でお世話になることにしました」

後に巨大事務所となる森綜合だが、当時は4人の小所帯。まだ駆け出しの久保利氏は、森綜合の創設者でもある森良作先生に付いて歩いたが、師はわずか3カ月にして永眠。後は古曳氏から弁護士のイロハを学んだ。

「見るもの聞くもの初めてのことばかり。民法の条文はわかるけど、どんな事実があれば、どんな条文が必要かなんてわからないわけですよ。なるほど、ここであの条文が生きてくるのか、という発見の毎日。面白かったけど、今の僕は条文なんて言わない。相手が知りたがっていることをわかりやすく話すのが、依頼者に対する優しさでしょう」

そして、その優しさは人脈を広げ、後にエンターテインメント分野で氏が活躍するきっかけを作った。知り合いを通じて、芸能人の弁護を引き受けたのは弁護士3年目だった。

「その人物が何者かも知らずに引き受けたんですよ。勾留中の警察署に会いに行ってみると、とても嘘をついているようには見えない。自分には身に覚えのない話だけれど、早く解放してもらえるなら、嘘をついてでも罪を認めて示談で終わらせたいと。思わず叱り飛ばしました。『絶対に嘘はついちゃダメだ。一生、後悔するぞ』ってね」

無実は必ず証明してやる。そう宣言した久保利氏はできる限りの手を尽くし、起訴前に無実の証明を果たした。しかし、その後も被疑者の勾留が解かれないため、検事に対して莫大な金額の損害請求の可能性を示唆。被疑者は勾留満期を待たずに即刻、釈放されたのだ。

「釈放されたのは、中止になったら2億円の損害が発生するような、大きなコンサートの前日でした。ステージに立った彼は、『私は今日まで生きてきました』って。エンターテインメント、芸能人と聞くと、華やかさが先に立つけど、こうした人々は周りの多くの人々の生活を背負っている。倒産などの生死を分かつ案件と同じなんですよ。こうした分野でも親身になって戦える弁護士が求められているなと実感しました」

商法改正で、新たなビジネス領域を見いだす

当初、森良作氏と福田浩氏、本林徹氏、古曳正夫氏、久保利氏の5人の弁護士だった森綜合は、森氏の逝去後も徐々に陣容を拡大。倒産問題に強い法律事務所として、さまざまな企業からの要請に応えていた。

「倒産一本で行くとリスクがあるわけです。景気が良くなれば、倒産する会社も減るわけですからね。となると、倒産に強い事務所は倒産する。何としても、次の柱が必要でした」

折しも総会屋問題が顕在化、国は商法改正の施行を急いでいた。脅しと暴力の陰がちらつく総会対策は弁護士の仕事ではないか。久保利氏は改正される商法の勉強に力を注いだ。頼まれたからやるのではなく、社会的正義を守るために必要なことだと思うからやる。そして、そこに新たなビジネス領域を獲得しようという久保利氏ならではの戦略もあった。メディアへの寄稿、講演会などを通じて、総会対策の必要性を訴えていったのも、それを実現するための一つの方策といえるだろう。

「大事なのは、総会屋に食いつく余地を与えないこと。議案を一つずつ小出しにするのではなく、先に一括して議案説明を行い、総会では招集通知で伝えきれなかったことなどを補足説明し、最後に株主からの質問、動議、意見などを一括して審議するんです。こうすれば、2時間くらいで議事の進行ができるし、株主への説明義務違反にもならない。まして、株主の意見を聞かずに強引に採決してしまうという非民主的な総会運営も避けられます」

この一括上程・一括審議方式で、久保利氏が成果を上げ始めたのは、83年。84年に著書『株主総会の運営・対策』を出版すると、対策次第で民主的な総会運営が実現できることを世に知らしめた。だがその一方で、依然として総会屋との水面下の交際を続けている企業も後を絶たず、総会屋の完全排斥までにはそれから10年以上を要したという。

「彼らはものすごく賢い。常に新しい切り口で、いろいろなことを仕掛けてきますから、総会の前には僕が総会屋に扮して何度もリハーサルするわけです。本物より怖い、なんて言われましたけど(笑)」

そんな久保利氏の存在は、総会屋にとっては厄介者でしかない。総会屋からの嫌がらせは徐々にヒートアップし、銀座にあった事務所のガラス窓には、まさに彼の後頭部を狙ったかのように銃弾の跡が残っていたこともあった。

「大事なことは、どんなことがあってもうろたえないこと。脅されたときに失うものがあると怖いんです。でも僕は、アフリカで死ぬような目に遭っていますからね。そんなことくらいじゃ、驚かないですよ。逃げも隠れもせずに、そのまま仕事を続けていたら、『こいつを脅しても無駄だな』と思ったんでしょうね(笑)。僕なりに理解していたのは、彼らが怒るのも無理はないな、ということです。そもそも株主総会は彼らの活動基盤だったわけで、そこには1000億円からの市場があった。それがある日突然、彼らを閉め出す法案が立法化され、メシの種がなくなってしまうんですからね。彼らも死に物狂いですよ。でも、そんなことがまかり通っていたこと自体、世の中、間違っていたんです。そして間違っていることを正すのが、弁護士である僕の仕事なんです」

だが、時代は進化していく。総会屋との交際を断つ企業が増えれば、より民主的な株主総会の運営が求められる。企業は株主から良好なレピュテーションを獲得できなければ、事業活動を円滑に進めることができなくなる。新しい時代を予見し、日本初の日曜日総会やアトラクション付き総会を演出した。こうして総会対策で培った信頼はやがて、M&Aや企業統治のビジネスサポートへと向かっていくのである。

寄らば大樹の弁護士、事務所では本末転倒

98年、久保利氏は森綜合をスピンアウトして、独立することを決めた。

「入所当時4人だった弁護士は60人を超える規模になっていました。それで、ふと『もし僕が修習生だったら、ここで働きたいか』と考えたんです。創業期から事務所の運営に携わってきて、自分なりに働きやすい理想の事務所を目標としてきた。70人目の弁護士はここで働くことに目的や意義を感じられるのだろうかって、振り返ってみたんです」

独立への引き金を引いたのは、偶然、耳にした若手の言葉だった。

「森綜合に入った理由を聞かれた若手が、『寄らば大樹の陰』って答えていたんですよ。弁護士というのは、どんな厳しい状況でも最前線に立って全力で戦うものだと考えていますからね。衝撃は大きかったですよ。一方で、そうした理念に共感し合いながら働ける規模を超えてしまったんだな、とも思いました。ならば、独立して自分の理想の事務所を作ろうと決めたんです」

弁護士としてひと通りの経験を積んできた自負もあった。残りの人生は自分の好きなことだけやって生きていこう。訴訟は個人技だから、一人でも十分できるだろう。結局、創業メンバーには、中村直人弁護士(現中村・角田・松本法律事務所パートナー)と菊地伸弁護士(現森・濱田松本法律事務所パートナー)が加わった。

「僕たち3人は森総合で、それなりのポジションに就いて、クライアントのために精一杯やっていましたからね。森総合には大きな穴を開けてしまったかもしれないけれど、『自分たちで事務所を盛り上げていこう』という人たちも大勢いて、その後、日本有数の大規模事務所へと成長させていった。当時から独自路線を貫く僕にはできなかったかもしれない。結果的には、双方にとっていい選択だったんじゃないかな」

こうして98年、中村氏、菊地氏とともに日比谷パーク法律事務所を設立した久保利氏は、森綜合でやっていた会社法、知的財産権、訴訟案件を中心に、企業のコンプライアンス経営を支える人気弁護士として、さらにその名を馳せていく。

何か問題があるのなら用意周到に準備すればいい

久保利 英明

何かおかしいと感じたら、自分の手でメスを入れるべき。そのくらいの胆力が必要だと思いますよ

久保利 英明

あおぞら銀行監査役に野村證券社外取締役、金融庁顧問、ニッポン放送社外取締役……。2000年以降、久保利氏は企業の顧問弁護士としてだけでなく、事業経営を監督する立場で機能強化を図り、その活動を支えていく“剛腕”として重要なくさび役を果たす。また「時給7万円の弁護士」という風評とは裏腹に、弁護士の活動を活性化することにも積極的だ。所属する第二東京弁護士会の会務や日当1万円の当番弁護士として被疑者の面会にも出かければ、今後の日本の法曹界を担う大宮ロースクールでの人材の育成にも大きなウエートを置いている。

「僕は司法改革も、弁護士増員も大賛成。就職が難しくなる? 質が落ちる? 何か問題があるのなら、用意周到に解決策を準備すればいいのです。これからは司法の時代。それだけの弁護士が社会に必要になるから増員するわけです。例えば、日本には100歳以上の高齢者が3万6000人いるというけれど、僕の身近に100歳以上のお年寄りは一人もいません。弁護士の人数なんて、それ以下ですよ。これで全国の隅々まで行き渡るようなリーガルサービスを実現できるはずがない」

高齢者といえば、我が国は年金問題に揺れている。08年に厚生労働大臣直属の調査委員を務めた久保利氏によれば、職員だけの問題ではないという。国民自身がこの問題を自分のこととして真剣に考えているかと。

「同じ問題が英国で起きたら、大変な社会問題ですよ。ところが、日本人は主権者としての意識が低すぎるんです。例えば、“消えた年金問題”で3万人が訴訟を起こしたら、確実に国は動きます。また弁護士にもその危機感がない。日本をどういう方向に持っていくべきなのか、ということを考えているだろうか。司法改革ができなければ、行政改革もできない。そういう意味でも、法律家による制度設計を考えるシンクタンク的な機能が必要になる時代が来ると思っています」

国民のために弁護士ができることは、まだまだある。だからこそ、若い弁護士には世の中の現実を知り、社会性を身に付けるべきと提言する。

「弁護士というのは身をもって正義を求めていく仕事であって、権力や組織にぶら下がって成り立つような仕事じゃないんです。何かおかしいと感じることがあったら、自分の手でメスを入れればいい。そしてテーマを決めたら命がけで戦う。弁護士には、それぐらいの胆力が必要だと思いますよ」

良い弁護士の条件には、優しさ・柔らかい頭・勇気の三つの「Y」が必要だという。すなわち、相手の立場になってものを考えることのできる柔軟な発想と覚悟を持った弁護士は、自らの栄光を失わないと語る久保利氏の睡眠時間は、平均5時間。

「元気の源は、やりたいと思ったことをやること。睡眠時間を削っても、この国が良くなるためならいくらでも頑張れる。その努力が実れば、眠っているときよりはるかに心地がいいんです(笑)」