京大で研究者としての職を得たのは、77年だった。大学紛争でストップしていた助手の公募が再開され、首尾よく採用されたのである。ようやく給料を手にする身となり、「高校の宿直室が下宿」の生活にも、晴れて別れを告げることができた。そんな松本は79年、法学部ができたばかりの広島大学に助教授として赴任する。
磯村ゼミの門下生だった広島大の教授に声をかけられて、行くことになりました。ただ、いきなりそれまでほとんど取り組んだことがなかった物権法をやれ、と言われたのには参った。授業が終わると、1週間かけて次の授業の準備をする有様でした。
広島大学時代の特筆すべき出来事といえば、81年から2年間のアメリカ留学でしょう。国際文化会館が提供していた海外留学プログラムで、コロンビア大学ロースクールに客員研究員として渡米しました。
でも、悪いことにコロンビア大学というのは、マンハッタンのど真ん中にありましてね。ロースクールの前にある大学のアパートに住んでみると、勉強を邪魔する誘惑が多いのです(笑)。クラシック音楽の殿堂リンカーンセンターも、タイムズスクエアのミュージカル劇場にもすぐに行ける。82年の夏に、サイモンとガーファンクルがセントラルパークで復活コンサートをやった時にも出かけていきました。50万人が参集し、音はすれども姿は見えず、でしたが。
もちろん、遊んでいたばかりではありません。当初は契約法を学ぶつもりの留学だったのですが、異国の地でまったく頭になかった製造物責任法に足を踏み入れることになったのは、大きな収穫でした。ちょうど連邦議会で同法案の審議が行われている事実を知り、「判例法の国なのに、どうして立法なのか」と、素朴な疑問を抱いたのがきっかけでした。
答え自体は単純で、実は共和党議員が提出した法案は、「行き過ぎた製造物責任」の判例法理にブレーキをかけようという、当時の日本の議論とは逆のベクトルのものだったのです。でも、そんな経緯でアメリカの製造物責任に興味を抱いた私は、その後も研究を続け、何本か論文も書きました。
そのことが後の人生の転機につながるのだが、当時は知る由もなかった。帰国後、再び教鞭を執っていた松本は、87年、やはり磯村門下生に“引っ張られる”かたちで、大阪市立大学に転勤する。大阪は、多くの被害を生んだ地ということもあり、消費者事件に関係する弁護士グループなどの運動が盛んだった。そこでの日々を、本人は「弁護士と純粋な学者の中間的なスタンスという、今まで続いている状態は、大阪時代に形成された」と述懐する。
直接消費者の代弁をする弁護士とは違うけれど、研究の面から被害救済などに取り組む。もっというと、法の原理から説き起こすのではなく、ゴールのほうからアプローチして裁判官を説得することに、研究者として貢献できないかを考える。そんな、純粋な学者にはない思考が鍛えられたのは、被害に遭った消費者のために奮闘する弁護士などの実務家と、深く切り結ぶようになったからにほかなりません。
この時期に、悪徳商法が社会問題化した豊田商事事件で破産管財人を務め、後に日弁連の会長を務めた中坊公平先生の薫陶を受けたことも、大きな糧になりました。先生の口癖は、「消費者に武器を」。まともな消費者法もない時代、この問題にかかわる誰もが抱いた思いといっていいでしょう。
先生のスローガンに触発されて、私も当時の中曽根内閣が掲げた民間活力の活用、すなわち「民活論」をもじった「消費者法の民活」を提唱したんですよ。消費者保護のためにもっと民事ルールを活用しよう、民事訴訟も使おう、ということです。
89年には、松江市で開かれた日弁連人権擁護大会に、消費者問題をテーマとする分科会のシンポジウムのパネリストとして参加しました。後から考えると、この集会も時代の要請を先取りしていましたね。その場で、縦割りの消費者行政を改め、全体を統括する消費者庁を設けるべき、という提言が採択されたのです。それが実現したのは、ちょうど20年後の2009年でした。