刑法に興味を持ったことが、弁護士を目指すきっかけに
腕利きの倒産弁護士として、今、真っ先に名の挙がる人物――瀬戸英雄。事業再生・倒産法に通暁し、こと2000年以降は、第一ホテル、マイカル、耐震偽装のヒューザー、商工ローンのSFCGなどといった大型案件の更生・破産管財人を歴任。確かな手腕を発揮してきた。周知のとおり、事業会社としては史上最大の規模となったJALの会社更生事件においても、瀬戸は管財人統括として死力を尽くし、再上場まで2年8カ月という最短期間で、再建への道筋をつけた。信条は、「なるべく多くの人たちに喜んでもらえる結果を出すこと」。それを可能にしているのは、瀬戸の卓越したバランス感覚である。常に大局に立ち、既成概念や手法にとらわれることなく、一つ一つの案件をていねいに“仕上げてきた”。「困った時の瀬戸頼み」。その広い度量に、圧倒的な信頼が寄せられている。
祖父が伊豆のみかんを集荷して、戦中、満州に送ることを業としていた関係で、私は熱海で生まれました。ただ瀬戸家は代々小田原で、商人の家系です。父は国鉄に勤めましたが、肋膜炎で体を壊し、その後は青果店をやったり、食堂をやっていたり。家には若い衆もいて、大人に囲まれて生活していました。育ったのは小田原で、学校から戻ればランドセルを放り投げて野球に行く毎日。どこにでもいるような、田舎の悪ガキでしたね。
私は、ごく普通に会社勤めをしたいと思っていたんです。というのも、商売に忙しい親は、学校の授業参観というものに来たことがなくて、いわゆるサラリーマン家庭が羨ましかったんです。地元では名門とされる小田原高校に通っていたので、ちょっと名のある大学の経済学部にでも進んで、会社勤めしたいと思っていました。ですが、少しもの心がつくと自分の適性がわかってくるでしょ。元来、決まったパターンを繰り返すことが苦手な自分には、「どうも向いてねえなぁ」と(笑)。性分からすると自由な職業に就いたほうがいいと、いろいろ考えたのですが、書や絵、文筆に特別な才能があるわけじゃないし……金をかけず、努力をすればなれるもの、それが弁護士だったというわけです。
伏線はありました。高校3年の頃から、冤罪事件に対して興味を持ち始めたのです。戦後、多くの冤罪裁判に関与した正木ひろし弁護士の本を読んだり、首なし事件を描いた映画『首』を観たりしてね、刑事法に強く関心を持つようになりました。それと、当時、検察事務官を務めていた親戚がいて、その人が「日本で一番難関なのが司法試験。東大に入るより難しい」って言うもんだから、「面白い」。なら、それを目標にしてやろうと決めたんです。
モダンジャズや映画、そして小説に夢中で、それまで青春を謳歌していた瀬戸だったが、弁護士になると決めてからは、「人並みに勉強を始めた」。そして、法政大学法学部に進学したが、時代は全共闘真っ盛り。在学中、大学はバリケードストライキとロックアウトの繰り返しで、講義をまともに受けたことはほとんどないそうだ。専門課程に入ってからも学内に勉強場はなく、喫茶店など、外でゼミ学習をしていた。
弁護士になりたいという思いはありつつも、政治と青春に翻弄されて、実は何も勉強していない状態でしたが、奨学金をもらえそうなので、とりあえず大学院に行ったんです。院で学んだのは刑法。吉川経夫先生の指導を受けました。みんな知らないけれど、私は“刑法学徒”だったんですよ(笑)。始めるとのめり込むタイプだから、司法試験の勉強は棚上げにして、間接正犯をテーマにした修士論文に夢中になっていました。とはいえ、学者に向いているわけじゃないから、私の様子を見かねた先輩、労働法の金子征史教授が「お前、本当に弁護士になりたいのなら、独立した友人の法律事務所を紹介するから、そこで働きながら司法試験の勉強をしろ」と。
“書生”として入った田口穣法律事務所は、設立されたばかりでまだヒマだったんです。私の仕事は、和文タイプによる書類の作成と来客へのお茶出し、あとは先生とヘボ碁を打ちながら酒の相手をする。この3つ。空いている時間を使って、受験勉強させてもらいました。基本は独学で、真法会の答案練習会へ行ったくらい。今のようにマニュアル化された受験本なんてなかった時代です。これは後日談ですが、私は司法修習生になってから、勉強スタイルをもとに短答式試験向けの六法を考えた。条文ごとに過去問を択一式で張りつけたもので、それが下森定先生の監修で自由国民社から出版された『択一式受験六法』。原案をつくったのは私で、今も定評ある本として版を重ねていますが、私に印税は入ってこない(笑)。
弁護士生活スタート。倒産事件を中心に、猛烈に働く
1976年、4回目のチャレンジで司法試験に合格。時を同じくして、瀬戸は一冊の本に出合う。「再建の神様」と呼ばれた早川種三氏の『会社再建の記―わが「助っ人」人生に悔いなし』である。弁護士になって何をするのか――それがまだ漠然としていた瀬戸に、同書は一つの道を示した。「会社更生の管財人というものは、すごい」。修習生になった頃には、瀬戸は倒産事件を扱いたいと考えるようになっていた。
会社が潰れるのには必ず原因がある。それは人だと。再建は、テクニカルな部分より、かかわる人たちが会社や事業を大切に思うかどうかにかかっている。という、その本の主旨に、とても感銘を受けたのです。だから修習生時代は、会社更生とか会計学、心理学など、およそ“法律好き”からは縁遠い講習を選択していました。
ただ、当時は倒産専門の弁護士なんて一握りの存在ですし、元来呑気な私は、「いずれ、何とかなるだろう」と、事務所探しには全然熱心じゃなかった。そんな私を採用してくれたのが、小田原高校の先輩で、のちに第一東京弁護士会会長になられた山崎源三先生です。市井の一般的な事案を扱う事務所で、倒産事件や刑事事件とは縁が薄かったのですが、私の志向を知る山崎先生は、機会があれば環境をつくってくださった。小さな案件ですけど、化粧品会社の私的整理や、顧問先だった電気メーカーによる破産申立など、主任的にやらせてくれたのです。弁護士になってすぐに、こういう仕事を経験できたことは貴重でした。
記憶に残っているのは、入所して3年経った頃に扱った個人破産。大手広告代理店の部長職にあった人が、膨らんだ消費者金融からの借り入れに頭を抱え、相談に来たのです。私はすべての金利計算をし、本人を連れ消費者金融に一軒一軒直談判。何とか債権カットに至ったものの、ほかの借金も多額にあり、結局、破産申立をすることになってしまった。過払い問題や自己破産など、まだない時代です。実は本事件が、東京地裁民事第20部の個人破産マニュアルの原型になっているんです。私が作成した申立書の書式が、「破産管財の手引」として残っています。
イソ弁として4年間在籍したのち、瀬戸は修習生同期2名と共に「西尾・瀬戸・栃木法律事務所」を開く。この頃は、基本スキルを身につけたら巣立つのが当たり前の感覚だったから、独立は自然な成り行きであった。しかし、新米事務所に仕事は少なく、「のんびりやるか」ムード。「金のかからないヘボ碁をよく打っていた」と、瀬戸は笑いながら開業当初を振り返る。
事務所を構えた年のお盆に、舞い込んできた事件がありました。ある会社の本社ビルが、暴力団員に占拠されたんですけど、その理由は、わずか50万円の債権で仮差押えをかけられたというひどい一件で。もとは、ある程度の負債額を抱えた法人の破産申立なので、普通ならば、私のような駆け出しに話はこないのですが、お盆中でほかの先生方がつかまらない(笑)。緊急性があったし、ヒマ潰しで事務所にいた私に巡ってきたわけです。書記官と封印執行に出向き、警察にも協力してもらいながら暴力団を追い出したんです。ここからです。民事第20部の案件が常にある状態になったのは。
振り返れば、先述の個人破産をちゃんとやったことがベースにあったのでしょう。その後の案件も最短で仕事してきたし、あまり“現場”に出ない管財人が多いと思うのですが、その頃の私は債権者や取引先などとの直接交渉もいとわず、全部自分でやってきた。そんな姿勢と責任の担い方が、信頼につながったんじゃないかと思うんです。どんなに小さな事件でも一所懸命きちんとやれば、それを見ていてくれる人は必ず存在するということです。
次のステップとして、新たに光和総合法律事務所を開いたのが90年。バブル崩壊と相まって事件件数や規模も大きくなり、猛烈に仕事していたある日……私は急きょ入院することになってしまった。46歳の時でした。黄疸が出て病院に行ったら、急性肝炎の診断。死に至る劇症肝炎になる可能性もあると脅かされて、結局、3カ月間入院です。退院してからもリハビリが続いたので、約半年は仕事ができなかった。人間、体が弱ると精神は先鋭化してくるというか、「死ぬかもしれない」と思ったら人生観は変わるものです。それまで体力には自信があって、倒産事件をやり、刑事事件もやり、さらには監獄法改正問題や一弁の業務対策委員会の委員長もやりと、仕事の幅を広げすぎていた。で、夜な夜な仲間と盛り場を徘徊してたんですから(笑)。病気はつらかったけれど、背負いこんできたものすべてを整理するいい機会になったし、一旦休憩できた貴重な時間でした。それから、自分が得意とする仕事中心の生活にスカッと変わったんです。
実務と公職の両輪で、〝名うての倒産弁護士〟として名を挙げる
一つ一つの事件に懸命に取り組んでいれば、必ず見ていてくれる人がいるし、次につながる
96年、瀬戸は請われるかたちで法制審議会の幹事に就き、民事再生法の制定、会社更生法の改正に関与することになった。多大な実務も伴う大役である。「倒産事件を専門とする事務所で揉まれたわけでもなく、手探りでやってきた自分にできるだろうか」。責務の重さは承知しつつ、それでも幹事を引き受けたのは、病気を経て、あらためて勉強をするいい機会であるという目標感が持てたからである。
法制審議会には高名な倒産法の先生方や、当代一流の学者がズラリといるわけです。委員会の仕事は、約10年に及びましたが、基本的にメンバーの入れ替えもなく、とにかく勉強をさせてもらいました。生活の中心は「法制審議会倒産本部会にあり」という感じで、相当な時間を割かれましたけど、実に面白く、有意な経験となりました。
並行して、この頃は大型倒産が続いた時期です。なかでも、97年に山崎先生が管財人になったヤオハン・ジャパンは、私にとって、自分の考えるスキームでやらせてもらった学びの多い事件。例えば、社債の買い取り。当時、処理にすごく困っていた社債を、更生手続のなかでではなく、発行会社自体が買い取ったらどうだろう――。「そんなことできるはずがない」「倒産した会社がおかしい」と周囲からは言われましたが、やってみたら、ほとんどの社債権者が「長引いてもしょうがない」と応じてくれ、手続きが一気にやりやすくなった。私、実はけっこうアイデアマンなんですよ(笑)。
ヤオハンが倒産した時は、当然のごとく運転資金ゼロで、スーパーの棚には商品が置けない状況でした。さて、これで再建なんかできるのだろうかと。スポンサー探しが肝でしたが、私たちが打診に伺ったのはジャスコ(現イオン)の岡田卓也名誉会長。資金の相談はもちろんですが、この時に教わったのは、小売業に必要なのは現金よりも「信用」だということ。仕入れ先に対して、岡田さんが率先して「俺がスポンサーになるんだから、俺の信用で品物を入れてくれ」と声をかけると、バーッと集まってくる。食品スーパーが中心だから回転は早いわけで、その回転差資金をつくることの凄さを目の当たりにした。結局、当初考えていた資金は入れる必要がなかったんです。それまで私が教わってきた再建型事件の常道は、現金を用意することでしたが、商売の基本は信用の回復・補完、その力を思い知りました。
以降、日本最大のゴルフ場運営会社であった日東興業、第一ホテル、マイカル、大和生命保険など、瀬戸は社会の耳目を集めた大型倒産事件を次々と手がけてきた。振り返れば「全部しんどかった」。が、瀬戸はその都度、新しい案件と真摯に対峙することで手腕を磨き、新しい人との出会いを血肉にしてきたのである。
いわゆる長銀破綻に伴う倒産の一つが、第一ホテルでした。従業員の気持ちを重んじて、ホテル創業時からの歴史も含めて理解してくれるスポンサーを探し、この時、私と共に管財人を務め、スポンサーになってくださったのが、阪急電鉄の大橋太朗社長です。
従前は3カ月ほどかかっていた保全管理を1カ月に短縮したり、スポンサーをつけて早期の弁済を図ったり、今では当たり前ですが、短期に一括弁済するという手法は、この案件がはしりとなりました。また、債権者公平に反するという議論が常識とされるなか、弁済率を変更。だって、情報の非対称性があるでしょ。大口の取引をしているところは相応の情報を持っているわけで、対して、何も知らない一般の取引先と弁済率が同じというのは、むしろ不公平です。そんな工夫をしたりね。銀行からは「これからの会社更生は、そういう方向になる」と言われましたが、事実、この一件は新しい潮流の先駆けになったように思います。
現在のLM法律事務所を設立したのは、耐震偽装で社会問題になったヒューザーの破産管財人を引き受けたさなか。案件が続いて大変な時期でしたが、私が目指す方向をより追求するためにと考えてのことです。私はデパート的にとりあえず何でも揃える事務所より、それぞれに高い専門性のある“名店街”をつくりたい。現状に甘んじず、やりたい、変えたいと思うことには、その時々ベストを尽くす。仕事に対しても環境に対しても、私が常に大切にしている姿勢です。
懸命な取り組みと様々な創意工夫が、多大な功績を生む
法制審議会幹事を皮切りに、事業再生実務家協会の専務理事、管轄省庁の研究会委員など、瀬戸は途切れることなく公益的な仕事にも骨を折ってきた。そして、記憶に新しいJALの会社更生事件において、法人管財人となったのが企業再生支援機構である。その委員長が瀬戸。規模だけでなく、利害関係や問題が山積した“史上最大の難事件”に、瀬戸は挑んだ。
リーマンショックに端を発する金融環境の悪化は、金融機関を萎縮させ、それまでリスクマネーを供給してきた事業再生ファンドを機能不全に追い込んだ。それを何とかしなければならないと、対象事業者の再生支援を目的に設立されたのが企業再生支援機構。半官半民で、債務調整や出融資、専門家スタッフによる人的支援を行う組織です。JALについて内々の打診があったのは、この機構が立ち上がってすぐのこと。私が出した意見は、政府の全面的支援が必要であること、公的資金枠を十分に用意すること、それまでのスキームを一度白紙に戻して、法的整理も再検討すること。そして、強力なリーダーの必要性です。
最後の最後まで揉めたのは、法的整理でいくか私的整理でいくか。抱えていた様々な問題や既得権益を排除し、再生過程を歪めないようにするためには、会社更生手続によって裁判所の管理下に置くことが適切なのです。けれど、主要取引先である金融機関からは頑強に反対され、JAL社内にも「公共交通機関を担う我々を国が潰すはずはない」という、親方日の丸的な空気が蔓延していた。議論を続けるなか、罵倒されたこともしばしばです。でも、もし私的整理でいったら同じことの繰り返しですよ。多額の公的資金を投入する以上は、JALが抱える複雑で多様な課題を総ざらいし、長期的視野に立った抜本的な構造改革をしなければ、確実な再生は考えられなかった。その説伏が最大の力仕事になりました。
再生に向けた現場で、リーダーとして最適任者だと考えたのが稲盛和夫さん。当時のメディアには、航空関係や運輸に携わる人たちの名が挙がっていましたが、私の発想としては、既得権益の周辺にいる人物は最初から念頭になし。根を張った権益をぶっ壊さないと、何も変わらないのです。稲盛さんは本当に卓越した実業家で、私自身、近くで彼の経営哲学や手腕に触れられたことは、大きな宝になりましたね。
当初、委員長であった瀬戸は“絵を描く”だけで現場へ行くことは考えていなかったが、周囲から「やはり瀬戸しかいない」という要請を受け、批判を覚悟でJALに乗り込んだ。結果、稲盛氏による経営指導とのベストミックス、部門別採算制度やJALフィロソフィーの定立などにより、JALは短期間で業績を回復したのである。
再上場を果たし、JALは史上最高益を更新していますから、大成功です。機構が入れた資金はほとんど使用することもなく、全額が回収できています。それに加えて、実質国に3000億円近い利益が生じた。何より、すごく身ぎれいな会社になった。もう私の手は離れているので、あとは今持っているいい素地をどう生かしていくか、見守っていきたいです。ただし、権益目的のすさまじい巻き返しがあるでしょうから、これをいかに防御していくかが今の経営陣に課せられた役割だと思っています。
どんな苦境に立っても、私はあっけらかんとしている。鈍感なのか、度胸なのか。管財人の仕事って、特定のクライアントの利益のために動くものではないし、基本的に「全員にいい」顔をすることはない。なるべく多くの人たちに少しずつ喜んでもらえるのがベストの結果だと肝に銘じています。再建計画を立てるにしても、会社に都合がいい、債権者に都合がいいではなくて、みんなが少し不満はあるけど「まぁ仕方がないな」と思える着地点を探す。言うのは簡単ですが、このバランスが非常に難しい。
それを実現するには、既成の枠や発想を超えなければなりません。法律家って、常に条文の解釈から、つまり枠から始まるでしょ。論理や法哲学は説得のための技術ですが、私は逆に、対する事象を解決するためには法律をどう解釈すればいいか、そこから始めるんです。だからこそ、その時々「できない」と言われても、私がトライしてきたことが今では当たり前になっている事柄が多いのだと自負しています。常に新しい試み、創意工夫のできる弁護士がもっと増えてほしいですね。どんな事件も一所懸命にやっていれば、必ず誰かが見ていてくれますから。
※本文中敬称略