畑仕事で家を支えた少年時代。就職後、学ぶことに目覚める
「高橋三兄弟法律事務所」。わかりやすく、ユーモラスでもあり、一度聞いたら忘れない。こんなユニークな“看板”は、この業界ではちょっとないのではないか。“主”である高橋伸二は、小学生の頃から、後に同じ法曹の道を歩むことになる弟たちを束ね、生活のため農作業に勤しむ日々を送る。そんな境遇に置かれたのは、父親が農協の組合長や県会議員として、農村・農民運動に打ち込んでいたためだった。だが、そんな生活を嘆く気持ちも、親を怨むような感情も、今に至るまで抱いたことは一度もない。
生家は、世界遺産になった富岡製糸場のある群馬県富岡市の山あい、旧額部村の農家でした。太平洋戦争が勃発した年、1941年に生まれたので、小学校は新制の第1期生なんですよ。5男1女の次男だったのですが、兄は体が弱かったため、実質的な立場は長兄です。
戦前は素封家の大地主だった高橋家も、戦後の農地解放で、残ったのは自給自足がやっとといった程度の山肌に張り付くような畑でした。つくっていたのは、大麦、小麦に芋や野菜。そこを耕し、作物を収穫するのは、私と弟たちの役目でした。学校を終えてから、休みの日は朝から晩まで、土と格闘です。そうしないと、一家が食べるのに困ってしまうからにほかなりません。
父親は、若い頃に家出して外国航路の船員となり、その間に詩作に目覚め、反戦平和を志向する文学活動に参加した、という人物でした。戦後は、詩作を続ける一方、持ち前のリーダーシップを発揮して、厳しい状況に置かれている農民の生活向上のために、率先して奮闘していました。金儲けが目的か、ひたすら人のために働いているのか。子供が見ても、それは一目瞭然でした。外で身を粉にする父の代わりに頑張るんだと思えば、辛い農作業も苦にはなりません。「よくやってくれたね」と父に褒められるのが、最高の喜びだったのです。
父親が農民たちを家に招いては、囲炉裏端で酒を酌み交わしながら熱く語る姿は、今も鮮明に記憶に残ります。傍らで見ながら、子供心にどんなに誇らしく思ったことか。「ああしなさい、こうしなさい」などと言うことは一切なく、後ろ姿で語った父親の存在が、後の私の人生に多大な影響を与えたことは、疑いがありません。
高校も、「自分が畑仕事から抜けるわけにはいかないだろう」と、地元の甘楽農業高校(現富岡実業高校)の夜間部へ。3年生の時には、コンニャク芋の大量栽培を取り入れた。そのコンニャクを販売した利益で、当時では珍しいオートバイを買ったり、父の選挙資金を賄ったり。また、近隣の農家に種芋を提供し、栽培方法を伝え、広めたりもしている。そして高校卒業後、上京して製鉄所に就職し、大型クレーンの免許を取って運転手として働き始める。そんな高橋が、社会人になって半年後に取得した、もう一つのライセンスがある。
職場からの帰り道、たまたまボクシングジムの看板が目に入ったんですよ。実は中学の頃、「強い男になりたい」という願望が芽生えて、高校時代にはボクシングのアマチュア大会に出るようになっていたのです。そんな経緯もあって、半分衝動的に飛び込んだのですが、始めてみたら、そこの会長が「お前のパンチはスピードがあるな」と。
それで、その気になっちゃった(笑)。プロテストを受けたらすんなり受かって、フェザー級でデビューです。さすがにすぐに会社を辞める勇気はなかったけれど、その時は「世界チャンピオンを目指す」と本気で思っていました。でもねえ、私はパンチはいいんだけど、“打たれ弱い”。プロでやっていくには、骨格が十分じゃなかったようです。それがわかったので、プロボクサーは潔く諦めました。戦績ですか?“不明”ということにしておいてください(笑)。
そんな私が、大学進学という180度違う道に方向転換したのは、「自分は世の中の仕組みをまるで知らない」と自覚させられたから。当時は労働争議華やかなりし頃で、時々動員されてデモや集会に顔を出したりしました。でも、どうしてこんなことになっているのかが、まったくわからない。「これは勉強しなければだめだ」と強く感じたのです。
中央大学の夜間部に入ろうと思ったのは、高校の同級生がそこに受かったという話を聞いていたからです。ただ、けっこうな苦労の末に入学してみると、周囲のモチベーションが今一つ高くない。本気で勉強しようと思ったら、夜間では限界があると感じて、2年次に昼間部への転入試験を受けました。
ところが、いざ中大法学部の学生になってみると、今度は周囲が司法試験を目指す人間ばかりだったんですよ。ならば自分もとことん勉強して弁護士になってやろう、と心に火がついた。ただし、工場は3交代勤務でしたから、授業に出られるのは、夜勤シフトの日だけ。それでも一生懸命自習して、ほとんどの科目で“優”を取りました。
トラブルを乗り越え地元で弁護士に。若き行動力が評判に
開業した頃、地方には若手がいなかった。フットワークよく仕事をしたらすぐに人気が出た
司法試験の勉強に本腰を入れ始めたのは、意を決して会社を辞めた大学4年の夏からである。「貯めたお金は1年で底をつく」という背水の陣を自らに課した高橋は、大学に答練などに出かける以外は3畳1間のアパートの自室に籠り、こたつ板の勉強机に、文字通りかじりつく。“眠くなったらそのまま倒れる”1日の勉強時間は、正味20時間。階下のトイレに行く暇も惜しんで、傍らに置いたやかんで小用を足すという、まさに“壮絶な闘い”だった。とはいえ、計画通り1年で、当時最終合格率が2%に満たなかった難関を突破するなど、誰が想像しただろうか。66年、25歳の秋に、チャレンジは実を結ぶ。「夜間部編入組」の見事な一発逆転勝利である。ところが、司法修習を数日後に控えた翌年3月、そんな高橋を予期せぬ悲劇が襲う。
合格を聞いた父はことのほか喜んで、私を県知事に紹介したほどでした。当時、ちょうど4期目の県議選が迫っていて、私も支援者たちと一緒に準備を手伝っていたのですが……。その父が、出馬目前に脳溢血で倒れ、あっけなく死んでしまった。64歳の若さでした。ショックに追い打ちをかけたのは、父親が残した多額の“負債”でした。
農民運動に打ち込んでいた父は、複数の関係者の連帯保証人になっていたのです。事業がうまくいかない兄の保証人にもなっていて、それらはほとんど返済不能の状況。総額2000万円、現在に換算すればざっと1億円にはなるでしょうか。なかには、たちのよくない街金からの融資もありました。
私も法律家の卵ですから、相続放棄すれば、それらの大半をチャラにできることは知っていました。でも、それでは高橋家の信用は、一瞬にして崩壊です。腹を括った私は、一人で全額を背負うことに決めました。
しかし、人間というのは現金なものです。私が司法試験に受かっていると知るや、強面だった債権者たちの態度は一変。「弁護士なら、借金は熨斗を付けて返してもらえるかもしれない」と思ったのでしょう。実際、多額の債務は、開業して3年ほどで完済しました。彼らはとても喜んで、ある高利貸しから「うちの事務所にかわいい子がいるから、嫁にどうか」と話があったほど。むろん丁重にお断りしましたが(笑)。
アクシデントに見舞われつつも、無事司法修習を終えた高橋は、69年に開業し、まずは高崎市の法律事務所で9カ月、イソ弁を務める。独立して富岡市に個人事務所を開いた後、現在の高崎に拠点を移したのは、72年だった。
富岡に戻ったのは、亡き父の支援者たちの要請を受けて、県議選に出るためだったんですよ。この時、もし当選していたら、その後の人生はまったく違ったものになっていたでしょうね。
結果は、当時の県会議長相手に500票差の惜敗でした。そんな経緯も経て、個人事務所を開いたわけですが、高崎のような地方都市には、若い弁護士がほとんどいませんでした。当時の弁護士先生といえば、事務所にどっかと構えていて、お客さんが来ると「ひとつ面倒みてやるか」という感じだったのです。
でも、こちらは念願の弁護士稼業を始めたばかりで意欲満々ですから、とにかくフットワークよく仕事をしました。例えば刑事事件の依頼が入ったら、すぐに留置場の被疑者と接見して事情を聞き、同時に被害者とも話を進める。必要とあらば自分で車を運転して、東京、埼玉、甲信越まで出かけました。当時はまだ砂利道が多くて、難儀したものです。車には、普及し始めたばかりの自動車電話やFAXを装着していて、さながら走る事務所でした。
そんな動き方をする弁護士はほかにいませんので、自分で言うのもなんだけど、あっという間に人気が出た。気づくと、常に一人ではこなしきれないほどの案件を抱えるようになっていました。父の負債や選挙の借金、事務所新設の費用をすんなり支払い完了できたのも、そんな繁盛のおかげでした。
〝法の下の平等〟に忠実に、人権を守る。最速でオウムも撃退
インタビューには、途中から弟の勉弁護士(78年入所)、勝男弁護士(81年入所)が加わった。兄弟3人が揃って超難関の国家試験をパスすること自体奇跡なら、“一匹狼”の業界にあって、その3人が仲良く一つ事務所に籍を置くというのも“普通”ではない。司法試験合格は34歳という遅咲きの勝男弁護士は、「父親代わりに仕送りしてくれた兄には、頭が上がらないんですよ」と穏やかに笑う。
先に司法試験に合格したのは、末の弟の勉でした。彼は地元の普通高校に進学したんだけど、3年に上がる春に、あろうことか私の母校に“殴り込み”をかけちゃった(笑)。小さな頃からわんぱくでね、この時も友達が悪さされたのを抗議に行ったみたいなんだけど。とにかく、学校は県会議員だった父に「もう面倒はみきれない」と。父は、「ならば家で引き取る」と退学させてしまったのです。
さあどうするか、というので白羽の矢が立ったのが私です。話し合いの末、勉は上京してアパートを借り、私が勤めていた製鉄所に就職しました。高いところでクレーンを操作していると、下で真っ黒になって働いている弟が見えてね。そんな生活の中で、彼も将来を考えるようになったのでしょう。「兄貴と同じ大学を受ける」と言い出した。結果、大検からチャレンジして、夜学に通いながら司法試験を突破したわけです。
三男の勝男を近くに呼び寄せたのは、高校を卒業した彼から、「狭い田舎で農業をやっていても、未来は開けない。兄貴のように大学に行って、司法試験を受けたい」という決意を直接聞いたのがきっかけでした。やはり夜学に通い、いくつものアルバイトを掛け持ちしながら、合格まで苦節9年。とにもかくにも、2人の弟の夢を叶える手伝いができたことは、私にとっても大きな喜びでしたね。
事務所を「三兄弟」と改名したのは、88年。まあ、そう名乗ってはいても、基本的にそれぞれは独立して仕事をしています。みんなで協力し合ってきたというよりは、お互いを尊重して喧嘩もせずにやってきたのが、長続きの理由だと私は思っているんですよ。
開業以来、高橋の心にあるのは、「たとえ重罪人であっても、法の下に正しく裁かれなくてはならない」という信念だ。恐らくそれは、亡き父親の背中から学んだ人生哲学であり、時間的制約というハンディキャップを負った受験勉強で専門書を繰る中、血肉とした“法の精神”なのであろう。弁護士としては、孤軍奮闘するだけでなく、時には組織を率いて巨悪と対峙することもある。99年、地下鉄サリン事件をはじめとする凶悪事件を引き起こしたオウム真理教の“残党”が、地元に拠点を設立するという事態が発生。弁護団を組織して、解決の先頭に立った。
教祖の麻原彰晃が逮捕された後も、オウムの残された信者たちは全国各地に散って、活動拠点を再構築しようとしていました。群馬県藤岡市もその標的となって、一時100人を超える信者が集結するという、全国最大規模の拠点が築かれてしまったんですよ。周辺住民の恐怖は、並大抵のものではありませんでした。
私に「オウムを退去させてほしい」とSOSを発したのは、藤岡市長でした。すぐに群馬弁護士会の有志を募り、50人の弁護団を結成し、立ち退きを求める法的手続きを開始するとともに、オウム側との交渉も開始したのです。
彼らは、法律論を振りかざして抵抗しました。「信教の自由があるだろう。移動の自由、居住の自由も、憲法で認められた権利だ」というわけです。それに対して我々は、「これは信者個人の問題ではない。教団自体が反社会的集団である以上、同じ宗教活動を行うために拠点を設けることは許されない」という立場を貫きました。
“戦い”のさなかには、自宅や事務所の周りに怪しい人物が出没したり、いろんなことがありましたよ。警官のパトロールは強化され、マスコミは新たな情報を求めて、毎日“夜討ち朝駆け”状態です。気の休まる暇はありませんでしたけど、これも人権を守る弁護士の務めだと思えば、恐れるものはなかったですね。
結局、裁判所が4カ月で立ち退き命令を出し、オウムは全面撤退しました。これは、全国の拠点で最も早い解決。明確な方針に基づいて、多数の弁護士や関連団体が団結した結果、住民の恐怖をいち早く取り除くことができたのは、大きな成果でした。
社会貢献活動にも全力。富岡製糸場の世界遺産登録に貢献
そのリーダーシップを見込まれ、高橋は数多くの団体、組織のまとめ役に推されてきた。85年には43歳という当時最年少の若さで、群馬県弁護士会の会長に就任する。すると、見事な政治力も発揮して、目に見えるかたちで弁護士会の民主化を実現するのである。
群馬は歴代総理を4人輩出した保守王国で、弁護士会にも、そうした政治家に連なる派閥のようなものがありました。革新政党所属の弁護士が会長になるなど、もってのほか。同時に、本庁裁判所所在地である前橋は“格上”で、人口の変わらない高崎をはじめほかの地域から弁護士会会長は出さないという不文律が、長くはびこっていました。弁護士自らが思想差別、地域差別をしているといわれても仕方のない実態があったわけです。
会長に選ばれた以上、まずはそうした悪弊を正すのが、自分に課せられた使命だと考えました。そこで、臨時総会を開いて、会長をはじめとする“人事”の決定は、すべて選挙制に改めたのです。長老の先輩方などは、さぞ驚いたことでしょう。こぞって猛反対でしたけど、“理”は通りました。
ダメ押しではないですが、改革を名実ともに根付かせるために、私の次の会長にはあえて左翼系の弁護士を当選させたりもしたんですよ。そうした取り組みの末、たくさんの関係者の方々から「会の風通しが格段によくなった」という評価をいただいた時には、わが意を得たりの気持ちでしたね。
ただし、あるポジションで長く影響力を行使したりするのはよくない、という思いも、私の中にはあります。実は会長を退いた後も、自然と有力な先生方が、私の近くに集まるようになっていたんですね。その結果、気づくと私は、周囲から“キングメーカー”のように見られていた。不本意であるばかりでなく、会の公正な運営にとって、好ましいことではありません。その構図を解消するのにも、けっこうなエネルギーを費やしましたよ。
その後も日本弁護士連合会副会長、日本弁護士政治連盟理事・県支部長、関東弁護士会連合会理事長などの要職をこなす一方で、「人のために尽くした父の“物差し”があるから、まったく苦にならない」と、社会貢献活動にも積極的に取り組んできた。例えば国連の職員で構成される国連合唱団をご存じだろうか。高橋は、その日本公演(2009年、12年)の実行委員長を務め、日本各地のホールを満杯にした。14年6月、富岡製糸場が世界遺産に登録されたのは、記憶に新しい。その運動の先頭に立ったのも、高橋だった。
日本の近代化の象徴であり、地元にとって愛着の深い歴史的建造物を後世に残そうと、文化人や行政関係者など市民による「富岡製糸場を愛する会」が発足したのは、01年のこと。私はその会長に推されました。
実は富岡製糸場は、88年に閉鎖された後、所有者の片倉工業が年間1億円の維持費を工面してなんとか命脈を保ってきたという経緯がありました。その間、売却や“再開発”のピンチが何度もあったわけです。そうした状況下で、当時の群馬県知事が世界遺産登録プロジェクトの開始を発表したのは03年でした。ところが、笛吹けど踊らずで、政治や行政の現場は動かない。「古びた廃工場など、世界遺産になるわけがない」というのが、当時の雰囲気だったんですね。
このままでは、郷土の誇りはやがて葬り去られてしまう――。強い危機感を覚えた私たちは、「愛する会」の目標を、「民間主体で運動を盛り上げて、世界遺産登録を実現すること」に定めて、運動を展開することにしました。
大きな転機になったのは、03年11月に、会が主催して開催した500人規模の市民集会でした。そこで、西欧の近代産業遺産の世界遺産登録事情などが紹介され、「富岡もいける」という空気が一気に高まったわけです。そこから登録を果たすまで、10年余り。今では全国各地から見学者の絶えない製糸場を見るにつけ、隔世の感を覚えずにはいられません。
早いもので、来年で弁護士登録50年目を迎えます。お話ししたように、若い頃から目の前の目標に、その時々全力で取り組んできた結果、思いがけず弁護士になりました。私の背景には、弱気を助け強きをくじく“自由人”の父の後ろ姿があります。弁護士開業の挨拶文に「自他の自由を求めて」と書きました。そしてそれ以来ずっと、困った人、弱い立場の人間の側に立って、全身全霊を傾けてきたつもりです。
考えてみれば、自分の手で何事かを解決し、みんなに喜んでもらえて、報酬をいただける。こんなにやりがいのある仕事はないのではないでしょうか。裏を返せば、やりがいも感じられないのに、お金をもらうようなことをしてはいけない。これからも、半世紀の弁護士稼業で得たその信念を貫き、若手にも伝えていきたい。それも“老弁護士”の役目だろうと思っています。
※本文中敬称略
※本取材および撮影は、群馬県高崎市にある高橋三兄弟法律事務所で行われた。