海外に出たことで得た様々な気づき。そして、培われた逞しさ
伊藤真を法曹界に導いたのは、日本国憲法だ。大学3年生の時、憲法理念の根幹である憲法第13条「個人の尊重(尊厳)」に触れ、得心したことが、今日の道を歩ませた。23歳で司法試験に合格した伊藤は、実務家ではなく、法学教育者としての道を選び、以降30年以上にわたって、志の高い法曹や行政官の育成に全力を尽くしている。受験指導校として名高い「伊藤塾」塾長として教鞭を執り、また、〝憲法の伝導師〞として年間100回以上の講演を行うなど、活動の日々はエネルギーに満ちている。根っこにあるのは、伊藤が最も大切にしている憲法の理念、その価値を、広く社会に伝えたいという深甚なる思い。「人の心に火を点けるのが自分の使命」――伊藤にとって、教育者はまさに天職である。
けっこう悪ガキで、教室の中で暴れたりしていたんですよ。小学生の時、担任についた新任教師を「教え方がおかしい」と、いじめてしまったりね。それが変わったのは、5年生になってからです。きっかけは、音楽の先生に勧められてトランペットを始めたこと。やってみたら面白くて、夢中になりました。もうひとつ、交通事故を減らす目的で指導、開催された「自転車の正しい乗り方競技会」というのがあって、私は埼玉県で3位になったんですよ。褒められることのうれしさ、何かを頑張ることの達成感を知ったのでしょう。それから、少しまともになりました
中学に進学してから、教師をしていた父が、デュッセルドルフの日本人学校の初代校長として赴任することになり、家族でドイツに渡ったんです。今でも鮮明に覚えているのですが、ドイツに向かう飛行機からヨーロッパの地上を見下ろした時、「えっ?」と思ったことが2つあって。「国境線が見えない」「国々が色分けされていない」。学校で教わったヨーロッパの地図とは全然違ったわけです。当たり前の話ですけど(笑)、私には驚きでした。
現地のオーケストラに入ったり、サッカーをしたりと、いろんな国の人と触れ合っていました。時にはアジア人を一くくりにした差別にも遭ったけれど、結局のところ、いいヤツも悪いヤツも人それぞれ。人間を国籍や人種でくくっても意味がない。誰にだってそれぞれの人生がある。そう考えるようになったのです。今振り返ると、「人は皆、同じ。人は皆違う」(個人の尊重)という憲法の根本的理念に惹かれたのは、ドイツでの様々な経験が素地になっているように思います。
もとより感受性が強く、好奇心も旺盛だったのだろう。ドイツでの生活は2年弱だったが、伊藤少年は、見聞きしたものすべてを取り込んだ。高校進学を目前に控え、ひと足先に帰国することにした伊藤は、途次、アテネやカイロといった都市を巡りながらの一人旅を敢行。15歳である。母親はひどく心配したが、父親は「可愛い子には旅をさせよ」の思いで、伊藤の好きにさせたという。
あちこち、自分で宿探しをしながらね。ただ当時、さすがにカイロだけは物騒だというので、親が現地の知人にアレンジを頼んでいたんです。ところが、先方が日にちを間違えていて、誰も空港に迎えに来ない。そこから彼に会えるまでの1日は、もう大冒険ですよ(笑)。街には銃を持った兵隊もいるし、怖かったけれど、道を聞きながらバスに乗り、ホテルを探し……。でも私は、ちゃっかりホテルでいい食事をし、運転手兼ガイドを雇ってピラミッドを回りと、図太いものです。請求は、平謝りだったくだんの彼にお願いしました(笑)。どういう状況でも、自分で何かを切り開くという感覚を得た旅でしたね。
帰国してからは、父の知人宅に居候させてもらいながら受験勉強し、東京学芸大学附属高校に進学しました。もともと私は、自分でラジオや自転車を組み立てるほど、ものづくりが好きで、理系志向だったんです。でも、海外に出たことで〝日本〞をすごく意識するようになり、3年間、部活で打ち込んだのが弓道。「大和魂とは何ぞや」とか、それこそ武士道とかにのめり込みながら、弓を引いていました。
加えて、好きだった日本文学や歴史をひもとくうちに、日本国のために何かしたいという思いがだんだん熱くなってきて、外交官になりたいと思い始めたのです。明治時代に、不平等条約の改正に辣腕を振るった陸奥宗光など、ああいう外交官になりたかった。やはり、また外国に出たいという気持ちもあったのでしょう。
憲法と〝本質的〞に出合ったことで、定まった法曹への道
外交官になるための近道として選んだのが、東大法学部だった。理系から文系へ進路変更しながらも、一発合格。ずっと続けてきたトランペットを手に東大オーケストラにも入り、意気高く始まった学生生活だったが、当の外交官への思いは、早々に沈むことになる。「想像していたものとはまったく違った」からだ。
外務省にいる先輩に、いろいろと話を聞いてみたんです。そうしたら、「今の外交官の仕事は、政治家の接待と、現地の新聞を翻訳して本省に送るとか、そんなのばっかりだよ」と。重要な交渉は各省の官僚が直接やるから、そのお膳立てが仕事だと言うわけです。それじゃあ違う。真偽のほどはわかりませんが、私は一気に熱が冷めちゃって。それでもやっぱり、外国に出たい気持ちがあったから、次に目指したのが商社マン。必要なのは人脈だろうと、「友だちをつくる」という名目の下、六本木で遊んでいました(笑)。
決定的な出来事があったのは3年生の時。遊び仲間だったアメリカ人ジャーナリストが、自国に戻ってロイヤーになるという話を聞いたんです。その時に初めて知ったのが、向こうには法学部がなく、彼のように社会経験をしてから法律家になる人がたくさんいるということ。ちょっと驚きでした。そんな話をするなか、彼に聞かれたのです。「日本の憲法で最も大切なことは何か」って。でも、子供の頃から「基本的人権の尊重」「国民主義」「平和主義」の3原則をセットで覚えてきたわけでしょ。一つだけと言われても、結局、私は答えられなかった。返ってきた言葉は「お前、よくそれで法学部に行ってるな。日本人やってるな」。
悔しいじゃないですか。それで、憲法に関する本を一所懸命読んでみたら、出てきたんですよ。3原則の根本である第13条が。「個人の尊重」とは「人は皆同じ。人は皆違う」。そういう意味だと、私は読み取ったのです。それぞれが個性を持って自分らしく生きればいい。そのために国家があるんだと。ストンと得心でき、憲法に熱くなっている自分がいました。
かつて伊藤は、日本も自前で軍隊を持って国防すべきだと考える一方で、何の罪もない人まで殺すことになる〝戦争の本質〞との狭間で、悶々と苦しんだ時期があるという。その視界をクリアにしてくれた憲法第9条もまた、伊藤を捉えた。「日本は、こんなに素晴らしい憲法を持っていたんだ」――司法試験を目指すと決めたのは3年の秋。そこから猛然と受験勉強を始めた。
単純に、誰よりも一番勉強すれば受かるだろうと思って、まず本屋さんに行き、一棚分の問題集をごっそり買ってきて、全部やった(笑)。少し前から住み込みの夜警のバイトもしていたのですが、半年間、毎日寝る間もないほどに勉強し、絶対に大丈夫だと思って受けたのに……落ちちゃったんですよ。しかも短答式で。合格発表に、私の番号がない。「これはきっと夢に違いない」と思った私は、なんとバカなことに、地下鉄の出口まで一旦戻って、もう一度発表を見に行った(笑)。本当に落ちたんだとわかってから、しばらく記憶が飛んでいます。それほどにショックでした。
立ち直ろうと、再度勉強を始めた時、同じ勉強スタイルを繰り返していてもダメだと思ったので、何が原因で落ちたのか、分析をしてみたのです。気づいたのは、それまで私は、知っている問題数を増やそうとしていたのですが、知らない問題が出た場合にどう対処するか、それが重要だということ。未知の問題に対して、徹底的にトレーニングしようと考えたのです。もとが理系なので、論証をパターン化したり、コンピュータのフローチャートを使って法律の理屈を載せてみたり。独自の勉強法を編み出したことで、2回目のチャレンジで合格することができました。
実は受験中、LEC(東京リーガルマインド)の模試の成績がよかったものだから、「うちにこないか」と声をかけてもらっていたんです。ですから私は、論文試験が終わったその日からLECにアルバイトとして入り、問題や模範解答をつくったりしていたのです。思えばこれが、今の私のスタートラインでした。
「合格後を考える」。独自の理念で挑む〝人づくり〞
事業としてではなく、 憲法価値を実現できる 法律家を養成するために。 思いは、その一点にある
1984年、司法修習を終えた伊藤は、弁護士登録をしたのと同時に、LECの講師として教壇に立ち始める。当時のLECはまだ規模が小さく、伊藤は実質、立ち上げ期からかかわってきた。「ゼロから新しいものをつくる」ことは、伊藤にとってこのうえなく楽しいこと。独自に開発した勉強メソッドが後輩たちの役に立つ手応えは十分で、伊藤が看板講師になるのに時間はかからなかった。
東京弁護士会に登録し、当初は、弁護士業もやっていたんですよ。変な弁護士でね、依頼者には必ず憲法第13条の話をして帰す(笑)。例えば刑事被告人や破産者に対しても、「一人ひとりの人生なんだから、堂々と生きていけばいい。憲法に書いてあるんだから大丈夫」って。そう、憲法を伝えたいというのが、私の根っこだから。
自分で依頼者に伝えることができるのは、年間50〜60人くらいのペース。仮に20年続けて、1000人。そう考えた時、なんだかなぁと。ならば、「憲法を伝えられる人」を1000人養成したほうが有効でしょ。もちろん、司法試験は難関ですから、大半の受講生は別の道を進むのですが、むしろそれがいいと考えたのです。憲法を知った人たちが民間企業に入る、家庭の主婦になる。それは、この国に憲法を理解する人を増やすうえで効率がいいと。それで、次第に「教える」ことへのウエイトが大きくなっていったのです。教材を作成し、新しい授業展開を考え、〝ものづくりと人づくり〞をしていく仕事は、本当に手応えがあります。加えて、LECという会社を大きくしていく過程もまた、面白かったですねぇ。「将来もずっと、このままでいいのだろうか」。私の気持ちに変化が訪れたのは、10年ほど経った頃です。私は、受験指導校を事業としてやりたかったわけではありません。憲法価値を実現できる法律家を養成したい、その一点です。看板講師として、いい待遇ではあったのですが、何か違ってきて……ほかの道があるかもしれない。そう思い始めたのです。
伊藤の前には、複数の選択肢があった。「政治家にならないか」と声をかけられたことも、外資系企業からヘッドハンティングを受けたこともある。また伊藤自身にも、アメリカに留学して勉強したいという気持ちがあったりと、考えは巡った。「このままでは、先に踏み出せない」と思った伊藤は、いったん退路を断とうと、何も決めないままLECを退職した。
いろんな人に話を聞きながら、本気で考えようと思って。その時、周囲の人に言われたんですよ。「あなたがこの受験の世界からいなくなるのは、無責任じゃないか」「まだやれることがあるんじゃないか」と。改めて、自分の心に問うてみたんです。一番やりたいこと、私にしかできないことは何か。やはり、憲法の価値を伝えたい思いが根本にあり、何より教えることが好きなんですよ。その技術と情熱は、誰にも負けない。それと日本には、縦割りじゃなく法学教育をトータルにできる人がいないんですね。これは新しい分野です。ここでやってみたいと、意を新たにしたのです。
最初は「伊藤真の司法試験塾」という名前で、塾を開設したのが95年。教材もノウハウも、すべてLECに置いてきましたから、身一つ、あるのは自分の名前だけ。この時は資金集めにも苦労したし、結果は勝訴だったものの、LECとの競業避止義務関連で係争が起きたりと、実情は本当に大変でした。でも、募集を開始すると、前日から学生が並んでくれたのです。何十人も。うれしかったですねぇ。
塾の理念は「合格後を考える」です。その〝考える〞を実践するために、つくったプログラムが2つあります。一つがもう300回以上になる「明日の法律家講座」。弁護士はもちろん、最高裁の長官や政治家、あるいはHIV当事者、原発問題に携わる方を招いて講師に立っていただく。「社会には様々な問題がある。我々がやるべき仕事は山ほどあるでしょう」。これは受験への、そして合格後への正しいモチベーションを生みます。
そして、もう一つが「スタディ・ツアー」。合格者や受講生から希望者を募り、中国や韓国、アメリカ、ヨーロッパと、様々な地に出かけるものです。例えば韓国に行けば、日本軍〝慰安婦〞問題のような日本の戦争責任にも触れ、またアメリカでは、ハーバードの学生と議論を交わしてみる。こういう経験をすると、日本では優秀だとされている自分が、「何も知らない」ことに気づくわけですよ。そこから視野を広げて、知識に偏らない人材に育ってもらうことが、私の願いなのです。
「真の立憲民主主義」を実現するべく、多彩かつ精力的に活動する日々
試験に合格するためだけの指導ではなく、法を用いて社会に貢献できる人材を育成する。独自の理念のもと、優れたプログラムを提供する伊藤塾は、日本各地から開塾を請われ、現在は横浜、名古屋、京都、大阪、そしてインターネット授業とその業容を拡大している。だが、ずっと順風だったわけではない。2003年、龍谷大学との提携で法科大学院を新設しようとした際、認可申請が却下されたことは、伊藤塾にとって大きな痛手となった。
カリキュラムを練り、先生方を集め、校舎も準備に入りと、認可申請の要件はすべて満たし、実際、認可直前までいったのです。ところが、最後の最後で下りなかった。私たちは人づくりを行っている「塾」なのに、テクニックを詰め込むだけの「受験予備校」として、ステレオタイプで見られてしまったわけです。そういうものと切り離して、真の法学教育をするというのが、ロースクールの理念でしたから。
金銭的な被害もさることながら、きつかったのは風評被害。「あそこは国から認めてもらえなかった。もう潰れる」という噂が流れ、塾生は激減。それから、本当に経営の危機ですよ。私たちは再度、原点に立ち返りました。折しもブロードバンドが普及した時期だったので、それによって教室の賃料などを抑え、従前より始めていた個別指導をより強化し、少しずつ体力を戻していったのです。
ロースクールが始まった初年度は、3万5000人いたロースクールの受験生が、昨年は5000人弱。三権分立の一角が地盤沈下している。私は、大変な危機感を持っています。ロースクール制度の目的自体はよかったのですが、制度会計は当初から破綻していました。しかも、教授陣や支援策が整っていないのに、ロースクールに多くを期待しすぎた。現場を知らない官僚と学者の失策ですよ。社会人の場合なら、仕事を辞めて勉強するには、1000万円以上の蓄えがないと、事実上ロースクールには行けないんですから。これでは志望者数の激減のみならず、法曹界から多様性を奪うことになる。残念でなりません。私たちの役割は、この仕事の魅力を伝え、努力すれば夢が叶うことを伝え、様々な社会経験を持つ人がもっと法曹界に入れるよう努めること。そう強く思っています。
他方、伊藤が現在、ライフワークにしているのが「一人一票実現」運動だ。09年、同国民会議の発起人となってから、多くの弁護士や著名人らと共に「真の立憲民主主義」を実現するべく、精力的に活動している。まだ一里塚ではあるが、4年間の活動を通じて、「少しずつだが、確実に手応えを感じている」という。
少数の国民から選ばれた国会議員が、国会の多数を占めていいわけがない。主権者少数の代表が大手を振るっている現状は、国民主権国家とは呼べません。私たちの到達目標は一人一票の実現、つまり人口比例選挙です。さらに、その実現のために、市民が何らかのかたちでかかわってほしいのです。物好きな弁護士たちが頑張って、「一人一票になってよかったね」じゃなく、市民の意思によって日本を真の民主主義の国にしていく――ということです。
例えば、一票の格差を客観的に「何倍」とするのではなく、「あなたの1票は、0・2票とか0・5票の価値しかない」と、自分の問題と感じられる表現に変えてアピールをする。また、最高裁判所裁判官国民審査においては、審査前に過去の事例を示し、「不平等を容認する裁判官に不信任を投票できる」ことを、全国紙やネットを通じて呼びかけていく。市民の皆さんに、この問題の本質をわかってもらうための活動です。ゴールはまだ先だけれど、私の教え子たちも頑張ってくれています。一人でも多くの人に立憲民主主義を理解してもらい、ムードに流されない確固とした憲法感覚を持ってもらうために行動する。それが、私の使命ですから、活動は今後も続けていきます。
自分の人生は自分で切り拓く。この主体性こそが、憲法で最も重要なポイントなのです。幸せは自分で決めていい、それが幸福追求権の中身なのですから。若手の弁護士は、ちょっとおとなしすぎますよ。可能性を自ら閉ざさず、もっと世界で活躍してほしい。仕事領域は様々あると思うんですよ。ビジネスはもちろん、発展途上国における法整備支援、あるいは国際人権を守る場で……。世界を見ると、いろんな場面で日本の法律家がまだまだ足りていない。その支援のため、私も全力で走らないと。日本国憲法の価値を胸に抱く、志の高い人材を送り出すことが私の夢であり、幸せなのですから。
※本文中敬称略