Vol.44
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奧野 善彦

HUMAN HISTORY

人や社会を救う―。弁護士は、その志を常に持っていなければならない。そして、どんな困難にも立ち向かわなければならない

奧野総合法律事務所・外国法共同事業
所長 弁護士

奧野 善彦

豊かな自然を好み、読書に耽った少年時代。心おおらかに育つ

奧野 善彦
社会派弁護士として名を馳せた、父の奧野彦六氏(元東京弁護士会会長)のポートレート

事業再生のエキスパートとして名を馳せる奧野善彦は、教育活動や地方公共団体での無料法律相談など、社会貢献にも意欲的なことで知られる。弁護士人生約50年。「弱きを助け、在野に生きる」を金科玉条に、愚直なまでにその姿勢を貫いてきた。バックボーンを形成したのは、日本法制史の大家であり、東京弁護士会会長などを歴任した父・奧野彦六氏の存在が大きい。「親父を超えられたかどうか」と奧野は控えめな言葉を口にするが、父親が創設した事務所を育て、社会に貢献し、弁護士としてあるべき姿を紡いできたのは、ほかならぬ奧野自身である。

生まれは東京ですが、すぐに湘南地方の平塚に移り住みまして。長兄が小児結核で夭逝したため、親父が空気のいい所で子供たちを育てたいと考えたようです。歩けばすぐに海岸があり、燦々と輝く陽のもとで海水浴や釣りに夢中になったものです。

終戦までの平塚には軍需工場があったから、予想される爆撃を避けるため、福島県の棚倉町(たなぐらまち)に疎開したのが小学校2年の時。平塚のマンモス校に比べて、棚倉の学校があまりに小さいことには驚いたけれど、より豊かな自然は私の性に合った。初秋ともなると、たくさんの赤トンボが澄み切った空を自由に飛び交い、それは美しい。忘れられない私の原風景です。

終戦の翌年、仕事の都合で上京することになった親父に伴って、私も東京で暮らすことになったのですが……学校での煩わしい人間関係や、都会特有のギスギスした生活がどうにもイヤでした。棚倉には母親ときょうだいが残っていたので、夏休みとかに遊びに行くと、伸び伸びと自然のなかで暮らした日々が蘇ってくるわけですよ。

「やっぱりここがいい」。この時、私は中学1年で、成績がよかったこともあって「わざわざ田舎に戻らなくても」と両親や先生は反対したのですが、それを押し切って棚倉の中学に転校したんです。戻ってからは、遊びに勉強に、そりゃもう水を得た魚(笑)。だから、私の“ふるさと”は棚倉町なんですよ。弁護士になった翌年から今日にいたるまで、この地で無料法律相談を続けているのは、お世話になった地域と人々への恩返しでもあるのです。

解けない問題を解いた時の達成感、未知のことを知る高揚感、奧野にとって勉強は「楽しいもの」だった。加えて、学校図書館の蔵書をほとんど読んでしまうほどの本好き。変わらず学業に長けていた奧野は、在野を旨とする学校法人石川高等学校に入学する。勉強だけでなく、テニスや登山も楽しむなど、奧野は高校生活を謳歌した。

高校生になるとますます読書が面白くなって、ロマン・ロラン、ヴィクル・ユーゴー、シェークスピア、トルストイなどの文豪の作品を耽読していました。親父を見ていて、私も法曹界に進むだろうと予感していましたが、正直、小説家を目指そうかと心が大揺れした時期もあったんですよ。

大学受験は重くのしかかってきました。東大を出た親父が「法曹界に進むのなら東大以外ない」の一点張りで、担任の先生も「奧野は東大に進むもの」と考えていたから。期待を受け、覚悟を決めて臨んだものの、いかんせん私は数学が苦手。懸命に勉強したけれど、やはり数学の壁は超えられず、結局、東大には合格できませんでした。

浪人の身となり、予備校に通いながらのストイックな生活……つらかったですねぇ。翌年はさすがに親父も、東大以外に滑り止めとして、司法試験の合格者を多く輩出していた中央大学への受験を認めてくれて。2度目も東大合格がかなわなかった私は、中大の法学部に入学したのです。精一杯やったから私に悔いはなかったけれど、親父からは「東大でなければ人間じゃない」という無茶苦茶を言われたものです。

著名弁護士としての親父の存在が重く、反発する気持ちもあったのですが、親父の事務所は本当に小さくて、事務員を雇える状態じゃなかったから、大学生時代はずっと私が手伝っていました。電話番やら書面の清書やら、書生みたいなものです。親父は学者肌で、しかも「武士は食わねど高楊枝」だから営業努力とは無縁。よく友達から「お前は弁護士の息子だから、裕福な暮らしをしているんだろう」などと言われましたが、とんでもない。事務所も家も見すぼらしかった。でも、そうは言えないから聞き流してね(笑)。お袋は生活のやりくりに窮していたし、私は「弁護士って親父のような在り方だけではないはずだ」と思ったものです。「衣食足りて礼節を知る」で、きちんと生業を立てなければいけないと。

企業に勤めながら司法試験に合格。父親の事務所を継ぐ

  • 奧野 善彦
    オフィスの会議室や回廊には、写真や絵画がたくさん飾られている。
  • 奧野 善彦

司法試験に合格したのは5度目に挑戦した時。26歳だった。それまでの過程には、父親の東弁会長選出馬の手伝いがあったり、奧野自身の体調不良があったりとハンデを負った時期もあり、すんなりとはいかなかった。途中で奧野は、自立するためにシェル石油(当時)に入社し、受験勉強を続けている。

択一試験は合格するものの、論文がダメでね。4回目の時は口述試験までいったのですが、結局不合格で、すでに東弁の会長職に就いていた親父は、きっと大恥をかいたのでしょう。「もう面倒は見れん」と。半ば勘当され、家を出ることになったんです。

その時たまたま、シェル石油の法務室が中途採用していることを知り、すぐさま応募しました。口述試験までいったことを評価されたのか、26人の応募者のなかから、運よく私一人が選ばれたんですよ。実は、わずか1年半ほどの在籍だったんですけど、付き合いはずっと続いており、現在の昭和シェル石油の法律顧問も務めているので、なんともありがたいご縁です。

勤務時代に面白い経験をしました。三重県四日市にシェル石油傘下の工場があって、私は根抵当権を設定するために現地の法務局に出向いたのです。これには親会社であるロイヤル・ダッチ・シェルが絡んでいて、委任状が複数あるちょっとややこしい手続きでね。加えて法務局長が面倒な人で、「委任状に不備があるから、登記は受け付けられない」と言う。ついては……と要求してきたのが“袖の下”。怒り心頭に発した私は、「疑問に思うなら法務省の民事局に問い合わせてください」と。民事局とは親しい関係にあるとハッタリをかましたわけです。すると何のことはない、登記は受理された。この局長、過去にも同様のことがあったらしく、苦肉の策ながら切り抜けた私は、シェル石油社内ですっかり株を上げたというわけです(笑)。

シェル石油で働く傍ら、奧野は中央大学の受験団体・正法会に通いながら司法試験に向けて準備を整えていた。十分な余裕で突破したのが1963年。前年に論文試験に合格しているから、それは免除される特例があったが、奧野は一からすべて“受け直した”。奧野らしい実直ぶりだ。本人としては、覚えめでたく、待遇もよかったシェル石油に残りたいと考えていたが、父親の事務所承継は両親の期待でもあった。

親父は「私も年を取った」と言うし、何よりお袋が「手伝ってあげて」と。大学時代に書生をやっていた小さな事務所に戻ってどうするんだ、という気持ちはあったけれど、無下にもできず、後ろ髪引かれる思いでシェル石油を退職し、司法修習に入ることにしました。

修習は大阪で、初めての地でしょう。街はとても刺激的で面白かった。酒も食事も美味しく、わずかな給料ながら自由奔放にやっていたんですよ。お袋からは毎月1万円の仕送りもあったし。ところがある日、お袋が倒れたという知らせを受け、東京に戻ってみると、なんと栄養失調だという。食べるものを節約してお金を貯め、私に送金していたのです。それまで私は、裁判官への道を勧められていたし、弁護士になるとは決めていなかったのですが、この一件で、お袋のために弁護士になろう、親父の事務所を継続・発展させようと決心したのです。

親父は一貫して清貧にこだわってきたから、当時の事務所には顧問会社が一社もなかったんですよ。まずは私の名を知ってもらうこと、それがスタートでした。福島県にいる小中高の同級生に自分が弁護士になったことを知らせ、同窓会の世話役を買って出たりね。何かトラブルに巻き込まれた時に、私の名前を思い出してもらえればいい。

田舎から出てきた多くの人には、東京で頼れる先がないもので、例えば不遇な労働条件にあってつらい状態にあるならば、私が相談に乗って助けることもできる。意義ある仕事だし、そうやって人間関係を深め、自分で依頼者開拓していくことは大切です。そして、東京商工会議所で法律相談も担うようになり、丁寧にアドバイスや講演を重ねていくなか、「うちの顧問になってほしい」と頼まれることが多くなった。仕事が増え、所員を雇えるようになるまでに時間はかかりませんでしたね。

「企業再生こそが人を救う道」を信条に、エキスパートとして活躍

奧野 善彦

債権者、債務者双方にとっていい結果を追求すること。それこそが弁護士の仕事であり、喜びである

奧野に信頼を寄せるシェル石油からも、様々な仕事を依頼されるようになった。多かったのは、ガソリンスタンドなどを経営する特約店の焦げつき債権回収である。従前、同社の顧問弁護士たちが競売による強制回収を図っていたのに対し、奧野は特約店を事業再生させることで債権回収の実績を高めた。ここから奧野は、事業再生を専門とする弁護士として歩み始める。

石油販売だけでなくほかのビジネスに手を出し、その失敗がもとで経営破綻する特約店がけっこうあったのです。私は当時から、従業員から職を奪うことなく、債務者に再生の機会を与えることこそが弁護士の務めだと考えていたので、特約店を本業に集中させ、最終的に100%債権回収する方法を採っていました。

シェル石油をはじめとした債権者には支払いの延期を求め、その間、経営を見直し収益を上げさせる努力をする。シェル石油の社員を特約店に派遣し、現場で共に経営改革していくわけです。これは社員教育にもつながるし、5年も経てば債権は満額回収できます。時間はかかっても回収率は下がらず、担保物件も残りますから、シェル石油は販路を失うこともない。債権者、債務者双方にとっていい結果――その追求こそが弁護士の仕事、喜びなのです。

企業再生のために死力を尽くすようになった原点には、実は、今も悔やまれるつらい出来事がありましてね。小売業を営む会社が経営危機にあり、そこの社長が、私にすがるように相談してきた。調べると実質破綻状態だったので、債権者たちに弁済を一時期棚上げさせ、会社再建に臨むしかないとアドバイスし、私は綿密な再建計画を作成したんです。扱っている商品は立派なもので、再生は十分に見込めました。

ところが交渉する債権者会議の段になると、社長が耐えられなくなった。債権者が中小企業の場合、「明日は我が身」だから会議は修羅場になる。社長が謝罪し続けても怒号が飛び交うなか、彼は突然「わかりました。必ず払います!」と叫んでしまった。どう転んでも返済は無理なのに。これでは再建など果たせません。怒りを覚えた私は、再建の支援をお断りしたのです。

その社長が自殺したのは翌朝です。高額な生命保険をかけていたらしく、思えば「払う」と叫んだ時、彼は覚悟していたのでしょう。隣にいながらそれに気づけなかった私は、心底情けなかった。故人の遺志どおりに保険金全額を返済に充てても債務は残ったので、私は債権者たちに事実を伝え、理解を得て、再建への道筋はつけましたが、このつらい記憶はことあるごとに脳裏に蘇ってきます。だから私は、命がけでこの仕事をしているんですよ。

98年、奧野は経営破綻した旧日本リースの保全管理人に任命され、この頃「できない」と言われていた金融機関の再生も成功させている。負債総額は約2兆3000億円、当時の日本最高額だった。重い事件であることは十分に承知していたが、奧野は敢然と難局に立ち向かい、短期間で成果を挙げた。

かつての山一證券や北海道拓殖銀行などが再生できずに破綻し、世界的な混乱を招いていた時代です。しかしながら「金融機関の再生は不可能」というのが、当時の“主流派”。そこに属さない私は、「金融機関に再生の道が開かれていないのはおかしい」と考えていたから、論文を書き、裁判所に主張もしていたんです。それもあって保全管理人に指名され、引き受けた私は昼夜兼行で奮闘しました。

損なわれた日本リースの信用力を回復し、事業を継続させていくためには、スポンサーの関与が必須条件でした。私たちが最優先候補としたのはアメリカのGEキャピタル。交渉するなか、同社から受けたのは「リース事業部門の包括的な事業譲渡が望ましい」という提案でした。でも、更生手続開始に伴う信用悪化や事業価値の劣化はどんどん進行するから、事業譲渡金を最大にするには、短期間で決着をつけなければならないわけです。譲渡するにあたって、例えば、162件あった担保権者全員の承諾を取り付けるまでの過程は、本当に大変でしたね。

結果は2カ月後に譲渡となり、8000億円という戦後最大のディールになりました。この事案で特徴的なのは、極めて早い段階で裁判所の許可を得て、更生計画外での事業譲渡という思い切った措置を取ったこと。それにより担保権は100%弁済することができ、日本リースの職員も誰一人解雇せずに済んだ。関係者が皆喜べるかたちになったのです。金融機関も方法によっては再生できると示したことは、この領域にインパクトを与え、民事再生法の制定にもつながっていったのです。

「世のため人のため」。ずっと貫かれてきた〝奧野イズム

日弁連の推薦を受け、奧野は2004年から5年間、整理回収機構(RCC)の社長職に就き、債権回収と企業再生に努めた。本来、企業再生の追求を行動指針の一つにしていたRCCだが、強力さとスピードを偏重するあまり、世間には“取り立ての鬼”として映っていた頃だ。奧野が挑んだのは、RCCの企業体質改革である。

奧野 善彦

私のような再生専門家が入るのは初めてのことで、「とんでもないヤツが来た」という感じだったでしょうね(笑)。
RCCがかかわった不良債権は総額36兆円に上りますが、当時は競売を主としていて不評を買っていたんです。それでは日本の経済が狂ってしまうでしょう。社会の活性化に資するには、再生マインドを改めて根付かせる必要があった。そこに徹底して舵を切ったことに対する職員たちの反発もあって、最初の頃は苦労しました。なかでもホテルや旅館などの箱物は、「競売にかけ、新たな引き受け手を探すしかない」と主張する職員が多かったのです。

でも、私がこだわってきたように、債務者に再生の機会を与えれば、債権回収のテンポは遅れても、再生努力のなかから生まれた利益が弁済に回せ、最終的な回収額は増えるのです。実際、くだんの日本リースをはじめ、それまでに私が関与した事案を合計すれば、RCCにかなりの回収額を運びましたから、その意味では一番の功労者であるという自負もあります。仕事のやりがいと社会的意義を知ってほしかったし、私は、RCCにいることを誇りに思える職員を育てたかったのです。

しだいにチームワークが取れ、理念で結ばれた職員たちが誠実に仕事に取り組み、付加価値のある成果を挙げてくれるようになりました。本業である事務所所長との“二足のわらじ”で、途中、過労からくる腰の病気で入院してしまったり、事務所スタッフには負担もかけたけれど、私にとっては本当に手応えのある仕事となりました。

奧野が弁護士になってからずっと続けている“ふるさと”棚倉町での無料法律相談は、実に50年近くとなり、また、北里大学では教授(現名誉教授)として、長年、法学教育にも携わっている。「弁護士たるもの、世のため人のため」。奧野はやはり、父親から薫陶を受けているのだろう。現在は、事務所において総括的な指揮を執りながら、なお社会貢献活動に尽力している。

疎開時代はいうまでもなく、企業再生でも数々お世話になった福島県は、大震災、そして原発事故以降、変わらず大変な状況にあります。管財人になった気持ちで、私に何かできることはないだろうか――それをしきりに考え、ここ3年ぐらいは、荒れた棚倉町地方の山を再生するべく、里山研究の学者を送り込んだり、寄付を集めたり、具体的な取り組みをしているところです。

企業の再生の要は、やはり人なんですよ。債権カットしてもらったところで再生にはならない。それを足がかりに「立派な企業にしていこう」と、かかわる人々が魂を入れて活動を始めた時に、初めて再生への道が開ける。

地方再生も同じだと思うのです。だから、町の首長や職員、地元の人たちが心の持ちようを変えていくことから始めなければならない。関係者が多いから、もちろん容易ではなく、相当な時間がかかることはわかっていますが、「為せば成る、為さねばならぬ何事も」です。その気になってやり通せば、必ず成し遂げられるということ。

それこそが、弁護士に必要な姿勢ではないでしょうか。常に志を持って、どんなに困難だと思えても立ち向かっていく。その志とは、人や社会を救う気持ちです。困っている人に手を差し伸べることが、弁護士本来の仕事なのですから。若い時にいかに志を熱く持つか、それが生涯を左右するのです。私がこうして法曹の世界で充実した人生を送ってこられたのは、弁護士としての志を忘れなかったこと、そして数々出会った経験と人々のおかげだと思っています。

※本文中敬称略