Vol.46
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城山 康文

HUMAN HISTORY

どのような環境であっても、 自分のキャリアは自分で決めるという気概を持てるかどうか。そして、実直にやり続けていれば、必ず運は巡ってくる

アンダーソン・毛利・友常法律事務所 
パートナー 弁護士

城山 康文

独立してできる仕事を。大学生になってから意識した「弁護士」

5大法律事務所の一角を占めるアンダーソン・毛利・友常法律事務所(以下、アンダーソン)は、今春、ビンガム・坂井・三村・相澤法律事務所(外国法共同事業)の主力弁護士との経営統合を果たし、規模において日本で2番目となった。所属弁護士数約360名、ほかの有資格者や職員などを合わせると800名近くになる大所帯だ。城山康文は現在、ここで経営執行を担うアドミニストレーションを担当している。専門は、特許紛争を中心とする知的財産分野。1998年、アンダーソンに入所した時には専門家不在だった知財領域を自ら立ち上げ、「特許弁護士として胸を張れるように」と、実直に研鑽を重ねてきた。「自分のキャリアは自分で決める」。環境に甘んじず、大組織が有する様々な資源を活用することで力を蓄えてきた城山の働き方は、ひとつ、弁護士の新たなキャリア形成のありようを呈している。

城山 康文

生まれは兵庫県ですが、3歳の時、父の転勤で移住してからは東京です。私はわりに“自分の世界”にいるのが好きで、本を読んだりテレビを観たり、インドア派だったんです。本は、ミステリーものからドストエフスキー、三島由紀夫なども含めて、硬軟あれこれ。とにかく活字が好きで、なかでもストーリー性豊かなものに惹かれていました。あとは、釣り。中学生の頃にはルアーフィッシングにはまり、ブラックバスを狙って、友達と芦ノ湖あたりに出かけるのが一大イベントでね、すごく楽しかったのを覚えています。

勉強は、「普通にできた」ほうですが、本気を出すようになったのは中3になった頃。高校受験を意識してのことです。実は、3つ上の兄とは中・高・大学、全部一緒なんですけど、弟としては、どこか負けたくない気持ちがあったのでしょう。兄が筑波大附属駒場高校に、その後は東大・文Ⅰに入ったので、何となく同じでいくかと(笑)。

幼い頃は「プロ野球の選手になる」とか言ってたようですが、これといった職業イメージは何もなくて。いわんや、親類縁者に法曹関係者はいなかったので、弁護士という職業は程遠かった。思い返せば、私はテレビ番組の『必殺仕事人』がお気に入りだったんですね。アウトローだけど人知れず悪をたたく、あの正義感がたまらなくカッコよく思えた。多少の相関はあるかもしれないけど、まぁそれはこじつけで(笑)、自分が弁護士になるとはまったくイメージしていませんでした。

その弁護士を職業として意識するようになったのは、東京大学に進学してからだ。バブル経済がピークを迎えた時代。「大学生は学校に行かなくてもいい」ムードに加え、いずれの進路として、官僚になったり大企業に就職したりすることが、さほど魅力的に映らなかった頃だ。「独立してできる仕事」。城山は、そう考えるようになった。

世間で羽振りがいいと目についたのは、土地持ちの自営業者だったり、自分で事業を起こしている人が多かったんですよ。この先、組織に組み込まれるのは楽しそうじゃないなと。手に職をつけ、いずれは独立したいという気持ちが出てきたのです。その時に意識したのが弁護士で、大学2年になったあたりから司法試験を目指すようになりました。周囲の仲間たちが同様に目指していたのも、環境的にはよかった。

ただ私は、子どもの頃から一人で勉強したほうが集中できるタイプなんですね。授業を聞いていると、いつのまにか空想が始まってしまい、頭が飛んでいっちゃう(笑)。集中力がないのか、自分のペースで本を読んでいるほうが勉強になるんです。だから司法試験に向けても、答練に少し出るぐらいで、基本は単独で臨みました。

でもさすがに、後々格好悪そうだと思い、論文試験合格後に入ったのが、商法の江頭憲治郎教授のゼミ。当時は、無体財産権法の中山信弘教授のゼミが大人気だったんですけど、成績が悪いと落とされるという話だったので敬遠し、江頭先生のところへ。でもその後、先生は会社法の分厚い教科書を著され、商法の大家になられたので、私としては、先取りした気分なんですよ(笑)。

実務修習を機に知った知財の世界。面白さに魅了される

城山 康文

発明の本質やストーリーを探り当てるということ。それが、私の知的好奇心を最高に満たしてくれる

東大法学部の“留年1年生”だった91年、司法試験に合格。一足先に合格し、名古屋で実務修習を受けていた同級生の勧めに従い、城山は、地縁がないながら名古屋での修習を第一志望とした。この時に配属となったのが、同地でほぼ唯一、特許訴訟を専門としていた富岡健一弁護士の事務所。これが縁の始まり。城山は、知財の領域とその仕事の面白さに触れたのである。

富岡先生はかつて、トヨタ対マツダのロータリーエンジンに関する特許訴訟に立たれた方です。旧制の高等専門学校を卒業された経歴から、豊かな技術のバックグラウンドをお持ちで、先生と出会ったことが、特許の分野に踏み込むきっかけとなりました。

修習で実際の案件をやらせてもらって、私はつくづく「仕事は面白いものだ」と思ったんです。勉強だけだと、自分の成績が上がるというインセンティブしかないけれど、仕事って「ちゃんとやるかやらないか」「いいアイデアを思いつくかどうか」が、依頼者の利害や人生に直結する。きちんとやれば、必ずレスポンスも返ってくる。机上とは違って、生身の案件は本当に面白いと、強く感じたのです。加えて、富岡先生もおだて上手で「城山君、君は筋がいいね」なんて言うものだから、それまで意識していなかった特許の世界に、すっかり惹かれてしまいました。

とはいえ「将来は特許で食っていこう」と決めるまでには至らず、楽しい修習生活を送っていたんですね。で、気がついたら実務修習も終わりに近づいていて、東京に戻るにあたって「就職を決めないとまずい」と。でも、東京に頼れる先もなく、結局、富岡先生に紹介をお願いしたんです。そして、快くつないでくださった先が湯浅法律特許事務所(当時)で、その後の道を決定づけることになりました。ちなみに、私のように修習が終わる段になって面接に訪れる人はいなかったらしく、事務所側は「今頃何してるの?」という感じではあったんですが(笑)、運よく入れてもらえたという話です。

湯浅法律特許事務所でスタートを切った城山は、有能な先輩弁護士に恵まれ、確かな“基礎体力”をつけていった。なかでも、特許の仕事で直接的な指導を受けた大場正成、近藤惠嗣両弁護士については「私の恩人」だと、その名を挙げる。「若手が多くて賑やかだったし、パートナーの先生方も個性豊かで、とても楽しい環境だった」。

入所して最初にアサインされたのが、バイオジェン社を代理して、インターフェロンに関するバイオ特許の侵害訴訟を提起する案件。右も左もわからないなか、仕掛りの訴状ドラフトを完成させて提出するところから始めたのを覚えています。これが、弁護士になって初めて起こした書面。それから、超硬合金の特許についての三菱マテリアル事件とか、焼却溶融炉に関する特許権を有していた反社会的勢力と戦った日本鋼管(当時)の事件とか、面白い特許事件をいくつも経験させてもらいました。大場先生も近藤先生も、大きな方針を示したあとは仕事を任せてくれるスタイルで、答弁書や準備書面の作成からその英訳、依頼者とのやり取りなどをすべて手がけられたことは、ものすごく勉強になりましたね。

そしてもう一人、お世話になったのが金融関係に強い平川純子先生。ちょうど債権の流動化が始まった時代で、先生の指導下、私も、富士銀行(当時)の売掛債権流動化の仕事によくかかわりました。様々な取引関係者が存在するなか、契約書を多数作成する仕事は、パズルを組み立てるような感覚で、これも面白かった。この債権流動化と特許の仕事が、およそ半々だったでしょうか。どの案件も中身が濃く、さらに、依頼者や仕事に対してあるべき姿勢を早くに学べたことはラッキーでしたね。

特許の仕事において、その本質を探り、議論の大きなストーリーを組み立てていくことの重要性、これも学んだことです。「発明の中身は特許明細書にわかるように書いてある」のは建前で、実際は難しい。関連書籍を読んだり、エンジニアに聞いたりしながら、自分で調べていく。そして紐解けば、そこにはちゃんとストーリーがあるんですよ。昔あった技術がどう発展してきたか。しかし、そこに問題や不便が生じ、それらを解決した当該の発明とは……という具合に、ストーリーを“盛って”でも組み立てていくのが特許弁護士の仕事。その過程で「なるほど。こういう仕組みだったのか」とわかるのが、最高に知的好奇心を満たしてくれる。私の性に合っているんだと思いますね。

大組織と独立の対極を経験し、自分に合う仕事環境を導き出す

3年ほど経った頃、城山が名を挙げた弁護士らが湯浅法律特許事務所から相次いで抜けるという事態が起きた。事情を知らない城山は驚くばかりだったが、結局、自身も退所の道を選んだ。相前後して留学を考えていた城山は、ひとまず半年間北京に語学留学し、その後、米国ロースクールにてLL.M.プログラムに参加。帰国した98年、次に移した足場がアンダーソンである。

当時、アンダーソンにいた友人が北京に留学していて、「こっちに来たら?」と。ちょうど北京事務所の開設準備をしていた頃で、私は、現地にいたアンダーソンの人たちと交流するようになりました。肌が合ったこともあり、アメリカ留学のあと、中途入所したという経緯です。湯浅事務所を辞めた先生方がつくった事務所に「行きたい」と言えば、受け入れてもらえたとは思いますが、この時、弁護士5年目。またイソ弁から始めるのは将来を狭める気がして、別の道を選んだのです。

自分では、そこそこ知財専門家になったつもりでいたから、大手事務所で、専門事務所に負けない特許訴訟をやるという気持ちはありました。当時のアンダーソンには知財専門家がいなかったので、〝一人知財部〟を勝手に始めたという感じ(笑)。当初は知財のほかに中国や金融関係の仕事も少し手がけましたが、3分野をきちんとやるには人の3倍働かなきゃいけない。さすがに無理だと思い、特許に絞ったのです。

幸い、早々に日立製作所の特許訴訟などに関与する機会に恵まれ、仕事に全力を尽くしていたのですが、一方で、試行錯誤が続いたのも事実。この分野で一人前になりたいと思いつつも、「一人知財部のままで大丈夫だろうか」と、ふと不安な気持ちが頭をもたげてくる。そんな時は、隣の芝生が青く見えるものです。「こういう環境じゃないほうがいいかもしれない」と考えるようになり、実は私、いったんアンダーソンを退所しているんですよ。

2000年、城山は湯浅時代の先輩である大野聖二弁護士とともに、知財法を専門とする事務所(現大野総合法律事務所)を設立した。結果として、独立した1年後にはアンダーソンに“2度目の中途入社”をするのだが、城山にとってこの経験は、大きな気づきを得る貴重な機会となった。

一人でやれて、大事務所でやれないことはない。それがわかったのです。例えばものを書く、営業するなど、自分のビジネスを広げるためには、様々な必須活動がありますよね。大事務所にいると、それができない錯覚に陥るんですよ。でもそれは、やらないことを自分に正当化しているだけで、自律的に取り組めば大組織でも何でもやれる。むしろ、大きな暖簾のもとで活動するほうが効果あることも多い。クリアになりました。そして一流企業のクライアントが独立しても新件を依頼してくれたりしたことで、「いざとなったら一人でもやっていける」自信もついた。短い期間でしたが、私の土台を築いた貴重な経験となったのは確かです。

一応、頭を下げて(笑)、アンダーソンに復帰。この時には、今も一緒にやっている岩瀬吉和弁護士が中村合同特許法律事務所から入所してきていて、同じ方向性とバックグラウンドを持ちつつ、でも、性格は少し違うという同僚を得られたのは大きかった。一人と二人では大違い。一人きりだと、時に萎えたりするけれど、互いに面白がって、「やっちゃおうか」と、様々なことにチャレンジするようになりました。技術系のバックグラウンドを持つ新人弁護士の継続的な採用や、特許弁理士チームの加入を所内に実現させたのも、その成果だと思っています。

印象に強い案件は、BYDという中国のリチウムイオン電池メーカーの特許訴訟です。相手はソニーで、老舗の中村合同事務所がついていましたが、首尾よく防御に成功。かつて中国留学した経験を生かすことができ、中国の新興企業を助けるという意味合いからも、非常にやりがいのある仕事でした。ほかにも様々な案件で経験を積み、アンダーソンに戻って2、3年経った頃には、「専門家だ」と胸を張って言えるようになった気がしますね。

続く若手のために、存分に活躍できる環境づくりにも尽力

  • 城山 康文
  • 城山 康文

03年、城山はパートナーに就任。以降、東大法科大学院で教壇に立ち続け、また、日弁連の委員会(知財センター)にも積極的に参加するなど、活動の幅を広げてきた。「やろうと思えば何でもできる」。城山は“健全な野心”をずっと持ち続けている。ひとつターニングポイントになったのは、城山が先に触れた特許弁理士チームの編成だ。現在、15名の弁理士が在籍しており、弁護士との連携のもと、ワンストップで質の高いサービスを提供している。

日本でも、少数ながら弁護士・弁理士の共同事務所がありますが、異なる資格者同士、どうしても相容れない部分はあるんですよ。それを知っていたから、最初は手探りでしたけど、チームをつくって本当によかった。外部の特許事務所の先生方と組む時は、「わかってないな」となめられないよう(笑)、同じテーブルに着くまでの準備に時間を要しますが、内部ならそのプロセスを省ける。スピード性、最初の方向づけは非常に重要なので、自分たちより技術や特許庁実務に詳しい人たちとスタートから一緒に組めるのは、とても有効なのです。そして、ひとたびチームを編成して事件にあたる際には、役割や資格にいっさいの線引きをしない。大切にしているスタイルです。

特許の出願業務から侵害訴訟、ライセンスにいたるまで一貫したサービスを提供できるのは、うちにとっては新たな商品力です。知財の領域ではまだまだ専門事務所が強いので、我々はそこをコンペティターとして捉え、競争していきたい。時折、ほかの大手事務所から「知財なんてマイナーだから」という自虐的な言葉を耳にしますが、そんなことはありません。大企業がガチンコでぶつかって、「やられたらやり返す」もあるし、一度火が点くと事件番号がすぐに倍々で増えるような世界です。ビジネス的にも、特許訴訟は大きな事件になる。私は「自分ならでは」と没頭してきたこの領域で、そして大手事務所において、専門事務所に負けない特許訴訟をやっていきたい。それが、最初からの強い思いですから。

冒頭で触れたように、現在、城山はアドミニストレーション・パートナーとして事務所全体の経営執行を担う。自分を成長させてくれた土壌に立ち、今度は経営の立場から、後進のために理想の組織づくりを考え、バトンしていくことが城山の目下の願いである。

アドミニストレーション・パートナーといっても、事務所の経営トップという感じではなくて、一般の会社でいえば総務部総務課といったところでしょうか。私を含めて5人いますが、ほとんどが40代の同世代です。3年任期の制度で順繰りにやっていくんですけど、様々な業務執行を中堅のパートナーが担う仕組みは、アンダーソンならではのもの。10年、20年先を考えた時、我々のような中堅が経営経験をすることは、非常に意味があると思っています。この役職を経験すれば、単なる評論家ではいられなくなり、本当の意味で民主的な経営を続けていくことができます。

思えば、私が修習生の頃から、「戦後アメリカ人がつくったアンダーソンの役割は、もう終わったよね」などと言われていたものです。にもかかわらず、しぶとく生き残って成長してきたのは、事務所のカルチャーによるところが大きい。中央集権的ではなく、プロフェッショナル同士のリベラルな議論をとおして意思決定がなされ、制度上の部門や事実上の派閥といったものがまったく存在しません。私が知財を立ち上げたように、何かをやろうとする人間を許容するカルチャーがあります。これは素晴らしい。今後、さらに組織が大きくなる過程で、新たな課題は出てくるでしょうが、根っこのカルチャーを継承しながら、時代や規模に合わせた手直しをしていくことが重要だと思っています。

大事務所のアドミニストレーションとして意識しているのは、各弁護士がなるべく外向きのことにエネルギーを使えるようにしながら、同時に求心力を高める仕かけをつくっていきたい、ということです。例えば、フロアの違うパートナーとアソシエイトとが定期的にランチを共にする交流会や、学年集会と呼ぶ世代別のアソシエイトとアドミニストレーション・パートナーとの意見交換会を開催したりしています。先日のパートナー会議では、北澤正明弁護士に「売れっ子弁護士になる方法」のスピーチをしてもらい、大いに盛り上がりました。

私の役割は、これからの人に、弁護士として存分に活動できる舞台を提供すること。皆がそれぞれの専門分野を見つけて、その世界で専門家だと認知されるようバックアップすることです。組織はそのためにあるのだし、活用すればいいんです。あとは本人しだい。規模にかかわらず、「自分のキャリアは自分で決める」という気概があれば、そして、時に迷ったり萎えたりしても、実直にやり続けていれば、必ず運は巡ってくるもの。それが、私自身の経験に照らしたメッセージです。

※本文中敬称略