独立独歩の学生時代。行政官を目指すも、大学卒業間際に方向転換
弁護士業をスタートさせたのは1962年。以来、実に60年近くにわたり、在野法曹一筋に歩んできた清水直は、企業再建の第一人者としてその名を馳せる。一般民事、刑事においても業績を残す一方で、何といっても企業再建事件は清水のライフワークだ。「技研興業」「興人」「東京佐川急便」「多田建設」「北海道テレビ放送」「あしぎんフィナンシャルグループ」など、手がけた事件は枚挙にいとまがない。常なる的確な状況分析と、創意に富む施策でもって多くの経営者を先導してきた手腕は、世に「会社更生、企業再生に清水あり」と言わしめた。
弁護士として歩み始めた時から変わらぬモットーは「人の生存に資する法律」。単なる勝ち負けではない。清水は「究極の目指すところは人間の救済」とし、企業再建においても、すべての関係者の最大公約数による衡平な救済を心がけてきた。「困っている人がいるのなら」――86歳になった今も、清水は意気軒昂とした表情を見せる。
生まれは横浜で、幼い時分は吹田、神戸へと移り住み、いわゆる都会暮らしでした。戦前、親父は日本郵船の欧州航路の司厨長を務めていたので、転勤に伴ってのことです。親父の仕事柄、わりに裕福でハイカラな生活でね、私はステーキとかカツレツとか、洋風の料理で育ってきたものだから、いまだに刺身が好きじゃない(笑)。
両親の出身地である広島に疎開したのが小学校4年の時で、以降、高校1年の途中までここで過ごしました。広島といっても瀬戸内海の小さな島で、当時は戦中・戦後の貧しい時代です。都会暮らしとは打って変わる生活になったけれど、実は、体が弱かった私にはよかったのです。毎日のように農業を手伝ったり、和船の“櫓”を漕いだりしているうちにすっかり逞しくなって、頑健な体をつくることができたから。
この頃、親父は商売を手がけるようになり、廻船問屋、豆腐屋、製粉・精米業、アイスキャンディー屋など、それはもう様々にやっていました。ところが、何をやってもダメ。豪華客船の船乗りだったというプライドもあったでしょうし、つまりは「陸に上がった河童」ですよ。いずれも失敗し、羽振りがよかった時に蓄えた資産はすべて売却処分。それでもまだ借金が残り、後年、私が5割の利息をつけて全部返済しました。
一家が島を後にして神戸に出たのは、私が高校1年の2学期を終えた頃でした。ここから苦学生活が始まります。夜学の高校に転入し、昼はひたすら働く。クリーニング店の小僧をはじめ、ガソリンスタンドの店員、新聞配達、サンドイッチマン……本当にいろんなアルバイトをしましたね。この間、私は学校が「パッとしない」と感じると、もっといい学校で学びたくて、自ら3回の転入学を繰り返してきました。最終的に卒業したのは、単身転居し、転入した横浜市立港高等学校です。ここでは素晴らしい先生方との出会いもありました。
今にすれば、この当時苦労した経験はものすごく役に立った。夜学は4年ですから、友人たちより1年遅れるのは本当に切なかったけれど、無駄ではなかったとつくづく思う。早くに商売人の世界を肌で知ったこと、そして何より、小さき者、弱き者、困っている人を助けるという弁護士としての素地は、この夜学高校時代に培われたと思いますね。そして私は、後の大学も含めて、衣食住、学費のいっさいを親の世話にならず、独立独歩でやってきたのです。
小・中・高と一貫して優等生総代を務めるほど学業優秀だった清水は、勢い、東大を目指す。長姉から「田舎の学校で優等生でも大したことはない。男の子は帝国大学の法科を出て、高等文官試験に合格しなければダメ」と言い聞かされていたのもある。夜学4年の時に東大受験に臨んだが、「論文の二次試験に落ちて一浪」。苦学生の清水に予備校に行く余裕などなく、一浪した後に入学したのは中央大学法学部であった。
アルバイトをしながらの苦学生活は相変わらずでしたが、そのゴールとなったのは、先輩と一緒に開いた学習塾でした。大田区の雪谷に部屋を借りて、宣伝は大事だからと、塾生募集のチラシや新聞折り込み広告になけなしのお金をつぎ込んだものだから、最初は食べていけるかなぁと。でも、心配をよそに、宣伝が奏功して塾生は早々に集まりました。当時は第一次ベビーブーム世代が高校受験にかかる頃で、子供の教育にも目が向くゆとりが生まれた時代だったから、タイミングもよかったのでしょう。
生徒たちには自信をつけさせるような教え方をし、また、親には子供たちの塾での学習態度や成績の伸長などをこまかく報告する。工夫やフォローを徹底したことで「熱心な塾」として評判が立ち、口コミでどんどん塾生が増えていきました。つまりは大当たり。卒業する頃には月7万円の収入がありましたから。当時の大卒の初任給はその5分の1くらい、大変なものですよ。裕福になったのに加え、塾生としてやって来た女性、後の女房とも出会えた。いろんな意味で収穫があったというわけです(笑)。
生活がラクになり、大学の後半は存分に勉強することができました。勉強は好きですし、毎月1万円分の法律書を買って片っ端から読んだものです。ただ、私がもともと興味を持っていたのは政治、経済で、志していたのは政治家や外交官。実際に猛勉強して、3年の時には国家公務員中級職試験に、4年の時に上級職試験に合格しました。だからこの頃、弁護士になろうという考えはまったくなかったんですよ。
国家公務員試験に合格し、希望に胸を膨らませてある官公庁の集団討論の面接に行きましたらね、メンバー8人中6人が東大生だったんです。そこで、彼らが連日のように先輩を訪ねて省庁回りをしているという話を聞き、唖然としました。当時の中央大学には、省庁に有力な先輩などほとんどいなかったし、「これはダメだ」と。学閥がものをいう世界で、私が活躍できる場ではないとわかったのです。
行政官になることをあきらめてすぐに方向転換し、目を向けたのが司法試験です。「仕方ないから」というか、現実との妥協で消去法的に選んだ道でした。それが後に、先輩先生から「君の天職だ」と言われるようになるのですから、わからないものです。いずれにしても、私がもし最初から東大に行っていたら、鼻持ちならないエリートになっていたかもしれない(笑)。とすれば、結果的にこの経緯はよかった気がします。
弱き者、困っている人を助けたい。その素地は、苦学生時代に培われた
市井の人々の立場に立つ弁護士としてスタート。受けた教えを胸に刻む
大学4年の秋に方向転換し、翌年、卒業年である59年に司法試験に一発合格。すでに国家公務員試験に合格していた清水にとっては、難がなかったようだ。同試験と司法試験には共通科目もあり、「刑事訴訟法や民事訴訟法あたりを付け加えて勉強すればよかった」と言うが、それにつけても、結果は清水の優等生ぶりを物語っている。第14期司法修習生となった清水は、出生地でもある縁の深い横浜で現地修習に入った。
「自由闊達なる法曹人を育てる」というのが当時の司法研修所のモットーで、実際、うるさい規制などなく、修習生の自律心が尊重される本当に素晴らしい環境でした。私にとっては、人生で一番と言っていいほどに楽しい時期だった。
弁護修習でご指導いただいた井上綱雄先生は法律家のお手本のような方で、先生の事務所でお世話になった際には、研修所や弁護士会では学び得ないような貴重な体験をさせてもらいました。また、民事弁護の教官でいらした江澤義雄先生も思い出に残る素晴らしい先生でした。ダンディな先生は社交ダンスに造詣が深く、私たちをよくダンスホールやナイトクラブに連れていってくださったし、時には温泉旅行にも。実務のみならず、教養的な教えを様々に受けた修習時代で、国から給料をもらって、こんなに楽しく過ごしていていいのだろうかと思ったほどです。
いわゆるイソ弁としてスタートしたのは62年。その第一歩は、児島平先生の銀座の法律事務所で踏み出すことになりました。仕事を始めた頃は、当然のことながら、市井にいるごく一般的な弁護士として事件の処理に当たっていました。遺産相続事件、離婚事件、貸金請求事件など多種多様で、中でも取り分けて多かったのは交通事故と、土地の異常な値上がりを背景に頻発していた借地借家事件です。
様々な職務を通じて、児島先生から教わったことを一言で表すなら「和解のコツ」しょうか。青臭い法律論に振り回されず、状況によっては一歩譲ってでも和解によって事件を早期に解決するのも弁護士の度量。うまく進めるには、事件に関係するすべての人たちの心理を的確に捉えることが重要であると。一つ余裕を残すというか、相手をただ「潰せばいい」じゃなくて、相手もそれなりに立ち行けるよう考えながら進めるということです。この教えは、以降、数多関与してきた企業再建においても間違いなく生きています。
そして、経済的センスですね。事件に勝って勝訴判決を得たはいいが、弁護士報酬が取れなかったでは具合が悪い。児島先生は、7~8割でもいいから和解で早期に解決して報酬を得られるよう心がけなさいと。「衣食足りて礼節を知る」の格言のごとく、弁護士業といえども収入が安定しなければ、品位ある行動を保てなくなるという話です。先生の事務所には3年間お世話になりましたが、弁護士としての世渡り術をも教えていただいた。今も私の胸に刻まれており、後輩にもずっと伝え教えていることです。
法律は、人の生存と幸せに資するものでなければならない
初めて「再建」という仕事に出合ったのは、清水が弁護士になってまだ3カ月も経たない頃。別の事務所にいた司法修習生同期である友人の誘いで、東京・深川にあった材木商の私的再建手続を手伝ったのが扉となった。“人くさい”再建事件に魅力を覚え、やりがいを感じた清水は、次第にこの道に踏み込んでいく。そして、36歳の時に手がけた著名な会社更生事件「技研興業」(更生、管財人代理)をきっかけに、その名は知れ渡ることとなった。
友人のボスから、たまたま「君、手伝わないか」と声をかけられたのがきっかけです。始めてみると、下町の人情がいかに厚いかを実感しました。その材木商は商売に失敗し、周囲に迷惑をかけたわけですが、債権者・債務者は協力し合って、いかにして平穏に整理するかを議論していたし、同業仲間は手取り足取り再建を手伝う――何とも、人くさいのですよ。究極のところは人。人を抜きにしては何の解決もできないということを身に染みて感じ、同時に、実にやりがいのある仕事だと思いました。
今でも私は、法律というものが好きじゃないのですが、それは、往々にして人を縛ることばかりに実務運用されているから。法律は人の生存、あるいは人の幸せに資するものでなければならないと考えてきた私にとって、企業再生の仕事は使命感や達成感を得るのに充分なものでした。
非常に大きな経験となったのは、やはり技研興業ですね。主たる事業は、海岸などに打設されている消波用ブロックを製作するための型枠をリースするもので、その性能の高さから需要が飛躍的に増大、急成長してきた会社です。伴って、不動産業や建設業などといった事業を幅広く急展開したために、その財産調査はまさに複雑怪奇、困難を極めました。そして何より、事業を軌道に乗せるのが大変な仕事でした。
詳細はともかく、私がやった一つの大きな仕事は、技研興業の子会社である修善寺ニュータウンの処理です。技研興業破綻の最大の原因となった存在で、整理するか、再建するか、非常に頭を悩ませたのですが、最終的には新会社設立方式によって事業を継続することになった。まずは別荘地を補修・整備し、次に、その土地をいかに効率的に短期販売して資金を回収するか――検討する中で浮かんだのが「土地代物弁済」でした。金銭による弁済に代えて、債権者にニュータウンの土地を取得してもらうのが最良の方法ではないかと考えたのです。
折からの田中角栄内閣による列島改造ブームで、土地は日本全国で異常な値上がりを見せ、土地買い希望が殺到していた頃です。結果、この案は債権者にも歓迎され、技研興業の所有する分譲地はすべて代物弁済となり、20億円余りの不良債権を回収することができた。当時の更生事件としては極めて高率の弁済となったうえ、わずか2年半ほどで更生手続は終結。強力なる管財人団と全社員の一致団結した会社再建の意欲があったからこその結果で、私自身、この時の感動と喜びは忘れられません。もう50年前になる古い話ですが、数多くの教訓を残し、短期間で成果を挙げた会社更生のお手本的事例だと言っていいと思います。
「会社更生に清水あり」。企業再建に情熱を傾け、数多くの病める企業を救済
清水が踏み出した頃、企業倒産や企業再建は重大事件として注目を集めることはなく、法曹界においても、これらを専門に扱う弁護士は皆無に等しかった。想像を超える努力と強い信念でもって、清水はまさに、先人なき道を切り開いてきたのである。75年に出した著書『会社更生手続の実務』は、“初の実務本”として事実上のバイブルとなった。これを境に、清水は日本の代表的な倒産事件に一層関与していくようになる。
同じく75年、当時としては戦後最大の倒産となった興人の事件にかかわりました。実は当初、私は保全管理人代理として入っていたのですが、10年ほど経ってから要請され、次は法律顧問として“再登板”したんですよ。要は更生計画がうまく進んでいなかったという話で、久々に現場を見ると、会社はまさに惰眠状態でした。最大の問題は、更生手続終結後は誰が興人の経営を行うのかが定かでなく、リーダーシップを執る者がいなかったこと。大口債権者集団は「誰かがやるだろう」と傍観し、さらには、主力銀行出身の老管財人が高給を取って居座るという図式になってしまっていた。
この問題の元凶は株主構成にあると判断し、裁判所と大口債権者の間を駆けずり回って交渉を続ける中、行き当たったのが、当時、三菱商事の審査部長をしていらした森田房雄氏。何度か話し合ううちに情のようなものが通じましてね。居酒屋で杯を交わしたある日のこと、その森田さんから興人起死回生の一打とも言える策が出てきたのです。興人を三菱商事グループの一員に入れるのが最善の方法ではないかという提案で、「それは面白い」と。
さっそく森田さんの先導で動き、三菱商事グループに大幅な第三者割当増資を行い、更生債権の一括弁済、更生手続終結へと一気に持っていくことができた。生まれ変わった興人は、会社更生計画を3年前倒しして終結させ、今も三菱系の会社として立派に存続していますよ。過程では紆余曲折があったけれど、森田さんや、このプランを即決された三菱商事の太田信一郎副社長(当時)という傑物に出会えたおかげで、貴重な経験をすることができました。
私は、師においても非常にありがたい出会いに恵まれてきました。先の技研興業にしても、興人にしても、関与する機会を与えてくれたのは民事弁護士界の長老・伊達利和先生で、若輩者であるにもかかわらず私を信頼し、自由に活動させてくださった。
ほかにも、大先輩からは折々に可愛がってもらったのですが、これには一つ、戦争の惨禍が影響しています。昔、弁護士界の年齢構成を調べてみたことがあるんですけど、多かったのは明治世代。本来なら中核となっていたはずの大正、昭和初め生まれの世代は多くが戦死しており、生存者が少なかった。それで一足飛びに孫のような私が弟子として可愛がられ、早期から大事件に関与する機会にも恵まれたのだと思う。大先輩方に公私にわたって直接指導をいただいたことは、私にとって幸いでした。
「会社更生に清水あり」と評される背景には、関与した病める企業を例外なく蘇生してきた実績がある。特筆すべきは、その数の多さだけでなく、業種・業態もあらゆる領域に及んでいる点だ。メーカーあり、建設業あり、サービス業等々と実に多種多様で、さらには、学校や病院などの実績もある。当然のことながら、それぞれの企業活動には個性があり、置かれている状況もまったく違う。清水が日頃から口にしているのは、「常に学ぶ姿勢」の大切さだ。
仮に業種が同じでも、当該企業ごとに個性があるから、平均的な判断や再建手法は通用しません。例えば、一口に建設業といっても建築主体か、土木主体か、あるいは公共工事が主体なのかで話は違ってきます。まずは業界のことを勉強し、現場で徹底したヒアリングを行い、その会社がどういう位置にあるのかを知らなければいけない。だから、まずは「教えてください」から入るのです。加えて問われるのは、時代や対象企業に則した、柔軟かつクリエイティブな対応力だと思いますね。
異例なこともまま起きるものです。私は企業再生に情熱を燃やしてきただけに、破産手続にはあまり興味がなかったのですが、時には経験するのもいいかと考えて、破産管財人候補者の名簿に登録したことがあるんですよ。そうしたら早々にお呼びがかかり、出廷したところ、裁判長から思いもかけない話が出てきた。「清水さんが管財人?だったら通常の破産手続をそのまま進めるのはもったいないから、事業を継続してみてください」と。その対象は「ジャパンコーヒー」という喫茶店経営をメインとする会社です。私は破産管財人を拝命しながらも営業を継続し、利益を出したうえで和議に移行させて、結局は再建しちゃったという話。手っとり早く言えば、棺桶を見送るはずのところを「待て、待て」と引き止めたような(笑)、異例な事件でした。
また、同じ会社について、10年間のうちに3回も会社更生手続に関与したという前代未聞のケースもありましたし、企業再生というのは、まさにオリジナルのドラマ。一件一件に、ヒト・モノ・カネが織りなす多彩な人生模様がある。どんな困難、苦難にあっても、最後には人々の喜ぶ顔が見られるドラマにかかわるのは、やはり魅力的で、私はやりがいと共に使命感を燃やすことができるのです。
関係するすべての人々をマスで救済できる点に、企業再建の真髄がある
事業再生弁護士としての仕事を一生涯全うすべく、ひたすら走り続ける
究極にあるのは「人の救済」だ。企業再建事件では、小なりともいえども一つの企業を再建することによって、直接・間接的に関係する多くの人を一度に大量に救うことができる。その点においては、解決の効果、恩恵が事件限りの範囲にとどまる個々の紛争以上に、社会的効果も大きい。「関係するすべての人々の人権がマスで救済されるところにこそ、企業再建の真髄がある」――清水はそう語る。
企業再建の担い手は、とどのつまり、関係ある人々そのものなんですよ。役員、従業員、金融関係者、取引先、下請先、監督官庁など……皆です。立場によって事情や思いは違っても、結局は、全体の調和をとっていかなければ、未来ある企業再建はかないません。何人にも「公正」であるか、富も痛みも「衡平」であるか、空理空論ではなくプランは「遂行」できるか。この3つの基本理念に基づいた調和が絶対的に必要なのです。そして、弁護士が行う企業再建手続では、基本精神として、弁護士法第一条の定める「人権の擁護」「正義の実現」が確固として存在しなければなりません。
かつて私は、いわゆる住専国会で「けしからん」と論陣を張りましたが、特定の私企業救済のために巨額の公的資金を投入するなど、あってはならない。だって不公平でしょう。それこそ、前述の3つの柱を持った調和に欠けています。住専7社も日本航空、東京電力も、結局は不透明な手法で事の処理がされてしまい、企業再建手続の悪しき事例を残してしまった。私が手がけた事件では、一円たりとも公的資金のお世話にはなっていません。企業再建はあくまでも“私法”の分野でのことであり、公権力の介入は正義に反すると考えるからです。
長きにわたって走り、振り返れば「ああすればよかった」「こうするべきではなかった」と反省する点もあるけれど、常に、すべての関係者の最大公約数による衡平な救済を心がけてきたつもりです。
ある部品製造会社の再建にかかわった時のこと。まったくモラルのない経営者でね、パートさんたちに給料も払わないで逃げちゃったものだから、私は皆さんの話を聞きながら、売掛金を回収したり、在庫品を処分したりして何とかお金を工面し、年の瀬に給料を用意したことがあるんです。すると去り際に、皆さんから「寒いからタクシーで帰ってください」と、手のひらに山ほどの10円玉を渡された。まさに貧者の一灯、涙が出るほど嬉しかったですよ。ほかにも「先生のおかげで今日までやってこられた」と、何十年も欠かさず決まった日にお礼に見える方もいらっしゃる。企業再建をやっていると、こういう話はたくさんあります。
また、私の顧問会社や依頼者の中には、過去の事件では“相手”だった人も多くて、「以前は負けたけれど、今度は味方につけよう」と思ってくださるのはありがたいことです。弁護士の財産というのは、こんなところにあるのではないでしょうか。
65年に開設された「清水直法律事務所」からは、清水のマンツーマンによる指導を受けた門下生が多く巣立っている。各方面で立派に活躍する弟子たちの姿を見るのもまた、清水の喜びであり、財産である。2020年7月、清水直法律事務所はMASSパートナーズ法律事務所と合併。清水は顧問に就任し、開業55年の歳月を区切りにステージを変えた。現在は、培ってきた経験やノウハウのすべてを若い世代に伝え教えるという社会貢献に全力を注ぐ。
さて、弁護士が私に適職であったかどうか。若かりし頃、私は経済人になったほうがよかったのでは……と思ったこともあるのですが、「清水君には弁護士が最も向いている」と言ってくださった先生がいます。高名な刑法学者で、日弁連の会長も務められた島田武夫先生。地方で起きた殺人事件で、求刑は無期懲役であったが、無罪確定となるまでの10年間をご一緒する中、先生からは多大なる教えをいただきました。
先生は「君は商売センスがあるから誘いもあるだろうが、道草をするな。弁護士を天職として心得、生涯全うせよ」と。そして「徳を残せ」とも。人が財や名誉を築くことはさほど難しくないが、徳を残すことは難しい。いかに徳を残すかを心がけなさいという教訓で、それこそ、私の生涯にわたる宿題です。そういう意味では、人権と正義に立脚した企業再建は宿題にそぐうものであり、今となれば、弁護士の仕事はやはりやりがいがあると確信しています。
MASSパートナーズは、私の三男が同期たちと共同で設立した事務所ですが、個性が強い各分野の大型ルーキーが揃っていて、これがなかなか面白いのです。総合力でもって、彼らは彼らで新しい世界をつくっていくでしょう。ただ、時代やスタイルが変わっても、弁護士の要諦は在野精神にあるということは引き継いでもらいたい。権力に屈しないというか、平たく言えば、偉いものに巻かれない不撓不屈の精神。これまでにも多くの若手弁護士を育成・輩出してきましたが、これだけは、今後も広く次の世代に伝え、つなげていきたいですね。
私も齢を重ねて86。本当ならば「後はよろしく」と立ち去りたいところでしたが、新型コロナの影響で、何やらこの老体にも果たさなければならぬことがありそうです。もとより倒産事件は景気の変動に影響を受けますが、今はまさに、コロナ禍で将来が見えなくなっているでしょう。倒産、廃業が続く中、この冬場は一つの大山になると考えているので、またひと踏ん張りしなくてはなりません。ここの働き盛りの連中と一緒になって、事業再生弁護士としての仕事を一生涯全うしていきたいと思っています。それが、今の私の夢なんですよ。
※取材に際しては撮影時のみマスクを外していただきました。