「中村合同特許法律事務所」。知的財産法一般を専門とする事務所である。1974年から1993年の20年間、同事務所の代表パートナーを務めたのが、中村稔氏だ。法曹界に身を置く者なら、「知財の中村」の名を知らぬ者はいまい。一方、世間では「詩人・文学者」として広く名を知られた異才の人物でもある。法曹と文学の世界を自在に行き来する氏の、心情や考え方を聞いた。
日本有数の特許法律事務所の代表として
中村合同特許法律事務所の前身は、第9代特許局(現在の特許庁)長官を退任した中松盛雄弁護士・弁理士が1914年に開設した「中松特許法律事務所」である。その後、中松盛雄氏の長男である中松澗之助弁護士・弁理士が代表となった。中村氏が同事務所に入所したのは、1952年。戦前は東京・丸の内の三菱二十一号館に事務所を置いたが、戦争を境に占領軍に接収されたため、大森(東京都)にあった中松氏の自宅が、兼事務所であったという。
「当時の事務所は、中松澗之助先生と弁理士の方々、私を入れてパートナーは5名※1。総勢10名ほどの、小さな事務所でした。私の仕事の大半は、日本国内外の商標出願登録事務や特許出願に関する法的側面の事務処理、それと中松先生の秘書のような業務。そうしたことで特許庁の手続には非常に詳しくなりました」
同世代の弁護士との違いは、この「特許手続に詳しいこと」であり、そうした知識がその後の訴訟事件や交渉にも役立ったそうだ※2。
「敗戦後、特許出願に関し、連合国人戦後措置令※3という政令がありました。このため、係属中の連合国人の出願事件が多かったので、私も外国人との通信でずいぶん忙しかったのです。事務所には元外交官だった方がおいでだったので、私が英語の文章を起案し、それをその方に手直ししていただくというやり方で、英文の手紙の書き方を覚えました。こうしたこともあって、特許庁の手続に詳しかったので、このことが、戦後、私と同じ世代で特許訴訟を手掛けた先生方と比べて顕著に違うのではないかと思います。例えばfile-wrapper estoppel※4と言われているようなものの考え方は、教科書で覚える以前から持っていました。特許庁の出願手続で言ったことに相反するような主張を、裁判所ですることが許されるのはおかしいと、手続(実務)をやっていくうち自然に常識的な感じとして覚えたように思います」
事務所全般の業務に携わった氏を、中松氏はずいぶんかわいがった。
「中松先生には、本当に信頼していただきました。書面を直されたこともなければ、私がごく若いうちから事件の依頼を受けたときも100%任せてくださった。中松先生からは『紳士とはかくあるべし』を教えていただいた気がします。あんまりかわいがられたものですから、私は独立する機会を逸しました(笑)」
しかし中村氏46歳のとき、中松氏が急逝。所員は約90名と、事務所も大きくなっていたころだ。
「先生が亡くなられた後、事務所の運営体制を再構築する必要が生じました。まず、中松先生の個人資産と事務所の資金の区別をするため、事務所を代表して中松夫人と経理上の整理を行い、一方で先生の弟妹の方々と夫人の間の遺産分割については、夫人の代理として弟妹の方々との話し合いを行いました。次に、形式的だったパートナー制を、実質的な制度に切り替えるということを行いました。先生のご生前もパートナー制をとっていたのですが、そうはいっても、やはり中松先生の個人事務所という感は否めなかったのです。中松先生が亡くなってはじめて、資金繰りの苦労なども味わうようになったのです。中松先生の没後、40代の若手所員が中心となって事務所を経営していくこととなり、私がその中でたまたま最年長であったこと、先生の秘書のような仕事をしていたことから事務所の全般に通じていましたので、事務所の再編成・再構築を推進する中心的役割を担うことになりました」
そのころが、生涯で最もつらい時期だったように感じると中村氏。
「事務所の再編成は、人間関係が絡むので大変に難しかったのです。再編成のために努力し、協力してくださった方々は、私より若干年少であるとはいえ、私が彼らに指示できる立場ではない。また、それぞれに弁護士、弁理士としての能力が高く、それぞれに確たる意見と学識を持っている方々だったのです。従来の所員の処遇見直しなども含め、一方で不満が生じても、再編成のためには強行しなくてはならない、その責任を果たしていくのには、さまざまな心労がありました」
現在、同事務所には弁護士約20名、弁理士約65名。スタッフを合わせると200名ほどにもなる大所帯だ。
「やむを得ずこうなったという感が強いです。私は、弁護士と弁理士の仕事を両方見てきましたが、目の届く範囲、質の高い仕事ができる体制は、せいぜい60、70人ではないでしょうか。今の事務所は幸いにして評判もよく、特許事務所としては世界中どこへいっても通用するそうです。しかし人数が増えていくにしたがい、本当に質の高い仕事が継続できているのか、責任者としての立場を離れた今も心配し続けてしまうのです」
弁護士としての資質と信条
そもそも中村氏が、法学部に進み、司法試験を受け、司法修習を経て弁護士となったのには、どのような理由があったのか。
「文学部と法学部のどちらに進むか迷わなかったわけではありませんが、社会の実体に触れたいという思いが強く、後者を選んだのです。また政治学科よりは、法律学科の方が学問的に見えたこと、父が裁判官だったので法律には親近感があったことから、法律学科を選んだのだと思います。司法試験は、資格試験だからムダにはならないという父の勧めがあったので受験したのです。合格しても、裁判官になる、弁護士になるといった覚悟は、そのころはありませんでした。司法研修所を終了する際の、いわゆる2回試験のときは、父が私の試験の成績を最高裁の人事局に聞きにいったらしい。人事局の社交辞令だったろうと思いますが、裁判官に任官するよう勧められたと父は機嫌を良くし、私にしきりに任官を勧めました。しかし法曹資格を得たことで十分親孝行を尽くしたつもりだったから、私に任官の意思はありませんでした」
以来、弁護士となった中村氏が携わった訴訟は、枚挙にいとまがない。例えば、「プレイガイド事件※5」や「『智恵子抄』事件※6」など。中村氏に、一つ印象深い事件を尋ねた。
「それはやはり、ポリプロピレン事件※7でしょうね」
ポリプロピレン事件とは、債権者であるイタリアのモンテカチーニ社の代理人を、中村氏が務めた事件。この事件が中村氏にとって印象深い理由はさまざま。「当然、勝訴すべき事件に敗訴したということ、それだけ弁論に説得力がなかったことが主な理由」という中村氏だが、技術説明をまるまる一日、一人で実施したことも、印象に残る記憶だという。当時そのように、代理人が技術説明会を行うことは一般的であったのか。
「一般的というよりも、私は代理人が技術説明をすべきだと信じていました。弁理士や技術の専門家に技術説明していただくと、ご本人の技術的常識が高度すぎて裁判官には理解してもらえない、だから私たちが技術者に教えていただいて何とか技術を理解して、ときには途中で専門家に助けてもらいながら、裁判官にご理解いただけるような説明をしなければいけない、というのが私の信念でした。技術説明を3時間、4時間以上続けてやったような記憶のある事件というのは、生涯に三つ四つだと思いますが、そのうちの一つです」
携わった事件は、高度な専門技術に関する知識も必要とされたはず。
「理科的な才能がもともとあるとは思いません。ただ、教えていただければ理解できる能力はあると思います。それから知財といっても、ことに特許の訴訟(事件)の場合、議論の基礎になるものとして、特許明細書というものがあります。それには、従来こういう技術があった、この技術にはこんな欠点があった、この発明ではその欠点をこのように解決したと書く決まりがあります。ですから特許明細書をつぶさに追えば、内容については必ず理解できるものです。特別なテクニカルタームについては、企業や大学などの専門家や、事務所の弁理士にも教えてもらいながら、理解を深めていったのです。そもそも、裁判官もわれわれ同様、素人です。ですから、『私にまず理解させていただけないことには訴訟には勝てません』と、よく依頼者にはお話ししました。これは知財に限らず、どんな分野においても同じことが言えるのではないでしょうか」
実はそこまで手を尽くしても、ポリプロピレン事件の結果は敗訴だった。中村氏は、負けた事件についても飾らずに語る。
「隠したってしょうがない。私が負けた事件は、世の中に知られたものも多いですから。だいたいが勝訴した事件は、勝つべくして勝った、としか憶えていない。負けた事件の方が、非常に悔いが残るので、鮮明に憶えています。だいたいが人間の体験とはそうしたもので、失敗こそが経験として身に付き、成功は人間を成熟させるのには役立たないものだと思います」
中村氏の依頼者あるいは訴訟の相手には、海外の企業も多い。中村氏は、海外諸国への出願手続のほか、日本特許庁への登録出願の処理など実務を通して英文力を鍛えた。しかし仕事の場面で英会話ができるようになったのは、おそらく30歳を過ぎてからだったろうと振り返る。
「一応、会話はできていましたが、徹底して鍛えられたのは、1970年以降のアメリカ・フォード社とマツダの資本提携契約に関係した時期です。私が関係した内容について詳しくは語れませんが、延べ何百日、時間にすれば何万時間、フォード本社のあるデアボーン、マツダの本社がある広島、それにニューヨーク、東京などで行われた交渉にかかわりました。マツダには専門の通訳がいたのですが、日本の会社法など法律問題のやっかいな点になると理解ができないから、通訳できない。その通訳ができない英語を聞きとって理解し、マツダの社長以下の方々に説明し、その点についての私の考えをお話しし、マツダの考え方をまとめて、アメリカ人弁護士やフォードの人々に説明する、そういうことが私の仕事だったのです。だから、どうしても、英会話のリスニングも、また英語での表現もかなり上達せざるを得ない。いわば報酬をいただきながら、実地で英会話の勉強をさせてもらったようなものです」
82歳の今もまだ、「勉強し足りない」という中村氏。
「弁護士が本業ですが、詩作や文学も本業だと思ってやってきました。二またをかけてきたせいか、弁護士として本来もっと勉強すべきことをしてこなかった悔いがあります。勉強が足りないという気持ちが強いのです。弁護士の仕事は、常に相対する事件が新しいから学び続けなくてはいけない。しかし新しいからこそ『学ぶ機会』に恵まれる仕事です。生涯勉強、だから、面白い。弁護士の仕事は、クリエイティブでもあります。例えば日照権、景観権の問題にしろ、新しい理論を生み出し、提示していくのは弁護士です。裁判官は弁護士が提出したものにもとづいて判断するわけで、彼らの提案で、日照権のような権利を認めることはできません。常に学び、常に考え、新しい発見をしていく。それこそが弁護士の楽しみ、生きがいでしょう」
「勝つこと」に対する執着は強い。だからこそ、勝った事実よりも負けた経験の方が、鮮明に残る
法律も文学も、すべてが好奇心の対象
中村氏は、東大法学部を卒業した年に、初の詩集『無言歌』を刊行。詩集『鵜原抄』(高村光太郎賞)、詩集『中村稔詩集1944~1986』(芸術選奨文部大臣賞)のほか、評論・評伝では『宮沢賢治』『中原中也』などを執筆。著名な詩人・文学者で弁護士。まさに稀有(けう)な存在だ。
「詩の着想が浮かび、それが頭の中でまとまれば、原稿用紙に書き記す時間は20、30分です。時間を使うとすれば、評論を書くときです。資料を集めたり、作品を読み込んだりして、論理的な立証を求めてまとめていく必要がありますから。そう考えると評論は、弁護士の仕事とそう遠くないような気もしますね」
ただ詩作で培われる想像力や表現力も、弁護士の仕事―例えば訴訟相手や裁判官の考えを想像して訴訟の準備をしたり、言葉でうまく説得したりすること―には必要で、共有し得る力だというのが中村氏の考えだ。
「抽象的なもの、形而上学的なもの、反社会的なものを盛り込む文学の世界と、具体的なもの、実務的なもの、秩序を重んじる法律の世界は、かけ離れているように見えるが、詩人と弁護士は実は共通点が多い」と、あるインタビューに答えている※8。
例えれば中村氏は、科学と芸術、一見相反する分野に足跡を残したレオナルド・ダ・ヴィンチといえようか。
「私は、好奇心の対象が非常に広いんです。法律なり裁判なりは好奇心の対象の一つですし、詩を書くことも、また一つです。ものを読むことも金融情勢について知ることも、すべて好奇心の対象なのです。という意味では、ダ・ヴィンチ的、ルネサンス人的に、好奇心の幅が広いというのは確かにそうかもしれません」
法廷だけが活躍の場ではない。視野を広げることが大切
これから活躍していく弁護士に向けたメッセージを、中村氏に伺った。
「例えばアメリカなら、官庁には弁護士資格を持つ人が大勢働いています。企業でも、必ずしも法務担当ではない部署で活躍する弁護士資格を持つ人が大勢います。日本も、受け入れの仕組みが整えば、もっと弁護士も活躍しやすいだろうと思うのですが。雇用する側(官庁や企業など)が、基礎的な法律の知識を持つ人材の有効的な活用法を見いだしていない。その点で、やはり日本は遅れていると言わざるを得ない。そうした仕組みの未熟さはあるとしても、弁護士の側にも問題があって、日本の弁護士の志向はあまりにも“訴訟に偏りすぎている”ようにも感じます。弁護士はもっと訴訟以外の仕事にも携わってみるべきだと思うし、あるいは官庁や企業など、活躍できそうな場にも広く目を向けてみるべきだと思うのです。私自身についていえば、裁判所に出る仕事は、全体の2割程度。約8割は、法律相談だったり、契約書を作ったり、交渉をしたりといったことで、この法律相談は時には企業の経営の問題とも不可分なので、経営の相談にまであずかることも多いのです。つまり、弁護士資格を持つ若い方々には、裁判だけが仕事の場ではないということを伝えたいし、『仕事の場』に対する考え方を全面的に切り替える必要があるのではないかと伝えたい」
弁護士になりたてのころの中村氏は、法廷で華々しく活躍するよりも、事務所で煩雑な事務処理に追われる日々を過ごした。しかし「私がひきうける雑務の範囲は日を追うごとに広がり、私はそれなりにそうした雑務をたのしんでいた。何事にも興味、関心を発見するのが、あるいは私の資質なのであろう」と自著に記している。ささいな仕事もむだにすることなく、すべてを肥やしにしてきたからこそ、今の中村氏がある。
「弁護士としてはむろん人間的にも成長するためには、がむしゃらに働くだけではなく、人間的に成長するための『栄養』を吸収する時間も必要。私も体力があったころは、よく遊びました。マージャンもずいぶんしましたし、たいていの賭けごとは大好きでした。多くの友人に恵まれたから、プロ野球、映画やミステリーなどについても、始終語り合いましたし、文学は私の専門の一部ですが、自分では批評や研究評論のたぐいは書かない分野の本を読むことも大好きです。例えばトルストイの『戦争と平和』や、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、日本でいえば『源氏物語』から松尾芭蕉、井原西鶴など、すべからく古典といわれるものは何度読み返しても、新しく得るものがある。20代で読めば20代の、50代で読めば50代の、今の私の年齢で読めば今なりの面白さがあるということがわかってきます。若い方々には、そうして古典をたくさん読んでほしい。人間とはどういう存在か、人間の心の神秘とはどういうものかを、古典といわれるものは必ず教えてくれるのです。われわれ弁護士が読むべき本は、世の中にたくさんあります。そうしたものに触れる時間も、ぜひ作ってください」
※1/「名目上、パートナー制をとったのはだいぶ後。中松先生が亡くなる数年前でした」(中村氏)。なお中村氏自身がパートナーとなったのは1963年から。
※2/参考資料:『知財研フォーラム』(2007年vol.69「知財裁判史~訴訟実務パイオニアの証言」 財団法人 知的財産研究所 刊)より。
※3/連合国人工業所有権戦後措置令:連合国民は1951年の12月末までに日本特許庁に出願手続をとると、戦争中の発明について優先権を主張できるということになっていた。これは戦争によって出願できなかった不利益を是正するための措置だが、戦勝国である連合国民にのみ与えられた特権。そのため、かけこみの特許出願がかなりあった。そのころ、これらを外国の依頼者から受けて処置できる事務所は限られており、中松事務所はその一つであった。
※4/file-wrapper estoppel(包袋禁反言)=特許権に関し、出願経過において出願人が特許庁に提出した主張と反する主張を権利取得後の訴訟などでしてはならないこと。
※5/プレイガイド事件:㈱プレイガイドが、㈱赤木屋プレイガイドに対して、「プレイガイド」という名称を使用してはならないという差止命令を求めて訴訟を提起した。「プレイガイド」は普通名称であるとして原告が敗訴した(東京地裁昭和28年10月20日判決『下民集第四巻十号』に内容掲載)。
※6/『智恵子抄』事件:高村光太郎が亡くなった後、『智恵子抄』の編集著作権をめぐり、高村光太郎の相続人が出版社である龍星閣の代表を相手取って、東京地裁に提訴したもの(最高裁平成5年3月30日判決、東京高裁平成4年1月21日判決、東京地裁昭和63年12月23日判決『著作権判例百選第三版』(有斐閣)『判例時報(1461号)』などに内容掲載)。
※7/ポリプロピレン事件:イタリアのモンテカチーニ社は、チーグラー・ナッタ触媒という触媒を用いてポリプロピレンを生産する方法の発明に関する権利を持っていたが、チッソがこの権利を侵害してポリプロピレンを生産していると主張して争ったもの(大阪地裁昭和39年12月26日判決『下民集第十五巻十二号』『判例時報(428号)』などに内容掲載)。なおモンテカチーニ社は、現在、その後継の会社(モンテエジソン社)さえ、残っていないそうだ。
※8/「日本経済新聞 夕刊」(2009年10月1日付)