民事訴訟法の研究者は当時、まだ数も少なかった。学会も戦後にできてから数年の頃。学会大会といっても出席者は20名たらずだった。
「今では200人は軽く集まります。ずいぶんと様変わりしましたね」
まさにその拡大を牽引してきた一人でもある新堂氏だが、当初は異端の研究者として見られていたという。
「戦後から十数年の日本では、日本の法律制度全般が、外国のものを吸収するスタイルだったのです。制度はすべて外国で作られ、それをそのまま受け入れるのが当たり前だった。制度を自分たちの頭で考えて作る、また改善する、そういう発想はほとんどなかった。法律制度は道具であるという意識がまだまだなかったのですね」
そこに一石を投じたのが、若き研究者だった新堂氏だったのである。
「まるで法律制度が神のようにあがめられている。そんな状況を見て思いました。一体、法律制度、民事訴訟法理論は何のために、誰のためにあるのかと。そういう疑問を提起したのです」
法律制度、民事訴訟法理論は利用者のためにある。新堂氏はそう主張したのだ。
「そんな発想は当時はなかった。だから、“最近の若者は”とか、“天馬、空を行く”なんてひやかされ、批判もずいぶんと受けました(笑)」
とりわけ実務家は、そう簡単に変化を受け容れない。実は研究者以上に実務家は保守的だ。なぜなら、できれば自分が毎日使う道具は変えられたくないから。だが、新堂氏の、実は当たり前ともいえる“庶民感覚”が多くの人の共感を得ることになる。そしてこの問題提起は、昨今の民事訴訟制度の改革にも影響を与えていく。実際、96年の民事訴訟法大改正の基本コンセプトは、“わかりやすい、使いやすい民事訴訟法を作ろう”というものだった。
そして改革後、判決のスピードは大幅に短縮された。
「言い出してから30年もかかりましたが(笑)」
では、どうして当時としては革新的な本質を新堂氏は突くことができたのか。
これは、少年期に戦中戦後を過ごした経験にあったようである。
「戦争が終わったときは中学2年生で、天地がひっくり返るような体験をしました。昨日まで当たり前だと教えられていたものが、次の日からは間違いと教えられる。間違っていたものが正しいと言われる。豹変する先生を見て、子ども心に思いました。体制やら制度、教育なんてものは、あっという間に移り変わるものなんだ、と」
そして法律家としては、あまり話したくないであろう言葉を、新堂氏は続けてくれた。
「誤解しないように気をつけてほしいのですが、私は、法律を尊重する精神というものを、実はあまり持ってはいない。いや尊重しない、というか、あがめない、とでも表現したほうがいいかもしれない。法律もそうだし、社会体制みたいなものもそう。もちろん法律を遵守はしますよ。でも、永遠に完璧なものがあるなんて考えは、はなから持っていない。常に疑っている。でも、この考え方が、学者には合っていたかも。学者は、何でも疑うことから始めるわけだから」
法律も社会制度も人間が作ったものに過ぎない。そんな意識がベースにあるからこそ、社会の状況や情勢が変わったなら法律や制度も変わっていい、という発想が生まれる。
そして変わっていくのであれば、それはみんなのためになるものになればいい、という認識へとつながっていった。
「体制に対して斜に構えたところがある。最近も、つくづく自分はそうだなぁと思っています(笑)」